Side: D
私は外資系商社で働いている。
私は、働くのが大好き。人と話し合って何かを作るのも好きだし、アイディアを出すのも好き。
そんな私の欲と願望を、会社は全て叶えてくれる。会社は、私にとって最高の場所。
「じゃ、お疲れさま!」
私は帰宅準備を整え、急ぎ足で帰路に就いた。
電車に飛び乗り、自宅の最寄り駅までゆらゆらり。う、少し気持ち悪い。少し疲れが溜まってきちゃったかな。
私は二ヶ月半前、休職届を出した。なぜって、お腹に赤ちゃんがいたから。
私はお腹が大きくなっても出勤した。満員電車は危ないからとタクシーを使ってまで出社したのだ。
だけど、世間は妊婦に優しい。……凄く、優しい。
『もういい加減休んでくれぇ!』
上司に泣かれ、私は仕方なく休暇を取ったのだった。
でも、そんな優しさにいつまでも甘えていられない。私は子供をポコーンと産んでしまうと、生後一ヶ月の赤ちゃんを夫に託し、復帰したのだった。世間は『え? もういいの?』と、化け物を見るような顔をしていたけど、私は大丈夫だと押し切った。
「ただいまぁ」
明るい声でリビングに声を投げる。うわ、大きな声。おチビちゃんが泣いてるわ。
「おかえりー」
リビングで、夫がおチビちゃんを必死にあやしていた。取っ散らかった様子から、今日一日戦っていたんだなと想像するけど、酷い部屋ね。
「交代しましょ」
私は着替えて、夫からおチビちゃんを受け取った。
「ミルクがまだなんだ」
「そう。なら今あげちゃうね」
胸が張って苦しかったからちょうど良かった。会社でも折を見てトイレで絞っているんだけど、溜まるものは溜まるのよね。
夫は私におチビちゃんを託し、キッチンに向かった。
「すぐできるよ」
そう笑う顔に、くっきりクマが浮いている。やっぱり、今日は特に大変だったんだ。
ううん、そうじゃない。彼が七時間連続で睡眠を取ったのなんて、ここ二週間、一日だってない。本当に、まとまった睡眠なんて夢のまた夢。私の代わりにミルクをあげて、おむつを替えて。
夫は私の妊娠が分かるとすぐに、産休を取ると約束してくれた。私より二週間遅れて産休に入り、今は一日家で家事、育児を担ってくれている。
大丈夫なのかな。少しだけ、不安になる。私は彼の稼ぎを当てにしていないけど、彼はそれで良かったのかな。出世とかに響くんじゃないの? あんまりそういうのないからって言っていたけど、私のために出世を棒に振ったとかないよね? ……出世したかったとか、ないよね?
「はい、できたよ」
食卓に、料理が並ぶ。美味しそう。冷凍食品とか、一つもない。
「大変なら、もっと簡単なのでいいんだよ? デリバリーとか」
「駄目だよ。チビのご飯を作る大事な体なんだから」
でも、私、授乳ほとんどしてないんだよね。
「カロリーも抑えてあるから、しっかり食べてね」
「うん」
そう。私のプロポーションがすぐに戻ったのは、彼の食事のおかげ。勿論運動だってしたし、生まれつきの体質もあるんだろうけど、食事って大事だもの。
「いただきます」
おチビちゃんをベビーベッドに預け、二人で食事を取る。
「どう? 仕事」
「うん。産休前と同じ待遇で働かせてもらえてるし、……なんだけど」
「どうした?」
「一個ね、私に任せてもらえることになってた企画があったんだけど、後輩がすることになっちゃった」
『君は母親になったからね。お子さんの急用で会社を抜けたり、休んだりすることがあるだろう』
『そう気張らなくていいんだよ。君の能力は分かっているから』
『今は子供を大事にしなさいよ。一線で働くなんていつでもできるんだから』
……本当に、社会はママに優しい。全部、分かっている。皆の言葉が、ママを蔑ろにしようと思ってのことではないことぐらい。
でも、私言ったよね? 夫が産休、育休取ったから会社には迷惑かけないって言ったよね。
それでも、真っ向から反発することはできない。正直、体はまだ本調子じゃない。この体で企画を任せてもらっても、万が一のことがあったら責任が取れない。まだ一線で働ける人間じゃないってことぐらい、私が一番分かっている。
前に、夫の顔があった。疲れた顔。私より疲れた顔。そんな夫の前で、愚痴を零して、暗くなってしまった。
「でも、大丈夫よ。また頑張ればいいんだから。それより、今日のおチビちゃんはどうだった?」
「それがさ、寝かしつけが終わったから昼にしようと思って電気ポットでお湯を沸かしてたら、宅配が来てさ。対応してたらポットが鳴って、その瞬間チビがギャン泣き」
夫が苦笑を浮かべる。愚痴と言えば愚痴なんだろうけど、嫌な感じがしない。夫が明るく話してくれるから。
「なら、音の鳴らないポットを買おうか」
「そうだな。でも、やかんがあるから、暫くはそれで対応してみるよ」
私たち夫婦の生活費は全て私が出している。そのせいか、夫は生活費に関して、贅沢をしようとしない。
でもね、私から稼ぎを取ったら、何も残らないのよ。
「あ、そうだ。次の休み、私が作り置きを作ろうか」
「ええ! いい、いいよ! ゆっくりしなよ!」
この慌てふためきよう。
「何よ、まだあの時のこと忘れてないの?」
『あの時のこと』とは、結婚して間もないころ、私がありとあらゆる食材を炭にした時のことだ。
「いや、それは違うけど」
目が泳いでるじゃない。
「チビとの時間を作ってよ」
……そうだよね。できないことを変に頑張るより、やった方がいいことを頑張る方がいいわよね。
「そうね」
私が頷くと、やっと夫は安堵してくれた。
私は、家事の一切ができない。結婚するまで実家暮らしで、家のことは全て母がしてくれていたから経験する機会がなかったのだ。
夫がいなければ、私の生活は何一つ回らない。
私は、仕事しかできない人間だ。……なんて、かっこつけすぎ。実質、自分の好きなことしかできない人間なのだ。ただ、その好きなことというのが仕事という生きていくうえで必要不可欠なものだったから、何とか様になっているだけに過ぎない。
同僚の中には、私がスーパーウーマンだと思っている人がいるみたいだけど、大外れ。私はただ、仕事ができるだけ。夫の支えがあって、私はスーパーウーマンもどきになれているだけなのだ。張りぼてのスーパーウーマン。
彼が、私との結婚をどう思っているのか分からない。こんなにも支えてくれているのだから、『貧乏くじ』だとは思われていないと思うけど、時々、そう思われても仕方ないんじゃないかと思う日がある。
じっと彼の顔を見つめる。
「どうした?」
「別にぃ」
ただ一つだけ言えるのは、彼は私にとっての『当たりくじ』だったということだけ。これだけは間違いない。