第54話 そんな彼女の差し入れ。
一歌が手を握ってくる。
すごく悲しそうな顔だ。
一歌も気づいてしまったのだろう。
先生は、きっと、俺たちの学校に戻ってくることはない。
さっき、ここに来る前に話したのだ。
病院の玄関前で。
「先生、また復帰できるかな?」
俺がそう言うと、一歌は声のトーンを下げた。
「トラウマって、そんな簡単にいかないよ」
「じゃあ、時間をおいてもらうとか」
すると、一歌が俺を握る手に力を入れた。
「あのね、わたし、恋を諦めてたんだ」
なんで、いまその話?
「どういうこと?」
一歌は続ける。
「男の子からの好きが怖くなって、わたし逃げ出したの。そうすれば、相手の気持ちと向き合わなくても良かったから」
義父から虐待をうけて、一歌にとって無価値になったもの。それは自分自身。贄として、そして罰として、自分の身体を提供したんだよな。知ってる。
「……うん」
俺は、ただ、そう答えた。
「でも、もし。あのとき、我慢を続けてたら。蒼くんに出会っても、今みたいな気持ちになれなくなってたかも」
「そっか。たしかに……、頑張って乗り越えるだけが正解じゃないよな」
俺たちは、それで出会えたんだから。
「うん。無理して傷を大きくするなら、逃げてもいいと思う。乗り越えることが正解かもしれない。でも……」
「逃げることが間違いとな限らないよな」
一歌は頷いた。
…………。
一歌のために北村さんの情報を提供して贔屓を許容した先生は、きっともう。俺たちの学校に戻ってくれることはない。
だから。
「先生。こういうの照れ臭いんだけどさ。俺、先生のことマジで好きだったよ」
ちゃんと伝えておきたい。
一歌と俺は、先生の手を握った。
先生は俺たちの手の上に手のひらを重ねると、俯いた。
「ありがとう」
「先生って、大学院出てましたよね? 博士号もってるんですか?」
「あぁ、そうだけど、なんで? 藍良も大学院に興味があるのか?」
赤点再試験の俺には、そんなの妄想する権利すらありませんよ……。
「……先生の専門は心理統計学でしたっけ?」
「そうだけど、よく覚えてるな」
「古文の先生なの不思議だったもので。さっき、先生に本能の話を教えてもらってた時、すごく面白かったんで」
「そうか? なら良かった」
「だから、そういうの。もっと勉強に興味がある大学生に教えたりできないんですか?」
「ん。教授とはまだ交流はあるし、研究室に戻ることも可能だとは思うが」
「大学なら、アホな保護者も、くだらないこと言う生徒もいないのかなって」
逃げてくださいとは言えないけれど。
教えることをやめて欲しくない。
「あぁ。そういうことか。そうだな。考えてみるよ」
先生は笑った。
「違う学校になっても、俺ら先生の生徒ですから」
ぱんっ
一歌が手を叩いた。
「先生、わたし、ドラゴンフルーツもってきたんだ。切り分けるから、おやつにしよう♡」
一歌は手慣れた手つきで、切り分けてくれる。
赤玉のドラゴンフルーツの果肉は、ざくろのように真っ赤だった。
「食べたら、びっくりするよ?」
一歌に渡されたドラゴンフルーツを口に入れる。すると、本当にビックリした。
もはや、俺の知っている果物とは別物だった。
ジューシーで、シャリシャリで。
とろけるように甘い。
新鮮なドラゴンフルーツは、こんなに美味いのか。
「これが、ドラゴンフルーツの本気だし!!」
一歌は得意そうだ。
食べる俺たちを見て、クスッと笑って。
言葉を続けた。
「せんせぇ。ドラゴンフルーツってね。サボテンの実なんだよ。辛く厳しい土地でも、みずみずしくて甘い立派な実をつけるの。そして、なにより、龍の鱗なんだよ。カッコいい。わたし、そういうのカッコいいと思うな」
一歌は、はにかんだ。
この子の言葉には、力がある。
ボキャは多くないし、ドラゴンフルーツ=龍の鱗ではないけれど。
色んな思いをして、笑って泣いて。一歌は自分で逃げ出したっていったけれど、そんなことない。逃げたけど、逃げ出したんじゃない。だから、心は龍の鱗のように強く美しくて、言葉に力があるんだと思う。
先生は頷いていた。
泣きながら夢中で食べている。
真っ赤な果汁を入院着にポタポタ垂らしながら、龍の鱗にかぶりついていた。
トントン
すると、看護師さんが入ってきた。
「新川さん。検温のお時間……」
看護師さんは動きを止めた。
その視線の先には、入院着まで真っ赤に染めた新川先生が嗚咽していた。
「ひっ……、新川さんが吐血してます!!!!」
看護師さんはナースコールを連打した。
すぐに、医師や看護師が集まってきて、大騒ぎになってしまった。
新川先生も怒られ、大騒ぎした看護師さんも、とばっちりで怒られたらしい。
それ以降、ドラゴンフルーツの差し入れは禁止になったらしい。
ごめん!! 先生!!




