【書籍第二巻発売記念】 女王陛下の保健体育戦争(中編)
王座の間に続く廊下には、赤い絨毯が特別に敷かれている。
両側には禁欲的な黒い軍服を着こなした、見目麗しい警備兵たち。
等間隔に並んでご主人様が通り過ぎるのを見守る。
美少年の護衛と、うさんくさい宰相秘書官の少年と共に歩くリーゼロッテ。
サラサラと銀髪が揺れる度に、犬人の心を掴んで離さない香りが漂う。
男たちは、こっそりと幸せの香りを嗅ぎながら礼を取った。
「今日もお勤めありがとうございます」
「はっ」
「わん!」
声を掛けられたの嬉しくてうっかり犬になってしまった警備兵もいた。
同僚が頭を叩いて人の姿にする。
王座の間に移動する途中で、ドッグランコートが望める回廊に出た。
初代王の愛犬であり、同時に王妃でもあったポチのしっぽの形を象った、独特なアーチが続く。
耳に優しく届くのは秋の虫の音色。
赤く染まり始めた木々を眺めながら歩いていると、ふと。
――――足下の石畳が揺れた。
「……? 地震でしょうか」
「あー、問題ない。恐らくウルフハウンド団長とピットブル侯爵やね。そろそろ決着付くやろ」
「二人で地震ナマズでも退治されるのですか?」
「リーゼ様。まさか地震ナマズも信じているの……?」
冷や汗をかいておののくマルス。
「まさか。地盤の問題だと分かっております」
「驚かさないでよ……」
ふふふ。
優しく笑う(当社比)リーゼロッテに、マルスは泣きそうだ。
同情したバドが、こっそりとリーゼロッテの事情を教えてくれた。
「旧大陸から移住した、ハイデガー家と縁の深いグッドマンさんがおったやろ。あの人はリーゼを小さい頃や、ハイデガー家の歴史を知っとる。だから訊ねたんや」
それにしてもなあ……と、複雑そうな顔をするバド。
「まあ……カインさんなりの、お父さん心ってやつやろ」
物心ついた時から、リーゼロッテは知識欲が旺盛だったらしい。
文字を覚えた途端に本の虫になったと聞く。
幼児が片っ端から屋敷の書物を読み漁る光景。
ある意味異常とも思える状況に驚く一方で、父親であるカイン・ハイデガーは、将来の学者として頼もしいと思っていた。
そして、母親にも自分にも似ていないが、とても愛らしい顔をした将来有望な我が子に対して、こう諭した。
《いいかい、リーゼ。赤ちゃん関連のお話は読んじゃ駄目だよ。子授け鳥だけを信じていれば良いんだからね。子授け鳥はね、その夫婦にぴったりの赤ちゃんを連れてきてるのだから。近所の悪ガキの卑しい言葉を信じちゃだめだよ。むしろ汚いから近づかないように(あいつらはリーゼの髪と目をバカにするけど、単に気を引きたいだけだからな)》
《はい、わかりましたおとうさま!》
正座をして、元気良く片手を挙げる幼児。
そして素直で良い子なリーゼロッテは、子授け鳥を信じ続けた。
継母にいじめられても。
施設に放り込まれても。
行き倒れ掛けても。
女王として各国を歓待中に、無意識に会話をスルー出来るほど。
ため息を吐くバドに、マルスが遠い目をして空を仰ぐ。
「陛下らしくて可愛いけどさあ!」
「おや、あれはネスト王国の大使やな。でっかい鳥かごを持ってきたなあ」
リーゼロッテが歓声をあげる。
「まあ! なんて大きな鳥かご!」
王座の間に続く扉の前に現れたのは、大人が一人入れるほどの鳥かご。
金属製で、太陽に反射して金色の光を纏っている。
かごの中央には、厳重に包装紙で包んだ四角いものが入っていた。
そして鳥かごのそばには、ネスト王国の大使が立っている。
繊細な顔をした年若い紳士だ。
切れ長の黒目を細めて、恭しく礼を取る。
前髪だけが赤い色なのが印象的だった。
「大使バイン・ビッド・クライン・ツルです。王より、鳥かごと伝言を預かって参りました」
「ありがとうございますツル大使。鳥かごの中に入っているのは何ですか?」
リーゼロッテが指し示したのは、かごの中に入っている包装紙。
怪しいほど厳重に包んである。
一瞬の沈黙の後。
リーゼロッテの硬質な美貌を眺める大使。
ふ、と嫌らしそうに彼は笑った。
「王家に伝わる閨の指南書です。陛下は『そのお年から鳥かごプレイに興味を持たれるとは。流石はリーゼロッテ陛下。実にマニアックなプレイがお好みだ』とおっしゃっておりました」
「閨とはベッドのことですよね? プレイとは? 何をして遊ぶのですか?」
「あ、やべ」
気まずい顔をするバド。
義兄の表情に気がつかず首をかしげるリーゼロッテに、大使はうんうんと頷いている。
そして胸元から、精密な絵姿の束を取り出した。
「そうですよね! そうですとも! 閨には相手が居なければ意味がない。そこで王の命令で、王子の絵姿を十人分預かって参りました。どの年齢と顔がお好みですか。ちなみに、もし道具がお必要なら、」
「はい、ストップ!」
マルスの叫び声と共に、リーゼロッテの目の前を白い影が走る。
白い影が消えると、廊下に大使がいない。
キョロキョロ見回すリーゼロッテ。
「え、あれ? ツル大使?」
「リーゼ様! 大使は挨拶が終わったと言うことで、荷物を置いて帰還されました」
廊下の反対側から走ってきたレオンハルトが説明をする。
「ずいぶんと気が早いお方ですね……」
「頭のカツラが外れてパニックにでもなったのでしょう。……ところで用事も終わりましたし、そろそろ自室に戻りましょうか。私がアフタヌーンバウティーの給仕をさせていただきます」
「その前にあの鳥かごが見たいです。中に何が入っているのですか?」
「何もありませんよ! 包装紙の中身を間違えたそうです。今すぐに大使に返還いたしますので……あ! あそこで駄犬がきちんとお座りしておやつを警備犬に譲っています!」
「なんですって!? ダシバにそんなすごいことが出来るはずがっ」
ご主人様が必至にダメシバの姿を探す横で、レオンハルトは小声で《今だ》と指示を出した。
「もがもが」
柱の陰に引きずりこまれていた大使。
マルスに口を塞がれた大使の周りを、近衛部隊である第一部隊が犬の姿で牙を剥いて取り囲んでいる。
トサ副隊長が冷たく見下ろす。普段は穏やかな顔に冷酷な表情を湛えていた。
「陛下を愚弄したな? それ相応の覚悟をしてもらおうか」
混乱する大使を連行していく犬たち。
中身の本は、トサ副隊長が表紙に布をかぶせて抱えた。
「爪でビリビリに破って燃やしますので、ご安心を」
ザッザッザと、黒い軍服たちは軍靴の音を立てて去って行った。
残ったのは空っぽの鳥かごだけ。
麗人は頑丈な鳥かごの金属骨を触り、ぼそりと呟いた。
「ネスト王国とは断交すべきか……」
「どうしてですか?」
「「……」」
ダシバが見当たらなくて戻ってきたリーゼロッテ。
彼女の質問に顔を見合わせつつ、大人は答えることが出来なかった。
「駄目な大人やなあ」
呆れるバドは、彼は最後までこの騒動を静観しようと心に決めた。
バタン!
突然王の間の扉が開く。
血まみれの体格の良い男二人が転がり出てきた。
「きゃあ! ダリウス様! ピットブル卿! どうされたのです!」
リーゼロッテは全身負傷したダリウスとバーバリアンの姿にショックを受ける。
ウルフハウンドはよろよろと膝をつき、リーゼロッテに謝罪をした。
「ピットブル卿と決闘したのですが決着が付かず……申し訳ありませんリーゼ様。王の間を半壊させてしまいました」
「喧嘩は駄目ですよ!」
「……許可も得ずに順位付けを行い、誠に申し訳ありませんでした。ですが、どうしても譲れぬものがあったのです」
「もういいですから! それよりもあちこちから血が……! 救護犬の方はいらっしゃいませんか!」
『は! 直ちに呼んで参ります!』
警備兵の一人が犬になり、診療所に向かった。
リーゼロッテは血まみれの軍服の美丈夫に駆け寄り、痛ましそうに彼の赤い頬を触る。
額から滴る赤。
痛ましい顔をする少女。
それでもダリウスは幸福そうな表情で、頬に添えてくださった手をぎゅっと握り、ため息をついた。
「ああ。ご主人様の手はとてもお小さい。……とても安心いたします」
「一体どうして、こんな……」
後ろからバーバリアンの声がする。
「ただの大人のワガママですよ。子供に子供らしく居て欲しいとね」
「ピットブル卿も……」
灰色の髪を血で赤く染めたバーバリアン。
肩を押さえながら、廊下の隅で小さく懊悩しているマルスの元に歩いて行った。
『他国の王子も今後大量にやってくるのか……』
前足で頭を抱えるマルス。
バーバリアンは悩める少年の前に立つ。
腰をかがめ、震える白犬を責めた。
「マルチーズ。そもそもお前が犬の快楽を優先し過ぎて、男としてのアプローチができないのも問題なんだがな。陛下が恋に積極的に憧れるようになれば、自然とニューファンドランドどもが動くだろう。だいたい、陛下が犬のお前を抱き上げている時の顔は、駄犬を見るそれだ」
『うううううう。だって、リーゼ様がいい子いい子をしてくれる手が、めちゃくちゃ気持ちいいんだよ! 犬として幸せなんだ!』
ぷるぷると震えるマルス。
普段の不敵さは、すっかり陰を潜めている。
「……ハイデガーの小僧の方が、よっぽど男としては先んじているな。ただ、あいつの持つ兄妹観は、犬人の本能並みに厄介だが」
バーバリアンは呆れて肩を竦めた。
ケンネルの首脳陣は、唯一の飼い主であるリーゼロッテのために、婚約者候補を幾人も用意していた。
そして全員、前後五歳までの年の差に止めている。
なぜならば飼い主に先立たれることこそ、犬人にとって最大の恐怖。
陛下にも同じ思いをして欲しくないからこそ――――どんなに優秀であろうと、年齢差の大きな候補は認めなかった。
ただし弊害もある。
……恋愛に長けた候補者が誰も居ないのだ。
しかも、そもそも王族の恋愛相談は、性教育も含め基本的に王族同士で成されていた。
犬人が口を挟むことは滅多に無かったのだ。
バーバリアンは切れた唇の端をペロリとなめた。
「シバ家の小僧も当たり前だが使えない。……さっさと王族教育の一環として実施してしまえばいいのに。王族だけで使われていた教育書はゴールデンレトリバー家が保持しているはずなんだが」
子供の素朴な疑問に即答できない犬たち。
その一方で。
ウブすぎて動けない、肝心の婚約者候補たち。
「子供の正しい作り方くらいさっさと教えてやれ」
ちらりと、幸せそうに貧血に倒れたダリウスを必死に介抱するリーゼロッテを見る。
心配そうに大切な犬を世話するご主人様の横顔。
バーバリアンは今までになく、真面目に仕事をすることにした。
◇◇◇◇
「陛下の頭の上にエロ本が落ちてきた!」
「陛下の書類に男女の裸の絵が落書きされている!」
「誰だダッ○ワイフを、お店のぬいぐるみと一緒に陳列した奴は!」
「ゴールデンレトリバー家に泥棒が入ったそうだ」
「泥棒は筋肉質の中型犬で、強そうな警備犬を見ると勝手に喧嘩を挑んだらしい」
「どこのピットブルだろうな……」
【エロ無罪党】の暗躍。
「次々とエロ本が発禁処分に」
「スカートの短い少女を書いただけで挿絵作家が投獄された」
「エのつくお菓子すら発売禁止に」
「犬の姿の時もパンツを履かせるってマジ?」
「ちょっと過敏すぎやしないか!?」
【過保護党】の陰謀。
火花を散らす【過保護党】と【エロ無罪党】の戦いの余波は、庶民犬の生活すらも脅かすようになっていた。
いい加減煮詰まってきた両陣営である。
「ふんふんふん。あっかちゃんかわいいな~♪」
リーゼロッテが鳥かごを窓辺において鼻歌(音痴)を歌っている姿に、いたたまれなくなる文官たちとマルス。
たまにダシバが、鳥かごの中におやつが落ちていないかとのぞき込んで、胴体が挟まってしまうこと以外は、大きな事件は特になかった。
――――そんなある日の真夜中。
四人の犬が、ある計画を実行するために王宮の片隅に集まっていた。
バーバリアン・フォン・ピットブル。
マスード・フォン・アフガンハウンド
ヨーチ・フォン・グレイハンド
マゾ・フォン・ボルゾイ
【エロ無罪党】の主要メンバーだ。
まず、党首のバーバリアンが口を開いた。
『王族には、そもそも王族だけで教育をほどこす習慣があった。そうだな、アフガンハウンド』
『ああ、そうだよ。ウルフハウンド、ゴールデンレトリバー、マルチーズの三大公爵家にさえも見せず、王族が王族専用に特殊な教育書を使って教育したんだ』
『ならば、それを使って陛下に真実をお教えすればいいですよね。グレイハウンド一族が用意するあらゆる性的な本が宰相によって発禁処分されている今、教育書くらいしか方法がない』
ヨーチ・フォン・グレイハウンドがほっそりとした首に手帳をぶら下げて、ふんふんと頷く。
『そもそも犬人は本能で学ぶからな。性教育などする必要がない。つくづく純人は面倒だ』
凶悪面をした中型犬は、輪に加わらず後ろでうつらうつら船を漕いでいた優美な犬に声を掛ける。
『ボルゾイ。宰相の金庫はちゃんと破壊してあるんだろうな』
『ん? ああ、やっておきましたよ。コーギーが警備に付いていたので盗むまでいきませんでしたが。後は「お願い」した第五部隊の隊員が上手くやってくだされば』
『そうはいかん』
現れたのは黄金の毛並みを持つ大型犬。
闇に紛れても、その美しさは損なわれない。
『お前らの野望はここでおしまいだ』
『ゴールデンレトリバー……』
目の前に、ぐるぐる巻きにされた女性が転がされた。気絶している。
第五部隊の女性隊員だ。
『宝物庫に保管してあった王族教育本を狙った女性文官もみな捕らえた。【エロ無罪党】の刺客により、陛下の枕の横に何度もエロ本を置こうとする試みも全て防いだ。そろそろ観念してもらおうか』
睨み合う両者。
ふん、とバーバリアンは立ち上がった。
黄金犬にガンを飛ばす。気弱な犬なら、ダシバ出なくともすぐに漏らしてしまうほどの眼光だ。
そして単刀直入に要求した。
『陛下に早くエロ本を読ませろ』
『……』
毛が逆立つ黄金犬。
牙をむき出しにしてうなる。
『リーゼ様にそのようなものを読ませるなど、虐待だ! セクハラだ!』
『貴様もニューファンドランドも過保護すぎる。そもそも陛下は純人だろう? 体が成長仕切る前に、性の基本が分かっていなければアンバランスに育つぞ』
『家庭放棄犬のお前に言われたくない! それにまだ……まだ、陛下には早い!』
アフガンハウンドが、立ち上がって反論する。
『いいやレオンハルト君。あと六年で成人だし、三年もすれば実質大人だ。大体その過保護な性格のせいで、お嬢に婚約破棄されたじゃない』
『うるさい。昔の古傷をえぐるな、アフガンハウンド。ここでは貴様も敵だ!』
黄金の家庭犬は威嚇を続けた。
バーバリアンは、遠目に見えるリーゼロッテの寝室を注視した。
天蓋のベッドの横には大きな鳥かごが置かれているのが分かる。
目が死んでいるマルスの手伝いに手伝ってもらって、うきうきと窓辺に飾ったらしい。
鈍い金色に輝く鳥かごの中には、ふかふかの布団が敷いてある。
それを見る度に――――。
王宮中の大人の犬が、「犬としてご主人様にどうすべきか」と悩み、悶え、ひたすら迷走を繰り返すのだ。
ご主人様の性教育をする犬など、ケンネルの歴史上誰一人もいなかったのだから。
バーバリアンは人の姿になり、私用にデザインした軍服の襟を正す。
『我々はお前が後生大事に隠している【王族専用性教育書】を使い、正しく陛下に理解してもらうつもりだ』
『まだ早い!』
『うるさい。女は早熟でもいいんだ。ボルゾイ、グレイハウンド。行け』
『男に命令されるのは嫌いなんですが。仕方ないですね。タッチアンドゴーで帰って良いですか?』
『エロは文化です』
細身犬二人が前に立ち、人の姿に変わった。
マゾは、しぶしぶとフリルのドレスシャツの袖をまくる。
そしてヨーチは、黒いスーツに伊達メガネを光らせて、脇に挟んでいた薄い本数冊を胸元にしまう。
決意の証。
わんこ教の愛犬教育書並に大切に扱っている本だ。
先日陛下に見せようと試みて、ニューファンドランド夫人に半殺しにされた曰くつきの本でもある。
【王宮のお庭でラブ大全】
【新説・あいある様とぽち様はじめての夜】
【おすわんこのかはんしん・めすわんこのかはんしん】
【がっちり交尾とは何か】
一般犬でも十分問題になるレベルだった。
そして珍しく。
ヨーチ・フォン・グレイハウンドは本気になっていた。
「私は抗議します。手を繋ぐ行く末にあるには接吻。そして子作り。ベッドシーンを省いた朝ちゅんなんて容認しない。恋の先には性がある! 性欲がなければ男の大半は女に優しくなどしない。その真実を省いた教育など、マスコミを司るグレイハウンド一族は許さない……。まずはアイアル様とポチ様のクンズホグレツを読んで現実を学んでいただきたい」
あえて軍服では無く、書店営業用黒スーツ。
いつもは陽気でおちゃらけている二枚目半だが、涼やかな美貌を際立たせる銀縁眼鏡を決めている。
決して引かない意思は、眼鏡の光り方で分かる。
軍服で通信を統括するよりも、小さな書店に本を売り込む時の格好の方が、彼の本気の証だった。
「そして、十八禁コーナーを堂々と書店に作る許可をいただく」
レオンハルトは警戒した。
武闘派ではない二人だが、あなどれない戦闘能力を持っていると知っている。
本気になれば、ただでは済まない。
(だが、私は負けるわけにはいかない。家庭を守る犬として!)
リーゼロッテの純情を守るために、宰相は改めて最強の守護犬を用意した。
「ダリウス!」
「リーゼ様は汚れ無き幼女。団長命令にも従わない部下には、実力で分からせないといけないな」
暗闇から現れたのは、狂犬騎士団長ウルフハウンド。
長身痩躯。鍛え上げられた筋肉を隠した黒い軍服からは、威圧感が溢れ出す。
ダリウスは水色の瞳に不穏な光を宿し、逆らう隊長たちを睥睨した。
指をぽきぽきと鳴らし、容赦はしないと告げている。
しかし、威嚇するケンネル最強の男かつ上司に対して、二人は全くひるまない。
「給料以上の命令には従いません。この間プリンを分けてくれなかったし」
「エロ本は拳より強し」
にらみ合う両者。
レオンハルトはこの隙に、破壊された金庫に戻ることにした。
まだ盗難されていない教育書を移動するのだ。
「まて、宰相!」
「「お前の相手は我々だ」」
追い掛けようとするバーバリアンの前に、トサ・キシュウ・アキタの和犬副隊長三名が立ち塞がる――――。
階段を駆け上がるレオンハルト。
脳裏に浮かぶのは、ケンネルの王族に伝わる秘宝。
王族専用の教育書。
題名は『良い子の王族保健体育教本Ⅰ~Ⅹ』。
対象は十二歳の王族。
成人年齢十六歳になるまでに、あらゆる性の知識をこれで学ぶ。
ゴールデンレトリバーはこの騒動が起きて、初めて宝物庫から取り出し読んだ。
そしてその日、ずっと遠い目をして暮らした。
(歴代の王は奥手な方が多かったからな)
Ⅰ巻はめしべとおしべの解剖図だった。
Ⅱ巻でまれにバウハチが花粉を仲介していくシーン入る。
これらを少しずつ読み聞かせて、うぶな王族を教育していくのだ。
犬人は早熟な人種だ。
八歳から十二歳で脳が急速に発達し、ほぼ大人の仕事ができるようになる。
男女にかかわる営みについても本能で理解できるようになるが、純人である王族はそうはいかない。
そのためにあるのが保健体育教本である。
(分かっているんだ。いつかはやらねばならないと)
とはいうものの――――。
保健体育を陛下に施すいつ時期なのか。
すべてはそこに帰結する。
陛下を保護した時の印象がどうしても強いレオンハルト。
純粋に「鳥かご」を信じる陛下に、どうしても余計なことを教える気になれなかった。
ほんの少しでも嫌な気持ちになって欲しくない。
可愛らしい夢を持っておられるなら、ずっとそのままで居て欲しい。
せっかく成人していないのだ。
少しでも幸せな子供時代を過ごして欲しい。
――――だけど、そのままではいけない。
彼女は大人になる。
それを支えるのが、すでに成犬になっている自分たち。
何度も繰り返された悩み。
しかしその悩みは、布をひき裂かくようなリーゼロッテの悲鳴で終わりを告げる。
「きゃああああああああ! 赤ちゃんが!」
『リーゼ様!?』
リーゼロッテの寝室に飛び込んだ黄金犬が見たものは――――。




