後編
6/21誤字のご指摘、ありがとうございます。修正しております。
「ルイ様……大丈夫ですか?」
ルイはじんじんと痛む頭を押えながら重い瞼を開いた。そこはアレクサンドルの部屋のままだった。
(ここは……?兄上の部屋……失敗したのか)
「僕は……失敗したのか?」
「失敗……?なんのことです?」
いつも見る初老の従者がルイの肩を持って抱きかかえていた。心なしか、若く見える。
「大怪我をされたアレクサンドル様を見るなり、卒倒されたのですよ。大丈夫ですか?」
「兄上が大怪我?僕が……卒倒?」
ルイはよろよろと立ち上がると、周囲を見渡した。医者や看護師、回復の魔術を扱う魔術師たちがその部屋に集っていた。皆心配そうにルイを見ていた。そして、中心のベッドには、苦しそうに横たわる少年の姿をしたアレクサンドルがいた。
その光景は先ほどのアレクサンドルの部屋の光景とは似て非なる光景だった。自らの身体を見ると、少年時代の体格に戻っている。
(もしかして……成功したのか!十年前……どうやら兄上が狩りで大怪我をされたあの時に戻ったらしい)
「……マリー様は?」
「さぁ。書庫に行くと言ったきり、戻ってきませんが」
(そういえば、十年前のあの時、マリー様は死の淵にある兄上を置いて、数日姿を現さないことがあったな)
ルイは壁に掛けられた短刀を手に取り、急いで部屋を飛び出すと、書庫へと走った。
「ルイ様……!どこへ……!」
後ろから呼びかける声が聞こえたが、ルイには気にしている余裕はなかった。
(急がないと……時の魔術は魔力を急速に消費する。僕に残された時間は短い)
ルイは、迷路のように入り組んだ王宮を走り抜けた。やがて薄暗い地下の書庫に辿り着くと、息を殺してマリーの姿を探した。
ルイはこの書庫が好きだった。
書庫の床は石造りで、ひんやりと冷たさが足元から感じられた。その硬さと静けさが、自分が歴史と知識の中に立っていることを感じさせ、その場の雰囲気を一層引き立てる。天井まで届くような棚が並び、その上には数え切れないほどの書物が整然と並べられている。
書庫の空気は、紙とインク、そして年月によって生じる独特の香りに満たされている。それは古き良き時代の知識への敬意を感じさせる香りだった。鼻をくすぐるその香りと共に、黙読する者の静かな呼吸音やページをめくる音だけが、厳粛な静寂を優しく刻んでいくのだ。
(よくここで、マリー様から魔術を教わったっけ)
ルイは、元々内向的で無口な少年だった。外向的であり、運動神経抜群で豪放磊落な兄アレクサンドルにいつも引け目を感じていた。そんなルイにいつも優しい声をかけて一緒に遊んでくれたり、魔術を教えてくれたのがマリーだった。
(ダメだ……今は考えるな。マリー様を、いや魔女を、今からこの手で殺すのだから……)
ルイが音を立てないように気を付けながら書庫の内部を進んでいくと、やがてマリーが背を向けて奥の古い木のテーブルに座っているのが見えた。それはいつもマリーがルイに魔術を教えてくれたテーブルだった。
あと数メートルの位置にある、そのか細い首は、手に持った短刀で簡単に切り裂けるだろう。
(今だ……やるんだ。兄と王室を救うため……)
ふとその時、マリーの髪飾りが目に入った。マリーの好きなスイレンで編まれた髪飾りだった。十年前の光景が、ルイの脳裏にフラッシュバックのように蘇った。
(あら……貴方が編んでくれたの?とっても綺麗。本当にもらっていいの?ルイは手先がとっても器用なのね)
(マリー様に似合うと思って編んだんだよ。喜んでもらえて嬉しいな!)
ルイの力がふっと抜け、手に持っていた短刀が石造りの床にカラン、と乾いた音を立てて転がった。
マリーがその音に気付いて振り返った。
「あら……ルイ、こんなところでどうしたの?」
マリーが振り向いた先にいる、少年の姿をしたルイの目からは、大粒の涙がとめどなく溢れ出していた。
(できない……できないよ。愛する人を手にかけるなんて……)
マリーはゆっくりと立ち上がってルイに近づき、優しく抱き締めた。
「辛かったでしょうね、ルイ。でも大丈夫、大丈夫よ……きっとアレクサンドル様も良くなるから……」
「違うんだ……違うんだ……」
ルイは泣きじゃくりながら、必死に次の言葉を探した。
「僕は……僕は……」
(貴女を殺そうと……!)
ルイが涙に滲む目でマリーの座っていたテーブルを見ると、そこには魔術の分厚い本が置いてあった。ページには黒いインクで書かれた無数の魔術の式や、手続き、護符などが記されていた。それは、紛れもなく黒魔術の本だった。
「……マリー様……本当に黒魔術を……?」
マリーは驚いた顔をしてルイに向き直った。
「……ええ。見つかってしまったわね。隠していてごめんなさい」
黒魔術の本には「死者をこの世に繋ぎ止める術」というページが開かれていた。ルイはそれを見てハッとした。頭の中で靄が晴れていく感覚があった。ルイはその瞬間に全てを察した。
「……マリー様は兄上がもう助からないと知って……黒魔術によって、死ぬ定めだった兄上の命を繋いでくださっていたのですね。黒い痣はそのために……」
「あ……貴方、もしかして未来のルイ……!?時の魔術に成功したのね……?」
ルイの身体が白く光り始めた。それはもう間もなく時の魔術が時間切れになることを意味していた。
「嬉しい。貴方と共に過ごした楽しい魔術の勉強の時間が、将来何かの役に立ったのかしら」
「マリー様、やはり貴女は僕の大好きなマリー様でした……僕はもう戻らなければ。やらなければならないことが」
「待って、私も貴方のこと……」
(神様どうか、どうかマリー様が処刑される前の時間に戻してください。必ず彼女を救わなくては)
「……僕は、とんでもない過ちを犯すところでした。貴女を手にかけなくて、良かった」
少年の姿をしたルイはそう言い残すと、目を閉じてゆっくりとマリーの温かい腕の中に倒れ込んだ。
***
ルイは鳴り響く雷鳴で目を覚ました。窓の外を見ると、外は薄暗くなっていた。じんじんと痛む頭に手をやると、手が濡れる感触があった。涙だ。ルイは自室で泣いて途方に暮れていた自分を思い出した。元の時間に無事に戻ったのだ。しかも過去に意識を飛ばした時よりも少し前の時間に。
(まだ、処刑前であってくれ……!)
ルイは自室を飛び出すと、庭園の中心にある広場へと向かった。そこで日没の時間にマリーの刑が執行されることになっていたのである。
曇り空の下、無情な風が広場を吹き抜けていた。広場の中心には、不吉な鉄と木で組まれた柱が立っていた。この柱が、今日のために設けられた舞台だ。
広場には、王室の人間や貴族の関係者が集まり、マリーの処刑を見届けようとしていた。魔女とされる者の処刑は火あぶりでおこなわれる。アレクサンドルとソフィーが最前列に座ると、口に猿ぐつわをはめられ、後ろ手に縛られたマリーが処刑執行人に連れられてきた。
空は曇り、時折雷鳴が轟いていた。いつ雨が降り出してもおかしくない。火あぶりが滞りなくおこなわれるよう、アレクサンドルは焦って指示を出した。
「何をもたもたしている!早くするのだ!」
衛兵達は急いでマリーを柱へと結びつけると、着火の準備を始めた。衛兵達は周囲に円陣を組み、たき火の用意を整えていた。柱の下には乾いた薪が積まれ、そのすぐそばには、すぐに火を点けられるよう松明が立てられていた。その時が刻一刻と迫り、群集は固唾を飲んで処刑を見守った。
ソフィーはそのマリーの姿を見て勝ち誇ったような表情を浮かべた。
(これでアレクサンドル様とこの国は完全にわたくしの物。チョロイわね)
処刑執行人はマリーの足元に松明をかざすと、火はたちまち薪へと燃え広がり、煙が空へと舞い上がった。マリーの身体が揺れ、苦痛に顔を歪めた。彼女の赤毛の髪が炎に照らされて紅く輝き、彼女の瞳には絶望と恐怖が映った。
次の瞬間、遠くから馬の蹄の音が響き始めた。徐々にその音は大きくなり、広場の全ての視線は、その音源であるただ一騎に注がれた。白馬に跨ったルイは疾風の如く広場を横断し、処刑台の元へと駆け寄ってきた。
「待て!」
ルイの声が広場に鳴り響いた。彼は処刑台に駆け上がると同時に剣を抜き、一瞬で燃え盛る炎を斬り払った。火花が散り、熱風が広場を覆った。
驚きと混乱に包まれた処刑台で、マリーの体は燃え盛る炎から解き放たれ、第二王子の胸に倒れ込んだ。ルイの腕が彼女をしっかりと抱き締めながら支え、彼の目は彼女の弱々しい顔を、愛おしそうに見つめていた。
「ルイ、お前何をしている!」
アレクサンドルが怒り、ルイに向かって大声を上げた。
「……それはこちらの台詞です、兄上ッ!」
ルイはマリーを抱きかかえたまま立ち上がると、群集に向かって叫んだ。
「第二王子である僕、ルイ・ルフェーブルはたった今このマリー・デュポワと婚姻を結んだ!王族の処刑は法により禁じられている。よって、今ここにマリーは解放された!」
群衆は大きくどよめいていた。
「ルイ……婚姻って?」
マリーは消え入りそうな声でルイに尋ねた。
「よろしいですね、マリー様。これが貴女を救う唯一の方法なのです」
***
処刑は急遽中止となり、王宮へと戻ったアレクサンドルが怒りの表情を浮かべてルイに言い寄った。アレクサンドルの隣りではソフィーが憎しみの視線をルイに向けていた。
「お前、こんなことをしてタダで済むと思っていると……ごふっ」
アレクサンドルは口からドス黒い血を吐いた。
「なんだこれは……ゴフッゲフッ!」
アレクサンドルは苦しそうにしゃがみ込んだ。
「まさか……マリーの奴が黒魔術で私を殺そうと……!」
「逆ですよ、兄上」
ルイはアレクサンドルを見下ろすと言った。
「兄上は十年前、あの狩りで大怪我を負った時にすでに死んでいたのです」
「な……なんだと……!」
「マリー様が禁忌を犯してまで兄上を救おうとしたことに気が付かなかったのですか。兄上は今、マリー様の黒魔術によって延命されているだけなのです。恐らく先ほどの火傷でマリー様の魔力が弱まったのでしょう」
「あ……ああ……!」
アレクサンドルは目を見開き頭を抱えると、その髪の毛は白く変じ、指の間からバサバサと抜け落ちた。
「他の者の魔力も加えれば、兄上がすぐに死ぬことはないでしょう。しかしその身体ではもうこの国を統治するのは難しい。隠居して余生を静かに過ごされてください」
「わ、分かった……お前に家督を譲ろう……頼む、私を死なせないでくれ……そうだ、ソフィーはどうしたんだ!彼女はまだ私を愛しているだろう?彼女と一緒に暮らしたい」
ソフィーはいつの間にかその場から姿を消していた。
ルイはアレクサンドルの目を覗き込んだ。その目は黒い瘴気を纏っていた。その瘴気は、マリーが延命のために使った黒魔術の瘴気とは僅かに異なる鈍い光りを放っていた。ルイは言った。
「それでは、僕にはまだやり残したことがありますので、これで」
***
王宮の庭園から門へと続く道のりを、一人ブツブツと独り言を呟きながら歩く姿があった。
「アレクサンドルはもうダメね。あんな生ける屍と結婚するのはごめんだわ。さっさとここからおさらばするとしましょう。まぁいいか、次はまた機会を見つけてあの第二王子を籠絡すればいいんだし」
「……第二王子がどうしたって?」
ルイは王宮を後にしようとする、その人影の肩を掴んで言った。
「お前、禁忌の黒魔術で兄上を誘惑したな」
「ヒィッ!」
驚いて振り向いた人影は、先ほどアレクサンドルとルイの前から姿を消していたソフィーだった。
「禁忌に触れた者は即刻死罪だが……兄上の婚約者だったことに免じて、我々の監視の元、一生黒魔術で兄上を延命し続けることで償ってもらおうか、魔女のソフィーさん。兄上が死んだ時がお前の命日だ。強力な魔術にお前の魔力がいつまで耐えられるか分からないが、な」
ソフィーは呆然とした表情を浮かべると、その場でへなへなと力無く倒れ込んだ。
***
ある晴れた日、壮麗な大聖堂の扉が開いた。その瞬間、聖歌が高く鳴り響き、待ちわびていた人々の歓声が一斉に上がった。その中央に、ルイ王子が堂々と姿を現した。彼は今日、新たな王として戴冠されるためにそこに立っていた。
ルイ王子は金色の髪を短く整え、威厳ある王のローブを身に纏っていた。そのローブは深紅と金色で織り成され、鮮やかな宝石があしらわれていた。その姿はまさに王の風格を体現していた。
聖職者の声が大聖堂に響き渡り、祝福の言葉を述べた。その言葉が終わると、ルイ王子の妻であるマリー妃が静かに前に進み出てきた。彼女は純白のドレスを着ており、その手には輝く金の王冠を持っていた。火傷から無事に回復し、またソフィーが延命の黒魔術を肩代わりしたことによってその顔からは黒い痣は消え、マリーの美しさはまさに聖女のようだった。
マリー妃は王冠をルイ王子の頭に静かに被せた。その一瞬、聖堂全体が息を呑むような静寂に包まれた。王冠が完全に固定されると、大聖堂全体が歓喜の声で一杯になった。
「ルイ、貴方のことが大好きです」
「僕もだよ、マリー」
二人は向かい合うとにっこりと微笑んだ。
ルイ王と聖女マリー王妃は人々から愛され、王国は繁栄し、末永く幸せに暮らしたという。
アレクサンドルとソフィーの二人は王宮の端にある塔に引きこもり、二度と出てくることはなかったらしいが、それはまた、別の話。
数ある小説の中ご覧いただき、また最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました!