ぼくらは正しく歪んでる
誰もが持っている心の中の自分と表の自分が生む矛盾。
そんなものをテーマとした作品の導入部分です。不思議な図書館の唯一の司書のぼくと図書館に選ばれた利用者達。そんな彼らは一体どんな矛盾を抱えているのでしょうか
淡々と日々の生活を送るぼく、泣き虫で迷子になる小さなカエルちゃん、お淑やかなリボンさん、物知りの辞典先生、頼りないグラスさん、そして自由奔放無気力の物書きさん、姿の見えない館長。
図書館司書が本を盗んだ犯人を不思議な利用者達と関わりながら真相に近づいていく話。
※本当の本当に導入部分だけです。気が向いたら書く話なので味見程度の感覚で読んで頂ければと思います。
年月が経ったカビと日焼けた紙が出す、胸をすっと通り抜ける香り。
別に人がいないわけでもないのに動くことのない気配。
紙同士が擦れる音だけが響く背の高い書架。
図書館や図書室の印象と思い浮かべるものはそういったもので、おおよそどこも同じである。
少なくともぼくにとっては、学校の図書室と市立図書館の印象に違いはない。強いていうなら利用者の年齢層だろうか。
でもこの図書館だけは違った。
ぼくは図書館という施設が好きで、そのせいでよく根暗だなんて言われたのだけどわざわざ遠方の大きな図書館に行ったりあえて小さな図書館に立ち寄ったりそういったことをよくしていた。
この図書館だけは、今まで利用してきたどの図書館とも違う。
どこが違うのだと言われれば色々と上がるのだけれど、最も特殊なのはこの図書館の利用者は『図書館が選んでいる』ということだ。
つまり、図書館に選ばれていない人間には一生訪れることの出来ない場所だ。
ぼくの前に図書館の扉が現れたのはそれほど遠い過去のことではない。高校一年生の夏、約半年前のことだ。
だというのに、不思議なことにぼくはここの司書らしい。
何故かなど聞かれても困る。ぼくにだってわからないから。わからないものは知りようがない。
じゃあ何故司書ということを知っているのかというと、ここの利用者達が言うのだ。
「こんにちは、司書さん」と。
さらに不思議なことにぼくはこの挨拶に疑問を持たなかった。
不思議な図書館の唯一の職員はぼくに決まった。
「こんちわ、司書さん」
なんとまあ、妙なところから声が降ってくるものだ。
そう思いながらぼくは手元に目線を落としたままにする。
「こんにちは、物書きさん」
物書きさんはおそらくぼくの頭上にいて、おそらくぼくを見下ろしていて、おそらくスカートを履いているのだろう。
つまり上を見上げればぼくには死あるのみだ。
「司書さんは何してんの?仕事?」
「そんなところです。物書きさん、よければ降りてきてもらっていいですか?本がしまえないので」
しょうがないなーとやる気をことごとく欠如した声で言いながら、彼女は器用に書架の梯子から飛び降りた。
彼女がすとんと地面に降りてくれたおかげで、ようやくぼくは抱えている本達を順番に書架に戻すことが出来た。
これはぼくの仕事であって図書館の仕事ではない。
この図書館でぼくの司書としての仕事はほとんどない。ここの利用者はみんな問題を起こすことはないから、注意喚起のチラシを作ることもしなくていい。
けれどそれだけだとぼくの気が収まらなかったので、利用者の貸出カードの整理とか返却された本の陳列とか新しく入った文庫の紹介のポップを書くだとかしている。
もう一度言うがこれは図書館の仕事ではないのだ。ぼくにとっての仕事なだけであって。
「司書さん、さっきカエルちゃんが探してたよ。また迷子になっちゃってたから、放っておいたけど」
「カエルさんが。なるほどわかりました。あと迷子になっていたら助けてあげてください、泣いちゃうからあの子」
「だっておろおろしながら、ちっちゃーい声で司書さん探しているの可愛いんだもん」
「Sかあんたは」
おっと、思わずいつもの口の悪さが出かけてしまった。
カエルさんというのはこの図書館の利用者の一人だ。
何故カエルかというと、来た道を帰ろうとすると必ず迷うから。そして彷徨う時間が長くなると涙目になって、帰るーっと言うのだ。
ちなみに命名はおそらくわかると思うが、物書きさんだ。
物書きさんの名前は単純にいつも何かしら書いていることから、ぼくがこの図書館に来る前からいる利用者さんが付けた名前だ。
確かに、彼女はいつも手帳とペンを持っていた。そして、こちらから話しかけない限り永遠と執筆にあたる。
向こうがこちらを気に入ってくれないと話しかけても返ってくることは稀で、気分屋で声は冷めている物書きさんだが、そのペンだけは雄弁だった。
「カエルちゃん迎えに行くの?」
「ええ。物書きさん、この間みたいに執筆がのり過ぎて参考資料に書き込むことはやめてくださいね。あのあと、とても館長に怒られたので」
「おっ、館長に会えたの?」
途端にずいと顔を突き出してきた。びっくりする。
顔には出さないが(というか出ないが)、ぼくは実はかなりびびりであったりするのだ。根暗でびびりで、という中々非リア男子条件が揃っているが、そんなことは今は関係ない。
ここも図書館なので館長だってもちろんいる。
が、当然普通の館長ではない。
「会えるわけ無いでしょう。電話とメモでお怒りの言葉を頂戴しましたよ」
「なんだ、いつも通りかあ」
無気力物書きさんが興味を示す限られたものの中で、館長は特に上位に食い込んでいる。
利用者はもちろん、司書であるぼくにすら姿を現さない謎の館長。
ぼくにだけ、唯一コンタクトチャンスは与えられているがそれは電話といつの間にかロビーのカウンターにメモが置いてあるくらいだ。
電話だって、ボイスチェンジャーかなにかで明らかに肉声ではない。
つまり誰も館長のことは知らない。
「そんなに館長に興味あるんですか」
「えー。だって面白いじゃん。姿の見えない館長って、なんかミステリーかホラーに使えそう」
「ネタにするのは結構ですが、度が過ぎるとぼくが迷惑するのでやめてください」
ぼくの必死の願いも、考えとくーのぬるい返事だけで大変心許ない。というか信用性がゼロだ。
館長なにげに怒ると怖いんだよなあ。
できればお叱りの電話は頂戴したくない。
胃が痛みだしたところで、遠くの方から小さい子供の泣き声がこだましてきた。
この声は…。
「カエルちゃん、この辺りに来てるみたいだね」
「そのようですね。それじゃあ失礼します。…ああ、いつも通り閉館時間は守ってくださいね」
「わかってるよ」
さっさといけと手で払われて彼女は地面に座り込んだ。
脇には既に数冊本が積み重なっていて、膝の上には分厚い手帳と握られたペン。
どうやら物書きモードに入ったらしい。
「それでは、心休まるまでごゆっくりどうぞ」
いつもの言葉を告げ、ぼくはその書架をあとにした。
さて、カエルさんはどこにいるのやら。
このどこまでも続いている書架の海の如し図書館。
終わりは見えず、始まりもなく。暖かい色と懐かしい香りが満ちる場所。
そこがぼくと、そしてた扉に選ばれた利用者達の図書館だ。
小さい子供の体力は底なしだというが、それは高校生にも当てはまると思う。
特に青春真っ盛りの謳歌しまくりの彼らは。
(阿鼻叫喚…いやちょっと違うか。活発溌地?)
所謂パリピとかそういうやつだろうか。よくわかんないけど。
というか、最近の若い子ってほいほい造語生み出すよなあ。
「その発想力を勉強に回せばいいのに…」
「なに一人でぶつぶつ言ってんの、お前」
「前島」
いつの間にか隣に滑り込んできた前島は、ぼくが無心に貪っていたポッキーをさらりと奪った。
それ、最後の一本だったんだけど。多分こいつ、わかってやったんだろうな。
幼稚園からの腐れ縁、前島聖はなんの因果か常に同じ学校同じクラスとなり今もこうして自然と一緒にいる仲だ。
つまりぼくと一緒にいるということは、彼もあっち側ではないということだ。
完全にぼく側(根暗側)であるのかというと、それも違うのだけれども。
「にしても元気だな、岡野とその他大勢」
「その略し方、言い得て妙だな」
「だろ」
午前の授業が終わり昼休み。
午前中の授業を生き延びた後の束の間の休息だ。
他のクラスメイト達は二、三人でまとまって穏やかに弁当を食べたり男子なんかは端末でゲームをしたり、一人で席につき読書や音楽を聴いている人もいる。
高校の昼休みってそんなもんなのかと拍子抜けしたのは、随分前のことだ。
もっと、岡野達みたいに大騒ぎしてうるさくて一人でいるとなにかと言われるような場所だと思っていた。
いやもしかしたら他のクラスとか学年はあるのかもしれないけれど、少なくともぼくのクラスでは騒いでいる人間の方が稀だった。多分、特別進学クラスっていうのもあるんだろう。
それでその稀の分類に入るのが、岡野と前島曰くその他大勢というわけだ。
岡野という男子はなんというか猿みたいなやつで、うるさいし図体がでかい上に運動能力もいいからそれなりに男女平等に取り巻きがいた。だからその他大勢。
うちのクラスで浮ついた人間は大体岡野の傍にいるかそうじゃなくても休日に遊びに行くとか、交流を深めている。
ぼくには少し苦手な分類だ。
カッコつけているように感じると思うけど、ぼくには本当にわからない人種なのだああいうのは。
「席座れないならそういえばいいのに」
「嫌だよ。ぼくが話しかけるとあからさまに嫌な顔するし、そもそもぼくが話したくない。だからお前の席借りてるんだろ」
「お前、顔に似合わず頑固だよなー」
「別に。うまくいかない人間関係なんてどこにでもあるだろ。そういうのは、接触しない無関心が一番適切なんだよ」
先ほど、岡野達を浮いているといったがクラスで浮いているのはぼくも同じだった。
ぼくは、自分でいうのもあれだが人付き合いがうまくない。
前島は小さい頃から一緒にいるからわかっているけれど、他の人から見たらとっつきにくい人間なのだ。
根暗故に喋るのが苦手で必要最低限しか言葉を交わさないし、運動もさして出来るわけでもないし、表情筋が死んでいるせいで大したリアクションもない人間なんて深く関わらないと理解できないだろう。
そしてぼくは人と深く関わる努力なんてしていない。
だから浮く。そういうことだ。実に単純明快。
(クラスで浮くといえば)
そっと顔を後ろへ向けた。
窓際の前島の席から三つ後ろ。一番後ろの席に座る、ミディアムヘアーの女子。
横澤光希。
彼女もうちのクラスでは中々浮いた子だった。
いつもやる気がなくて、無気力で話しかければそれなりに会話をしてくれるけれどそれ以外は音楽を聴いているか寝ているかの二択。
弁当は友達と食べているから、友達がいないわけではなさそうだ。
頭がよくて、先生達にも頼られて信頼がある。部活は入っていないらしい。
そんな彼女は今、ヘッドフォンをして遠くを見つめていた。
(頭がいいといえば)
このクラスにもう一人、頭がよくて先生の信頼が厚い人物がいる。
その子は横澤とはまったく逆の状況にあっていた。
「ねーあいちゃん、この間買ったストラップ見てー」
「なになに?猫?可愛いね」
「あいちゃーん、次の時間の宿題…」
「いや、私も適当にやったよ、つか答え丸写し」
「とかいいつつ、あいちゃんは真面目に解いてるんだよなぁ」
ずるーい、と女子特有の高い声が教室の隅から聞こえてくる。
中心にいる少女はクラスメイト達と会話に花を咲かせている。
あいちゃんと呼ばれているのはうちのクラスのもう一人の秀才、相田叶。相田だから、あいちゃんというあだ名だ。
クラスのみんなからあいちゃん、あいさんで呼ばれている彼女は横澤と同じかそれ以上に勉強ができてけれどそれをひけらかさない(別に横澤がそうであるというわけではない)。
運動はそれほどできなくて課題を時々答え丸写ししてくるなど、それなりに不真面目な部分もあるから勉強が不出来な人も近づきやすく聞き上手もあってよく相談に乗っているところを見かける。
絵に書いたような優等生。
まるで小説の中にしかいないような人間だ。
正直にいうとぼくは、相田叶というクラスメイトに苦手意識を持っていた。
なんというか、明るくて社交的で常に穏やかな相田にどこか違和感を感じてしまうのだ。
前島に言っても、そうか?と特に何も感じていないような答えが返ってきたからそう思っているのはぼくだけだろう。
そうこうしているうちに予鈴がなる。
もうすぐ午後の授業が始まってしまう。
散り散りになってくれた岡野達が居座っていた席に着席して教科書とノートを出す。
英語かあ…。寝ちゃいそうだな。
ぼくの頭の中にはもう、二人のことなんて綺麗すっぱり消え去っていた。
対人関係なんてそんなものだ。
別ものに意識を移せばもうそこに彼らはいない。
いなくなって当然なんだ。所詮他人なんて。
図書館全体がにわかにざわついている。
何事だろうか。
この図書館は利用者が特殊なだけあって、規模の割に利用者の数は少なかった。
そんな場所が騒がしいなんて早々あるものじゃない。
ぼくは音の発生地を耳だけを頼りに辿って、いくつもの棚の波を乗り越えた。
(あれ、この道は…)
この道順は記憶に間違いがなければ、関係者以外は立ち入りが制限されている区域の近くだ。
ぼく自身もその書架に行ったことは数回しかない。
それも館長から珍しい、仕事の指示で赴いただけで本来ならたどり着くことすらできないはずだ。
それが何故、今。
「ああ、よかった。司書さん!」
「グラスさん。何があったんですか?」
向かいからひょろっとした青年がほっとした顔で現れた。
彼はグラスさん。
眼鏡をかけていて、背が高く線が細い見るからにもやしっ子な人だ。
その見た目と違わず、いつもおどおどしていて恥ずかしがり屋な人で本の場所を聞かれた時も目的のものを聞き出すのに時間がかかった。
「向こうの棚が、ひどく荒らされているんだ。いま辞典先生が現場を見てくれているんだけど…」
「わかりました。案内してもらえますか?」
棚が荒らされているとは穏やかではない。
グラスさんの後ろを早歩きでついて行き(残念ながら彼とぼくではコンパスの長さが違う)、現場に到着するとなんと利用者のほとんどが集まっていた。
「司書君。君が来てくれてよかった。私には少し手に負えないことのようだ」
「先生、この状態はいつから?」
「さあ…。私も先ほど来たところなんだ。カエル君の泣き声を聞きつけて来た頃には既にこの有様だった」
辞典先生はかけていた眼鏡を外して眉間を揉んだ。
この図書館一の物知り、辞典先生は大体五十歳前後であるだろうに体型にたるんだところは一つもなく、けれど柔らかい雰囲気でいつも接してくれている。
その辞典先生が難しい顔をしているのだから、余程奇怪であるのだろう。
「第一発見者はカエルさんですか?」
「…ひっく……ひっく……そぅ…です…」
カエルさんは可哀想に、驚きすぎたのかいつもよりも倍の量の涙をボロボロと落としていた。
小さいカエルさんはリボンさんの腕の中にすっぽりと収まり、彼女に頭を撫でてもらっていた。
リボンさんは淡い色の長い髪で顔に影を落としながら、哀れなカエルさんを穏やかに慰めている。
「カエルちゃんの泣き声に辞典先生が気づいて、たまたま一緒にいた私もついてきたんです」
カチューシャ代わりの白いリボンを揺らしてリボンさんはそう言った。
その声はやや強ばっていて、お淑やかで優しいお姉さんであるリボンさんも混乱していることがわかる。
ぼくは一旦この場を落ち着かせることを優先させて、皆をロビーのカウンターに戻るように指示を出した。
全員がそれに従って、誰もいなくなってから改めて現場を見下ろす。
なんともまあ、酷い有様だった。
左右の本棚から本が手当たり次第に引き出されぶちまけられている。中には開かれてページがぐしゃぐしゃになっているものもある。
ドタバタと本達を踏みつけたのか表紙やページに泥みたいなものがところどころついている。
背表紙にはなにかでこすったのか、黒い跡が残っていて、そういったものは全部床に放り投げ出されていた。
「これは…」
「あちゃー。結構酷いね」
「は!?」
突然の声にぼくは心臓が飛び出るかっていうくらい、大きな声が出た。
振り返るとなんともないかのように物書きさんが現場を覗き込んでいる。
びっっっっくりしたぁ…―
「…なんでここにいるんですか」
「私、今来たところだからさ。みんなロビーに集まってるから何事かと思って司書さん探してたの」
「皆がロビーにいるのを見たなら大人しくそこで待っていてくださいよ…」
「てへっ」
おい、そんな仕草したって可愛くないからな。
なんて本音は飲み込んで胃で消化する。この人に突っかかると余計喜びそうだ。
「いいです、もう。ぼく達もロビーに戻りましょう」
「え、もういいの?」
「ええ。仕事が増えるみたいなので一度皆さんに説明しなければ」
納得してなさそうな物書きさんを引きずって、ロビー前まで戻ると皆が勢いよくこちらを向いた。
カエルさんは…、よかった泣き止んでいるみたいだ。
依然不安で泣き出しそうな顔はしているが、泣いていなければまともに会話ができる。
「司書君どうだったかね?」
皆を代表して辞典先生が、眼鏡をかけ直しながら問いかけてくる。
「今の状態ではなんとも。荒らされた本の修復と現場検証はぼくが行いますので、皆さんはあの場所には近づかないでください。それと―」
そこから先を告げようとした時だ。
ぼくの言葉をかき消して、カウンター備え付けの電話がけたたましく鳴り出した。
まさか。
そんな思いを胸にぼくは震える手で受話器を取る。
この電話にかけてくる人物はただ一人だけ。だとすれば。
全員が固唾を飲んで見守る中、そっと耳に受話器を当てた。
「ごきげんよう、どうやら事件は起きたようだね」
「館長これは…」
向こうから聞こえる機械の声。
いつもはなんともないのに、今はとても不気味に感じる。
背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、ぼくは思わず言葉を区切った。この先、何を言われるかなど予想がついているかのように。
「私の図書館から、本が一冊盗まれた。決して開いてはいけない、禁書の一冊だ。盗んだ人間を探し出し、本を奪還、修復せよ」
それはぼくだけに聞こえる、物語が始まる幕開けの旋律だった。