殴った拳のほうがいたいなんて綺麗事だと思う。
人は練習したことをそのまま本番で発揮できる訳じゃない。
まして彼女は初心者だ。緊張や不安、未知への怯え、あるいは単純に空気が合わないなんてこともあるかもしれない。
だから私は気づけなかった。
今になってみれば確かに予兆はあったのだ。
リハーサルの前辺りからミサキが周りの評価を気にするようになった。
それまで無邪気に練習に打ち込んでいた彼女を考慮すれば明らかに違和感のある変化。
それでも本番を前にすればナイーブになるのは珍しいことでもなかったから………
だから私は気づけなかった。
ライブが始まってそれらの違和感が形となって現れてからも、それは緊張のせいだと思っていた。
立ち姿だけで相手の心を奪うその存在感が多少薄れているように感じてはいた、それはライブを前に興奮しているせいだと思いこんでしまった。
恐らくメンバーの皆がその異変に気付いたのは、曲が流れミサキのパートに移った時。
一声で人心を鷲掴みにする魔性の声が発せられることはなく、代わりに聴こえるのは上手に歌う綺麗な声。
明らかレッスンとはかけ離れたクオリティ、だが本番でそれを指摘する訳にはいかずライブは続く。
想定外の出来事なんて本番ではそこかしこに転がっている、大事なのはトラブルを無くすことではなくより良い舞台を創ること。
体調の変化か場の雰囲気に呑まれたのか、ミサキが本調子ではないならその分メンバーでフォローしなければならない。
とはいってもミサキの本来の実力を知らない人間からすればそのライブは順調そのものだろうから、トラブルというのも少し違うかもしれない。
私は酒を嗜む年齢ではないがマネージャー♀に言わせれば最高級のワインのようなものだろうか。
中身が入っていないことに戸惑う私達と美しいグラスを観賞する観客とでは現状の認識は当然異なるのだから。
実際普段のミサキを知らなければ今の彼女の歌声も充分及第点ではある。
雷のような衝撃はなりを潜めているが、良く言えば軽やかな歌声とも言えるだろう。
正直、無地の衣類のようなその声は合わせる立場から言えば格段に楽でもある。
全てを感動の渦に呑み込む圧倒的エネルギーに惑わされることもなく、まるで………………そう、まるで私達が歌い易いように誘導するような……………
…………………………ぅわぁ…………気付きたくなかったなぁ。
ねぇ、ミサキ?
なんで、私達より目立たないように手を抜いて歌っているの?
小指から拳を握りしめ感情のままに腕を振り抜く。
初めて人を本気で殴った。
骨の擦れる鈍い音が響く。
もっとすっきりとするものかと思っていたけど、そんなことは全くなかった。
殴った手はずきずきと痛むし、不快感は増すばかりだ。
それも当然かもしれない、私が殴ったのはストレス発散の為のサンドバッグなんかじゃなく恋人だった女の子なのだから。
「…………ミサキ、私は貴方のライバルにもなれていなかったのね………」
きっとこれは私のせい。
いくら才能に溢れていても、彼女はまだ特別な偶像じゃなくて未加工の原石だと忘れてしまっていた私のせい。
あまりにも彼女の完成度が高かったから気づかなかったのか、それとも嫉妬で目が曇っていたのか。
彼女が私を気遣っていたと気づけなかった私のせい。
いや、ことここに至ってそんな偽りを重ねても仕方ない。
本当は気づいていた。
彼女に人を押しのけてでも前に出たいなんて思いはないことも、自分が他人に与える影響力がどれほど大きいかわかっていないことも。
きっと彼女が大事にしたかったのはアイドルとしての成功より何気ない日常の幸せなのだろうし、今日のことだって何かしら原因があって私達への遠慮が形になってしまったのだろう。
だから鮮烈になるはずだった自分のデビューだって簡単に捨ててしまえる。
ああ、腹が立つ、腹が立つ、腹が立つ。
自分が求めて止まない能力を簡単に捨ててしまえるミサキにも、何よりも、そのことに気付いていながら見て見ぬふりをして先輩としての矜持を保ってしまった自分に腹が立つ。
火のような羞恥が胸を焼く、燃え盛る後悔が心臓を焦がす。
挙げ句の果てが先ほどの鉄拳だというのだから情けないを通り越して笑ってしまう。
「………ごめんなさい、少し、頭を冷やしてくる。…………ナツキ、その、ミサキの顔、腫れないように冷やしてあげて…」
そこまで口にして私は逃げるようにロッカールームを後にした。