Ginger、ginger
Ginger、ginger
「きゃあ、すごーい」「おいしそぉ」
「ねえミミちゃんちってお金持ちなの?」
「そんなことないない。こんなに豪華なの、お誕生日の日だけだってぇ」
我が娘の大人びた返答に、おい失礼だなと、小さく突っ込んだ。
「ピザ大好き!」「あたしもー」
可愛らしい歓声があちこちで飛び交っている。
子どもたちの目の前には、ピザやパスタ、パーティーには欠かせないオードブルのセット。皿に移すのもひと手間なので、買ってきたままのプラ容器でテーブルの上に置いてある。が、100均で買ってきた使い捨ての箸、プラスプーンやフォーク、ナフキン、ジュースを入れる紙コップなんかが、ピンクやオレンジ色のカラフルなデザインなので、そんな手抜きを上手に隠してくれている。
そして、誕生日には欠かせないものをテーブルの真ん中に。誕生日パーティーの主役だ。
『お誕生日おめでとう ミミちゃん』
チョコプレートに踊る文字と、8本のロウソクを刺したイチゴのホールケーキ。
(いいわ。これで完璧!)
今日はひとり娘ミミの誕生日パーティー。
招待した友達は全員女の子。だからパーティーはもちろん可愛くなくてはいけない。100均で買ってきた飾り付けのバルーンをカーテンのタッセルに刺し、ふわふわのモールを窓に貼り付けた。この、いかにもパーティーな雰囲気づくりに私はとても満足している。
(買ってきたものをそのまま飾っただけだけど……でもまあこれで十分じゃない? うん、ちゃんとキラキラだし? これこそ理想の誕生日パーティーってやつね)
私は満足げに、テーブルを見回した。
「じゃあ始めましょう。今日はミミのために、お祝いに来てくれてありがとうね」
お礼を言いながらロウソクに火をつけていく。
今日は土曜日。もともと仕事は入っていた。娘の誕生日パーティーのために取った時間休は、三時間。この後、終わったらすぐに会社に出社しなければならない。往復に要する時間もその中に含まれているから、ゆっくりはしていられない。
サービス業で土日出勤が当たり前な夫に、このパーティーのお世話を頼むことは到底できなかった。
「は? ミミの誕生日パーティー? そもそも子どもの誕生日くらいで休めねえし、俺に子どもたちの世話なんかできるわけねえだろ。おまえが休めよ」
返事は見えている。しかも夫はミミの友達の把握もできていないし、ミミくらいのキャピキャピした小学生女子となんて、何を喋っていいかもわからず混乱してしまうのが嫌なのだろう。苦難からは容易に逃げる夫。家事や育児を努力してなんとかしようなどと、考えもしない。
いわゆるワンオペ。家のことすべてを私に丸投げしてくる夫には、なにも期待できない。
有給を取ろうかとも考えた。が、今は繁忙期でそれも言い出しにくい。それもあって、誕生日パーティーとは言え、買ってきたものを飾ったり並べるだけで済むので、半休で十分だろうと考えた。
「ミミちゃん、ロウソクの火を消して」
すると、誰からともなくハッピーバースデイトゥーユーの歌と手拍子。時間が限られている今の私にとっては、その歌をラストまで聞き届ける余裕もない。
そっと席を外れ、可愛い声の合唱を背中に聞きながら、キッチンへと入った。
「ミミちゃん、おめでとう〜」「おめでと〜ロウソク消して〜」
「願いごとした?」「した? たつやくんのことでしょ?」
「ちょっと! やだあ!」
ころころと笑い声。定番なひと通りの儀式が終わったのを見計らって、声を掛けた。
「たくさん食べてねー」
カウンターの奥からリビングへと声を掛ける。早く食べちゃって! 本音がぽろっと口から出そうになるが、さっそくのいただきまーすの声に、ほっと胸を撫で下ろした。
ああそうだ。今のうちに、今日の晩ごはんの下ごしらえをしておかなくちゃ。
冷蔵庫から人参とお肉、食品庫からジャガイモと玉ねぎを出す。カレーライスだ。夜、仕事から戻ってもカレーライスなら温めてすぐに食卓に出すことが出来る。
仕事はフルタイム。帰宅してから一から作る煮込み料理は、味が超絶染み込まない。なのでどうしても焼いたり揚げたりだけの料理になってしまう。
溜め息が出る。いや、溜め息しか出ない。明日の日曜日は休みだが、娘のお世話や家事があるから実質休日ではない。世の主婦の悲しいところだ。
カレーの準備がほぼ終わり、ふと時計を見ると、パーティー開始からすでに一時間が経過。私はほっと息をつこうと、インスタントコーヒーを入れ、片手にマグを持ちながら、カウンター越しに娘たちの様子を窺った。
ほとんどの料理がさらえられていた。
「ねえ、タナハシセンセってなんでいつも、パァーフェクトォって言うのかな」
「英語が話せること自慢してるんじゃないの? わざとらしいよね」
「うん、あれね。正直ウザいしキモい」
「カトウセンセもさあ。黒板書くとき、前髪掻き上げるよね」
「そうそう! あれもなんかムカつくんだよね」
学校の先生の悪口のオンパレードに苦笑しかない。とにかく今どき女子は、辟易するほど言葉遣いが荒いし悪い。
さあ、もうそろそろケーキを切り分ける頃合いだ。タイムリミットまであと一時間半。ケーキナイフを持ち、ホールケーキへと向かった。
「そろそろケーキ食べましょうか」
私はためらうことなく、純白の生クリームのホールケーキにナイフを刺し入れた。ナイフはなんの抵抗もなく、すうっと入っていく。均等に切り分けていたら、なんだか急に思い出されたことがあった。
それは自分が小学生だったころの、いつかの誕生日パーティーの日。
できれば思い出したくない記憶。それは苦くて辛い、思い出。
時間に余裕がなく、急かされてケーキを切ったことが、私の中にある何かの琴線に触れたのだろうか。
(ああ……そういえば、私の誕生日会、……ホールケーキ、なかったっけ)
その瞬間、娘たちのあけすけの無い女子トークで緩んでいた口元が、知らぬ間にきゅと結ばれた。面白くも楽しくもない、ひたすらに悲しかっただけの誕生日。そんな思い出がじわじわと、頭の中に広げた大きなスクリーンに映し出されるようにして、映画のように蘇っていく。白黒であるのか、セピアなのかすら、わからない。それほど、悲しかった。
確かにそれは、私にとってトラウマの誕生日だった。
✳︎✳︎✳︎
「誕生日会? 佳奈子の?」
忙しい両親にしてみれば、当然の反応だと思った。
幼いころの私はいつも、誰に対しても遠慮がちだったと思う。要は一人っ子というのは、兄弟姉妹と争うこともなく育つからなのか、おっとりした性格になるということだ。小学校の友達はおろか、道端で出会う猫や犬に対しても、私はきちんとした段階を踏んでから、友情を申し込むタイプだった。
私は自分で作った招待状を、おずおずと母に見せた。
「この前、サエちゃんの誕生日会に呼ばれたでしょ? それで私の誕生日会はやらないのかって聞かれて……」
「はあそう。あんたの誕生日って、……」
母がカレンダーをめくる。今年の5月5日子どもの日は土曜日。『佳奈子誕生日』と前から書いてあったので、私は最近、5の数字に赤ペンで花マルを書き足しておいた。
それでも、私の誕生日は目立たない。誕生日なんて小学生にとっては一大イベントのはずなのに、店の厨房に掛けてあるカレンダーには、店の仕入れの予定がこれでもかというほどぎっしりと書き込まれていて、家族の予定など何事もなかったかのようにかき消されてしまう勢いだ。
そのころ私の両親は食堂を営んでいた。
『食事処 いろは』
その日のおすすめや定番の定食、一品料理などを出す、よくある定食屋だ。
食材の仕入れは、『八百屋』『魚屋』『肉屋』『青果店』『業務用スーパー』に及び、調理を担っていた父は、片っ端からそれらをはしごしている。何曜日にどこどこと、だいたいは決められてはいるが、チラシによる飛び込みの特売が入ったりするため、カレンダーはその都度書き加えられていく。
さすがに家族の誕生日は記憶されているが、母は一度、カレンダーに埋もれていた授業参観を、忘れたことがあった。
そんな母がため息混じりに言った。
「土曜日かあ。お店があるから、あんまり構ってあげられないよ」
表情が曇る。予想していた通り。朝から晩まで大忙しの食堂で、肉体労働に追われる母の苦労は知っている。一枚の暖簾とカウンターで分けられた厨房では、父が腰痛と戦いながら、際限のない調理をこなしていることも。
「……うん、わかってる」
だから、私はその言葉の意味を、十二分にわかっていたはずだった。
だとしても。
自分のお誕生日会は普通に執り行われる、心のどこかではそう信じて疑わなかった。
誕生日会の当日。店の二階、自宅のリビングには長机と座布団が用意され、長机の上には食堂で出している割り箸が、きちんと並べてあった。母が食堂の下準備に入る前に、用意しておいてくれたようだ。
集まりの時間になり、友達が裏玄関から階段を上りリビングへと入ってくる。
「おじゃましまーす。カナちゃん、これプレゼントね!」
「わあ、ありがとう!」
声を掛けたのは、5、6人ぐらいだっただろうか。次々にプレゼントを渡されて、私は王様にでもなったような気持ちになった。
遠慮がちな私が、この時ばかりは誰にも遠慮することなく、主役の顔ができる。誕生日っていいな。そんな思いもあってか、完全に浮き足立っていたように思う。
それぞれ友達も席に着き、さあ始めようとなったとき。けれど、母は一階の食堂から、こちらに上がってくる様子がない。どうやら店に団体客が入ったようで、開け放った一階の食堂の窓からは、ガヤガヤとお客の声や皿や茶碗がぶつかる音が、遠慮なしに聞こえてきていた。
(始めちゃっていいのかな……)
友達は友達で、学校の話や世間話をしながら、きょろきょろと辺りを見回している。それぞれが留めた視線の先を見ると、長机の横の丸いテーブルに、ジュースとお菓子が置いてあることに気がついた。
お母さんが来られない時は自分でやってちょうだいよ、と言われていたことを思い出す。
「……お菓子でも食べようか。ジュースは何がいい?」
私は、コップを一つずつ渡し希望のジュースを注ぎ入れ、丸い木製のボウルに盛りつけてあるお菓子を長机の真ん中に置いた。
さっきまで王様のような気分だったが、そんな高揚感は一気に消えた。次にはまるでお城に仕える召使いのような気分になり、惨めな気持ちが少しだけ芽生えた。
「カナちゃん、お誕生日おめでとう!」
それでも友達がそう言ってお祝いしてくれるのは嬉しい。先日、誕生日会に呼んでくれたサエちゃんが音頭を取ってくれる。その掛け声でジュースで乾杯した。
「あ! 私これ好き〜〜」
ボウルに手を伸ばす。
ルマンド。マリービスケット。ムーンライト。
どれもこれも、私のお気に入りのお菓子だ。
スーパーなどの店に行けば、洋菓子はたくさん売ってはいたが、これといったお小遣い制度のない時代、子どもたちの口に入るのはまだまだ駄菓子が中心で、クッキーなどの洋菓子は高くて手が出ないという家庭が多かったに違いない。けれど、うちの食堂はそれなりに繁盛していて、比較的裕福だったのかもしれない。店の材料をスーパーに仕入れにいくのもあって、これらの高級な洋菓子はいつも家に常備してあり、高い頻度で私の口に入った。
「クッキー、たまにしか食べられないから、余計においしい」
「うちも! お母さん、全然こういうの買ってきてくれないもん」
「うん。オヤツない? って聞いても、バナナでも食べておきなって言われちゃう」
「ルマンド、最高〜〜」
みんなで頬張っていく。お代わりしたジュースも飲み干したころ、階下からどすどすと音が響いた。
母の足音だ。忙しない足の運び。
いつもの日だったら、食堂が暇になったその隙をみて、干した布団を取り込んだり、洗濯物を片付けたり、掃除機をかけたりするために、二階へと上がってくる。ほぼ駆け足のような、そんな足音だ。
「こんにちはあ! みんな集まってくれてありがとうねえ」
母が、部屋の片隅に固めてあったプレゼントの山を見る。
「あらまあ、こんなにプレゼントいただいちゃって! 良かったわねえ、佳奈子!」
母はにこにこしながら中腰になり、一人一人にありがとうと言い、それから手に持っていたお盆を長机の上に置いた。
そのお盆を見て、私は、衝撃を受けたと同時に、え? と思った。
「ゆっくりしていってね。おばちゃん、お店があるから大したおもてなしもできないけど」
そう言いながら、お盆に乗ってた茶碗を、友達の前にひとつずつ置いていく。
「お邪魔してまーす」
「ありがとうございます!」
友達が母の問いかけに軽やかに返事をしている。けれど、そんな声すら、固まって絶句している私の耳には入らない。母と友達との会話は、私の頭上を虚しく漂う。
それより!
なんで?
どうして?
身体の中に、いや心の中に『疑問』だけが詰め込まれ、積み木のように積み上がっていく。
これなに?
なんなの?
どうなってんの?
みんなの前に用意されたものを凝視。
それは、普段から食堂で出している『生姜焼き定食』、まさしくそのものだった。
白米を盛り付けたご飯茶碗、朱色のお椀には味噌汁、千切りキャベツが添えられた豚の生姜焼き、漬物、そして小鉢には鶏の唐揚げ、肉じゃが、そしてポテトサラダ。
「どうぞ、遠慮なく食べて〜」
「わあ、おいしそー」「いただきまーす」
「ゆっくりしていってね!」
すべての食事を並べ終わると、母は立ち上がり、お盆を持って階段へと降りていこうとする。
私は母の背中を追いかけ、階段の踊り場へと飛び込んだ。
「ねえ! お母さんっ!」
小走りで階段を降りていく母を呼ぶ。私も勢いあまって数段、駆け下り、母に近づいた。階段の途中で足を止めた母が、下から見上げるようにして振り返った。
「なあに? どうした? 佳奈子」
私は焦燥感にぐいぐいと押されながら、母にこう問うた。
「……ねえ、私の誕生日ケーキは?」
友達に聞かれまいと、小声になった。けれど、そんな様子の私に御構いなしで、母は私に言った。
「ケーキの代わりにと思って、ごはんを豪華にしたんだけど……ポテトサラダだって特別に作ったんだから、それが誕生日ケーキってことにしてくれない? ちょっと隣町までケーキを買いに行く余裕がなくって。ごめんね」
そう言って母は厨房へと戻っていった。
その背中を見送りながら、私は震える思いでその場に座り込んだ。
「……うそでしょ」
確かに当時、数少ない洋菓子店は、車で15分はかかる場所にあった。往復30分。洋菓子店のオープンの時間と、食堂の営業時間や仕込みのタイミングの兼ね合いを考えると、ケーキの購入は難しいのだということは、容易に想像できた。
けれど、私は今の今まで、自分の誕生日会は完璧に、最初から最後まで成功に終わると信じていたのだ。信じ切っていたのだ。まさか誕生日ケーキが用意されていないなんて、思いも寄らなかった。
宇宙語か何かかと思うほど理解に苦しむ母の言葉に、私の眉はみるみるハの字へと歪んでいった。
しかも今、友達の前に出されているのは、食堂の和食メニュー。全然オシャレじゃないし、こんなのキラキラな誕生日会じゃない。
『生姜焼き定食』『鶏の唐揚げ』『肉じゃが』は、お客さんが上手い上手いと言いながら食べてくれる人気メニュー。
『ポテトサラダ』は母が特別、気が乗った時に作る、オリジナルメニュー。
普段のただの食事であれば、これほど豪華なメニューはない。
けれど……。
私の中の不満や羞恥の感情は、空気をこれでもかと言うほど喰らい、どんどんと膨らみ続ける風船のようだった。
誕生日会なのに、誕生日ケーキがないなんて。
「…………」
怒り、悲しみ、恥ずかしさが、嵐のように渦巻いた。
主役の席から、見事に末席へと引きずり降ろされた、という思いしかなかった。
複雑な感情にとうとう心がぐちゃぐちゃになり、正常な部分がどんどんと削り取られていく。
(……どうしよう。ケーキがないなんて、恥ずかしい。みんなに笑われちゃう……)
サエちゃんの誕生日会には、大きなケーキがあった。そこにはちゃんと、お誕生日おめでとうとの、チョコレートプレート。そのことを思い出すと、自分の惨めな立場が一層、浮き彫りになってきて、心臓が痛くなり息ができないような気がした。
階段の真ん中。私はしばし身を縮こませ、頭を抱えたまま身体を震わせていた。
プレゼントを持って家にまで来てくれて、お祝いしに来てくれた友達に対して、子ども心にも申し訳が立たないという気持ちにすらなった。
顔が真っ赤になっていく。座ったまま、顔を両手で覆った。
ぎりっと歯を噛み締めると、その拍子に目尻に溜まっていた涙が、ぽろっとこぼれた。
どうやってその場をやり過ごそうかと考えていたのだと思う。
階段で座り込んだまま、しばらく動けなかったが、「カナちゃ〜ん、どうしたの〜??」と、名前を呼ばれて、仕方なく洋服の袖で涙を拭った。
「今いく!」
もちろんその後、私たちは母が用意してくれたごはんを食べた。
『豚の生姜焼き』は、いつも父が作り、食堂で出している味そのもの。
「おいしい!」
いや正確に言えば、その味とは若干、違うものだ。
私は小学生のころ、学校から帰宅すると、まずは食堂の厨房へと寄っていた。父と母にただいまを言うためにだ。そしてそのまま、厨房の片隅に置いてある休憩用のイスとテーブルで宿題をしてから、二階の自宅へと上がっていくのが日課だった。
私が厨房で宿題をやるこの時間は、夜ご飯にはまだ早い。お客さんもパラパラとして少なく、父は余裕の雰囲気で、ぼちぼち調理をこなしていた。ただ、そうこうしているうちにもどんどん満席に近づいていき、そうなると戦場かというほどに、忙しくなる。
父はそうなる前に、私が宿題をこなす早い段階で、いつも試食をさせてくれていた。
「おかえり、佳奈子。今日の体育はどうだった?」
「もう最悪だよ。ドッチボールで一番に当てられた」
「あははそうかそうか。佳奈子はドンクサイからなあ」
話しながら作っているのは、『豚の生姜焼き』。よく焼いた豚肉に最後、酒、味醂、醤油、生姜などの調味料が注がれる。ジュワッと音を立てて、香ばしい醤油と生姜の香りが、厨房全体に広がっていった。
父は生姜焼きを少し多めに作り、小皿に少量よけてから、またなにかをフライパンへと足している。
「ほいよ、食べていいぞ」
父が、小皿を渡してくる。豚肉が二切れ。少なすぎて空腹は満たされないだろうが、父の作る料理は最高だった。
「いただきまーす」
箸をつける。甘辛い味付けに白ご飯が欲しくなった。けれど、そこまで食べてしまうと夜ご飯が食べられなくなると言って、母からそれ以上は禁止を食らっている。
「どうだ?」
父が、首にかけたタオルで額に浮いた汗を拭き、コップの水を飲みながら、私に問うてきた。
「おいしい。私、これ大好き」
モグモグと咀嚼しながら返す。
「生姜、辛くないか?」
「ううん、全然」
「それなら良かった。子どもにこの生姜はちょっと辛すぎるからな。店で出してるやつは、おまえのを取り分けてやってから、もっと生姜をきかせるんだ。大人はガツンと生姜が効いてないと物足りないからな」
言いながら、黄金色の歪な形の生姜を見せてくれる。
父は優しい人だ。他にもイカ焼きや鶏の唐揚げなんかを多めに作り、親鳥のごとくヒナである私の口の中に放り込んでくれている。
はからずも。そんな父が作った『豚の生姜焼き』を、今日のこの誕生日会で、みんなで食べることとなったのだが。
「ん〜〜〜最高!」
友達が歓喜する。
それとは反対に、私は俯いたまま、豚肉をひと口かじる。
それは私がいつも食べさせてもらうのと同じの、辛くない生姜焼きだった。
「ごちそうさまでした! カナちゃんのパパやママが作ってくれたごはん、めちゃくちゃおいしかった〜」
「さすがお料理屋さんだね。私、うちに帰ったら、カナちゃんのお店に食べに行こうって言ってみる」
「これ内緒だけど。ママの作る肉じゃがよりおいしかった」
ペロっと舌を出して、サエちゃんがウィンクしてくる。
「……あ、ありがとう」
お礼を言うので精一杯だったが、誕生日ケーキが無いという引け目のようなものが邪魔をして、声が掠れた。
けれど、元気のない私には気にも留めずに、今度はみんながこぞってポテトサラダを褒めていく。
「このポテトサラダも最高だった〜」
「うちのママに作りかた教えてあげて欲しい」
そして。
「いいなあ、カナちゃん。毎日、こんなおいしいお料理が食べられるなんて!」
「ほんとね、うらやましすぎるぅ」
私は苦笑いし、空になった食器をただ、見つめていた。キャベツの千切りが、生姜焼きの汁を吸って、ぐにゃりととぐろを巻いているのをただ、見つめ続けた。
父母の料理の腕前を褒められても、肩身の狭い思いと羞恥はなんら変わらない。
その日は、最低で最悪な誕生日会の記憶とだけ、私の心には刻まれた。そしていつしか、心の奥深くへと封印するぐらいに。
✳︎✳︎✳︎
ふと、ケーキナイフを持つ手を止めた。
それと同時に、スクリーンに映し出される映画のように蘇ってきた思い出は、ここいらで終止符が打たれたらしい。
トラウマでしかなかった思い出。あの、誕生日会のこと。
ホールケーキをまじまじと見る。
最後、ナイフを入れ、そして引いた。さっきから、ぼうっとして合っていなかった目の焦点を、キラキラと輝いているイチゴの上で、戻していく。そして、辛みとともに上がってきた記憶に、私はあの日のように眉をハの字にし、無理にもくすっと苦く笑った。
「ママ、どうしたの?」
娘が怪訝な視線を寄越してくる。
「ううん、なんでもない。けど、ケーキの大きさがねえ……ママ、ケーキ切るのヘタクソだったわ。ごめんね。でもまあ、ジャンケンってことで」
「ええー! 私、ジャンケン弱いのにぃ」「そんなに大きさ変わらないって!」
視線を上げると、ケーキが配られるのをそわそわと待つ、娘の友達の笑顔たち。
突然、その笑顔が、誕生日会のあの日の友達の笑顔と重なった。
確かにみんな、『生姜焼き定食』を美味しかったと、そう言っていた。
誕生日ケーキがないことを、どう伝えたのかもはっきりとした記憶がない。
「えーー」とか、「うそぉ」とか、「信じられなーい」とか、言われたのかもしれない。顔から火が出そうな、あの恥ずかしさと言ったらない。そして胸が押しつぶされそうな、あの悲しさと言ったらない。そういった負の感情だけがオーバーラップしてきて、年甲斐もなく、震える思いがした。
けれど、それと同時に、この歳になってようやくわかったこともあった。
父があの日、私たちのために生姜の量を抑え、子ども用にと甘めに味付けしてくれたこと。それは私が今まさに、苦い辛いが苦手な娘のために、料理を作るとき、気をつけていることだった。
そして、あの母の特別なポテトサラダ。自分が母となり幾度となく作ったポテトサラダが、手間ひまかけなければ作れない料理なのだと知ったこと。
それが父の愛情だった。
そして、それが母の愛情だった。
知るはずもなかった父と母の、ひとり娘への想いが、あの日階段で座り込み、羞恥に震えながら泣いた思い出を一瞬で塗り替えていく。
私は再度、テーブルの上を見た。
全国展開の店でデリバリーしたピザとパスタ。スーパーのデリカコーナーで選んだ、見栄えのいいオードブル。100均に彩られた部屋の飾り。
そして。
今ではそこら中に存在する、チェーン洋菓子店のイチゴのホールケーキ。
完璧で理想だと思っていた誕生日パーティーが、その苦く辛い思い出によって、みるみるその景色を変えていく。
「……はい、どうぞ。好きなのを取って」
掠れた声で、ケーキを皿へ移す。
「今日はミミちゃんのお誕生日だから、まずはミミちゃんが選んで!」
その提案に、まずは娘が選び、あとはジャンケンで決めた。
私はその様子を苦笑しながら見、カウンターへと戻り、ナイフを洗う。洗っている間中、長年の食堂経営で身体を壊して引退し、すでに年老いて最近では歩くのも覚束なくなってきた、実家の母と父の姿が浮かんでは消えていく。
私は息を飲む。
そして深く息を吐いた。
何度か深呼吸をし、壁に掛けてある時計を見る。取った時間休のタイムリミットは、あと一時間。
私はもう一度深呼吸し、とうとう心を決め、仕事用のバックからスマホを取り出した。
そして、私は今日、今年初めての有給を取った。
エプロンを腰に巻き、腕まくりをした。手を洗い、冷蔵庫の扉を開ける。
材料は揃っている。
目に飛び込んできた鮮やかな色のニンジンとキュウリ、そしてマヨネーズ。ジャガイモは食品庫から。ほくほくに茹で上がったジャガイモを軽くつぶし、薄っすらお塩と黒胡椒、そしてマヨネーズをたっぷりかける。
母の言葉が蘇る。
「ポテトサラダだって特別に作ったんだから、それがお誕生日ケーキってことにしてくれない?」
あはは!
あの時は悲しかった。けれどそれも今なら理解できる。
母と父の食堂も大忙しだったのかもしれないけれど、私だって仕事に家事に子育て、目の回る忙しさだよ。
それでも、親が子を想う愛情は、苦みや辛さの記憶となってでも、世代をこうも軽々と飛び越えていくんだな。
「ケーキの代わりがポテトサラダって! なんなの!」
あの時の悲しかった思い出も、大雑把な性格の母らしいことだったと笑い飛ばしながら、ジャガイモを丸ごと鍋に入れ、火にかけた。