グッドモーニング、マイハニー
サーカス団員の子供は転校が多い。
友情を育み気の合った同級生とも数ヶ月から早ければ数週間で別れることになる。
別れのときはみんな連絡すると言ってくれる。
実際別の街に移った後はよく近況が届く。
次の街に移った後もたまに連絡がくる。文化祭や体育祭の様子を伝えてくれる。
次の街、また次の街、そうしてまた別の街。
伝わることのなくなったメールアドレスだけが積み重なる。
その場限りの友情、一瞬の親近感。
昼と夜との僅かな境目の刹那に映るだけの景観。
いずれ忘れ去られる自分を暗示しているように感じて蒼井夕陽は自分の名前が嫌いだった。
「アイドルになりたい」
高齢を理由に両親が引退した後、なにかしたいことはないかと尋ねられたときにそう答えたのはきっと誰かの心に残り続けるその存在に憧れたからだろう。
目を覚ます。
久し振りに子供の頃の夢を見たせいだろう。内容は思い出せないけど何だか懐かしい。
ん、軽く身体を伸ばして起き上がる。そしてランニングに向かう前に米を研いで炊飯器にかけて行く。
彼女と暮らすようになってから増えた日課の一つだった。
走る、走る、走る…………ランニングをしているときって余計なことを考えることが出来なくて好きだ。
とりとめのない考えが浮かんでは消えていく。自分の抱えている悩みが大したことないのだと思わせてくれる。
「ただいまー」
扉を開けてからただいまと声をかけるのも新しく出来た日課だ。
アイドルになる前は両親とも帰りが遅く、確実に家にいるだろう誰かに声をかけるということはなかなかなかった。
もっとも同居人がこの時間に起きることはないので返事は返って来ない訳だが。
シャワーを浴びてから朝食の準備に取り掛かる。
一応ミサキに声をかけてみたが「……………あと十五分」という予想通りの答えが返ってきたので放置する。
いつか食事の用意が出来ても起きてこないことがあったら、あの胸を揉みしだいて起こしてやろうと心に決めているのは内緒だ。
豆腐を細かくカットして出汁に入れ、味噌をといて火を止める。
グリルに塩鮭を入れてから、卵をボールに三つ割りときほぐす。
玉子焼って一人で食べるには量が多いからいままで焼けなかったんだよね。
「よっ、と。おお、身体は覚えてるもんだね」
同居人の好みに合わせて焼いた甘い卵焼きをカットして皿に盛り付ける。
後はなにか青いものが欲しいかな、小松菜と油揚げが残ってたはずだから胡麻油で炒めて煮浸しにしよう。
ざっくりとカットして温めたフライパンに野菜を放り込むとバチバチと食欲をそそる音を奏でる。
出汁を入れて醤油と味醂で味を整えて切りゴマを振って出来上がり。さて鮭も焼けたし、後は味噌汁に入れる葱を刻んだら朝御飯の完成です‼
トントントントンと葱を刻みながら気持ちは逸る。ふふふ、御飯も出来たことだしお寝坊さんを起こしに行かなければ。
揉むぞ‼優しく、時に激しく揉みしだくぞ!!
「おはようー蒼井。おお、相変わらず美味しそうな朝御飯!!」
「…………………チッ、おはようミサキ」
「毎朝ありがとう、マイハニー」
「というよりもお母さんだよね、この状況。さっさと顔洗ってきなよ、卵焼き冷めちゃうよ」
相変わらず立派なものをたゆんたゆんさせて洗面所に向かうミサキを見送ってから朝食の準備を進めていく。
ほかほかの白御飯に温かいお味噌汁、大振りにカットした卵焼きに程好く皮を焦がした紅鮭、小松菜の煮浸し。
あ、あとこの間韓国海苔もらってたっけ。食べちゃおう。
「「いただきます」」
声を揃えるようにそんな言葉を発するのも新しく出来た日課の一つ。
幸せそうに御飯を頬張る同居人を見ているとこちらとしても作った甲斐を感じる。
この娘はこうやって一緒に生活する分にはただのめちゃくちゃ可愛いJDなのだ。
初対面で大分切り込んだ話もしたし少なからず親しみも湧いている。あの暴力的な才能を肌で感じるまではきっと上手く付き合っていけると思っていた。
でも今はこの娘が怖い。
日常に侵食する新しい習慣の数々、日に日に増していく親愛の念。
頭は良いくせに流行にはぽんこつで部屋では基本的にジャージなこと。美味しい食事は好きなくせに自分でつくるときは切って焼くだけの上に失敗するものぐさ不器用なこと。最初の硬い対応とは裏腹に打ち解けてみれば意外にフランクなこと。
一つ一つ彼女を知って少しずつ彼女を好きになる。
このままでは彼女に劣っている自分を許してしまえそうですごく怖い。
「ご馳走様でした。美味しかった‼蒼井の作る御飯は丁寧でとても素敵」
あなたがただの天才で嫌な奴なら良かったのだろうか。
あなたが可愛いだけの普通の娘なら良かったのだろうか。
あなたのような才能が私にもあればもっと素直な気持ちで仲良くなれたのだろうか。
それでも現実にあなたは才能が人の形を造ったような性格の善い化け物で、私は他人をひれ伏せさせる才能なんて持っていない普通のアイドルで、そして私達は仮初めとはいえ恋人同士。
私は手持ちの札で貴方に並び立つしかないのだ。
劣等感なんて役に立たない感情にかまけている暇はない。
「ね、ミサキって今日はなにか予定があるのかしら?」
「今日?いや、大学も休みだし引っ越したばかりだから色々買い物しようかなと思ってたけど?」
うん、そっか、なら丁度良い。
「じゃあさ、デートしよう?」
先ずは恋人を良く知ることから始めよう。