好き
「嫌い、嫌い、嫌い! 来ないで! 愛彩! 来ないで!」
彼女の言葉を嫌がるように、触手たちが細かく痙攣し始める。言葉をなくして叫んでいるみたいに。そして、だんだん美咲の体にそれは沈んでいった。ノイズのかかった声も元に戻り、ただ押し殺した「嫌い」が空気の中に漂っているような気がした。
美咲は、なにを嫌いといっているの? でも、なんとなく、本当は嫌いじゃないんじゃないかって、思える言い方だった。嫌いだと思い込もうとしている、ような。
「美咲……?」
「……嫌い、愛彩なんて、嫌いだもん」
ああ、私のことだったんだ。でも、なんで?
何度か、私は美咲の名前を呼んだ。でも帰ってくるのはもはや言葉としての意味を成していないように聞こえる『き』と『ら』と『い』だけ。私は、立ち上がった。もう、体の震えは消えた。ここにいるのは化け物じゃなくて、美咲だって分かったから。
「こないで、こないで」
美咲が私を拒絶する。こないで、こないでと何度も繰り返す。私が一歩一歩近づくたびに、その声は大きくなる。私には、その言葉の向こうに、「でも、近づいて」と、聞こえた気がした。
ついに、手を伸ばせば美咲に触れられるところにやってきた。目を離さずずっと見つめていると、美咲が自分の足を抱えている手が、激しく震えているように見えた。なにを、おびえているんだろう? そのおびえを、取り払ってあげたいと思った。
私はしゃがみ込んで、美咲と同じ視点の高さになる。母親が子どもに語りかける時みたいに。そして、美咲の震える手に、手を、重ねた。
震えは止まらない。むしろ先ほどよりも激しくなった気がする。美咲がこちらを見る。くりっとした目が真っ赤に染まって、その視線が私を貫いてくる。
「愛彩、だめ……やめて……じゃないと、みさき――」
――ころしちゃうかも
瞬間、私の頬を何かがかすめた。焼けるような痛み伝わってきて、少なくない血液が流れ始める。頬をつたって、顎まですべって、一滴一滴が葉っぱに乗る夜露のように落ちていく。ピタ、ピタと床にぶつかって滴がはじける。痛みはだんだんひどくなって、私は表情が保てなかった。顔が苦痛でゆがむのを感じる。
美咲を見た。感情の見えない真っ赤な瞳が私をずっと見つめている。
「愛彩、みさきは、わからないの」
美咲が首をかしげて言う。何がわからないの、とは聞き返せなかった。声が出ない。
「好きな人ができたら、どうすればいいんだっけ?」
時間が止まった気がした。え、今、私は何を質問されたの? どういうことって聞き返そうとしたけど、みさきの目があまりにも真剣だったから、どうしていいのか分からなくなった。じっと見つめ合う。美咲の中に吸い込まれてしまいそう。
「愛彩、教えて」
美咲が立ち上がって、膝を曲げて、手を伸ばしてくる。一緒に、背中から伸びた触手が数本私の方にゆっくり間を詰めてきた。体に絡みついてくる。美咲の伸ばした手は、私の傷ついた頬に優しく触れた。傷口へ痛みが電撃のように走って、また顔をゆがめてしまう。
「愛彩、みさきは、愛彩が、好き」
何を言われているのか分からなかった。どういうことなのかわからなかった。ただ、体に絡みついてくる触手がだんだん力を強くして、肌を圧迫してくる。
「みさき、愛彩をころしたい」
その言葉で、ようやく私は、なにを聞かれているのか理解した。頭がさえた。私は告白されたんだ。美咲に。私も女なのに。女の子に告白されちゃった。しかも親友に。
美咲は、好きなはずの私を、殺したいって言った。好きな人ができたらどうすればいいのか分からないと言った。そういえば、私も昔分からなかったな。でも今は、なんとなく分かってるから、美咲に教えてあげることにした。
「美咲、こうするんだよ」
私は、少しの戸惑いを感じながら美咲を抱きしめた。背中に手を回す。彼女の吐息を肩に感じる。布越しでも、体と体が触れあって、熱が伝わり合う。まるでひとつになったみたい。私は美咲に溶けるようにして、背中に回した手に力を込めた。
「……愛彩?」
美咲が耳元で私を呼ぶ。脳が揺れた気がした。
「なに、美咲」
「好き」
「うん」
頷く。すると、美咲の体が突然脱力して、私に体を預けてきた。私の体を探るように動いていた触手も、彼女の背中に戻っていくそぶりを見せる。なんだか、美咲の意思で動いているわけではないみたい。
美咲の静かな寝息が聞こえてきた。体を離して、ベッドに運ぶ。ちょっと重かった。
緊張の糸がほぐれないまま、眠った美咲を見つめる。以前と変わらない美咲。でも、変わってしまった美咲。どうしちゃったんだろう、なにが彼女をこんな状態にしてしまったんだろう。いくら考えたところで、分からないことだらけ。でも、よかった。美咲は生きてた。
それにしても、告白されてしまった。なんだか複雑な気持ち。受け止めきれていない感じ。なんだろう、この心に釘が刺さっている感覚、異物感。
深呼吸をしてすこし落ち着く。部屋を見回してみると、みさきが好きだったはずのぬいぐるみが、すべて破壊されていた。頭を貫かれているものと、首をちぎられているものもある。私と一緒にUFOキャッチャーでとったものも、ひどい状態だった。「あれ、とってあげたときすごいうれしそうだったのに」
なんだか、すこし残念な気持ち。
これからどうしようかと考えていると、突然玄関のほうからガチャガチャッと激しくドアノブを動かそうとする音がした。「おい開かないぞ」という声も。あのスーツたちが帰ってきたんだ。
逃げなきゃいけない。あいつらはなにをするかわからない。美咲をこのままにしておけない。どうにかしないといけない……
「どうしよう……どうすればいい? どうすれば……」
自問自答を繰り返す。でも、どうすればいいのかわからない。窓から逃げられるかと鍵を開けてみれば、そこは十階の断崖だった。落ちれば死ぬ。下をのぞき込みながら、また「どうしよう」と呟く。玄関の扉が開く音がして、一人ではない足音が聞こえてくる。美咲の部屋の、壊れた壁を注視する。近づいてくる、どうなってしまうんだろう、怖い、美咲は、どうなるんだろう。
すると、突然自分の体が浮いた。
「……え?」
いつの間にか伸びてきた触手が、私の四肢をつかんでいる。美咲は眠ったままなのに、触手が勝手に動いている。美咲の体も浮き上がって、私の隣にやってきた。
「どうするつもり!?」
不安になる浮遊感。まさか、窓から飛び降りるつもり? 予想は、即座に的中した。
触手が床を押す。私たち二人は勢いよく窓の外に飛び出した。風を強く感じて、目を閉じる。体がどんどん下に落ちていく感覚。ああ、死ぬ、死ぬんだ。叫びたい気持ちは起こらなかった。ただただ、あきらめていた。しかし、いくら目をつむっていても地面に体がぶつからない。しかも不安げな浮遊感もどこかに消えてしまっている。私は目を開いた。
そこは、断崖絶壁を見上げることのできる場所であった。マンションの裏だ。さっきまで私たちがいたはずの部屋の、開いたままの窓が見える。生きてる? 触手は私たちを助けてくれたの?
困惑しているうちに、地面に寝そべっていた美咲がうなりながら起き上がった。まるで朝起きる時みたいに体を伸ばしている。そうだ、逃げなくてはならない。
「美咲! 逃げるよ!」
「はえ?」
「早く!」
私は美咲の手を取って一目散に走り出した。