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県立賢木高等学校の愉快な毎日  作者: 蒼井ふうろ
1/2

高校1年・4月

4月9日。

僕は希望に胸を膨らませながら校門をくぐる。

県立賢木高等学校。

読みにくいこの高校名はサカシギ、と読む。

県下屈指の進学校であるここに入学することは、僕が数年単位で掲げていた夢だった。


○●○●○●○●○●○●○


小学校も高学年になり、面倒な先輩もいない。

何の目標もなく、流れるままに日々を送っていた僕は、ある日家族と買い物に出かけた先で入った本屋で“彼ら”を見た。

漆黒のブレザーに白のシャツ、紺色のネクタイ。

ともすれば地味に見えるその制服をピシッと着こなしたその二人組の男子生徒は、僕なら寄り付きもしないような難しい参考書の並んだ店の前でしばらく何事かを相談している風だった。

左の参考書と右の参考書を見比べて、「このテキストのほうがイヌイ先生は好きそう」「たしかに」と言っては棚に戻し、新しいテキストと見比べる。

当時の僕は勉強なんてしたくなかったので、変わった人たちもいるなあ、と言うくらいの認識だった。

漫画の単行本を手に取りながらそちらを眺めていたら、二人組のうちの一人がふと顔を上げた。


ばちり、目が合う。


僕と目があった彼は、人懐っこそうな表情をさらに緩めて微笑んだ。

同性でもどきっとしてしまいそうなほど柔らかに笑んだ彼は、隣にいるもう一人に何事かを囁く。

もう一人も僕のほうを見る。

こちらは先ほど振り返った男子生徒より、精悍な顔つきであった。



「ねえ、そこのボク」

「え……」

「お兄さんたち、ちょっと悩んでるんだけど。助けてくれないかな?」



だめかなあ?と顔の前で両手を合わせて悪戯っぽく笑う。

僕はじっと見ていたことに若干後ろめたさに似た感情を持っていたので、逡巡した後頷いて彼らに近づいた。



「どーしたの」

「僕たち今、勉強用の参考書を選んでいるんだけどね。どちらのほうが『カワイイ』と思う?」



ええ?と首をかしげる。

勉強用の参考書を選ぶのに、『カワイイ』が必要な理由が分からなかった。

そもそも『カワイイ』はクラスの女子が使っている単語で、僕は自分より年上の男子がその言葉を使っていることに強い違和感を覚えたのを今でも覚えている。



「……俺たちの先生がな」



黙っていた精悍な顔つきの男子生徒が口を開く。

クラスの友達とは比べ物にならない、どちらかと言えばお父さんたちが出すような低い声にびっくりしている僕には気にも留めず言葉をつづけた。



「古典――古い日本語を学ぶ授業の先生なんだが。女の先生でな、『カワイイ』テキストだと楽しそうに教えてくださる」



そう言われて合点がいく。

確かに女子は『カワイイ』が好きだ。そして先生が楽しそうに教えてくれる授業は僕も受けていて楽しい。

その二つを組み合わせたら、女の先生が『カワイイ』テキストで楽しそうに教えてくれることがこの2人の為になるのだということはよく分かった。



「どうかな、ボク。『カワイイ』のはどちらだろう?」

「うーん」



必死に頭をひねる。

僕はクラスで女子が『カワイイ、カワイイ』と言い始めると面倒だなあと思うばかりで、『カワイイ』のなんたるかを知っているわけではない。

けれど、なんとなく会話の端々に滲むものやテレビで取り上げられる内容から推察してみる。

別にそこまでする義理はなかったのだけど、目の前の二人があんなにも真剣だったのだから自分も適当ではいけないだろうと思ったのだ。



「こっち……こっちのほうが、字が丸っこくて、『カワイイ』」



指差したテキストに二人が顔を輝かせる。

人懐っこいほうはにっこりと、精悍なほうはうっすらと笑って口々に僕に礼を言ってくれた。



「ありがとう、これを買うことにするよ」

「……助かった」

「ううん、いいよ」



テキストを二冊買い物かごに突っ込むと二人は手を振ってレジのほうへ進んでいく。

その背中は僕が知っている誰よりも大人びて見えた。


勉強に関することだったのにすごく楽しそうだった。

僕にとっての勉強はやらされるもので楽しくないものなのに、あの二人は楽しいと思っているようだった。

なんでだろう。

そんなに、『カワイイ』が好きな『コテン』の先生の授業って面白いのかな。

僕もあの二人のいる学校に行ったら、あんなふうにかっこよくなるのかな。

いろいろなことを考えているうちに母親が寄ってきて、「何見てたの」と聞いてきた。



「おかーさん、黒色のスーツみたいなのに紺色のネクタイしてる学校ってどこ?」

「ええ?いっぱいあるけど……ああ、このあたりなら賢木じゃないかしら」

「サカシギ……」

「頭のいいお兄さんたちが行くところよ。勉強が好きな人向けよね」



母親はそのあと、あなたも勉強しないと、と続けようとしたという。

それよりも早く僕は母親の手を握って叫んだ。



「僕もサカシギに行きたい!おかーさん、参考書買って!」


○●○●○●○●○●○●○


それから早5年。

僕はこうして賢木高校の一年生として在籍することになった。


勉強嫌いだった僕が突然勉強するようになったことに驚いた両親は、最初すぐに飽きると思っていたらしい。

しかし僕はこうと決めたことを曲げるのは嫌いなたちである。

一度言いだした手前、もう撤回は許されない。

僕は死に物狂いで勉強した。

クラスでドべを爆走していた国語の成績はみるみる上がった。

高校受験を目前に控えたころには国語が僕の得点源になっていた。

それにはあの二人組が楽しそうに話していた『コテン』を受けてみたいという下心が関連していたのだけれど、まあ結果オーライというやつだ。


そわそわとした気持ちのまま示されるクラスに移動する。

僕は1年A組。担任は狐田先生というらしい。

教室に入ってきた狐田先生はその名の通り狐のような目を楽しそうににゅうっと細めて僕らを見渡すと「入学おめでとう!」と言った。



「君たちを担当する狐田です。せっかく入ったうちの学校、とことん楽しんで、そうして受験まで全力で走りきっていこう!」



見た目に似合わないくらい大きなよく通る声の狐田先生に、僕らA組の新米クラスメイト達は顔を見合わせ、そうして照れたように笑う。

中学校で何度か見た居心地の悪い笑いではない。

ちょっと恥ずかしいけど悪くないね、よかったね、という安堵の色が濃い笑み。

みんなが少しずつ不安な中で狐田先生という担任の先生に確かに安心している。



「さあ、まずは入学式だ。変わったことは何一つない入学式だが、寝るんじゃないぞ!」



はは、クラスの中でぱらぱらと笑い声が上がると狐田先生はまた嬉しそうににゅうっと笑った。


○●○●○●○●○●○●○


入学式はつつがなく終了した。

それこそ狐田先生が言った様に変わったことは何一つなく、だがしかしこれから始まる高校生活に夢を抱く僕たちからすれば非常に厳かな式だった。

帰り道、母親は「あんたが賢木に行くって言ったときはどうなるかと思ったけど」と前置きをしてから言った。



「式も良かったし担任の先生もいい感じでよかったわ」

「うん」

「しっかり勉強するのよ。賢木は学校のレベルが高いんだから、うかうかしているとすぐ勉強についていけなくなるかも」

「大丈夫だよ」



母親の心配ももっともだが、僕はそれを笑い飛ばす。

よほどのことがない限り中学卒業までの期間は高校内容の予習に勤しんでいたし、高校から提示される宿題も特に問題なくこなすことができていた。

スタートダッシュは完璧、まさにラ・ヴィ・アン・ローズ。


○●○●○●○●○●○●○


そんな風に余裕をかましていたから罰が当たったのかもしれない。

4月16日、入学式から一週間後。

僕が何よりも自信を持って臨み、そして楽しみにしていた初めての古典の授業でそれは起こった。

担当の先生が女性ということもあり色めき立つ教室のドアが静かに開いた瞬間、僕は一瞬呼吸が止まった。


さらさらの金色。くりっとしたこげ茶色の瞳。

それだけ聞けば、絶世の美女が入ってきたと思うだろう。

そうではない。


教室のドアを開けて入ってきたのは、どう見ても“ゴールデンレトリバー”だった。

断っておくが、比喩ではない。

犬。

完膚なきまでに犬である。

混乱する僕をあざ笑うかのように教室中が歓声に包まれる。

クラスメイト達が「めっちゃ美人じゃん!」「やべー当たりだ!」などと騒ぐ声に“ゴールデンレトリバー”はすうっと息を吸うような動きをした。



「ワンッ!『しずかに!』」



犬の鳴き声と、ハスキーな女性の声が重なって聞こえる。

呆気にとられる僕と同じように騒いでいたクラスメイト達が口をつぐんだ。

僕は冷や汗をかく。

まずい、僕以外誰もこの状況に突っ込まないつもりだ。

……というよりは。



まるで、()()()()()()()()()()()()()()()()()ようだ。



焦る僕、静かになったクラスメイト。

教室中をぐるりと見渡した“ゴールデンレトリバー”は口を開く。



「『初めまして、貴方たちの古典を受け持つイヌイです』」



そうして(理論はまったくわからないが)前足でチョークを持つと黒板にさらさらと文字を書く。

乾もも。

僕の中学時代の先生たちとは似ても似つかないほど美しい文字で書かれた名前はいたって普通のもの。


僕にはその名前に、聞き覚えがあった。

あの日、あの二人組が言っていた名前。



――このテキストのほうがイヌイ先生は好きそう。



くらり、めまいがする。

消えそうになる意識をなんとかとどめながら、僕はひきつった顔で笑った。


拝啓、あの日のお兄さんたち。

僕の目には、あの日お兄さんたちが嬉しそうに話してくれた古典の先生が、犬に見えます。





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