中
「だって夏だもん」
彼女はそう言って笑った。一度原形をなくした筈のその顔は、僕の思い出と一寸の違いもなく美しく、可愛らしい微笑みをつくって僕に向けられる。
あの後僕は彼女に支えられながらマンションの自室へ戻り、怪我の手当てを彼女にしてもらった。正直言って現実味のない話だし、バイト疲れによる夢や幻覚かと思った。
しかし傷口に染みる消毒液や、不器用な彼女の痛くも優しい手当が現実なのだと教えてくれる。
僕は勿論彼女に色々聞いた。最初に行ったデート先や、僕と彼女の将来の夢。そして僕たちがよく一緒に歌った思い出の曲の事も。この女性が彼女になり済ました誰かだとしたら答えられない様な事も、全部全部質問した。
だが彼女は時に微笑み、時に恥ずかしがりながら全てを答えきった。
そして僕からの最後の質問。
「どうして、僕の目の前に居るの?」
この質問をする時は目にいっぱいの水分を貯め、鼻が熱く咽喉も唇も舌までもが乾いていた。
「だって夏だもん」
彼女はそう言って笑った。
僕はそんな彼女に抱きついた。
男とか年齢とか関係なしに、声を上げて流れる涙をそのままに。
三年ぶりの涙だった。
「よしよし、いい子いい子」
そんな僕を彼女は優しく抱きとめ、落ち着くまでそっと背中を撫でてくれた。
暫くして僕がまだ鼻をぐずらせながらもようやく落ち着きを取り戻すと彼女は微笑む。
「もう大丈夫?」
「……うん」
鼻声で返事。まるで母親と子供みたいだ。
その後は下のコンビニで適当なお菓子と飲み物を用意し、二人で笑い話盛り上がった。
大半は二人の思い出話で、少しだけ僕の近況。彼女は僕があれから誰とも交際をしていない事を知ると、驚き笑い少し泣いて謝った。
そうして時計が11時を回る頃、僕の話題が完全に尽きた頃だ。
「じゃあさ、今度は私の話聞いてくれる?」
「勿論さ!」
まだ声に違和感がある咽喉で僕は即答した。どういう理由で彼女が僕の前に来たかは分からないが、また一緒に暮らせるなら何でもいい。なんだって彼女の言う事を聞いて見せよう。一緒に暮らせるのなら。
「わ、即答。やっぱり頼りになるね~」
彼女は両手を顔の前に持って行きくすくすと笑う。
「あのさ、あれ使ってあの歌を歌って欲しいの」
そう言って彼女が指差した先には、かつて愛用していた埃まみれのギターが。
「私あの歌がとっても聴きたいんだ~」
椅子に座ったまま脚をぱたぱたとさせる彼女。彼女が楽しんでいる時によく見た動きだ。
「どうかな?」
「……」
でも僕は答えられなかった。
彼女と別れたあの日からギターに触れていない。指だって気がつけば元通り柔らかくなってしまった。僕と彼女との思い出にあのギターは深くかかわり過ぎていて、触れるのが怖くて辛かった。そうしたらいつの間にか埃を被り、そのまま彼女と一緒に時を止めてしまっていた。
「……そ、それ以外なら何でもするよ?」
僕は震える声を絞り出す。
「ううん、あの歌が聴きたい」
何となく、解っていた。
彼女は言い出したら聞かない事、彼女の目が真剣そのものだった事。
「……上手く弾ける自身はないんだけどな」
「それでも、聴きたいの」
僕はそっと立ち上ると、簡単なギターの整備をし始めた。