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目覚めたら記憶喪失でした  作者: じゅり
― 番外編 ―
35/43

35.たとえ足跡が消えたとしても(前)

 日々忙しさに追われると、学生時代は良かったなと振り返る瞬間がある。学生時代だってそれなりに大変だったはずだ。それでも社会人になってすっかりセピア色に変わった過去は少なからず美化されているとは分かっていても懐かしみ、そして憧憬を抱いてしまう。私はほんの一年前、短い期間ながらも再びその学生を体験したから余計なのかも知れない。




「ああ……夢だったか」


 私はベッドから身を起こすと思わず呟く。


 今でも夢を見る。卒業して何年も経つのに学校に遅刻しそうな夢だとか、テスト前なのに何の勉強もしていなくて真っ青になる夢だとか、体操着を持って来るのを忘れて誰かに借りようとする夢だとか。なぜか学校関連はいつも焦っている夢。


 そして最近とりわけよく見るのが、二週間弱過ごしたあの学園に通っていた時の夢だ。懐かしむ程長くいたわけでもなく、級友達と交流したわけでもない。それでも自分の学生時代に比べれば、最近の出来事としてより強烈な印象として残っているからだろう。そして先日、優華さん達と会ったからかもしれない。



 社長の常套句『仕事だ来い』で引きずられて日曜日に出たのが、大企業の会社社長やその後継者が集まる社交場。世の社長秘書方々も同じく辛い思いをしているのだろうと、涙を飲みながら出席した訳だが、それらしき人物は見当たらなかった。互いに愚痴をこぼすという労り合い会をしようと目論んでいたのに。よく分からないけど、社長に嵌められたようだ……。


「晴子様!」

「優華さん、お久しぶりです」

「本当ですわ。休みと言えば、いつもお兄様に晴子様を取られてなかなかお会いできないんですもの」


 そう言って優華さんは社長を若干睨み付けると、社長は動じる事なく仕事だ、悪いが失礼すると言って翻した。じゃあまた後でと言おうとしたら優華さんが晴子様はここにいてと私の腕を掴む。社長はため息を吐くと、君はここにいていいと肩を軽く押さえられた。……そうですか? じゃあ、お言葉に甘えます。


 社長が歩いて行くのを見送って、私は振り返った。


「それで皆、その後、大学生活はどうですか?」


 内部試験はもちろんあったそうだが、彼らはエスカレーター式の大学へと進学したのだ。


「高校時代よりも少し大変ですけど、楽しく通っておりますわ。環境はまだ慣れませんけど、高校時代のクラスメートも進学しておりますし、顔なじみがたくさんですから」

「ただ単位を取るとか取らないとか面倒だよな」


 うーんと考え込むのは松宮君。確かにとりあえず必須単位だけはしっかり取っておかないとね。


「とは言え、まだ一年生だから楽な方なんだろうけどね」


 そう言って悠貴さんは苦笑する。


 私は自分の事を思いだしてみる。確か一年生の時は環境に慣れるのに必死で、二年生は勉強に追いつくのに必死で、三年生の時は就職活動に必死で、四年生の時は卒業論文に必死で……うん、私の人生って以下省略。そんな風に過去に思いを寄せていると、松宮君がそうだ木津川! と小さく叫んだ。


「お前、君島に余計な事を吹き込んでないだろうな」

「君島……ああ、薫子様ね。え? 余計な事? そんな事をした覚えはないんだけど」


 第一、優華さんの婚約披露パーティーで見かけた事を除いて、社会人に戻ってから一度も会っていないんだけど、何だろう。顎に指をやって考えてみる。……そもそも腹黒の悠貴さんに対してならともかく、真面目ないい子の松宮君が困る事なんてしないけどなぁ。


「晴子さん、心の声がだだ漏れしているからね……」


 はっ、待ってよ。もしや学園時代にガールズトークした時のアレの事では。


「えーっと、松宮君、どう困っているの?」

「困っていると言うか、最近よく近づいて来る」


 彼は不審そうな表情を浮かべる。


「近づいて……はは、そうですか。光栄じゃないですか、あんな美女が近寄って来てくれるだなんて、うんあはは……」


 とりあえず笑って誤魔化してみる。と言うか、なぜ私だとバレたんだろう?


「誤魔化すなっ! ネタは上がってるんだ」


 うっそー。……いやいや。そもそも優華さんが何かするわけがなかったか。


「え、えーっとそうね。アレかしら、アレ。薫子様はツンデレっ子が好きみたいだから、お勧め物件として松宮君を推しておいた事かなぁ」

「なっ!? お、お前なぁっ!」


 えーっと、とりあえず。ここは両手を合わせてウインクだな、うん。大人の魅力でイチコロよとか何とか。


「ごめんねっ」

「軽いな!」


 ちっ、効いている気がしない。そんな話をしていると噂をすれば影という事で。


「ご機嫌よう!」


 シャラーンと涼やかな音色(幻聴)と辺りに舞う薔薇の花びら(幻視)と共に薫子様が現れた。うわっ、久々にお目にかかりましたわ、薫子様っ! 相変わらず華やかですね。


「ご機嫌よう、皆様。そして松宮様、ご機嫌よう! こういった場は苦手ですけど、松宮様が参加しているとお聞きしまして、わたくしも最近出席するようになりましたのよ」


 アピールすごいな、薫子様! 一方、松宮くんは。


「……ああ、そうなんだ。お疲れ様」

「まあ! お気遣い頂いてありがとうございます」


 なかなかクールな返事だな、松宮くん。それでも構わず薫子様はにこにこしていらっしゃいますね。それにしても、お疲れ様って社会人ではこんにちはの代わりに使っているような普通の言葉だったりするよね。いや、どうでもいいんですけど。


「いや別にそういう意味じゃないけど……な?」


 困惑気味の松宮君、なぜ私を見るのですか。お願いですからいつまでも私の方を見ないで下さい。ほら、薫子様の視線がこちらにずれたじゃないですかっ! ああぁ、何かちょっと睨まれているし! 誤解ですよ薫子様。


「あ、あの、かお――」

「あら、あなたは?」

「……っ!」


 そうだ。彼女とは初対面になるんだ。けれど薫子様が警戒するように目を細めた様子に、なぜか胸がちくりと痛んだ。


「か、薫子様。こちらはわたくしの兄の秘書の方ですわ」


 反応の鈍い私に優華さんが慌てて言葉を紡ぐ。そしてその言葉に薫子様はまあそうでしたかとすぐに警戒心を解いた。


「それは失礼致しました。わたくしは君島薫子と申します」

「……こ、こちらこそ申し遅れました。木津川晴子と申します」


 そして微笑んでみせた。……うまく笑えているかな。そんな不安を隠していると丁度その時、社長がこちらに戻って来た。


「木津川君、ちょっといいか」

「はい」


 私はほっとして頷くと、振り返る。


「それでは私はこれで失礼致します」

「あの、晴子様……」

「……優華様、それではまた」


 何か言いたげな優華さんに笑みを送ると、一礼して社長と共にその場を立ち去ったのだった。




 今週の日曜日は久々に誰が何と言おうと休みでーすっ! 何か言葉変! 日曜日は休みなのが当たり前なのにー。ちょっと今、頭がお花畑だけど、大丈夫ですよー。はあ、久々に何しようかなあ。一日中引きこもって泥のように眠るのもいいけど、ああ、やっぱり時間が勿体ないし、ウィンドウショッピングとかしようかなぁ。あ、映画もいいかも。でも、外に出ると月曜日からまた辛いし、うーん、悩みどころね。何にせよ、楽しみだ!


 そんな事を考えながら冬眠前のクマのようにウロウロしていると、社長に声を掛けられる。


「木津川君、浮かれているところ悪いが、少し尋ねていいか」

「はい、何でございましょう、社長様!」

「……。女性は何もらえば喜ぶ?」


 ん? 社長様ってば、物を贈る女性がいたのですか? 平日のみならず休日のスケジュール管理もしているのに全然気付かなかったよ? 私の計算し尽くされた一分の隙も無い綿密なスケジュールをかいくぐるとは何者!? 手練れの間者かキサマ!


「……何か変な事を考えているようだが、一般論で聞いている」


 あ、そうですか。えーっと、一般、一般の女性ねぇ。ん? 一般って何だろう。私ももちろん胸張って一般人の代表格と言える自信はあるけど、念の為、あくまでも念の為、とりあえず友達を参考にしてみようかな。友人が欲しいと言っていたものを思い出してみた。


「えーっとそうですね。まあ、ジュエリーとかブランドバッグが無難じゃないでしょうか……多分」

「君でもそういうのが欲しいのか?」


 私? ――はっ! 何を言う。私は社長に手の平をばんっと向けた。


「ジュエリーやバッグごときで私の心を揺るがそうなど笑止千万! それらで胸が高まりますか? 心が豊かになりますか?」


 手を胸に当て、お祈りするように拳を包み込み、そして最後にもう一度、社長に指先をびしっと向けた。


「否!」


 一連の私の動きを見て社長が一言。


「……君は芸人か」


 すみません、調子乗りすぎました。あまりにも日曜日の休みが嬉しすぎて今、背中に羽が生えている事は否めません。


「それで結局、君なら何が欲しいんだ」

「そうですねぇ。今だと、洋菓子店『クロンヌ』の山羊乳を使ったレアチーズケーキでしょうか。ご存知ですか? 山羊乳って臭いに特徴があると知られているんですけど、そこの洋菓子店の山羊乳は全く臭みがないんですよ。コクがあるのにさっぱりで優しい味なんです。口の中に入れた途端ふわっと溶けて一気に広がるほのかな酸味と上品な甘さ。一口食べると感動のあまり気持ちまで浮きます!」


 私は手を胸に抱いたまま、夢心地で踵を浮かせて見せた。


「ほぉ、食べたことがあるのか」

「もちろんナイですっ!」


 びしっと言い切った私に対して、食べた事がないのによくそこまで語れるなと社長があきれ顔です。だって……。


「牛乳と違って大量に絞れないので、一日の販売数が決まっていて、いつも開店一時間で売り切れちゃうそうですから。とにかく、山羊乳は栄養価が高いのにカロリーは低いから女性にはもってこいですよ。うむコレで決まり! それにしてもスイーツほど脳に幸せホルモンをもたらす食べ物はあるでしょうか、いや無い、皆無である。スイーツの真髄とは幸せホルモンの分泌なのです!」


 力説している私に対して社長は途中から聞くのが飽きたのか、いつの間にか電話を手にして誰かと話していた。何よ、聞いたから答えたのに。いーだっ。




 次の日。


「おはようございます」


 書類を抱えて社長室に入り、机に何気なく目をやった途端、バサバサバサと音を立てて何かが舞い散った気がしたけど知らない。私は社長の机に駆け寄ると、しゃがみ込んで箱に視線を合わせた。


「こ、これっは……。もしや『クロンヌ』の幻のケーキ!? 『クロンヌ』の幻のケーキっ!? 『クロンヌ』の幻のケーキっ!?」


 大事な事だから三度言いましたよ! ああ、震えが止まりません! 本物でしょうか。触ってみてもいいでしょうか。恐る恐る手を伸ばして箱まであと米一粒分、といったところでふっと目の前から消えた。そ、そんな……。やっぱり幻だったのか。


「木津川君」


 ……幻よ、さようなら。半泣きになりながら声のする方を見上げると、社長がその箱を持ち上げていた。


 ああっ、やっぱり現物だった!? でも、もしかして来客用だったの? うぅ……お預け喰った犬だ。私はお預け犬だぁ……。何でよりによって『クロンヌ』のケーキを選ぶの。新手の嫌がらせですか。って言うか、どうやって手に入れたのですか。


「今週の日曜日に用事があるんだが、付き合ってもらえるだろうか」


 日曜日? また日曜日なの!? よりよって待望の日曜日なの!? 嫌に決まっていますよ絶対に無理嫌無理! 残業代出たって絶対嫌ですからねっ!


「謝礼としてこのケーキを君に授けよう」


 なっ!? 報酬はケ、ケーキっ!? 来客用かと思われたこの幻のケーキ!? ……いやいやいや。落ち着け私。久々の休みなんだよ。ケーキと休日、どっちを取るつもりよ私は。休みに決まっているでしょう。また社長に引っ張り回されて、次いつゆっくり休みを取る事ができるのか分からないんだよ、ねえ、晴子!


「っ……、い、いっ、いっ」

「い?」


 社長は静かな瞳でこちらを見下ろす。


「いっっ! ……い、犬と呼んで下さいませー、ご主人様」


 スイーツ欲という欲望に負けましたワン。私は情けなくも、にへらと笑みを浮かべた。


「……チョロいな」



 こうして今週の日曜日も社長の付き合いでつぶれていくのであった。

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