化け物
美咲の住むマンションはそこまで大きなものじゃない。ほんとに、首都圏ならどこにでもあるような、高層マンションとまでは行かないけれど、アパートよりは絶対大きいよねという程度。十階建て。美咲は最上階に住んでいる。
私は迷うことなくエレベーターに乗った。暇を感じることもなく目的の階につく。しかし、そこで私は目を疑った。美咲の部屋と思われる扉の前に、黒いスーツを着た短髪の男が立っている。ガタイがよく、目つきも鋭いのでなんだかヤクザのように見えた。警戒しながら少し離れたところから話しかける。
「すいません、その部屋に用事があるんですけど」
「……申し訳ないのですが、今はお引き取りください。」
訝しむような視線を向けてくる強面の男。敬語使うとか意外すぎ。でも、微動だにせず視線だけこちらに向けてくるあたり、絶対に通してくれなさそう。
「今、家に誰かいるんですか?」
「お話しできません。お引き取りください」
「同級生なんですけど、渡したいものがあって」
「今はいけません。お引き取りください」
事情があってもだめらしい。わざとらしく不満そうな顔をしてみるが、ついに男は視線を私から外してしまった。むっとして、私はさらに問いかけた。
「警察じゃないですよね。誰なんですか」
「ここの警備を任されている者です」
「嘘でしょ。なんでスーツなんて着てるの。警備員なら警備服でしょ」
「……特殊な業務なのです。いいですから、お引く取りください」
嫌です、と睨み付けてやる。男は眉をひくつかせて、「あのですね」といらだったようにこちらへ体を向けた。あー殴られるかな、なんてのんきに構えていると、美咲の家の扉の奥から、野太い絶叫が聞こえてきた。びっくりした。
「なんだ!?」
男も驚いて目を丸くする。急いで扉の鍵を開け、勢いよく開いた。そしてもう一度、さっきより大きな絶叫。そして、何かにおびえる声。男は血相を変えて部屋に飛び込んでいった。
私は扉に手をかけて、わずかに開いた隙間から中をのぞきこむ。
「おい! 何があった!?」
「化け物……! くそ、ぬいぐるみを持ち上げた瞬間襲ってきやがった……!」
「とりあえず逃げるぞ! 応援を呼ぶ!」
私は絶句した。中にはもう一人の男が血まみれの足を押さえて倒れていた。何が起こっているのかここからではわからない。
化け物? いったい何のこと? 美咲は? 美咲は無事なの?
すぐに入って確認したかったけど、中にいたもう一人の男を飛び込んでいった男が肩を支えて部屋を出ようとしていたので私は扉の影に隠れた。二人は肉食獣に追われる羊のように青い顔をして、支えられる男は痛みからか脂汗をかいていた。
「だから嫌だって言ったんだ! 監視役なんてよお!」
そのまま私に気づくことなくエレベーターに乗っていく。開かれたままの扉の影から出ると、彼らの歩いたあとに多量の血痕がのこっているのが確認できた。廊下は殺人事件を思い起こさせる惨状になってしまっている。
私はまだ頭が追いついてない。何が起こっているのかわかってない。わかってないことは辛うじて分かっているので、もう一度部屋を覗いてみた。
真っ赤な血液が壁や床にべっとりと張り付いている。致死量までとは言わないが、日常生活で起こるけがによるものではこうはならない。鉄の香りが部屋の外まで運ばれてくる。吐きそうになる、嫌なにおい。
不気味な静けさだった。ホラー映画の中にいるみたい。怖い、この部屋に入ると、私も危ないかもしれない。でも、美咲のことが気になる。いや、そもそもこの部屋に美咲は本当にいるの? 化け物ってさっきの人たちが言ってた。どういうこと?
深く息をついて、少し気持ちを落ち着けた。冷静に部屋の中の様子を観察する。すると、かすかに、すすり泣きの声が聞こえる。
確信した。この声は美咲だ。
彼女はこの部屋にいる。それだけ分かれば十分だった。化け物がどんなやつなのか知らないけど、美咲がここにいるなら、助け出さなければ!
「大丈夫、いけるよ。愛彩」
自分にそう言い聞かせて、部屋の中に入った。扉を閉める。一気に空気が冷たくなった気がした。息がうまく吸えない。壁に手をつくと、自分の手が震えていると実感した。怖いんだ、私、怖いんだ。そりゃあそうでしょ。でも、みさきを助けなきゃ。一歩歩くごとに微かに聞こえる自分の足音におびえながら、まっすぐ美咲の部屋に進んでいく。玄関を抜けるとリビングがあり、そこから美咲の部屋につながる扉がある。
リビングは先ほどの男が流した血液がまだかたまることなくまま残っていて、少し踏んでしまった。靴下に血が滲んで、嫌な感じがする。
すすり泣く声は聞こえてきても、他に人らしき気配はなかった。この部屋には美咲とその両親が暮らしていたはずだ。会ったことがあるのはお母さんのほうだけ。美咲が天然っけのある性格であるのに対してしっかり者のお母さんだった。遊びに行けばいつもお菓子を焼いてだしてくれたっけ。開いたままの電子レンジを見てそう思い出す。でも、美咲のお母さんは見当たらない。
美咲の部屋には入ったことがあるので場所は分かるのだが、その場所は、おそらく先ほどの男たちが言っていた怪物がいる部屋だ。だって、その扉に大きな穴が開いているんだもの。
「……どうやったらこんな壊れ方すんのよ」
硬い木製の扉。私が本気で殴ってもひびも入らないだろう。それなのに、中央部分のみ貫通されている。どんな力をしているんだ? 怪物は。
でも、そのおかげで私は扉を開けずとも美咲の部屋を覗くことができた。少ししゃがんで、扉の奥を見る。そのとき、床が少しきしんだ。
「だれ!?」
美咲の怒声。でも、まるで美咲じゃない声だった。ノイズが入ったような、かすれて恐ろしい声。感じたこともない恐怖、命の危険を感じて身体が震えている。扉の向こうから確かに向かってくる殺意。私は震える体を抱きしめながら、なんとか美咲に問いかける。
「美咲、私。愛彩、だよ」
「……愛彩? 何で来たの!?」
怒声と同時に扉がさらに破壊された。そこから私の眼前に、なにやら真っ黒い触手のようなものが伸びてきた。思わず悲鳴を上げてしまう。ほんとに、あと数センチだった。当たっていたら、私の頭は砕かれていた。全身の力が抜けて、へたり込んでしまう。私の眼前でゆらゆらとそれが揺れた。
「嫌い、嫌い、嫌い……」
扉の向こうで、美咲がうずくまって泣いている。その背中から、数本の触手らしきものが生え、別の生き物のように揺れていた。異様な光景だ、木の幹に生えたキノコのように、寄生されているように思えた。
「嫌い、嫌い、嫌い! 来ないで! 愛彩! 来ないで!」