4.仮説を立てる
午後の精密検査も終わり、何も問題ないと言うことで、月曜日からは学校に行く事ができるそうだ。この病院は平日退院が規則らしいから、日曜日に退院できるのは瀬野家の以下略という事ですね。
病院生活はなまじ身体が元気な分、何かしたい気持ちが立ったがあれから見舞客も来ず、することも何も無くてとにかく暇を持てあましていた。しかし、やはり精神的な疲れが出ていたのだろう。ベッド中にいるといつの間にか、眠っていたようだ。
夕方になって、朝と変わらぬ爽やかさを纏った悠貴さんがやって来た。学校から直行してくれたらしい。
学校指定の制服なのだろう。紺色のブレザーにねずみ色のパンツと青のストライプ柄のネクタイと言った一般的な学生服さえも彼の美形度は損なわれていない。
私は断然詰襟の学ラン派だったが、ブレザーもなかなか良しと一人ニヤリとする。不気味な笑みを浮かべているであろう私にも、彼は変わらずお綺麗な笑みを浮かべて問いかけてくる。……大人だ。
「今日はどうだった?」
「精密検査では問題ないとの事で、土曜日まで入院して、日曜日に退院だそうです」
「そう、良かった」
彼はそう言いながら、重そうな二つのカバンを下ろしてソファーに座る。私も彼に習って向かいのソファーに腰掛けた。
我知らず、ふっとため息一つ零れる。
「何だか疲れているようだね」
「そうですか? ……ええ、そうですね。寝起きだから余計そう見えるのかもしれませんが、疲れてはいます」
やっぱりこれからの事を考えると不安で、色々堪える。身体は元気でも精神的な疲れに引きずられてしまうのだろう。
「そっか。昨日の今日だし、それもそうだね。今日はこれで帰るよ」
「え? せっかく来て頂いたのに」
「これからの事だから、元気になってから聞いて欲しいし。顔を見られただけで十分だから」
「そうですか」
それもそうだわ。寝起きで冴えない頭でぼーっと聞くのも良くないし。
「じゃあ、また明日、午後から来るよ」
「ありがとうございました」
「うん、お大事にね」
そして悠貴さんは帰って行った。
ここの食事は美味しいし、部屋は豪華で、お風呂も伸び伸びと過ごせる。看護師さんも頻繁に顔を覗きに来てくれて、とても親切だ。けれど医療関係者以外は誰も訪れない立派な特別室でまた一人、自分がここにいる意味を考えながら夜を明かすこととなる。
次の日、宣言通り、悠貴さんは午後になってから部屋を訪れてくれた。昨日と同様重そうなカバンを持って。
彼の顔を見ると、約束が守られた事への安心した気持ちと嬉しい気持ちが湧き起こる。それは優華さんの気持ちなのかもしれない。
そして私たちは向かい同士でソファーに座った。
「昨日の話の続きだけど、学園生活の二年二ヶ月弱についても何も覚えていないんだよね」
「はい」
「写真部から借りた全校生徒の写真があるから、これから君と関係ある人を説明しようと思うんだけど」
「あ、助かります」
「うん、それで僕も聞きたいんだけど、君は誰かな?」
彼はにっこり笑って、そう尋ねる。あまりにの事に虚を突かれて言葉を失ってしまった。婚約者だからか、彼は私が『優華さん』じゃないと気付いたようだが、あまりにも話の流れの中で言うものだから、表情を作ることすらできなかった。こう見えて、なかなか食えない人物らしい。お綺麗な笑みのまま私の答えを待つ彼だが、その笑顔さえも胡散臭さが含まれているような気がしてきた。
しかし、いずれ自分一人では乗り切る事ができない部分が出てくるはずだ。それならば早い内に協力者がいる方がいいだろう。次第に落ち着きを取り戻すと一つため息をついた。
「私は木津川晴子、二十七歳、会社員です」
「そう。それで?」
「事故前の記憶はあやふやで、あとは家族構成だけは辛うじて分かると言った程度かな。後は気付いたらこのベッドの上にいたの。残念ながら、それ以上は自分でも分からないわ。まあ、仮説は立ててみたんだけど」
「へえ、どんな?」
私は今日一日考えた仮説を披露する。信じるかどうかはアナタ次第ですけど。
「思うに、私は転生したと思うの。優華は財閥の娘なんでしょう? それに高校生の身で婚約者だなんて現実にある訳ないし、ここはきっと乙女ゲームの中ね」
「乙女ゲーム?」
「ヒロインになりきって、美形の男性達と恋愛するシミュレーションゲームよ」
「そう言えば、そういうCMあったね」
私は押しとどめるように手の平をばっと広げて、ここに断言する。
「ああ、勘違いしないで。私、ゲームはやってないから! そういうライトノベルを読んだ事があるってだけよっ」
「うーん。何を釈明したいのかな。その言い訳、本末転倒の気がしてならないけど大丈夫かな」
気遣いの笑みを浮かべる彼に、私も動揺を隠す笑みを返して話を続ける。
「え、ええっと話を戻すけど、現在、巷で流行っているライトノベルの題材の一つでね、乙女ゲームの中に転生して、ヒロインになったり、悪役令嬢が破滅ルートのフラグを折る為に奮闘するっていうのがあるの」
「なるほど。電波系の人なんだね。うん、いいよ。続けて」
彼は面白そうにこちらを見つめている。突飛な発言になかなか寛容な心を見せているが――。
「……いや、馬鹿にしてるでしょ」
「酷いなぁ。被害妄想だよ。ただ、どうやってそのゲームの中で奮闘するのかなと思って」
「前世でその乙女ゲームをやっていて物語の流れを知っているから、ヒロインならフラグを立てたり、悪役なら折ったりって寸法よ」
得意げに言う私に、彼は小首を傾げた。
「君は記憶喪失だよね? どうやって奮闘する気?」
………ハイ論破されました。確かにそうですね。うん、これは事故の後遺症で頭がうまく働いていないんだな。乙女ゲーム転生に少しばかり憧れて、この仮説だけは決して譲れないなどと妄信的に思った訳ではない。
「そ、そうね」
動揺を隠すように私は咳払いをした。でも大丈夫、仮説はまだある。
「乙女ゲームの中に転生なら、記憶がないのはおかしいわね。じゃあ、異世界トリップかしら。誰か私を召喚したとか。今、世界は魔王襲来の危機に陥っていないかしら?」
「ファンタジーだね。でもここは現代日本だよ。魔法もないし、魔術師もいないし、世界を揺るがす魔王もいない。誰も君を召喚していないよ。……それとも」
そう言うと急接近して、私の顎を掴んで仰向かせると、色気のある笑みを浮かべて言った。
「……今夜は僕が君に魔法をかけてあげる」
「ひっ、ぎぁああっ!?」
思わず色気の欠片もない叫び声を上げてしまう。だけど、こちらをひたと見つめる彼に一瞬の内に息が詰まる。今の高校生はこんなにも色っぽいのか。彼が特殊なのか。彼から目が離せない。息できませんタスケテ。
「とか言って欲しいのかな」
そう言ってにっこり笑うと、あっさり解放した。
び、美形のどアップと冗談は心臓に悪いです止めて下さい。私は詰めていた息を吐き出して呼吸を整え、この流れを切るためにも会話を再開した。
「じゃ、じゃあ、パラレルワールドなのかしら。この広い世界には地球と似たような惑星があって、同時に同じような事象が並行していて」
「今度は多元宇宙論かな。想像力が豊かなんだね。でも良い子だから、そろそろ現実逃避から戻ってこようか」
彼はそう言って、爽やかに笑う。
「ああ、もうっ。じゃあ、私は一体誰だって言うのよ!」
「そこ、逆ギレしない」
「……あ、ハイ、すみませんです」
年下に宥められて情けない。もういっそうのこと、清々しく嘲笑ってやって下さい。最初の仮説を論破された事で既に心が折れていましたから。
「そうは言っても」
彼はため息をついた。
「まあ、でも君が優華じゃないのは分かるよ。記憶喪失にしても、性格が違いすぎる」
「どういう所が?」
「感情がそのまま顔に出ているし、お祖母様に対して一歩も引いていなかったし」
まあ、内心焦っていたんですけどね。何を話したらいいのかと。しかし感情がそのまま顔に出ているって、社会人としてどうだろう。……いや、仕方ない。目覚めてからこっち、驚きの連続なのだから。
「何よりあんな張り詰めた空気の中で、さらに凍り付かせる発言をするなんて……ありえないね」
思い出笑いしつつ、まあ、普通の人でもありえないけど、君はすごいねとありがたくない賞賛を頂いた。
「それでこれからどうする? その設定によっては目標地点が変わってくるけど」
「目標地点?」
「魔法世界の異世界トリップは排除するとして、もし転生ならこのまま君はこの世界で生きていくだろうし、パラレルワールドならば元の世界に戻るのが目標地点になるだろうから」
「……なるほど」
元の世界に戻ることができるならそれに越したことはないだろう、きっと。
「僕としては転生の設定を望むね」
「どうして?」
「今の君は面白いから見ていて飽きない」
……それって。
「その前の私……優華さんは?」
それには応えず、彼はただ静かな笑みを浮かべているだけだ。ずんと心臓に響く鈍い痛みに、私は思わず胸に手をやった。もしかするとこれは優華さんが感じた痛みかもしれない。
「どうかした?」
「胸が痛むのよ」
彼は眉を上げる。
「なぜ?」
「こういう男が婚約者なのかと思うと今までの私、優華さんを不憫に思ったの」
「……それはそうかもね」
彼は呟くようにそう言うと、ここにきて初めて笑顔以外の陰りの表情を見せた。……違う、前にも一度どこかで――。
「じゃあとりあえず、一番のせっかく転生したけど、うっかり記憶喪失になってしまった残念な悪役令嬢という設定でいいかな」
「何ですか、その悪意を盛り込んだ設定は」
「四番の幸薄そうな性格の悪い令嬢にうっかり取り憑いちゃった残念な浮遊霊設定でもいいんだけど」
「怖いわ! っていうか、我々の尊厳はどこ行った!」
そもそも四番なんて言ってないから! ……いや、ちょっと待ってよ。
「さっきから聞き捨てならない事に気付いたんだけど、一つ聞いていいかしら」
「どうぞ」
「もしかして私、というか優華さん、悪役令嬢……みたい、な?」
悠貴さんは考えるように首を傾げた。
「そうだね。悪役かどうかは知らないけど、評判はすこぶる悪いみたいだね」
「そ、そうなんだ……」
それは一番の残念設定で良さそうだ。はは。世知辛い世の中ですね……。
「い、一応聞いておこうかな。例えばどんな風に?」
「僕は直接見た訳じゃないけど、特待生の子を率先していじめているらしいよ」
「ヤダー。それ、悪役令嬢のテンプレそのままじゃないですか」
何やってるんですか、優華さん!
「まあ、悪役というより、極悪非道ってところかな」
「余計に悪化したよ! ……あ、もしかしてあなた、婚約破棄しようとか考えている?」
「まさか。それは全くないよ」
悠貴さんはあっさりと否定する。……そうなんだ。でもあれに関してはなぁ。
「彼女、誰かから恨まれているとかある?」
「一体何の話?」
「…………階段からの落下は本当に事故だったの?」
「それは……どういう意味?」
眉をひそめる彼に、私は蘇る背筋の寒さと共に昨日の昼間、体感したことを伝えた。