7.寮生活スタート
「……立ちくらみしていいですか」
その学園の重厚な門を前に私は立ち竦まずにはいられなかった。写真では外観を見ていたが、実際その前に立つと圧倒的な迫力にひたすらぽかんと見つめるしかない。そして遙か視線の遠くまで続く学校の壁。一体この敷地、何平米あるんだよぅ。日本は狭いというのに敷地の無駄遣いだよ。そしてどれだけお金かけてるのよっ! 泣きそうになる私に彼はにっこり笑って、はいどうぞと腕を広げた。
「あ全然大丈夫でしたー」
「立ち直るの早いね」
だからつまらなそうにするのはやめましょうか。大体、校門を前に抱き合うところを見つけられて、不純異性交遊で取り締まられたらどうするんですかね。
すると門から誰かが出てくる足音が聞こえたかと思うと、背中にトンと誰かがぶつかって腰に手を回された。何だいきなり痴漢発生ですか。
「ああ、優華さま、良かった!」
高く通った女性の声が聞こえた。安堵の声に敵意がない事を知ると、回された腕をそっと外して、その女性に向き直る。この人は……。
「すみれ……様」
だよねと一瞬、悠貴さんに目をやると、よくできましたとばかりに笑みを浮かべた。はあ、緊張で胸がドキドキする。
「い、いきなり抱きついてごめんなさい。お怪我はどう? ……いかがですか?」
「おかげさまで大したことはございません」
「本当に良かったです。二宮様が面会謝絶だっておっしゃったから、重傷なのかと思って。本当に本当に心配しておりました……」
瞳を潤ませるすみれさんに、私はしごく当然、悠貴さんを睨み付けた。言葉のあやじゃなかったんかいという非難を込めた視線に彼は少し肩をすくめた。
「ご心配ありがとうございます。悠貴さんが大袈裟に伝えてしまったのですね。私は大丈夫ですからお気遣いなく」
悠貴さんの勘違い発言を撤回するように、私は穏やかに微笑んでみせた。すると彼女は驚きで目を大きく見開いた。……え。何かまずい事、言ってしまっただろうか。あ! もしかして皆の前では『悠貴様』が正解だったのかな?
「すみれ様……?」
私がばれたかな、いやばれる訳ない大丈夫サーと楽観的に思いながら声を掛けると、すみれさんは我に返ったようで、すぐ何でもないと笑った。
「あ、じゃあ、じゃあ。私の部屋にい、いらっしゃって下さいな。快気祝い致しませんか。優華様にお話したい事もございますし……」
たかだか三日程度の入院で大袈裟だなあと苦笑しつつ、いきなり部屋は困るなと焦る私に悠貴さんが助け船してくれる。
「ごめん。僕たちはまだ寮母室で帰宅の報告をしていないんだ」
「……あ。そ、そうなんですか」
「優華もまだ完全に回復していないし、快気祝いはもう少し先にお願いするよ」
「……はい。分かりました」
明らかに気落ちした彼女だったが、素直に頷いた。
「ごめんなさい、すみれ様」
「い、いえ、こちらこそ。私もいきなり申し訳ございませんでした」
「じゃあ」
そう言って踵を返すと、背中に待ってと声が掛かり足を止めて振り返る。
「あ、あの。またお話、して、頂け……ますか?」
「ええ。もちろん」
そう返すと、なぜかすみれさんは嬉しそうな、涙ぐみそうな表情をした。疑問に思いながらも、私は悠貴さんに促されて、彼女に一つ会釈した。悠貴さんが少し後ろの気配を伺うように一瞥し、歩き出した。私は悠貴さんに寄り添うように、こそっと尋ねる。
「呼び方は皆の前でもさんづけでいいのよね。様じゃないわよね」
「うん。普段からそう呼んでいたから、彼女が引っかかったのは君の態度なんだろう。僕もできるだけフォローするけど、とにかく長時間、知人に接するのは避けた方がいいね。あと……彼女には気を付けてね」
「え? 彼女って……すみれさんの事? 仲良いんでしょ?」
「仲良かったよ」
「……過去形な訳?」
思わず眉を寄せてしまう。昨日はそう言わなかったじゃないか。
「留学中の時のことは僕にも詳しく分からないけど、聞いた話では、いつの間にかお互い口も聞かなくなった様子だったって」
二人の間に何かあってケンカ別れしたということだろうか。
「……じゃあ今、声を掛けてくれたのは」
「話しかける切っ掛けだったからかもしれないね。あるいは……彼女が君を突き落としたのかも」
「えぇ? だったら話しかけて来ないでしょ」
「突き落とした相手を見たのか、確認にしにきたのかもしれない」
確かに私が感じたのは『声』だけ。優華さんが見ていない可能性は高いけど。……ちょっと乱暴な考えの気がする。それに彼女が優華さんを突き落としたなら、さっきのような態度取るだろうか。
「まあ、用心にはこしたことがないって事だよ。少なくともこの学園にはいるんだから」
すみません、ちょっと待って下さいな。まるで推理小説の世界に入り込んだ気分なんですけど。犯人捜しする主人公になりたい訳じゃ、全然ないんですよ。学園ラブコメディーとかがいいんですよっ。と言うか、よく考えたら私の到着点って結局どこになったんでしたっけ。そう尋ねると、とりあえず私の正体が分かるまで学園生活を満喫すればいいんじゃないかな、と実に軽いご助言を頂いた。ありがたやありがたや。
そんな話をしている内に、いつの間にか寮という名の高級ホテルを前にしていた。まあ、四百名からの生徒を収容するのだからそれなりに大きいんだろうななどとは覚悟していたがね、いたが……。
「基本的には二人一部屋。ただ、別負担となるけど希望者には一人部屋を用意されるんだ」
もちろん上流家庭の方々は一人部屋を多く選択しているらしい。二階以降、各階ごとホテルの受付のような寮母室及び警備室があり、それを中央に左側への通路が男性寮、右側への通路が女性寮となっている。一階は医務室や食堂やカフェ、トレーニグルーム、音楽の練習場、談話室、シアタールーム、アトリエなどがあるらしい。ああ、やだやだ。もう何も聞きたくない。
「もちろん男女が互いの部屋に遊びに行くことは禁止されているよ」
これだけロビーが広いと紛れ込んで入っても分からなそうだけど、校内とは違ってSPのような警備員さんがウロウロ巡回している上、通路には監視カメラがついているので、まずそういった問題は起こらないようである。ちなみに二階は寮母のトップ、寮母長が常駐していて、そこで外出届けなどの手続きを行うらしい。
と言う事で、私たちは二階の寮母室に向かう。
「鈴木さん、こんにちは」
鈴木さんが寮母さんの名前ですね。
「ああ、お帰りなさい、悠貴君」
「はい。ただいま戻りました」
鈴木さんは笑顔の悠貴さんに笑みを返すと、続いて私を見た。心臓が高鳴る。いちいちドキドキしていたら身が持たないな。大丈夫、バレるわけないってば。
「優華ちゃん、あんた怪我したって聞いたけど、大丈夫なのかい?」
何だこの口調、近所のおばちゃんか。やはり寮母様最強なのか。
「ありがとうございます。明日から登校できます。ご心配をおかけ致しました」
「ん。気をつけるんだよ。あんた、細っこいし、もっとご飯もしっかり食べなきゃ駄目だよ」
「……はい」
そして私たちは手続きを終え、エレベーターを使って最上階まで上った。
「じゃあ、僕はこちらだから」
そう言って颯爽と立ち去ろうとする悠貴さんの腕をがしりと掴んだ。待て待て待て。もしやここから先は私一人ですか。ものすごく不安なんですけど。
悠貴さんは私の腕を取って、両手で包み込んだ。
「うん。気持ちは痛いほど分かるよ。僕と離れがたいんだね。僕も君と離れるのは酷く辛い。胸が張り裂けそうだよ」
うん。気持ちが痛いほど分かっておられませんね。ちなみに私は不安で胃が張り裂けそうですよー。そうじゃなくて、これからどうすればいいのか。私はさり気なく手を振りほどいて、こそこそと小さく尋ねる。
「特に何も。夕食まで部屋でゆっくりしておけばいいよ。夕食後は終始自由時間で、談話室ならまた話せるから。じゃあ頑張れ」
そう言って彼は軽く手を上げると、身を翻して行った。
ああ無情……。しかしいつまでもここにいるわけにはいかないし、部屋に行くしかないか。そして手に持ったカードキーの番号部屋と向かった。
足音が吸音されるふかふかカーペットのせいもあって、しんと静まりかえった廊下が何とも心細い気持ちになる。普通のホテルなら子供のはしゃぎ声があって、少し煩わしいと思うこともあったが、今は物足りなささえ感じた。
漸く部屋の前に着き、カードキーを入れようとしたその時。静寂な廊下にかすかな音を立てて数名がこちらに近づいて来るのが目に入った。
気位高そうな女性が先頭に数名引き連れたその女性は。
「優華様、退院おめでとうございます。とても心配で胸を痛めておりましたのよ、わたくし」
祈るように両手を組んでそう言うのは、そう、薫子様だ。お連れ様ご一行も、ええとても心配しておりましたと頷いて反応している。薫子様ご本人を目の前にすると、人を従わせる事に慣れたお嬢様のオーラを発しているのが身に染みてよく分かる。
「……薫子様。ありがとう存じます」
「よろしければ、夕食までわたくしのお部屋でお茶を致しませんこと?」
「ありがとうございます。ですが、戻ってきたばかりで色々準備致しませんと」
「あらそうでしたわね。わたくしとしたら……申し訳ございません」
あら、意外とあっさり。助かったけど、やっぱり社交辞令でしょうか。
「そう言えば、優華様」
「はい、何でしょう」
「お怪我された場所に二宮様が側におられたというのは本当ですの?」
え? そう、だよね。多分。ただ、最初に駆けつけたのは彼の友人だとは聞いているけど。
「ええ、そうですね。それが何か?」
「……いいえ。そういう噂を耳にしたものですから。それではお大事になさって下さいませ。ご機嫌よう」
「ええ。それでは失礼致します」
シャラララーンという涼やかな音と薔薇でも散りそうな上品さを持って身を翻し、薫子様ご一行は立ち去った。私はそんな彼女たちを見送ってため息を一つくと部屋のキーを差し込んで解錠した。
とにかく夕食までにこれまでの事を整理しよう。そう思った私だったが部屋に入った途端、寮たる部屋とは思えない様相に脱力して、早々にベッドに倒れ込んでしまったのだった。