最低最悪の嘘
小学生の頃、父親がいなくなって、私が家へとぼとぼ帰ってくると、いつも出迎えてくれたお母さん。必死に笑顔を作ろうとするお母さんが、当時の私には痛々しかった。父親とお母さんは愛し合っていたはずだから、離ればなれになったことは悲しいことだと、幼い私にも理解できた。でも、私が恋を出来なくなったのは、父親のせいだから、私にとってお母さんの悲しみはひどく複雑に映ってしまった。
その大きなわだかまりは、どんな者でも埋めることは出来ないと思っていたけれど、今こうして二人で話すことが出来ている。美咲という、イレギュラーな因子によって。それがすごく意外に自分でも感じられて、でも、すごく嬉しかった。
お風呂の扉が開かれた音がする。美咲があがったのだ。お母さんもそれを聞いてはっと冷静になり、涙を拭いた。
「よし、ありがと。あっちゃん、元気出た。あとはお母さんに任せて」
強い顔になって、素早く残りの皿の破片を集めていくお母さん。私もつられて拾う。いいのに、と小さく呟かれる。その瞳はまた潤んでいた。お母さんが、喜ぶ姿がもっと見たいと思った。……素直に、そう思った。
「あやー!」
突然、お風呂に続くリビングの扉が激しく開かれる。同時に私を呼ぶ叫び。お母さんと私の笑顔はどこかに飛ばされていった。
「な、なに? どうしたの?」
「服貸して!」
ずんずん床を足でならしながらこちらに向かってくる。全裸だ。恥ずかしげも無く、タオルで隠すこともなく。私とは違って大きめの胸が重く揺れている。親友とはいえ他人の家でそんなにも遠慮無く振る舞えるのはどうかと思うわ……。
美咲は私に顔を近づけて、興奮している牛のように鼻息を荒くしている。なにがそうさせるのか分からなかったが、私ははいはいとあしらって、部屋から適当に見繕ったTシャツを渡してやるが、胸に引っかかってうまく着れなかった。なんかむかついた。その様子を見てお母さんはなんか笑っているし、もう。
結局お母さんの服を貸してあげることになった。誠に遺憾である。少し袖の余るジャージだが、まあ仕方ない。
「美咲ちゃん、しばらくうちに泊まる?」
「え? え、えっと……それは、申し訳ないな、と」
「遠慮することないわよー。なんか、訳ありなのは察したから、居候してもいいわよ。お布団は余ってるし」
お母さんはそう言うが、美咲はまだ葛藤しているようだ。でも、私も美咲にここに居てほしい。その方が安心な気がする。一人にしておく訳にはいかない。
私は強引に美咲の手を掴んだ。お母さんに「へやにいくから」と告げ、そのまま早足で歩き出す。美咲は素直についてきた。二階に上り、部屋の扉を開く。質素な部屋で、最低限の家具しかないが、そのおかげで二人過ごすぶんには問題なかった。
「ここ、愛彩の部屋?」
そうだよといいつつ振り返ると、美咲がなんだか入りにくそうに顔をこわばらせて廊下から覗いていた。どうしたの? と聞くが、美咲は唇を震わせてなぜか顔を赤らめている。息も荒い。
「入っていいよ?」
「い、いや軽く言わないでよ!」
「なんでよ」
「だ、だって、好きな人の部屋だよ!? においだよ! むんむんだよ! みさきだって女の子だけどさ、女の子の部屋のにおいがするんだもん! これ、愛彩の、においなんだよね」
マシンガンのように離し散らした後は、突然落ち着いたかとおもうとその場で深呼吸を始めた。なんか変態っぽいし、なんか恥ずかしい!
「やめい」
美咲の両頬をつつく。ふわふわしていた。くすぐったそうにしているのが小動物みたいで愛らしい。……けど、視線を少し下にすれば、薄着のため強調される彼女の胸がある。うん、私のより一回り二回りは大きい。別に小さいことをコンプレックスに感じてるなんてことはないんだけど、なぜだろう、負けた気持ちになる。遺伝子レベルで負けてる。しばらくはその複雑な感情に突き動かされて美咲の両頬をつまんだりつついたりしていじっていた。
「いつまでやってるのぉ?」
「もうちょっとだけ」
「ふぁーい」
ようやく満足した私は、特にすることもなくなって、二人揃ってベッドに座った。いつもより深くへこむ。二人でこの空間にいるのは新鮮だった。すると扉がノックされて、返事をするとお母さんが布団を抱えて入ってきた。
「これ、みさきちゃんのね」
「わ、わー! いいんですか?」
「もちろんよ、寒いのに布団なしはつらいわよ」
お母さんが私たちに手伝う隙を与えず、一瞬で布団を敷き終わってしまった。
「あっちゃんお風呂はいっていいからねー」
そう言ってお母さんが名残もなく部屋を出て行く。階段をそいで下っていく音も聞こえた。家事で忙しいのかもしれない。じゃあ、早めにお風呂へ入ってこよう。美咲に声をかけて、立ち上がろうとした。しかし、美咲が私の腰元を掴んできたので、中途半端な姿勢になる。
「みさき?」
「ごめん愛彩。ちょっとさ」
もごもごと口を動かして、なんだか恥ずかしそうに視線をそらす美咲を見て、私は仕方ないと腰を再び下ろした。みさきの顔を見つめる。何度か私と床を交互に見た後、勢いに任せるようにして美咲は私の首元に手を回した。抱きしめられる、そう直感した。その手を掴む。
「こら、まだ私体洗ってないから」
「そそそそんなつもりじゃないよ!? そこまではしないよ!?」
「なに興奮してんの……美咲はお風呂入ったら、お風呂入ってない私に抱きついちゃだめでしょ」
別にいいのに、と口をとがらせる美咲を見て、私は少し安心した。
「もう、あのへんなやつ、出てこないね」
「……今は、落ち着いてるから」
「ふーん、私を抱きしめたくはなるのに?」
ちょっと意地悪な質問。唇をつり上げながら私は言った。でも、予想していた美咲の明るい反応とは違って、一瞬で空気が凍る。みさきの顔から恐ろしいほど表情が消えた。目が微かに赤くなっているのが分かる。
「愛彩、私が、抱きしめるだけで満足するとでも思ってるの」
感情のこもっていない、でも、怒りを感じる声。私は無意識に体を引いた。目の前から恐ろしいほど重圧がかかってくる。美咲に見つめられていると、肉食動物にあと少しで首元を噛みちぎられると直感した小動物のように、体が恐怖で動かなくなる。怖い、変な汗が額から流れている。でも、それを拭くなんてことをしたときには、美咲に殺されてしまうんじゃないかって、恐ろしい。
「愛彩、私、必死なの。愛彩を殺さないように、必死なんだよ。嫌だもん、愛彩に、死んでほしくなんてない。愛彩にひっつくと、なんだか、落ち着くの。だから、お願い」
美咲が誘うように手を広げる。私は躊躇った。その胸の中に入ると言うことは、懐に押さえ込まれてしまうということだ。自分から敵地に入り込むなんてこと、普通はできない。でも、そうしないと美咲は……。
私はつばを飲み込んで、必死に体の震えをごまかしながら、美咲に近づいた。そして、その胸の中に体をもっていく。ふわりと包まれたような感覚になった。冷たい空気が、だんだん温かくなっていく。美咲は私の後頭部にてをやって、私の顔を自分の胸に押しつけてくる。意外にも、優しい手つきだった。髪の毛をなでるようにして、私を愛おしそうに抱きしめてくれる。
「愛彩、いやかな?」
「……なにが?」
「私に抱きしめられるの」
「嫌では、ないよ」
素直に答える。これは本当だ。美咲は、さらに続けた。
「じゃあ、私のこと好き?」
「……好き、だよ」
これは、きっと嘘だ。
一章「私は恋をしない」、これにて終了です。ここまでお読みいただいた方に、最大限の感謝を……。
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