間話 首輪をください( 宰相・ゴールデンレトリバー視点 )
私は飼い犬である。
名はレオンハルト。
主は、いない。
国葬の喪に服した、虚ろな目のアフガンハウンドが問う。
「レオンハルト。君は一体何を目指しているの?」
「――――何を? 家庭犬ですが?」
「王族の家庭なんて、もうあり得ないじゃないか」
先日亡くなられたアベル様。
我らの最後の王。
アベル様は家庭に憧れる優しい人だった。
だが運命とは皮肉なもので、誰よりも優しい人は、誰よりも愛が遠かった。
では自分はどうだ?
親友のダリウスがようやく愛犬という地位を得ていたというのに。
私は家庭犬にすらなれなかった。
私だけではない。
ケンネル王国中の犬たちが、飼い主を失くしたのだ。
突然襲い来る哀しみと絶望。
そして淋しさが、内なる野犬に揺さぶりかけていく中、周辺国の侵攻が始まった。
野犬になるもの。
戦死するもの。
本来の力を出せずに苦戦するもの。
巨大な喪失感から立ち直れずに、力尽き行く同胞たち。
私はそれでも、諦めきれなかった。
どうしても、家庭犬になりたかったのだ。
年老いた親族がかつての景色を語ってくれる度、私は夢見ていたのだから。
夢の中で割烹着を付けて、私はお玉を振る。
背中には王族の赤ん坊を背負い、裾を引っ張って『ねえごはんまだあ』とぐずる幼子の王族。
飼い主はソファーに寝そべり、揚げ菓子を齧りながら雑誌をめくっている。
『レオンハルト、ご飯作ってね』
『レオンハルト、枕になってちょうだい』
『レオンハルト、ほこりが残っているわ』
『レオンハルト、稼ぎが足りないわね』
『れおんはると、ごはんまだあ』
『おぎゃー』
ああ、なんという家庭的な光景。
ひたすら王族の家庭を癒し、子育てをし、共に暮らす日々。
親友のダリウスに「それは女のヒモを飼いたいだけじゃないのか」と突っ込まれたこともあるが、未だに子犬時代を引きずって「可愛い」に固執するお前には言われたくはない。
でも、だからこそ。
決してあきらめられない夢があるからこそ、アベル様の遺児生存の可能性に縋ったのだ。
宰相だった父が戦死し、私は若くして宰相となった。
しかしそんなことどうだっていい。
今大事なのは、未来のご主人様を発見し、ケンネルに戻っていただくこと。
そしてたくさん甘やかす。
これ以外考えられない。
私はケンネルの大戦力を捜索に割いた。
宰相権限だが、誰も否という者はいない。
皆、王族に飢えていた。
もしかしたら、帝国やユマニスト王国が隙を見て再度攻めてくるかもしれない。
だが、その時はその時だ。
ご主人様さえいれば、我々は無敵。
凶暴化した野犬すらコントロールできない連中など、すぐに叩きのめして領土を奪い返せばいい。
こうして自分でも率先して部隊を率いることにした。
行き先は旧大陸。
変身人種にとって鬼門と言われる世界だ。
空と海を渡り、数日かけて北端に着いた我々。
伝説の旧大陸はなんとも時代遅れの世界だった。
ピットブル家のジェントルマンが言う。
「宰相、この世界は文明が退化しています」
「いいや、違うな。進歩がないだけだろう」
初代王アイアル様がこの大陸におられた頃の国の記述と、なんら変わっていないのだ。
愛犬育成書には「見捨てられた堕落な国々」と表記された通りだった。
非衛生的な町。
貧民の多さ。
食生活も貧しく、穀物としなびた野菜と僅かな肉に頼る日々。
発達の悪い子供を連れ歩く大人も、やせ細っている。
唯一肥えているのはごく一部の貴族と商人のみ。
車はない。戦車もない。火薬など勿論ない。
水路すら雑な作りで、これでは畑の作物も育ちにくいだろう。
そして通信は、動物を使ったものしかない。
トランシーバーを片手に周囲に捜索隊を展開しながら、私たちは南下していった。
暫くして、私たちはある噂の的にされるようになった。
『巨大な鈍色の猪を連れた悪魔の集団が、各地の国や領主を押しつぶして進軍していく』
『不思議な食べ物を分けてくれる。更に栽培方法も言い伝えていった』
『病人やけが人を助けてくれる』
『ついでにインフラを治していってくれる』
『なぜか犬を見てびっくりしている』
悪魔か、神のみ使いか。
様々な形で評されているようだ。
だが実際の所、我々を好奇心で捕らえようとした連中は第二部隊が潰しただけだし、目の前で餓死寸前の人間がいたから第七部隊と文官隊が簡単な食料を教えただけだし、第八部隊は当然のことをしただけだし、道に穴があり、大河が氾濫しかけていたところを第四部隊の職人犬がうっかりむずむず手を出してしまっただけだ。
妙に感謝する純人たちにはこれだけは言っておいた。
「人の姿を持たぬ犬を大切にしろ」と。
やがて過激派犬愛護団体と呼ばれるようになった私たちは、周囲の賛否両論な評価など無視をして、ただひたすら遺児を求め続けた。
全く驚いたことだが、この大陸にいる犬は人の姿が取れない。
純人のように、犬に固執しているだけかと思ったが……本当に犬でしかない。
全く信じられなかった。
他の犬人たちはなかなかその事実を信じられず、出くわしてしまうと、露骨に視線を逸らすものもいる。
しかし、この世界の犬たちはバカかというとそうでもない。
それぞれに仕事を持っている犬が多く、牧羊犬、警察犬・救助犬・介護犬と、それぞれに己の役割に誇りを持っているように感じられた。
私はここである犬と出会う。
感謝してもしきれない、彼女。
彼女との出会いが、私と大切な愛しいご主人様との未来を、約束してくれたのだ。
私たちは盗賊を曳き潰しながら、次の国に進軍していた。
大きな都があるのは更に南。
そこでアベル様の子をデキ逃げした踊り子、モナの情報を収集するためだ。
モナは純人であったらしい。らしい、というのは彼女が一度も変身をしたことがなかったからだ。
帝国の王都近くに家族で住んでいたが、家が没落し幼い頃に旅芸人の一座に売られた。
彼女はぱっと目につく美貌もないが、軽い身のこなしと優しい笑顔であっという間に売れっ子になった。しかしどんなに芸で身を立てるとはいえ、芸能の世界はパトロンなしには語れない。
一座の座長は、若い女たちを各地の権力者と共寝をさせてはご機嫌を窺い、集客の手伝いをしてもらっていた。モナはその仕事を断れなかった。
アベル様が、座長から彼女を受け取ったのには誰もが驚いた。
いくら性病の検査をされているからと言っても、旅芸人の踊り子である。滅多に手を出すものではない。既に後宮は王族の血を引く犬人が何人も控えていたというのに。
あの方がモナについておっしゃったことは少ない。
犬人たちの気持ちを慮ったのだろう。
大司祭は「男女の恋愛は不可解な世界。理屈で考えてはなりませんよ」と説いていたが、健全なる家庭を築くプロフェッショナルとしては……アベル様の女の趣味について言いたいことが山ほどある。
が、あえてここでは語るまい。
私がたどり着いたのは本当に偶然だった。
右の小道に、妙に香しい匂いをまとった女性————犬だが—————が現れたのだ。
外見は第二部隊のグレイ・フォン・マスティフ卿によく似ている。
いやそれよりもずっと大柄で、顔も更に強面だ。だが鼻の良い我々には分かってしまう————あれは女性だと。
女性なのにとても筋肉質で、異様なほど威厳がある。目つきも怖い。
強いもの知らずのはずのピットブルたちが、後ずさりをしていた。
口には、誰かの引きちぎられた首輪を加えていた。
「ジェントルマン殿。あの女性は犬人ではないのか?」
「いいえ、あのレディーは恐らくただの犬であるかと。しかしあの匂い————どうやら加えている首輪から漂っているようですね」
ピットブルの異端児と呼ばれる紳士的な彼はすぐさま戦車から降り、犬の姿になって彼女と交渉を始めた。
筋肉隆々で強力な牙を持つ彼に対し、彼女は全く動じずジェスチャーを眺めていたのだ。どうやらジェントルマンが紳士であることが分かるらしい。
彼女は決して首輪を離そうとしなかったが、確認だけはさせてくれた。
「どうやら『だしば』と書かれています。他の犬の持ち物のようですね。歯型から見て彼女が食いちぎったのかと」
「その持ち主のところに案内していただけないか交渉してくれ」
「うーむ。どうやら相当真面目な犬らしくて。あの雰囲気は『人にものを頼むなら直接目の前で伝えな』と言っている気がします」
堅気ではない雰囲気の彼女。
私は仁義を切るべく、犬になって歩いていき、直接頭を下げた。
『どうか頼む。その首輪の香りの持ち主に合わせてくれないだろうか』
「……ばう」
彼女は一吠えすると踵を返し、小道の先へついて来いと後ろを振り向いた。
『ふん。ちゃんと礼儀は出来ているようだね。いいよ、ついてきな』
我々の間に言葉は全く通じない。
だが、なんとなく。そう話しているような気がしたのだ。
そして我々は、彼女が運命の女神だったことを知る。
我々が辿り着いた町は、よくある小さな町だった。
贅沢三昧の領主、やる気のない貴族、肥太る商人、保守的な平民、苦しむ貧民。
スラム出身の花売りたちがガリガリの小さな手で、道行く人たちに枯れかけの花を売る。
花の香りは全くしない。
—――――だが、我々の心は高揚していた。
良い香りがする。
とても良い香りが。
これは—————王族の香り!
我々は警戒さぬよう、犬の姿で辺り一帯をしらみつぶしに捜索を開始する。
私は、他の犬人が怖気づいて動けない彼女と共に行動することにした。
彼女はこの町に詳しかった。
更には、道行く犬たちが皆彼女に「降参」のポーズをしていく。
どうやらこの辺一帯のボスだったようだ。
そしてとうとう、ある屋敷に辿り着いたのだ。
中小貴族の典型的な屋敷だ。
小さな庭があり、ほどほどに立派な屋敷をほどほどに立派な塀が囲っている。
赤いレンガが特徴的な屋敷の小さな窓から、特に良い匂いが漂ってきている。
『……ここにいるのか』
「ばう」
彼女は首を振った。
他の紐で長さを補強して首に巻いて差し上げた「だしば」の首輪が、軽く揺れる。
『留守ということか……?』
私が再度確認しようとすると、突然不快な金切り声が屋敷の玄関から響いて来た。
「どうしてもうお金がないのよ! あの娘がいなくなってからせいせいしたと思っていたのに!
『もう援助は打ち切る』なんて、一体どういうことなの!?」
「お母様、お小遣いが足りないよ」
「ねえ、この間友達からお金借りちゃったから、お母様代わりに返してよ」
どうやら、厚化粧の中年女性とその息子二人のようだ。
ごく微かにいい香りが混じっているが、それ以上に腐臭がする。混じり合って気持ちが悪い。
「もういい年でしょ。私のために働きなさいよ!」
「貴族は働いたら負けだよ、お母様。いつも言っていたじゃないか」
「だからお母様、僕たちのために今からお金持ちの男をひっかけてよ」
「あー無理だよ。もうお母様は化粧で誤魔化せないほど老けたもの。商品価値が下がっちゃったよねえ。後妻業も厳しくない?」
「その言い方はないでしょう!? 私は好きになったら一途なの! そして対価として男が全てを捧げてくれるだけ!」
どうしようもない会話を繰り広げる親子の元に、玄関の奥から声が掛かる。
腐臭はない、だかあまり匂いもしないメガネを掛けた少年だ。
彼は年齢に見合わぬほど達観した顔で、訊ねる。
「命もですか? お母様」
ギクリ、と固まる女。
しかしすぐに何事もなかったかのように不貞腐れて少年に答えた。
「……そうよ。命も、地位も、家督だって。全て男が捧げてくれるのよ」
「ふーん。捧げてくれる、ねえ」
全てを知っている、というニュアンスでメガネの少年は嘲笑う。
その様子を不快に思った女は「お母様に対して何よその態度は!」と激高するが、少年は動じない。
「そもそも学者の家にお金なんてないじゃないですか」
少年はメガネを外して一回拭き、掛け直す。
そして視線鋭く、血縁らしき三人を責め始めた。
「リーゼに頼っていたくせに」
「バド、なにを言っているの」
「リーゼが、今までこの家のひどい家計を支えてくれていたのですよ。
あの子は表情豊かではないけど、誰よりも愛情深い。それを知っていたカインお義父様の友人たちが愛し、成人になるまで援助しようと貧乏貴族の懐からお金を出してくれていたのです。その対象を追放したとなったら、誰がお金を出しますか。
国ですか? 国はもう弱小貴族を飼う金はありませんよ? 出入りの商人ですか? 彼らは金払いの悪いおばさんなんて不動産をむしり取る対象としか思っていませんよ。
—――――まさか、夫の友人たちが自分に横恋慕していたとでも思ってたん? 痛いわあ」
その指摘に女が激怒した。
手を挙げて頬を叩こうとするが、簡単に逃げられてしまう。
「バド、母親に向かってなんてことを! それに西方語は嫌いだからやめてって言っているでしょう!」
「女が『これが嫌い』といって許されるのはヨチヨチ歩きの時だけや! もう知らん!
聞いたで、リーゼが施設から追放されたって。しかも行方不明やて。その連絡を受けて『これで死んでくれる』って喜んだってなあ! 前から親とは思っとらんかったけど本当に今日限りやわ。お前らこそとっとと野垂れ死ねや!」
あまりの台詞に言葉が出なくなっている親子を突き飛ばして、少年が門を駆けていく。
匂いがない分、あの少年の方が王族の香りが強い。
私は隣の彼女と共に、彼を追跡することにした。
街中を過ぎ、スラムを過ぎ、しばらくすると施設が遠く見える丘に出た。
少年が遠目に施設を眺めて歯ぎしりをする。
「ちくしょう。あの施設、運営はザルのくせに警備だけは一級やし。何人の貴族の子供が捨てられているのか分からん」
そして拳を握り、目星をつけた町側の山に向かって走り出した。
「スラムの花売りがガリガリの銀髪の子が求職に来たっていうしな。捕まらなくて良かったわ。……本当にバカ真面目というか、不器用というか。ほっとけんわあいつ。
—————俺が守るって言ったんだから、大人しく屋敷に戻れば良かったんや。阿呆」
それは突然だった。
そして再び少年についていこうとした私の鼻を強烈な良い香りが貫いた。これは……!
香りは逆方向。
後ろの山からだ!
同時に彼女も激しく興奮する。
会いたい何かの香りに気が付いたようだ。
私と彼女は頷き合う。そして少年が向かった山とは反対の方向に走り始めた。
今だ。今こそ王族に会える————————!
◇◇◇◇
それからの出来事は、あまりにも劇的で。
あまりにも甘美で。
一生の幸福を全て使い切ったのではないかと思うほど、幸せだった。
私の首には赤い首輪。
飼い主が出来たという証。
私の小さなご主人様は痩せ細り、虐げられ、とても可哀想な女の子だった。
ああ、なんて可哀想なのだ。
家庭犬たる私が癒さなければ!
家庭犬たる私が、健やかにして差し上げなければ!
これほどは家庭犬が必要な子供は王族史上いただろうか、いやいない(断言)。
彼女はまさに運命のご主人様だった。
ゴールデンレトリバー一族の誇りを持って。
この子を毛皮に包み込んで守り育て。決して傷つけぬよう外部との接触を断ち。健やかな成長を願う。
外の心配なんて微塵も感じさせない。
むしろ関心なんて持たなくていい。
私は国中に厳戒態勢を敷き、当初本気で大人になるまでご主人様を隠し通す気だった。
他国には第五部隊を配置しマルチーズに国内の公安的な仕事を与えた。また、第七部隊のグレイハウンドに命じ、情報を徹底的に隠匿した。裏社会には金と脅迫、暴力を持って黙らせた。
そして第八部隊には。
王族を襲った病――――狂犬病に対するワクチンの開発を急がせた。
そして、旧大陸には一部部隊を残した。
ハイデガーの女狐たちの監視もあるが、あの傑女――――マスティフ一族と何か恐ろしいもののハイブリットであろう彼女に恩を返さねばならないからだ。
彼女には飼い主がいた。
だから、連れて行くわけには行かなかったのだ。
ご主人様が教えてくださった。
たしかあの女性の名はエリザベス。
『エリザベスちゃんは、ご近所のわんちゃんですよ。とても乙女で可愛らしいのです』
とても興味深い言葉を添えて。
『あの子はダシバのことが気に入っていますね。他のオスはエリザベスちゃんを見てすぐに逃げ出すけれど、ダシバは腰を抜かして逃げられないから』
いつか、再会したいものだ。
中央騎士団のトップはダリウスであるが、全騎士団の統括は宰相である私が持っている。
「全軍を持って、ご主人様の幸せを作り上げるのだ!」
強権? 狂犬?
なんと言われようとも私はあの子を私の手で幸せにしたいのだ。
出来ることなら何でもしよう。
――――それこそ、魂を売るようなことでさえ。
ついでに、既に何着も作っていた割烹着を新調することにした。
―――――その一方で。
リーゼロッテという名の私のご主人様は、とても他人行儀で恐縮してばかりの子供だった。
折角素晴らしい香りをもって、犬人たちの忠誠心を高めてくれているというのに全く興味はないようだった。
むしろ、自分はお客様で。
たまたま優しい人たちが助けてくれただけ。
だからワガママなんて言ってはいけないと。
周りが必死に犬として命令をしてほしいとお願いしても、彼女には届かない。
ある意味謙虚。ある意味頑固。
周囲の犬はやきもきしていた。
まあ無理はないかもしれない。
あの大陸に、変身人種はもういない。
いくら「わんこ」と呼んでくれるようになったとしても、心の中では人として考えてしまうようだ。
しかもあの駄犬。
あれが犬の典型と思われていたら、我々を人としか思えないのも無理はない。
というかどこまで駄犬なのだ、あの犬は。
飼い犬たるもの、出来る犬であるべきだろう?
あんな駄犬を飼っているなんて本当に、ご主人様は可哀想だ。
だがご主人様は――――それでもあの犬が大好きなのだ。
片時も離れたくないと、いつもそばに置いている。
まるで心の安定剤のように。
幼子が、ぬいぐるみを離せないかのように。
焦る私を、アフガンハウンドが哂う。
『ああ嫉妬しているね君たち。実にバカらしいね。子供一人に何を押し付けているのさ』と。
そうして一つの季節が過ぎる。
ようやく私は、大きな間違いをしていたことに気が付いたのだ。
可哀想な子供と思っていた小さなご主人様は、リーゼロッテという一人の女性であり。
我々犬を大きな愛で包み込んでくださる、最高の飼い主であることに。
最初のきっかけは、純人教過激派による王宮襲撃だっただろうか?
———―あの時。彼女は子犬たちの苦しみを見て、自らを戦場に置く決意をした。
それとも、即位式のパレードの時だっただろうか?
――――彼女は自分を「リーゼ」と呼べと言い、全ての犬人の飼い主になることを決意した。
いや。私が夏に負けて倒れ、彼女が内政に乗り出した時だったのかもしれない。
――――太陽の脅威に恐れず、声を張り上げ、自分のやり方を模索し始めた。
真の多頭飼いのために、心の安定剤であった犬を自ら手放し、人としての自立を誓った時のことか。
いや。どれも違うな。
私はずっと、彼女を可哀想な、守るべき対象と思っていた。
しかし私の手など必要だったのだろうか?
いつだって私の小さなご主人様は、自ら悩み、あがき、成長していこうとする。
誰を恨むこともなく。誰を憎むこともなく。
全てを受け入れ、自分を更に高めていこうとする。
気が付けば守られていたのは自分の方だった。
『ですが、今度こそ。国民を広く幸せにしたいと思います。もちろんダシバにも、素敵な居場所を作って差し上げるつもりです。でも、まずは—————黄金犬のレオンハルト様。貴方からです』
ああ認めよう。
私とて、寂しかったのだ。哀しかったのだ。
愛すべき人がいなくて、辛かったのだ。
王族がいなくなり、ただ一方的に愛することだけに逃げた私。
だが彼女は、そんな自分を優しく包み込んでくださった。
ご主人様。
私に首輪をください。
本当の意味で、貴女様の犬としてください。
「レオンハルト、失礼するよ」
年上の友人である、かつての天才犬マスード・フォン・アフガンハウンドが頭に白黒犬を乗せて執務室にやって来た。
彼は領地に隠棲することになったのだ。
結果的にはケンネルに侵入した敵は撃破されたが、そもそも味方を陥れ、敵軍を誘導したのは彼である。
しかも、シロカブトという巨大な災害を引き起こすために。
過去の貢献もあるので、死刑は辛うじて逃れた。
そこにリーゼ様が女王として「孤児の育成」という命令を発したので、領地に籠るのみで済んだのだ。
私とドーベルマン卿と二人で相談し、外部には『最終兵器の開発』に勤しんでいると喧伝しておいた。
(間違ってはいない。白黒犬の過去の話だがな)
ただもう、彼は王宮には帰って来ないだろう。
彼の澄んだ瞳がそう物語っている。全て終わったのだと。
白黒犬にマメに手入れをされているらしく、随分と小奇麗な格好だ。
肌も髪もつやつやで、元々年齢不詳の美貌が更に若返っている。
「君には別れくらい言っておこうかと思って」
「他の方には?」
「そのうち気付くよ」
相変わらずのマイペースだ。
私は彼に訊ねた。
「アフガンハウンド。貴方は将来何になりたい?」
この問いに彼の片眉が上がる。
「面白いね。それは私が若人に聞くべき台詞じゃないのかな」
「もう少し大人らしさを身につけてから質問をいただいたいですね」
あはは、と軽く笑って彼は頭の上の白黒犬を撫でた。
うっとりとする子犬。
あれだけ暴食に逃げていた姿には全く重ならない。
白黒犬チャーリーはとても愛らしく、犬人の女子供に大人気だ。
陛下もこっそり撫でていることを知っている。
ダリウスをこっそり宥めるのも大変だ。
かつての脅威を勉強していなのかと嘆く老人もいるが、構いはしない。どうせ王都から去るのだから。
「とりあえず、チャーリーのお父さんになることにするよ。
一族の連中もまた改めて子育てを楽しむって意気込んでいるからね。せいぜいもみくちゃにされないよう守らなくちゃ。レオンハルト、君は? 宰相ってこれ以上出世しようがないよね」
私は執務机から立ち上がり、窓を見る。
空は青く、鱗雲が秋の訪れを告げていた。
私は改めて、自ら立ち歩んでいく、小さな女性のことを思い浮かべた。
あの方と共に歩いて行けるよう—————。
「改めて、本当の家庭犬を目指そうかと」




