幕間 水上綾香という少女
好きなものを好きだという。
それだけのことがとても難しい。
嫌なことを嫌だという。
それだけのことがとても難しい。
自分の心を顕に表現する。自身が少数派に属する場合そんな当たり前のことをするのに多大なエネルギーが必要になる。
犬派か猫派かという議論が交わされるなか爬虫類派が会話に交ざることがどれだけ至難の業か。
どうせ理解されないのなら自分を偽って犬が好きだと言ってしまったほうが遥かに楽に決まっている。
だがひとつやふたつならともかく物事の嗜好そのほとんどが少数派に属してしまったら、その人間はどれだけの偽りを重ねなければならないのだろう。
自分の感情が世間でいう一般的な正解と絶対的に異なってしまう少数派少女、それが水上綾香という少女だった。
成績優秀であり品行方正。優等生を絵に描いたように成長を重ねていく水上綾香が芸能界に入ることになったその切っ掛けは知人の推薦というありきたりなものだった。
綾香自身には芸能界への関心は薄く、アイドルグループへの加入もいつものように周囲に合わせたことへの結果でしかなかった。
心を閉ざし周りに合わせ偽りを重ねてきた優等生。
可愛いだけのお人形。
今現在アイドルグループ『パリカー』で暴君という異名まで囁かれる水上綾香は当時の自分をそう語る。
「なんだかいつもつまらなそうにしているわね」
初対面でのグループメンバー蒼井夕陽の第一印象は最悪だった。
明るく溌剌としたリア充女。
偽りの自分を上位互換したような本物の優等生。
心に後ろ暗いことなどなにもないような能天気。
彼女を見ていると自分の存在がどれだけ薄っぺらなものなのかいつも思い知らされた。
そんな折に放たれたその一言。
自身の矮小な仮面を見抜かれたような羞恥とお前みたいなリア充に言われたくないという理不尽な嫉妬。
これまで溜め込んできた日々の鬱屈をぶつけるように感情が爆ぜた。
「貴方なんかにそんなこと言われたくないです!!!!」
久しぶりに聴いた自身の大声に驚きながらも言葉は止まらない。
決壊した感情は濁流のようにその切っ掛けの人物へぶつけられる。
自分の中で抑えていた毒々しい感情、自分を偽るフラストレーション、勝手に枠組みに入れられることへの強烈な不快感。
これまでやりたくても諦めたこと、欲しくても手を伸ばせなかったもの、それらを易々と手にすることができる無神経な他人への妬み嫉み。
目の前のリア充女がその象徴のような錯覚に陥る。
「貴方なんかに何がわかるんです!!!!思うままに行動して当たり前みたいに他人に受け入れられてそれが当然だと思っているようなリア充に何が解るっていうんです‼貴方みたいなのがいるから少数派が肩身の狭い思いをするんです‼可愛いゆるキャラなんて全然好きじゃない、本格的なアンティークドールのほうが好きでわるいですか‼?ポメラニアンやアメリカンショートヘアよりグリーンイグアナが好きでわるいんですか‼?恋愛映画より西部劇のほうがクールとか思って何がいけないんです‼?」
止まらない止まらない止まらない。
理不尽な愚痴は止まらない。
彼女が異変に気付いたのは体内の膿を吐き出すような激情が過ぎ去って後悔が襲ってきた時。
失礼極まりない怒号を浴びせた先輩が眼を爛々と輝かせて自分のことを覗き込んでいることに気付いたから。
叫び過ぎて肩で息をする自分を好奇心が抑えきれない猫のような風情で観察している。
「なんだ、ちゃんと素敵な個性を持ってるじゃない。よしよし、先達としてまずは自分の曝け出し方からレッスンしてあげる。水上綾香だったよね?アヤちゃんって呼んでもいいかしらん?」
先程、爆発した感情を浴びた後の先輩アイドルのレスポンスとはとても思えない屈託のない声の言葉。
その時の彼女の様子を思い出すとつくづくあの頃の自分を子供だったと水上綾香は思ってしまう。
好みというものは多寡はあっても違いというものはどうしたってあるものだ。
その違いが多いだけで心を閉ざしてしまった自分とその違いをものともせずに相手の領域に平気で踏み込む彼女は一体どちらが変人だというのか。
「ね、今度の休みに一緒に遊びに行こうよ‼アヤちゃんの好みで街見たら新しい面白いことが一杯在りそう!!」
水上綾香が自分は恋愛対象においても少数派だったと気付くのはそれからそう遠くない話だった。