初夜に「君を愛するつもりはない」と夫から言われた妻のその後
「君を愛するつもりはない」
夫となったイアン・ダリルが冷たく言い放った。
彼は湯浴みを終えてからここに来たのだろう。金色の髪は、毛先だけがほんのりとしめっている。これからの行為を期待させるような淫靡さを醸し出しているが、キリッと引き締まった深緑の眼は、冷たく彼女を見つめていた。
「聞こえなかったのか? 俺は君を愛さない。つまり、君を抱くつもりはないということだ」
冷たい声が胸に突き刺さる。ぎゅっとナイトドレスの裾をにぎりしめた。
今夜は初夜と呼ばれるような日である。それにもかかわらず、彼は妻となった彼女を抱かないと、はっきりと口にしたのだ。
「わかったな? わかったなら、返事くらいしろ」
「承知しました……」
彼女のその言葉に満足したのか、イアンはふんと鼻を鳴らして部屋を出ていった。
「なんで、こんな女と結婚したのか……」
彼がそう呟いたのは、彼女の耳にもしっかりと届いていた。
一人残された彼女は小さく息をもらし、寝台に腰かける。この寝台も四柱式で天蓋がついている豪奢なもの。新婚の夫婦に相応しい代物である。
少しだけ肌寒く感じ、自身で肩を抱く。あの夫があたためてくれることなど、期待してはならない。
ケイト・カーラはケイト・ダリルとなり、イアンと結婚式を挙げた。
彼に好かれていないだろうとは思っていたが、ここまでとは思っていなかった。
いや、彼がケイトを愛していないことなんて、前からわかっていたのだ。
――彼には、他に愛する人がいる。
それでもこの結婚は必要なものだった。醜聞を恐れているダリル家と、ダリル家と繋がりをもちたいカーラ家の契約のようなもの。
ダリル家は歴史ある名門の家柄である。イアンの父は侯爵という爵位を持ち、いずれイアンがそれを継ぐこととなる。
それにひきかえ、カーラ家は商売人の家柄だ。カーラ商会といえば、この王都で知らぬ者はいないと騒がれるほど、頭一つ飛び出ている
商会でもある。
この国では、商売で成功した者は貴族と同等の権力が認められている。つまり、金があるからだ。
だから、イアンとケイトの婚姻が成り立った。この婚姻が双方の家にとって契約的なものであると理解している。
それでも喉の奥がつかえるような感じがするのは、イアンに恋人と呼べるような女性がいたためだろう。彼は恋人と別れ、ケイトと結婚をした。
だが、どこか彼からの愛情を期待していたのも事実。それが夫婦というものなのだろうと。
イアンは王宮に務めている。
家柄のよい令息令嬢は、王宮に出仕しながら礼儀を学び、出会いを見つける。結婚後は辞める者も多いが、家のことはすべて父に任せているイアンは、そのまま出仕を続けると言っていた。
ようは、ケイトと顔を合わせたくないのだ。もしくは、そこで恋人だった女性に会いたいのか。
イアンが、恋人であった彼女と出会ったのは王宮だと聞いている。さらに、結婚を約束した仲であったとも。
だからなのかもしれない。あれ以降、彼の姿は見ていない。
ケイトがイアンと結婚をして一か月が経った。
彼は王宮で寝泊まりをしていて、屋敷には帰ってきていない。
屋敷で働く使用人たちが、ケイトを腫物でも扱うように接しているのは、それが理由でもあった。
そんななか、侍女のナナは、ケイトが嫁ぐにあたって父親がつけてくれた使用人である。
彼女はカーラ家でも、ケイトの身の回りの世話をしていた。
知らない人ばかりがいる屋敷で、一人ぽっちにならずにすんでいるのは、間違いなくナナのおかげだ。
~*~*~*~*~
湯浴みを終わらせて、部屋に戻る。
「奥様……。旦那様は、今日も……」
ナナが言いにくそうに、身体を不自然に動かしている。
「えぇ……今日もお帰りにはならないそうです。あなたも下がりなさい。いつも遅くまでありがとう」
彼女はケイトを一人にするのを恐れている。一人になったケイトが自暴自棄になって何か行動に出るのではないかと。
「私は、大丈夫よ。あなたが側にいてくれるから」
そうやってはにかんで見せると、ナナも少しだけ笑顔を見せてくれた。
「旦那様も忙しいのよ。お仕事も中央省へ異動になったとお聞きしたから」
中央省とは王宮務めの文官にとっては花形の部署でもある。そこで実績を積み上げ、将来は宰相や大臣といった地位に就く者も多い。いわば、出世のための通過儀礼のような部署なのだ。
だが、ケイトはその話をイアン本人から聞いたわけではない。
使用人たちが話しているのをなんとなく耳にして、街の噂をそれとなく聞いて、新聞の記事をしっかりと読んで、そうやって仕入れた情報である。
「奥様が納得されているのであれば、私からは何も申し上げることはございません。私は、いつでも奥様の味方ですから」
「ありがとう、ナナ」
彼女がいるから、この場所でもなんとかやっていける。
「おやすみなさいませ」
「おやすみ」
ナナの背を見送ると、室内は静けさに包まれる。空気もほんのりと冷え、夜が深まっていくのを実感する。
この夜気は、まるでケイトとイアンのようだ。時間が経てば経つほど冷え込んでいく。
二人の間に何もなかったことを、使用人たちは知っているだろう。初夜が明けた日の朝、寝台に乱れがないのだから一目瞭然だ。
痛む胸を抑え込むようにして、ケイトは寝台へと潜り込んだ。掛布に包まれると、身体と心が次第にあたたまっていく。
ナナが温めてくれていたのだろう。
彼女の気遣いに、胸の奥が痛くなる。自然と目頭が熱くなった。こぼれそうになる涙をこらえる。
なぜこんな結婚をしてしまったのか。
それはイアンの友人であるラッシュの屋敷で開かれた夜会が原因だ。ラッシュはイアンの友人なだけあって、ベネター侯爵家の嫡男である。
その夜会に、ケイトも招待を受けて出席していた。ベネター侯爵家は、カーラ商会の上客でもあるのだ。そんな縁もあって、ケイトとラッシュも顔馴染みであった。
その日のケイトは、ミッドナイトブルーのドレスを身に着けた。レースもふんだんに使われており、施されている刺繍も繊細なものである。
このような色合いのドレスを、ケイトは今まで着たことがない。カーラ商会の新商品でもあるため、父親はそれを宣伝したかったようだ。
煌々と輝くシャンデリアの光によって、そのドレスはシルバーにも見える。
色素の薄い象牙色の髪ともよく似合っていた。そしてはかなげに見える若草色の瞳。
そのアンバランスさが、夜会に出席している男性を虜にした。
ましてカーラ商会長の娘となれば、結婚の相手に相応しい地位と資金もある。彼女をダンスに誘った男は、誰もがそう思ったはず。
この縁を確実なものにしたいのだろう。少しだけ強引に事をすすめようとする者もいた。
ただ、こういった夜会に慣れていないケイトは、人の多さに当てられ、気分が悪くなる。それに気づいたラッシュは、彼女を休憩室へと案内した。
ソファでうとうととしていたら、なぜか目の前に半裸のイアンがいたのだ。
ケイトのドレスは乱れ、肌が露わになっている。
何が起こったか。何が起きたのか。
ケイトの悲鳴を聞きつけてやってきたのは、ラッシュ、そしてイアンの父親でもあるダリル侯爵。たまたま二人は、近くで歓談に耽っていたらしい。
ここで何が起きたのかは、その場にいた者だけの秘密となる。
決して外に漏らしてはならない。
それから二か月後、ケイトはイアンと結婚をした。
~*~*~*~*~
空が青く、風が心地よい。さわりと揺れる花々が、かすかに甘い香りがふんわりと流れる。
ケイトは東屋でラッシュとお茶を飲んでいた。
彼は二人の噂を聞きつけ、心配になって屋敷にまで足を運んでくれたのだ。
「ケイト……イアンとの関係は、その……」
「いいのよ、そんなに気を遣わなくて……」
二人の関係が冷めきっているなど、一目瞭然だろう。
イアンはあのときの責任をとって、ケイトと結婚をしたのだ。これが、ダリル家の恐れている醜聞でもある。
あの場を丸く収めたのは、ラッシュの力も大きく働いていた。
「私も旦那様も、なんとか面目だけは保てているから」
「だけど、この国では簡単に離縁はできない……。君は、こんな生活を何年も耐え抜くというのか?」
「仕方のないことでしょう? これはお互いの家同士の契約のようなものだから……。それに、あれは私が失敗してしまったようなものだし……」
ダリル家はすぐさまカーラ家に使いを出し、ケイトを次期当主の妻として迎え入れたいと一報を入れた。カーラ家にとって断る理由などない。たかが商人の家に、名門侯爵家のほうから妻として望まれているのだから。
むしろ「よくやった」と、父親からは褒められた。
「だけど、僕は……君が不憫で仕方ない。あの夜会に、君を招待しなければこんなことにならなかったのに……。イアンはカーラ商会の資産に……」
それ以上、ラッシュは言葉を続けなかった。イアンはカーラ商会の資産を狙ってケイトと結婚をしたと、そう言いたいのだ。
だがそれは、誰もがそう思っている。
カーラ商会の資産は、何も金だけではない。人脈や技術といったものも含まれる。
金が潤沢にあるダリル侯爵家としては、むしろそちらのほうが欲しいはずだ。
イアンが愛していない女と結婚をしたのは、彼女がカーラ商会の娘だから。それ以外の理由はない。
ただ、それだけ。
「気にしないで、ラッシュ。一人でも私をそうやって思ってくれる人がいれば、私は幸せなの」
そこで少し離れた場所に立っているナナに視線を向ける。
彼女は微笑みながら、こちらをじっと見つめていた。
「そうか、君がそこまで言うのであれば、これ以上、僕からは何も言うことはないが……。だけど、困ったことがあったら僕を頼ってほしい。こうなってしまったのは、僕の責任でもあるから……」
彼の赤茶の髪が、風によってさわりと揺れた。
「ありがとう、ラッシュ」
「ところで、ちょっといやな噂を聞いてしまった」
そう言ってラッシュは夜会について口にした。
ダリル家にも夜会の招待状は届いているらしい。だけど、それはすぐに王宮にいるイアンのもとへと届けられているとのこと。
ケイトが結婚してから夜会に出席していないのは、それが原因だ。
人の噂というのは、風にのるかのようにして聞こえてくるもの。
イアンはケイトではない女性をエスコートして、夜会に参加しているらしい。
それもこれも噂であるが、火のないところに煙は立たない。
――どうしてこうなってしまったのだろう。
考えても仕方のないことだとわかっている。
噂を聞けば聞くほど、彼がエスコートしている女性は、かつての恋人のマレリ・エルキシュであると確信する。
マレリはエルキシュ子爵家の令嬢。イアンのパートナーとしても釣り合いがとれている。
彼女は女性でありながらも、王宮に文官として出仕している。それは今も変わらず。
となれば、イアンは絶対にマレリと顔を合わせている。
それを思うだけで、胸が苦しい。つつぅと、涙が頬を伝った。
この国では特別な理由がないかぎり、離縁は認められない。
その特別な理由とは、二年の間、男女の交わりがないこと。交わりがなければ子が望めないからだ。ようは『白い結婚』と呼ばれる関係である。
血筋を重んじるこの国ならではの決まりなのだろう。
だからこそ、姦通罪なるものも存在している。
イアンがケイトと婚姻関係を続けているのに、マレリと関係を持っていたら、それこそ罪になる。
~*~*~*~*~
「……ケイト、ケイト……」
誰かが優しく頭をなでている。母親だろうか、父親だろうか。
ここはどこだろう。今まで、何をしていたのだろう。
「ケイト……目が覚めた?」
たゆたうような意識が、次第にはっきりとしてくる。もう少し夢をみていたかった。だけど、そんな願いはむなしく、現実に引き戻された。
「ラッシュ、私……」
「君が、どうしても夜会に参加したいというから、連れていったんだけど……」
彼の瞳が揺れている。しかし、その言葉で思い出した。目にしてしまった冷たい現実だ。
ケイトは、あの噂が事実であるかどうかを確かめるために、イアンが出席するという夜会へ参加したいとラッシュに頼み込んだのだ。
「突然、君が倒れてしまったから。ナナが僕を呼びにきてくれて。それで、もう帰ってきたんだ」
ラッシュの視線の先をとらえると、はにかんで小首を傾げたナナの姿が目に入った。その身体は小さく震えている。
ここはダリル家の別邸で、ケイトに与えられた部屋。
ぼんやりとした記憶の点がつながっていく。
寝具が与えてくれるぬくもりが心地よい。
「奥様が、急に倒れましたので。それで……」
それでナナがラッシュを呼んでくれたのだろう。
「ありがとう、ナナ。心配をかけたわね」
目にいっぱいの涙をこらえて、彼女は首を横に振った。
「あれを見たら、誰だってそうなります……。旦那様は、ひどいです」
ケイトはぼんやりと天蓋を眺めた。幾何学模様で彩られた天蓋は、見ていると不思議な気分になる。
――見たくなかった。だけど、見てしまった。
それを確かめるために、あの場に足を運んだのに、実際に目にしてしまうと心がえぐられるかのように痛んだ。
あまりにも胸が苦しくなって、気を失ったのだ。情けない。
「やっぱり、あの噂は事実だったのね」
その呟きに、ラッシュも顔をしかめた。
マレリと腕を絡め楽しそうに話をしているイアンの姿を、はっきりと目にしてしまった。
ラッシュだって間違いなく見ていただろうに。
「……っ」
目頭が熱くなる。だけど、泣いてはいけない。
悔しいのか、恐ろしいのか、悲しいのか。わけのわからない感情が、胸の奥でくすぶっている。どうしたらいいのだろう。
「ケイト、僕は帰るよ。君の意識が戻って安心した」
ケイトの潤んだ目を見ないようにして、彼は扉へと向かう。
その後ろ姿を引き留めたくなった。だが、ぐっと堪える。
「ありがとう、ラッシュ」
「ありがとうございました」
ナナも深く腰を折る。
「また、何かあったら頼ってくれ。僕は、君の味方だから」
そう言って彼は、部屋を出て行った。
ラッシュの優しさに甘えている。だけど今は、それに頼るしかない。
パタンと扉が閉まってから、ケイトは身体を起こした。夜会に参加したままのドレス姿である。彼らが慌てて対応してくれたのがわかる。
今日は、わざと灰鼠色の地味なドレスにした。できるだけ目立たないように。ケイト・ダリルであると知られないように。
ラッシュがうまく紹介してくれたから、彼の遠縁の女性ということになっていたはず。
だから、イアンは気づいていないだろう。あの夜会にケイトが参加していたことを。
「奥様、着替えますか?」
「えぇ、頼めるかしら」
「もちろんです」
ケイトよりも胸を痛めているのはナナかもしれない。
彼女を励ますように、ケイトは笑みを作った。
寝台から降りて着替えをする。
だが、これからの身の振り方をどうしたらよいのかがわからない。イアンとは二年間は白い結婚を続ける必要がある。それまで離縁ができないのだから、仕方あるまい。
では、二年後は?
離縁の原因は、屋敷に戻ってこないイアンのせいにできる。そうなれば、慰謝料、もしくは財産分与分くらいは請求できるだろうか。今後のために、資産はないよりもあったほうがいい。
「奥様。やはり、気分がすぐれないですか?」
後ろの鈎をはずし、コルセットをゆるめながらナナが問うた。
「いえ、大丈夫よ。少し考え事をしていただけ。心配をかけて、ごめんなさいね」
ナナは首を横に振る。
しゅるりと音を立てながら、灰鼠のドレスが身体を流れ、足下に落ちた。
イアンがマレリと会っているならば、こちらも考えなければならない。
頼れる相手といえば、やはりラッシュだろう。
できることならば、イアンと婚姻関係のあるうちに、彼がマレリと関係をもってくれないだろうか。そうすれば姦通罪でイアンとマレリは処罰され、イアンの財産がケイトのものとなる。
「奥様。気持ちが落ち着くように、ハーブティーなどはいかがですか?」
ケイトの考えを吹き飛ばすようなナナのやわらかな声で我に返った。
すでに肌触りのよい、絹のナイトドレスに着替えさせられている。
「えぇ、お願いしてもよいかしら?」
「もちろんです」
これからのことを考えると、ケイト一人では背負いきれない。誰かに助けを求めなければ――。
ハーブティーのさわやかな香りが、部屋を満たしつつあった。
~*~*~*~*~
「ケイト・ダリル、およびラッシュ・ベネター。君たちは今、どういう立場にあるかわかっているのか?」
女性の凜とした声が響いた。
ケイトはよろよろと頭を上げる。隣にいる人物がもぞっと動く。
「何があったの? ケイト……」
ラッシュはまだ寝ぼけている。ケイトも寝起きだが、さぁっと顔から血の気が引いた。
ケイトとラッシュに何が起こったのか。見ればすぐにわかる。半裸の男女が同じ寝台で眠っていたのだ。
「ケイト・ダリル。この国には姦通罪なる刑法が存在しているのは知っているな?」
堂々とケイトに現実を突きつけてくる黒髪の女性。その髪は後ろで一つに結わえてある。赤いフレームの眼鏡をかけ、その奥にある紺色の瞳で鋭くケイトを睨みつけている。
彼女の名は、マレリ・エルキシュ。
ドクンと心臓が跳ねた。もしかして、知られてしまったのか。
「君は、イアン・ダリルと婚姻関係にある。結婚をしている女性が、夫と異なる男性と身体を重ねた場合、それは姦通罪となる」
だから、誰にも知られないようにとしていたのに。どこから情報が漏れたのか。
「ふむ。どうしてばれたのかという顔をしているな? 君が、イアンを利用して、彼に結婚を迫った頃から怪しいと思っていたのだよ。そもそも、カーラ商会は犯罪の温床ではないかと言われていたからね」
うまくやっていたはずなのに。
「ケイト……。よくも俺を利用してくれたな」
その声を聞くのは、三ヶ月ぶりだ。夫のイアンの声。
「気がついたら、君と結婚をしていた。俺にはその前、二ヶ月間の記憶が曖昧だ」
ケイトはぎりっと唇をかみしめる。隣のラッシュは掛布をたぐり寄せて、身体を震わせている。
「君たちがイアンを狙っていたのは知っていたよ。彼が私に相談してくれていたからね。どうやら、カーラ商会に狙われているようだと」
マレリの声が静かに響く。
「あのときと同じことを、君たちにもしたまでだ」
その声で、ケイトは昨夜のことを思い出そうと、考えをめぐらせる。
昨夜もラッシュと一緒に夜会に参加していた。ケイト・ダリルであると知られないように、変装をしていた。
どうしてもイアンの様子が気になっていた。
結婚まではうまくいったのだ。
結婚してから、うまくいかなくなっただけ。
となれば、例の薬の効果が切れてしまったと考えるのが無難だろう。
なんとかして、イアンに薬を飲ませたかった。だが、屋敷に戻ってこないのであれば、それもできない。
夜会には参加していると聞いていたから、ラッシュのパートナーとしてそれに潜り込んでみた。彼の様子を見ると、薬の効果が切れているのが一目でわかった。何がなんでも、薬を飲ませたい。
その気持ちが大きく動いた。
彼の飲み物に気づかれぬように薬を混ぜる。
そう、混ぜたはず。なのに――。
「薬物入りの飲み物をイアンに飲ませようとしたな? だから、そのままその飲み物を、お前たちのものとすり替えておいたのさ。あの夜会、お前たちをおびき寄せるための罠であったが……。のこのこ出席してくれて助かったよ」
夜会そのものが罠だったとは、知るはずもない。
「なんだ? 納得いかないような顔をして。夜会が罠であれば、あの場にいた給仕の者もこちらの協力者だよ」
だから容易に飲み物のすり替えもできたというのか。
「さて。順を追って、君たちの罪を暴いていこうか?」
両手を腰に当てながら、マレリは不適な笑みを浮かべている。
「まずは、イアン・ダリルに夜会で薬を盛った件だな。イアンに薬を飲ませ、別室で男女の営みがあったように見せかけた。それを脅しの材料として、カーラ商会はダリル家に婚姻を迫った。ここでの罪は、イアンに薬を飲ませたことだ。ただの薬ではないからね」
ケイトはマレリから視線を逸らさない。睨みつけるかのように、鋭く見つめている。
「まったく。カーラ商会はどこからこんな違法薬物を手に入れてくるのか。ケイト、君がイアンに飲ませた薬は、一般的には媚薬と呼ばれる性的興奮剤だ。だが、それは国が認可しているものとは異なる薬。理性を奪うような違法な代物だったというわけだな」
「だけど、いくら薬のせいだとしても。イアンが私を襲ったのは事実ではなくて? ラッシュも、ダリル侯爵も、その場に来たわけでしょう?」
ケイトも負けまいと反論した。
「行為があったように見せかけるのは簡単だろう? イアンは意識が朦朧としていたし。君の証言だけでなんとでもなる。それに、協力者のラッシュ・ベネターが目撃者だ。口裏を合わせることなど簡単だ」
ラッシュは肌を隠すかのように掛布をたぐり寄せ、ぶるぶると身体を震わせたまま。
「それから、結婚の流れになり。そういった準備を理由に顔を合わせるたびに、イアンに薬を飲ませていた。飲み物に混ぜれば簡単だな。そうやって、イアンの自我を奪い、無理矢理、婚姻届に印を押させた。いや、イアンはそれだけは拒んだはずだ」
そう。イアンは婚姻届への印章を拒んだ。少しずつ薬を飲ませ、洗脳したはずだったのに、彼は印章がないと言い出したのだ。
「しびれを切らしたカーラ商会長は、イアンの印章を偽造した。印章の偽造も偽造罪が適用されるからな」
「……ちっ」
ケイトは、はしたなく舌打ちをする。
とにかく、婚姻届の提出だけは苦戦したのだ。イアンをカーラ家に呼び出し、婚姻届へのサインと印章を迫った。サインまでは震える手でなんとか書いてくれたものの、印章はないとか言い出した。
だからケイトの父が、国に保管されている印章の写しを閲覧し、それを覚えて同じ印章を造ったのだ。
「イアンの印章は私が預かっているからね。彼は、こうなることを恐れていたのだよ。まぁ、つまり偽造の印章による婚姻は無効になるということだ。さらに言うならば、婚姻届のイアンのサインも、心神喪失の状態でされたもの。正しい判断ができたとは思えないね」
「当時、彼が心神喪失であったと証拠があるのかしら?」
そう、すべては証拠だ。口ではなんとでも言えるが、証拠がなければ話にならない。
「証拠? あるよ。当時の彼をおかしいと思った私が、王宮医師に診てもらったからね。それで、これが薬物によるものであるとわかった」
そんな優秀な医師がいただろうか。
あの薬は、体内から検出されないため証拠も残らないということで、カーラ商会が隣国から手に入れていたはずなのに。
「だったら。婚姻が無効であるなら、私とラッシュが関係を持ったとしても、姦通罪にはならないわよね? だって、私とラッシュは愛し合っていた関係ですもの」
マレリは、ちっちっちっと舌打ちをしながら、右手の人差し指を小刻みに揺らしている。
「今はまだ、その婚姻が無効であると判断されていない。だから、現時点での婚姻状態は認められている。つまり、君たち二人は立派に姦通罪を犯したということだ。知っているか? 姦通罪は生殖器切断による身体刑が科せられる」
「ひっ……」
悲鳴のような小さな声をあげたのは、ラッシュである。
「兄さん……」
マレリの後ろから、小柄な男性が姿を現した。赤茶の髪はラッシュによく似ているし、その顔かたちも彼の面影がある。そして彼は、白衣姿でもあった。
「兄さん。なぜ、カーラ商会の悪事に手を貸したのですか?」
「なぜ? なぜって、そんなの。ケイトを愛しているからだろう? 協力すれば結婚してやるって言われたんだ」
「ボクは忠告しましたよね? 兄さんのやっていることは犯罪だと。イアンさんに違法薬物を飲ませ、心神喪失の状態とさせて無理矢理関係を結んだかのように見せた。それを脅しの材料として、ケイトさんがイアンさんと婚姻関係を結ぶ。二年間、男女の交わりがなければ離縁が認められるから、イアンさんに原因があるという理由をでっちあげて、離縁するつもりだったのでしょう? そうすれば、イアンさんの資産がケイトさんに転がり込むわけですから。もしかしたらその後、結婚してあげるとかなんとか、言われたのですか?」
「そ、そうだよ。だってケイトは僕を愛してくれているからね」
先ほどからラッシュは震えたままである。
「兄さん……。兄さんは今、マレリさんが言ったように姦通罪に問われている。となれば、廃嫡となるでしょう。それでも、ケイトさんは兄さんを愛していると言ってくれますかね?」
不安げな様子でラッシュはケイトを見つめる。
ケイトはふんと鼻から息を吐く。
「はぁ……。ラッシュ、あなたの弟がこれほど優秀だなんて聞いていないわ。もしかして、優秀な王宮医師ってあなたの弟のことかしら?」
「うわ、優秀だなんて。嬉しいですね。改めて自己紹介させていただきます。王宮医師のロイ・ベネターと申します」
誤算も誤算、大誤算である。
「兄さん。これ以上、ボクにできることはありません。そうですね、切断後の処置くらいなら、うまくやってあげますけども」
「ひぇっ」
ラッシュはあそこを両手でおさえた。
「はい、騎士団のみなさ~ん。この犯罪者二人を連れて行ってくださ~い」
ロイの明るい声で、騎士服に身を包む男たちがぞろぞろと部屋に入ってきた。
「ちょっと、服ぐらい着せなさいよ」
それがケイトなりの最後の強がりだった。
~*~*~*~*~
その後、無事にイアン・ダリルとケイト・カーラの婚姻無効が認められた。
「格好悪いところを見せてしまったな」
中央省執務室――。
他の文官たちは、各大臣の応援へと駆り出されている。ちょうど案件が重なってしまったのだ。
そんななか、イアンとマレリは例の事件の報告書を作成しているところであった。
「あなたが、自ら囮になると言ったからでしょう? どうせケイトはあなたのことを狙っていたのだから。カーラ商会の手口が巧妙すぎて、なかなか証拠がつかめなかったのよね」
「囮になったのはいいが……しくじったな……」
「あの薬が、あれほどまで強力なものとは知らなかったからね」
「だからって、君が囮になると言い出したときには、やっぱり俺がそれをするしかないと思ったんだ」
イアンの言葉に、マレリは微笑んだ。
彼らが恋人同士と呼ばれる関係であり、近い将来に結婚を約束している仲というのは事実である。
その前の大きな仕事であった。
裕福層を中心に、怪しげな薬が出回っていると耳にしたのは、今から半年前のこと。
一般的に違法薬物と呼ばれる薬だ。
この薬を服用すると、気持ちがたかぶり快感を得る。依存性も高く、使用を繰り返す。もちろん、副作用もあるため心身を蝕んでいき、最終的には人としての理性を失う。
この薬物にカーラ商会が絡んでいそうなところまで突き止めたが、真相には届かない。
そこで、夜会でケイトに近づく方法を考えた。彼女はカーラ商会長の自慢の娘でもある。
むしろ、彼女に騙されたという声も、ちらほらと聞いていた。それでもそんな証言だけでは証拠として弱い。
だから組織から囮を出す話となった。
ケイトがダリル家の財産を狙っているのは、今までの彼女の行動からも予想がついていた。それを利用しようと言い出したのが、イアン本人だ。
だが、囮になったイアンが薬に負けた。
あの夜会で、ケイトと身体の関係を持ったと思われた後も、定期的にケイトと会い、その場で薬を飲まされていた。
彼の様子がおかしいとマレリもわかっていたが、あの薬の解毒薬がなかった。
飲むなと言っても、正常な判断ができなくなりつつあるイアンには難しいことである。となれば、必要なのは解毒薬。
それをロイに相談するも、今のところ、解毒薬はないとのこと。だが彼はすぐに解毒薬の開発に取りかかる。
その間、イアンはカーラ家によって婚姻届を出されてしまい、その十日後、結婚式を挙げた。
結婚式のパーティーに招待されていたロイが彼に解毒薬を飲ませた。
婚姻届と結婚式までには間に合わなかった解毒薬だが、初夜には間に合ったのだ。
もともと、ケイトはイアンと離縁するつもりだったから、身体を重ねるつもりはなかったのかもしれない。彼女が狙っていたのはもちろんダリル家の財産のみ。
解毒薬によって我を取り戻したイアンは、初夜からケイトを拒み始める。
また、仕事のために王宮に来た際に、ケイトから離れるようにとマレリとロイにきつく言われ、そこで寝泊まりを始めた。
それに、イアンが屋敷に戻らなければ、彼女がラッシュと関係を持つだろうとも考えられたからだ。
ラッシュとロイは兄弟であるが、真面目なロイに対してラッシュは金と女に弱い。
解毒薬のおかげで自我を取り戻したイアンは、ケイトとラッシュの現状を探るために、マレリを連れて夜会に参加し始めた。だが、屋敷に戻るのは危険だ。
案の定、ケイトはラッシュと夜会に出席していた。もしかしたら次の獲物を狙っているのかもしれない。
そしてあの夜会にて。
彼女がイアンの飲み物に薬を入れたのを確認してから、その飲み物をすり替えた。
性的興奮剤の入った飲み物だ。それを口にしたケイトがラッシュと関係を持った。もともとそんな二人だから、一線を越えることなど容易かったのだろう。
「でも、ケイトのことだから。薬のせいであったとしても、初夜にあなたが迫ったのであれば、喜んで受け入れたんじゃないのかしら?」
「それはないな」
「あら、自信満々だこと。証拠でもあるの?」
口だけではなんとでも言える。すべては証拠。双方そろっての証拠が必要だ。
「俺は君以外に反応しないからね。だから、あのときだって未遂だ」
「バカ……」
マレリは小さく呟いて、微笑んだ。
「そうそう。結婚式の夜、俺、ケイトに言ったんだった」
「なんて?」
「君を愛するつもりはない。と」
「ふぅん。もしかして彼女、そこからの溺愛とかを期待していたりして。何かの物語のように」
ふふっと彼女は笑う。
「あれ? もしかして、マレリもそう言われたいタイプ?」
「まさか。私は、夢を見るより現実を見るタイプだから」
「うん、わかってる。そんな君だから好きになったんだから。……あっ」
「何よ?」
「俺は、君を愛するつもりはない……」
突然の告白に、マレリは「はぁ?」と眉間にしわを寄せる。
「だって。君を愛し続けているからね」
「へ・り・く・つ」
彼女の凜とした声が、室内に響いた。
【完】
最後までお読みいただきありがとうございます。
こんな話があってもいいじゃない?というお話です。
※誤字脱字はちょこちょこ修正予定です。
最後にいろいろポチっとしてもらえると喜びます。
この二人が気に入っているので、また別の作品に登場するかもしれません。