キス
「美咲は、いまや危険な存在だよ。人を簡単に殺せる。あの触手で、これからも人を殺すだろう。あの子は、自分の母親、つまり私の妻を、もう殺してるんだよ」
だから制御できない場合は処分するしかない。当たり前のようにいう花月信二に、私は怒りが抑えられなかった。唇を血が出そうなくらい噛み、全力で殴りたい気持ちを抑える。二の腕がかゆい、くそ。かゆい。
「奥さんが殺されたのに、なんだか冷静ですね」
「彼女はいい妻だった。本当にそう思うよ。よく協力してくれた」
実験に、ね。どうせそんなところだろうと心の中で吐き捨てる。こいつは敵だ。間違いない。美咲の幸せを壊そうとしているやつだ。
美咲のお母さんが死んでいることは、違和感なく受け入れられた。……私はおかしいのかもしれない。普通、そんな話聞いたらびっくりでしょ。みさきが怖いと思うでしょ。でも、私はそれ以上に、この男から美咲を守りたい気持ちが強かった。
「どうする? 協力するか、美咲を処分するか」
私を追い詰めるように言う。抵抗したい気持ちはあるが、それ以上に拒否権がないことは分かっていた。この状況、いつだって私のことも、美咲のことだって殺せるんだ。処分なんて、動物みたいに私たちのことを考えてるんだ。
私は、力なく頷いた。もう逃げられない。
「よろしい、私も娘を処分するなんてしたくないんだ。無理なお願いをしてごめんよ」
思ってもいないくせに、申し訳なさそうに花月信二が言う。吐きたくなるような声だった。
「よかったら、美咲と恋人になってあげてくれ。その方が実験もしやすいだろう。君を言うことなら美咲も聞くだろうしね」
車は止まっているのに、何かに酔ったように世界が歪んでいる気がする。胃から何かこみ上げてくる。歪んだ関係、女同士で、しかもそれは実験のためだなんて。罪の意識で身体がねじれそうだった。そんな気持ちで美咲と向き合うなんてことはできない。想像するだけで拒絶感が背中を駆け上った。絶対に、この命令は聞けない。でも、もしそれが実験だと言われたら……。
そのとき、車の外から人の叫び声が聞こえ、同時に数発の銃声が聞こえた。近い。私の気持ちは一気に冷め、窓の向こうを注視する。
「……美咲だな。取りおさえられるならやってくれ」
花月信二が私の両脇に座る男へ顎で指示を出す。二人は微かに頷いてすぐに車から出た。美咲? 美咲が何をしているの? 疑問だらけの頭で花月信二を見る。目が合った。
「見てくれ、この車の正面だ」
また銃声が聞こえる。そして、車のフロントガラスの向こうに、みさきが乗って居るだろう車が止まっている。そこから、視認できないほどの勢いで触手が一本、窓を割って飛び出してくる。にぶい、ガラスの割れた音が聞こえる。誰のものか分からない血を大量に垂らして道路を汚し、すぐにまた引っ込ませた。
「これは……すごいな」
花月信二が神妙に頷いた瞬間、鉄板がへこむような鈍い音がして、前の車の天井が吹き飛んだ。触手を何本もはやした美咲が浮かぶようにして出てくる。
「美咲!」
私は車を飛び出した。私の両脇に座っていた二人が拳銃を取り出し、美咲に向かって数発発砲する。一発が肩を、もう一発が太ももを貫き、美咲の体がビクンと跳ねる。意識を失っているようで、目は開いていなかった。数え切れない触手が地面に降りたって美咲の体を10メートルほど天に浮かせ、残りの数本が音速どころではない速さで男たちに向かっていく。
あぶない、と声を上げる暇さえなく、一人の男の体が触手で貫かれる。顔と、胸と、腹と、足と、全身に触手が刺さる。聞いたことのない、水っぽい肉が破れた音。一瞬で男は絶命した。痙攣しながら血をあふれさせ地面に倒れる。あまりにもあっけない人の死に私は悲鳴さえ上げられなかった。
美咲の触手を交わしたもう一人の男は糸目だった。彼は冷静ながら額から汗を流しようやく車から降りてきた花月信二を見る。
「これはやばいで信二さん。応援を頼もうや」
「確かにまずいが、すばらしい、さすが私の娘だ。美咲、愛しているよ。その力、どうか私のために使ってくれ!」
先ほどまでの爽やかなマッドサイエンティストはどこに行ったか、花月信二は狂気にまみれた表情で美咲に向けて大声で笑う。
「さあ! 影内愛彩! 美咲を制御してくれ! やってみろ! でないと彼女は死ぬ! 放っておけば彼女はこれから人をたくさん殺すだろう! その衝動のままに、人を殺すだろう! そして恨まれるだろう! その汚名をもったまま、殺されるだろう! さあ! 美咲を救うのだ!」
そう言われても、どうしていいのかわからなかった。今までなら、彼女を抱きしめて、落ち着かせることができたかもしれない。今は無理だ。私の視界の端で、いまだ踏みつぶされた虫のようにしぶとく、身体をヒクつかせる男の死体が転がっている。血が細く身体に空いた大穴から飛び出す。
膝が笑っている。私は恐怖で動けなかった。美咲は宙に浮いて、触手を素振りでもするように動かしている。きっとあれは美咲の意思ではないんだろう。だったら、私が近づくだけであの触手は、私の身体を貫きにくるはずだ。そして私は、絶命する。
「なにをしている? いけ! 美咲を止めて見せろ!」
後ろから聞こえてくる叫びは怒気に変わる。そんなこと言われても無理だ。私には無理だ。美咲が怖い。これ以上近づけない。
「影内愛彩ちゃん、無理なら逃げや。俺があの頭を撃つで」
そういって糸目の男が私の隣に立ち、銃を両手で構える。絶対に当てるという意思を感じる静かな動きだった。まるでスナイパーのような。糸目から鋭い光を放つ瞳が覗く。だめだ、撃たせてはいけない!
「私が、いきますから!」
制止して一歩、自棄になって踏み出す。突風を浴びるように、前に進む足がなかなか動かなかった。それでも進む、死にたくない、死にたくない、そんな自己中心的な考えを抱きながら、必死に弱い心に鞭を打って、進んでいく。
すると、触手の動きはだんだんおとなしくなって、美咲が私の下に降りてきた。目が少しだけ開いている。真っ赤でうつろな瞳が、私を見ている。美咲の服は血まみれだった。美咲の肩と太ももに空いた穴からこぼれ出る血と、誰かの返り血が混じっている。美咲にそんな姿、似合わないよ。そんなの、美咲じゃない、この世界のものじゃない。美咲に返ってきてほしい。その気持ちだけに身体を任せて、私は美咲の顔に手を伸ばす。
その頬に、触れた。
いつもの温かい美咲がそこにいた。少し恐怖が和らぐ。触手私に警戒する様子で近づいてくる。そして、私の腕や腰を絡め取ろうとした。痛みが走る。ただでさえ痛んでいた腕に電気が走る。小さな悲鳴が漏れた。このまま私の腕はもがれてしまうのかもしれない。
「美咲っ」
反応はない。美咲は静かに私を見つめている。唇をつり上げて笑い、さらに強い力で私を締め付ける。腰にかけられた圧力で、骨がミシミシと悲鳴を上げた。
「みさきぃ……! そんなことされても、私、嬉しくないよ……」
美咲は、私を愛しているつもりなのだ。この行為で。私を殺すことが、私にプロポーズでもしていることになるんだろう。そんな愛し方、誰も受け入れてくれない。美咲は、このままじゃ人の世界で生きていけない。あの小説みたいに、恋ができない。幸せになれない。
そうじゃない、そうじゃないよ美咲。人を好きなときは……
「美咲、こうするんだよ」
私は、美咲にキスをした。




