9.情報収集
「はぁ。…………疲れた」
何年ぶりかの授業に私は大きくため息をついた。
現在、昼休み。昼食は授業によって延長もあるから、寮みたいに揃っての食事ではなく、学食や売店などで各々摂るらしい。助かった。四六時中、マナー講座兼ねて揃っての食事とかだったら拷問です。
とは言え、一般的な学食で見られるような長テーブルではなく、高級レストランのように趣味が良くて小綺麗なテーブルがいくつも配置されている。周りを見渡すと、学生達が談笑しているグループがいくつも見られた。キャッキャ、ウフフ。若いやねぇ、青春やねえ。思わず遠い目になる。私もあんな頃、あったっけなぁ……。
「お疲れ様。授業はどうだった?」
聞くな、聞かないで。現実に引き戻さないでおくれ。さいん、こさいん、何だっけ。もっとも授業だけの問題じゃなくて、クラスメートに話しかけようとする度にさり気なく逃げられる対応に心が折れましたよ、私。それにしても普段何か困ったことがある時、優華さんはどうしていたんだろうか。
悠貴さんの質問には答えず、私は尋ね返した。
「そう言えば優華さんって、成績いいの?」
「そうだね。いつも上位10位くらいには入っていたと思うよ」
「ひいぃっ。ホントですかっ! やばい。やばいですよ。だって私、頭脳は二十七歳なのよ。高校生の時のことなんて覚えている訳ないじゃない」
そもそも記憶喪失ですし。優華さんの成績がガタ落ちしたら、確実に私のせいですよね。どうしましょ……。顔から血の気が引く。
「体は子供、頭脳は老化だね」
「老化言うなー!」
のんびり笑う悠貴さんに思わず吠えてしまった。人は自覚していても、他人から真実を言われるとグッサリ突き刺さるのですよっ!
「……はぁ。ちょっとは勉強しないと駄目だな。でも高校生の時の勉強って、『あっと驚くゴジラがシェー』くらいしか印象に残ってない」
「それ、何?」
「遺伝子の塩基配列、ATGCの覚え方よ」
それこそ箸が転げても可笑しい若かりし頃、先生が教えてくれた親父ギャグの語呂合わせに、ケラケラと笑ったものだ。思わず遠い目になる。こういうセピア色の記憶は不思議と温かい気持ちと共に蘇ってくる。きっと私の中で良い記憶だったのだろう。……じゃあ、蘇らない記憶というのは嫌な記憶なのだろうか。
「ああ、なるほど。と言うか、そんな覚え方しないと覚えられなかったの?」
悠貴さんのからかいの言葉で現実に引き戻される。私は自嘲気味にふっと笑った。その内に思い出すかもしれないし、今そんな事を考えても仕方ないか。
「頭のいい人には到底分からない悩みなのですよ……」
「まあ、分からない所があったら教えてあげるよ」
苦笑しながらそう言う悠貴さんは三年生の特待生と並んで、成績一位らしい。顔もよくて性格もよくて、成績もいいの? 神様、二物も三物も与えすぎじゃないでしょうか。
「じゃあ、またよろしくお願い致します」
社会人になってからも、勉強していないのにテストを受けなきゃと言う夢を見ることはあったが、実際この歳でまた勉強のやり直しをすることになるとは思わなかった。問題は山積みなのになぁと頭を痛めた私だった。
悠貴さんとお昼を一緒にしたその後、情報収集のために一人行動すると言って別れた。どこに? と言われたので、男性が入りづらい場所ですよとだけ言っておいた。そう、情報収集は昔から給湯室やお手洗いと相場が決まっているのだ。私は意気揚々とトイレに入る。いや、化粧室という名の方がより相応しいか。もはや高級ラウンジのような休憩室と化した化粧ルームが完備されているトイレなのだから。……ああ、もう血の涙を流して良いですか。
さて、個室の中もゆったり贅沢に空間が取られていて閉塞感はないので、ここでしばし情報収集に励むことにする。まあ、いくら豪勢な内装といえど、トイレの中でただ待つ姿というのも客観的に考えると情けない気もするけど、そこは気にしてはならない。スパイ活動とは常に過酷な試練がつきまとうものなのだ。
そうやって自分を励ましていると、女性の声が聞こえて来た。なまじ豪華な化粧室なだけに声が遠く、聞き取りづらいけど必死になって耳をすます。ご丁寧な言葉に載せて、誰々君が今日も格好いいとか、誰と誰が付き合っているとか、誰々先生はうんざりとか、どこの学校でも聞かれるような会話だ。お嬢様でも話す内容は結構庶民と一緒なんですね。ちょっと親近感が湧きましたよ。
その後も何組かのお嬢様方が入って来たけど、残念ながら今のところ有益な情報は得られてはいない。まあ初日だし、こんなものかなと、そろそろ引き上げようとした時、話しながら数人の女生徒が入って来た。
「本日も有村さん、男性を引き連れていましてよ」
いかにも不愉快そうな声と『有村さん』の名前に、私は鈍っていた神経を研ぎ澄ませた。これはもしや本日一番の当たりか。
「男性に色目を使って、汚らわしい事。あのような女性がいると、この学園の品位をも下げてしまいますわ」
「あなたの婚約者もその中にいましてよ。酷い女ですわよね、みなみさま」
「は、はい、そう……ですね」
みなみと呼ばれる女生徒が言われるがまま、おどおどと返事をしている。
「また、有村さんに『お話』し、しなければいけませんわよね」
「は……は、い……」
「彼女もご自分の立場をもう少しご理解頂かないと。これだから庶民の方は困りますわ」
誰が誰だか分からないが、とりあえずは有村さんに敵意を持って接しているグループで間違いなさそうだ。それにしても一人、気弱そうな『みなみさん』という人がいるな。完全に周りに流されている。これが薫子様ご一行で正しいとしたら、昨日、薫子様方が挨拶に見えた時、一番後ろに控えて身を小さくしていたあの子かもしれない。
「そう言えば、優華様、本日から登校されていましたわね」
「ええ。お元気そうでした」
今度は優華さんの名前が出て、頭をすぐさま切り換えた。すると。
「まったく――あの女は権力を笠に着て忌々しいっ。怪我したからと言って、見せつけるように急に二宮様にベタベタ寄り添っていやらしいですわっ」
今まで沈黙を守っていたのであろう女生徒が憎々しそうにそう言い放った。この貫禄のある声は。
「か、薫子様。そのような事、誰か耳にされましたら……」
先ほど強気だった声の女生徒が焦りながら、その答えを出してくれた。ですよねー。昨日の猫撫で声とまるで違うじゃありませんか、薫子様。悠貴さんの前評判とも随分違うんですね。友達と称しながら実は嫌いだったわけか。しかし思った以上に憎まれているみたいなんですけど、優華さん。他人事ながらもへこみますわ。それにしてもそんなにベタベタしてたかな? こそこそ尋ねていたのがそう見えてしまったのか。でも婚約者だったら、あれくらいの距離はおかしくはないと思うけど。
「心配なさらなくても大丈夫ですわ。ここに告げ口できるような人間などいやしませんから。ねえっ」
……ん? もしやこれは私に言っているのだろうか。まさか本人に言うことになるとは夢にも思わなかったのだろうけど軽率だな。しかし、親の権力を笠に着ているのはどっちだか。あなたの本質がこれなら頂けませんよ、薫子様。出てみるのも面白いけど、まだ分からない事が多いから背景を知るためにも、今回はとりあえずトイレの扉をコンと一つ鳴らして了承してみよう。わざわざ敵を作ることもないし。
すると勝ち誇ったような薫子様のお上品な笑い声が聞こえた。こういう人は親の教育につぶされるタイプじゃなくて、一緒になって奮起するタイプなんでしょう。単純明快で、自分の欲望のまま、伸び伸び生きているようで羨ましい限りです。嫌味じゃなくてね。そんな事を考えていると、いつの間にか薫子様ご一行が出て行ったのに気付いた。居心地いいし、このまま考えを整理してみよう。
今回分かったのは彼女たちが庶民嫌いだけでなくて、有村さんが男性人気を集めているところも気に入らないのだろうと言うこと。ああ、そう言えば、薫子様は悠貴さんに好意を抱いているようにも感じた。よっ、さすがもてるね色男。
それで悠貴さんが言うことには、薫子様は優華さんと一緒になって有村さんを苛めているらしいけど、今のやり取りからして、グループ内で対立しているということなのかな? でも優華さんは友人を作らないタイプらしいし、取り巻きは薫子様派のような気がするから、優華さんは見せかけの御山の大将って事? 薫子様がそんなに自分が筆頭に立ちたいなら無理して御山の大将を置く必要はないのにな。そうすることによって薫子様に都合のいいものは何だろう。
うーん。優華さんの悪評判という事くらいだろうか。優華さんが率先していたら、優華さんの名前がどうしても強調されるし、庶民嫌いの彼女たちが泣く子も黙る権力者ナンバーワンの優華さんを隠れ蓑にするのにはいいかもしれない。でもねぇ、何だか引っかかるんだよね。
うーんうーん……。
やがて。
「あ、あの、大丈夫? あまり無理しない方が……」
遠慮がちに個室の外から声がかかるまで、自分が声に出して唸っている事に気付かなかった。優華さんの矜持、引いては私の矜持を守るべく、鼻をつまんで、あ、大丈夫ですぅと涙目で声色を変える羽目になったのは……言うまでもない。