前編
短いお話です。どうぞ軽い気持ちで読んでいただけると幸いです。
代々高位の魔術師を生み出してきた名門デュポワ家。中でも、滅多に生まれることのない赤毛の娘は潜在的な魔力が高いとされ、聖女として第一王子に嫁ぎ、国を守るのが習わしとされてきた。そんなデュポワ家に赤毛に生まれたマリーは、幼くして第一王子のアレクサンドル・ルフェーブルと婚約し、王室で暮らすようになった。
しかし将来を嘱望されたマリーの周囲には、ここに来て暗雲が立ち込めて来ていた。
「なによあの痣……気色悪い」
「あの痣からは何か禍々しいものを感じます」
「あの女、聖女ではなく魔女なのではないか……?」
十年前から発現したマリーの右頬にある黒い痣が年々広がり、王室の人々を気味悪がらせていたのだった。そして、美しい物を好む第一王子アレクサンドルにその醜い痣は耐え難かった。常に近くにいるマリーのことを何かと鬱陶しく思い始めていた。
(いくら魔力が高くとも、私にあのような醜い痣を持った者は相応しくない)
***
その日、美しい王宮の壮麗なテラスは上品な宴のために準備されていた。まばゆい金色のテーブルクロスが風に静かに揺れ、その上には精緻な磁器のティーセットが並べられ、香り高いダージリンの香りが空気に溶けていく。
テラスの一角には、桃色と白色の花弁が散りばめられた高いローズアーチがある。ゆったりとしたリズムで演奏されるバロック音楽が庭を満たし、それに合わせて振る舞われる紅茶がエレガントなリズムを奏でている。
男性たちは、サテンとベルベットのエレガントなジャケットに身を包み、蝶ネクタイをきちんと整えていた。彼らの控えめな笑顔と上品な会話が、空気を一層温かく、居心地の良いものにしていた。
一方、女性たちは、シルクとチュールで作られた色とりどりのドレスをまとい、頭にはダイヤモンドと真珠がちりばめられた繊細なティアラを光らせていた。彼女たちは、優雅にティーカップを手に取り、笑顔を交わしながら、語り合っていた。
すべてが美しく調和し、何もかもが優雅に進行していく。やがて華やかな王室のお茶会も盛り上がりを迎えた頃、ふいに第一王子のアレクサンドルが立ち上がり手を叩くと、聴衆に向けて言い放った。
「……本日をもってマリー・デュポワとの婚約を解消することを宣言したい」
「……!!」
王子の突然の発言にその場は静まり返り、アレクサンドルの隣りに座っていたマリーは身体を硬直させた。さらに王子の次の一言がマリーに追い打ちをかけた。
「王室の魔術顧問によれば、マリーは禁忌の黒魔術に手を染めたのだそうだ。その証拠がこの黒い痣だ」
王子がマリーの前髪を荒々しくかき上げると、例の大きな黒い痣が露になった。お茶会の参加者たちは一斉にざわめいた。
「そして、私の新たな婚約者を祝福してほしい。我らが王室魔術顧問、ソフィー・ベルナールである」
ソフィーと呼ばれた艶やかなブロンドの女性は妖艶な笑みを浮かべて隣りのテーブルから立ち上がり、アレクサンドルの横に来ると、マリーを押しのけて王子の腕を取り、愛おしそうな眼差しで上目遣いに王子の顔を見上げた。豊かな胸元から続く細いウエストが曲線美を描いている。
「本来、禁忌に触れることは即刻死罪である。しかし、これまで私の婚約者であったことに免じて、自らを省みる時間を与えたい。刑の執行は本日の日没とする。皆がこの寛大な処分に納得してくれることを願っている」
マリーがおろおろとしていると、屈強な衛兵が二人やってきて彼女の両腕を掴み、お茶会の会場から連れ出していった。マリーは必死に抵抗し、なにやらアレクサンドルへ訴えかけようとしていたが、小柄なマリーの小さな声は会場のざわめきにかき消された。
(「今日が貴方の命日になりますよ」……?まさかな……気のせいだろう)
アレクサンドルは一瞬マリーがそう言っているようにも聞こえたが、聞き間違いだと思った。
***
「兄上……!マリー様を処刑されるとは本当なのですか?」
お茶会の後、噂を聞き付けた第二王子のルイはドアを蹴破らんかの勢いでアレクサンドルの居室へと入ってきた。別名「時の魔術師」であるルイは、類まれな魔術の才を持って生まれ、王室において筆頭魔術師をしていた。
ルイにとって二歳年上のマリーは、幼い頃から魔術を教え、可愛がってくれた実の姉以上の存在だった。ルイは密かにマリーへと想いを寄せていたのだった。
「ああそうだ、私にはソフィーのような美しい女性が似合うだろう?あの醜い痣はとても耐え難い」
「そんな、マリー様がこれまであれほど尽くしてくださったというのに……その恩を忘れたのですか!禁忌の黒魔術に手を染めたなどという嘘を……!マリー様がそんなことをされるとお思いですか!?」
アレクサンドルはルイの頬をはたいた。
「出過ぎるな!もう決めたことだ。本日の日没に予定通り刑は執行する。それともお前が自ら手を下したいか?」
「そんな……」
次期王のアレクサンドルの命令は絶対であり、ルイはもうなす術がないことを悟った。
処刑の時間、ルイは自室にこもって顔を覆い、涙を流していた。昼間晴れていたのが嘘のように日が陰り、時折稲光が薄暗い部屋を照らしていた。ルイに、マリーの処刑を見届ける勇気は無かった。
その部屋の隅に置かれた、大きな鏡の前に座り、ルイは自分の心の内をじっと見つめていた。その鏡に映る彼自身の姿は、筆頭魔術師であるいつもの堂々とした第二王子の面影を微塵も感じさせなかった。代わりに、絶望と哀しみによって苦しむ一人の男がそこには映っていた。
やがて従者が部屋へと入ってくると、ルイに告げた。
「マリー様の刑が……執行されました」
ルイの視界がぐるぐると回り出し、大切な人を失った悲しみが胸の内に押し寄せた。部屋の窓際に、マリーが好きだったスイレンの花が一輪飾ってあった。その花の香りが鼻先を通り、ルイはマリーの優しい笑顔と声を思い出した。その記憶が彼の心をさらに深くえぐり、溢れ出る涙を止めることはできなかった。
「わかった。今晩は一人にさせてくれ」
***
その夜、バタバタと騒々しく王宮を駆けまわる足音でルイは目を覚ました。鏡の前で突っ伏したまま、眠りに落ちてしまったようだった。先ほどと同じ従者がルイの部屋に慌てて入ってくると言った。
「ルイ様、大変です!アレクサンドル様が……第一王子が……!」
ルイが悲しみを押してアレクサンドルの部屋に行くと、驚きの光景が広がっていた。部屋の床はアレクサンドルの吐いた血にまみれ、ベッドにはアレクサンドルが弱々しく横たわっていた。
「ルイか……ごふっ」
アレクサンドルが再び吐血し、ベッドは紅く血に染まった。
「早く王室中の魔術師を集めてくれ……マリーの奴が……あの魔女が死ぬ間際に黒魔術をかけたに違いない。さすがはデュポワ家の赤毛、強力な魔術だ……。早く聖なる魔術の結界を……」
ルイはすぐに従者たちに王室中の魔術師を集めるように命じると、自ら兄を救うべく聖なる結界の魔術をかけ始めた。
(こ、これは……)
アレクサンドルの身体からは、黒魔術特有の黒い瘴気が立ち昇っていた。間違いなくこれまでルイの見た中で最も強力な魔術だった。
「兄上……これは、僕の手に負える代物ではありません」
ルイは思った。
(まさかマリー様が本当に禁忌の黒魔術を……?)
やがて王室中の魔術師がアレクサンドルの部屋へ集い、結界の魔術をかけたが焼石に水だった。アレクサンドルの身体からは依然として黒い瘴気が立ち昇り、誰の目にも明らかに衰弱していった。このままではアレクサンドルの命はもってあと数時間だろう。
「ルイよ……」
「はい、兄上……」
「時の魔術を使え……過去へと戻り、あの魔女を殺すのだ」
「しかし……僕の魔術は不完全です。過去に戻れたとして、今に戻れる保証も……」
そう言いかけて、ルイはその先を言うのをやめた。アレクサンドルは、ルイが時の魔術を使って過去へ行ったら、戻って来られないかもしれないことは知っている。その上で、第一王子の命はルイのそれよりも重い、と言っているのだ。
「……時の魔術師――王室筆頭魔術師であるそなたに命じる。過去へと戻り、あの魔女を殺し、私の命と王室を救い給え」
(このような兄とて、兄は兄。次期王の命……)
ルイはしばし沈黙したのち、口を開いた。
「それが王室のためであるならば」
時の魔術は過去に意識を飛ばすことで、未来を改変できる可能性を持った魔術である。しかし、数秒前に意識を飛ばすことはできても、それよりも前に飛ばした経験はなかった。一度も完全に使えたことのない、非常に高度な時の魔術。ルイに自信はなかった。
しかし、次の瞬間、意を決したルイは手に持った杖を高々と掲げると、部屋中が眩い光りに包まれた。やがて轟音が鳴り響いたかと思うと、ルイはアレクサンドルのベッドの横へと倒れていた。
後編に続きます