私の命が終わるとき
死ぬ、振り返ったら死ぬ。立ち止まったら死ぬ!
私は美咲の手を引いて階段を駆け下りる。無人の廊下が長く伸びた先に昇降口が見える。 肺が裂けたような鋭い痛みが胸に走る。呼吸が苦しい。それでも、死ぬよりマシだ。
後ろから男の叫びと激しい足音が響いてきた。恨み、憎しみ、真っ黒い感情が込められた声が私たちに浴びせられる。
「待て、まて美咲ぃ! 殺してやる! 殺してやる!」
動かなくなってきた足で床を蹴りつつ、手をつないで走る美咲を振り返った。くせっ毛の長髪を振り乱し涙しながら、私へ「ごめんね、ごめんね」と繰り返す。
「あんたのせいじゃない! 今は逃げるの!」
そう、美咲のせいなんかじゃない。全部彼の研究のせいなんだ。今一度、絶対に逃げ切ることを決意した。すべてはそれからだ。でも、私の足は言うことを聞いてくれない。私の身体は前のめりに床へ倒れた。なんとかすぐ立ち上がろうと地面に両手をつくが、足がうまく動かない。
「み、美咲! 早く逃げて!」
覚悟を決めてそう叫んだ。でも――――
銃声がこだます。学校の廊下には似合わない音だ。耳元で幼児の甲高い叫びを聞いた感じがした。鼓膜の震えが脳まで伝わってきて、一瞬視界が震える。ピントが再びあったとき、目の前に見えたのは愛しい美咲の姿。
「あ……」
思わず口から声が漏れる。美咲の額に、バラの花が咲いていた。なんてきれい。照明の下で光沢を見せる赤ワインのように煌々と光る紅色の花弁が一枚一枚、飛び散っていく。
紅の花弁が豊かに舞う姿。私の心は僅かに揺れた。ドキリ、と心臓が高鳴る。彼女と初めて抱きしめあった時のような感覚。一瞬が永遠のように長くなって、花弁に見えた1粒1粒の飛沫が、頬へひたりと着地した。
私の目の前で美咲が大きく目を開いて静止している。バラが花開いたように見えたそれは、今まさに銃弾で打ち抜かれた、美咲の肉だった。
血の気が引く。息を飲んだ。揺れていた心が、一瞬で硬直する。
指が入りそうなほどの大穴から光を反射する血液があふれ出し、美咲の顔を汚していく。美咲に真っ赤なチークなんて似合わない。それは聖域に入り込んだ悪魔のようだった。異邦人なのだ。いつだって人の目を引くのは、どこかおかしい存在ばかりだと思う。
銃声から何秒、いや、もしかしたら何分、経過しただろう。私はようやく美咲が致命傷を負ったことに気付いた。
心臓が破裂しそうなほどの緊張を感じながら、銅像のように動かなくなった彼女の顔を見つめ続けた。声が出せない。呼吸が苦しい。胸が詰まる。嫌な予感が、する。
人間であれば既に絶命している。だって、脳なんてもう貫かれてしまってるから。脳漿と脳みそがかき乱されて、死を想像することもなく永眠につくはず。でも、美咲の意識は覚醒しているように見えた。
「み、みさき」
私は震える声でその名を呼んだ。
でも、美咲は私の呼びかけなんて聞こえていないようで、不自然に唇をつり上げる。フヒッと奇妙な声が上がる。笑ってる、美咲が笑ってる。この上ない幸福と言わんばかりに、小刻みに唇を震わせて、嬌声を上げそうなほど、笑ってる。
何故、そんなに笑うの。なにが可笑しいの。そんな私の心の叫びは虚しく、心の中だけに響く。
美咲は右手の人差し指で、そのバラの中心に開いた虚空を確認するように、ほじった。
思わずウッと私は唸る。
あまりにも生理的に受け付けられない光景であった。液体があふれてくるような、粘った音が聞こえる。美咲は快感に震えながら、自分の細い身体抱きしめた。
「あっ、はうっ、あ、あは」
美咲の頬は上気していた。そのバラからあふれてくる愛液とおなじくらい真っ赤。
目は潤うるんでいた。悲しみ故の涙じゃない。快感と感動から思わずあふれ出した液体。唇から涎が垂れていた。もう唇を閉じることすら敵わないらしい。
狂っている、異常な存在が、私の前でくねくねと快感に身体を揺らしている。
「んあっ、はあっ、ひい」
なにが起こっているのだろう。美咲の身体がひときわ大きく震える。小刻みな痙攣を数回繰り返し、やがて満足そうな息とともに私の名前を呼んだ。
「あやぁ……だめだったみたい。みさき、だめだったみたぁい」
私にキスをされたときのような、愛しさに震える声で美咲は告げた。だめなんて言わないでよ。諦めないでよ。
ゆらりと美咲の身体が揺れる。そしてなんの前触れもなく、美咲の血に染まった右腕が、彼女の後方めがけて伸長した。突然の豪風に私は目を細める。
音速とも思える勢いで伸びていくその腕は、彼女の額を撃ち抜いた男の腹部へ食い込んでいった。鈍い、骨が砕ける音と、声にならない悲鳴が微かに聞こえ、男の身体が廊下の端っこまで突き飛ばされていく。男は十メートル以上空中をさまよった。
ドシャッ、とスイカが割れたような、みずみずしい様で硬くもある音が聞こえる。男は、壁にぶつけられて動かなくなった。壁には血が飛び散り、後頭部から血が流れている。もう、生きてはいないのかもしれない。余りにも一瞬だった命の終わりに声は出なかった。
美咲はそこでようやく男を振り返った。伸びた腕をゆっくり戻しながら、男の方へ歩いて行く。私から、遠ざかっていく。いやだ。舌なめずりをする音が聞こえる。そっちにいっちゃだめだ!
「だめ、行かないで!」
大きく叫んだ。喉が張り裂けそうなほどに。身体が恐怖で震える。心臓が爆発しそうなほど動悸が速くなった。息が詰まる。
美咲は足を止めた。でも、また嬉しそうな声で、私に語りかけてくる。
「あやぁ……みさきは、やっぱり、だめだったよ」
美咲が振り向いた。もう、その顔は人のものでは無かった。もはや、この世のものでもない。漆黒の肌、赤い瞳。機械のようにカタカタと震える身体。私は心臓を握りつぶされているような恐怖で、言葉が出なくなった。そして、足も動かない。
「あやが教えてくれたこと、覚えてる。でもね、みさきには、どうしても我慢できなかった」
私の隣に、いつの間にか美咲が立っている。動いている姿すら、視認することが出来なかった。遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。
「みさきはね、あやが好き。大好き」
美咲の手が、私の頬を撫でる。冷たかった。
「だから、殺すね」
胸に、鋭い感触。ドンッと、身体を振動させるほどの衝撃。私は自分の胸元に視線を下ろした。そこには黒く変色し槍のように形状を変えた美咲の右腕があった。私の身体を貫いている。
冷たい感触が身体の芯深くまで伝わってきた。美咲の手は、もっと暖かかったのに。
嘔吐するように吐き出した液体は、彼女を酔わせる私の紅色。口の中に鉄の味が広がる。
そこで、意識はゆっくりと、常闇へ落ちていった。
私の命が何処か恋のない無の世界へと沈んでいく時も、美咲は恋する乙女のように、笑っていた。いや、彼女は、れっきとした、恋する乙女だと思う。
破壊は、彼女の愛なのだ。
ああ、美咲、あなたと、もっと恋をしたかった。
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作者のオジギソウです。
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この物語は10万文字を超える長編となる予定です。今後とも、よろしくお願い致します(。ᵕᴗᵕ。)