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第5話「夏の日の幻想」

 夏の朝陽が眩しく降り注ぐ7月中旬、静寂に包まれた寮の一室を優しく照らしていた。詩音は、隣のベッドで眠る澪の寝顔に、思わず見入ってしまう。澪の整った横顔は、まるで彫刻のように美しく、詩音の視線を釘付けにしていた。


 長い睫毛が、閉じた瞼の上に影を落としている。その繊細な曲線が、詩音の心を静かに揺さぶる。澪の鼻筋は真っ直ぐで、その先端がわずかに上を向いているのが愛らしい。唇は僅かに開いており、寝息が静かに漏れ出ている。その小さな音が、詩音の耳には天使の囁きのように感じられた。


 澪の頬は、月光を受けて淡く輝いている。その柔らかな曲線に沿って、詩音の視線がゆっくりと這うように移動する。耳たぶのカーブ、首筋のしなやかな線、鎖骨のかすかな凹みまで、全てが詩音の目には完璧な美しさとして映る。


 寝ている澪の胸の上で、シーツがゆっくりと上下している。その穏やかな動きに合わせて、詩音の心臓も鼓動を刻んでいるような錯覚を覚える。


 詩音は、自分でも気づかないうちに、澪のベッドに近づいていた。月明かりに照らされた澪の寝顔が、まるで魔法にかけられたかのように、詩音を引き寄せる。その瞬間、詩音の中で何かが弾けた。


 思わず、詩音の顔が澪の顔に近づいていく。澪の唇から漏れる寝息が、詩音の頬をかすかに撫でる。その温かさに、詩音の心臓が激しく鼓動を打ち始める。


 唇と唇の距離が、あと数センチまで縮まった時、詩音は我に返った。


「え? 私、今、何を……」


 自分の行動に驚愕した詩音は、慌てて身を引く。頬が熱くなり、心臓が耳元で大きく鳴っているのを感じる。


 詩音は深呼吸をして、自分を落ち着かせようとする。窓際に歩み寄り、夜空を見上げる。満天の星が、詩音の動揺を静めるかのように、優しく瞬いている。


「私、どうしちゃったんだろう……」


 詩音は小さくつぶやいた。澪への想いが、こんなにも強くなっていたことに、詩音自身が驚いていた。友情なのか、それとも別の何かなのか。答えの出ない問いに、詩音の心は揺れ続ける。


 もう一度、澪の寝顔に目を向ける。今度は距離を置いて、ただ静かに見守るだけだ。澪の寝顔に浮かぶ穏やかな表情を見ていると、詩音の心も少しずつ落ち着いていく。


 詩音は静かに自分のベッドに戻り、横になった。目を閉じても、澪の寝顔が瞼の裏に浮かび上がる。それは甘美で、同時に切ない光景だった。


「澪、起きて」


 気を取り直した詩音の囁きは、微かな風のように澪の耳に届いた。澪はゆっくりと瞼を開け、まだ夢見心地の瞳で詩音を見上げる。


「ん……ごめん、寝ちゃった」


 澪は恥ずかしそうに頬を掻く。その仕草に、詩音は思わず微笑んでしまう。澪の一つ一つの動作が、詩音の心を静かに揺さぶっていく。


「大丈夫よ。でも、もう少しで終わるから頑張りましょう」


 詩音の言葉に、澪は元気を取り戻したように身を起こした。その瞬間、二人の指が問題集のページに触れ、僅かに重なる。電流のような感覚が走り、二人は思わず目を合わせた。


 講習が終わり、二人で寮に戻る道すがら、夕暮れの空が燃えるように赤く染まっていく。澪が唐突に口を開いた。


「ねえ、詩音ちゃん。夏休みの予定は?」


「特に何も……」


 詩音が言葉を濁すと、澪は急に立ち止まった。夕陽に照らされた澪の横顔が、まるで透き通るように美しい。


「じゃあ、一緒に海に行かない?」


 澪の目が、夕陽よりも眩しく輝いている。詩音は戸惑いを隠せない。心の中で葛藤が渦巻く。


「でも、勉強しなきゃ……」


「大丈夫! 一日だけでも。ね?」


 澪の熱心な誘いに、詩音は断り切れなかった。まるで、波に呑み込まれるように。


「分かったわ。行きましょう」


 澪は嬉しそうに飛び跳ねた。その姿は、まるで蝶のように軽やかで、詩音の心を晴れやかにする。


 その夜、詩音は眠れずにいた。隣のベッドで寝息を立てる澪を見つめながら、複雑な思いに駆られる。月明かりが窓から差し込み、澪の寝顔を優しく照らしている。まるで、天使のような寝顔。


「私は、何がしたいんだろう」


 心の中でつぶやく詩音。数学オリンピックに出場すること。一流大学に進学すること。そんな目標は持っている。でも、それだけで良いのだろうか。澪との関係。まだ名付けられない、でも確かに存在する感情。それは詩音の人生にどんな影響を与えるのだろうか。


 詩音は静かに起き上がり、窓辺に立った。夜空に輝く星々を見上げる。その瞬間、流れ星が一筋、夜空を横切った。


「願い事は、澪と一緒にいること」


 その思いが、詩音の心の奥底から湧き上がってくる。驚きと戸惑い、そして幸せな気持ちが混在する。詩音は静かに目を閉じた。


 夏休み。それは二人の関係に、大きな転機をもたらすことになる。まだ見ぬ未来への期待と不安。そんな複雑な思いを胸に、詩音は再びベッドに戻った。澪の寝顔を見つめながら、詩音はゆっくりと目を閉じる。


 窓から差し込む月明かりが、二人の姿を優しく包み込んでいく。まるで、永遠の時間の中に二人を閉じ込めるかのように。その夜、詩音の夢の中で、澪と手を繋いで海辺を歩く光景が、まるで映画のように鮮やかに広がっていった。


 そして、夢と現実の境界が曖昧になる瞬間、詩音は確かに感じたのだ。自分の人生に、新しい物語が始まろうとしていることを。それは、澪という名の、かけがえのない存在との物語。


 夜明けの光が、そっと二人の上に降り注ぐ。新しい一日の始まりは、同時に二人の新しい物語の始まりでもあった。


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