高校1年・4月その2
5時間目の授業というものは満腹感も相まって非常に眠気が強い、というのは世の常だろう。
僕も中学校まではそう思っていたし、実際のところ、弁当を食べた後に涼しい風が吹き込む教室でじっと座っているというのは苦行に等しい。
ただ――現在、賢木高校1年A組の5時間目は熱気に包まれていた。
「『つまり!この「風吹きぬべし」の「ぬ」は!?』」
「強意だぁぁぁぁ!」
「『よくできましたああああああ』」
異様な熱気に顔が引きつる。
現在、5時間目。教科は古典。
乾先生は今日もふわふわの金色の毛を惜しげもなく晒しながら、ハイテンションに遠吠えをしている。
僕が乾先生と初めて会ってから2週間が経過している。
初めて乾先生を見たとき、僕は周りのリアクションが理解できず、その場は曖昧な笑みを浮かべて乗り切るにとどめた。
だって、教科担当が犬である。
僕は友達にそう言われたら間違いなくそいつの頭がおかしくなったと思うだろうし、ましてやまだクラスメイトとも打ち解けきってはいない頃。
さすがに憧れの高校に入学したものの、ぼっちとして3年を過ごすのは御免である。
それに最初だけなら、僕自身が疲れて訳の分からない幻覚を見ているという可能性も捨てきれなかった。
隣の席に座っていたクラスメイトの隈谷くん曰く「乾先生って超美人だよな。ハーフであの金髪地毛なんだって」とのこと。
ちなみに前の席に座っているクラスメイトの子松さんに言わせれば「ほどよく筋肉質で引き締まった体をしている」らしい。
僕だって健全な男子高校生、スタイル抜群の美人教師と聞いてテンションが上がらないなんてことは無い。
今はたまたま、具合が悪くて変な幻覚を見ているだけ。
だから――放課後になって心が落ち着いていれば、大丈夫。
そう思って職員室に一歩踏み込む。
表向きの用事としては担任の狐田先生に学級日誌を届けに行くため。
メインの目的はもちろん、職員室にいる乾先生を見るためだ。
ふい、と職員室を見渡せば真面目な顔をしてパソコンに向き合っている狐田先生が見える。
糸目をいっぱいに見開いて何事かを作業している狐田先生を呼ぶと、おお、と声を上げてまたにゅうっと笑った。
「ご苦労さん。日直日誌は問題なく?」
「はい。漏れ落ち等はないと思います」
「惜しいなあ。お前も級長をやってみればよかったのに」
けらりと笑う狐田先生はなにくれと褒めてくれる。
それはクラス全体に対してだから僕だけが特別というわけではないのだけれど、やはり褒められればうれしい。
へへ、と鼻の下をこすって、それから元の目的を思い出してきょろりと乾先生のデスクに視線を向けた。
「ん?誰か探してんのか」
「いえ、乾先生を……」
「乾先生?おお、呼んでやろうな」
乾先生!と狐田先生のよく通る声が職員室に響くと高校3年生の先生たちが座っているあたりからひょこりと金毛が覗いた。
「『はあい』」
からり、椅子を引いて乾先生が立ち上がる。
どう見ても“器用に後ろ足で立ち上がった犬”にしか見えない僕の古典担当教員に、また顔が引きつった。
僕の顔色など見えていないのだろう、乾先生は「『狐田先生お呼びですか』」と尻尾を振り振り近づいてくる。
狐田先生もそれを意に介することなく「こいつが乾先生を探していたからな」と普通に会話を続けていた。
眩暈がしそうになるのをこらえ、あらかじめ準備していた「古典を得点源にしたいんですけど」という質問を乾先生に投げかける。
乾先生はそれはそれは嬉しそうに笑うと(これは犬の顔でもわかった。目じりが下がって口角が上がるのだ)質問スペースに行こうかと声をかけてきた。
頷き、先を歩く乾先生のふわふわの尻尾を眺める。
何度見ても――完膚なきまでに犬である。
「『でも嬉しいな。君はA組の授業をしててもなんか顔色が優れなかったから、てっきり私の授業が苦手なんだと思ってたよ』」
質問スペースの椅子に座りながら乾先生は嬉しそうに言う。
その感情を証明するように椅子の隙間からぶんぶんと揺れる尻尾が見えた。
「いや、そういうわけでは……」
まさかあなたが犬に見えているので、ともいえず。
曖昧な笑みのまま乾先生が教えてくれる古典の勉強方法を書き留めていく。
しかし、犬であるということを覗けば彼女の授業は凄まじく端的で、そのうえ分かりやすい。
的を射ているというのだろうか、教えられている量は多くないはずなのにおおよその問題に対応できるような柔軟性がある。
これで周りの人間には美人に見えているというのだから、人気が出るのは必然だろうな、とぼんやり思った。
「ありがとうございました、参考になりました」
「『いえいえ。学年こそ高校3年生を持っているけど、教科担当として関わってるんだからいくらでも頼ってくれていいんだよ』」
良い先生なんだよなあ。
犬じゃなければなあ、そんな気持ちをぐっとこらえて礼と共に立ち上がる。
また質問させてください、と言えば乾先生は「『もちろん』」と吠えて尻尾を振った。
職員室から出ようとしたところで狐田先生が僕に手を振ってくれる。
会釈をして教室に戻ろうとすると座席を立ってこちらに歩いてきた。
「ちょっといいか」
「はい?」
断る理由もないので頷くと、狐田先生は「アー」と言い淀んでから口を開く。
「お前さ、もしかしてなんだけど」
「?」
「ケェーン『こっちでしゃべっても通じるんだよな?』」
ぱかり、口が開く。
今、この人何をした?
乾先生と同じように、動物の言葉をしゃべらなかったか?
僕の反応を見て狐田先生は気まずそうに、それでいてどこか楽しそうに笑う。
「おかしいと思ったんだ、お前だけが妙に乾先生に距離を置いているように見えたからな」
「あ、あの、きつねだせんせい……?」
にゅう、狐田先生がいつものように目を細めて笑う。
まるで狐のように笑った彼の体がするすると溶け、気づけばそこには二本足で立つ狐田先生と同じくらいの大きさの狐がいた。
「『この姿でもお前には言葉が通じてるんだろう?』」
狐田先生と同じ声で狐が喋る。
くらり、脳みそがキャパオーバーを起こした気がした。
「『あっ……おい!』」
視界が暗転する。
慌てたような狐田先生が人の腕を伸ばしてくる。
ああ、起きたら自分の部屋で夢落ちだったとかいう展開にならないかなあと思いながら意識を手放した。




