34.目覚めたら記憶喪失で……
一部、女性に対する不快な台詞がございますが、ご容赦下さいませ。
「随分、出世したようだね」
「か、ちょう……。ど、して、ここに」
「一応うちの父も瀬野傘下の会社社長だからね。今日は父が体調を崩して代わりにやって来た。それにしても君……」
柳原課長は無遠慮に私の頭から足へとじろじろと眺めると皮肉げに笑う。
「また懲りずに枕営業しているのか。思考は甘ったるいガキなのに、やっている事は大人顔負けだな」
いつか聞いた単語が私を襲うと体中の血液が沸騰し、熱を帯びた身体が震えだした。怒りで……震える。何も知らないくせに。何も知ろうとしなかったくせに!
「そんな、こと……」
喉の奥が熱くなって言葉が擦れる。それでも冷静になろうと強く拳で握り込む。
「そんな事していません。今も……以前も。私の能力を買って育てて下さった社長のおかげです」
「はっ、どうだか。女の社長秘書なんて所詮お飾りで、社長をお慰みするためだけのものだろ」
「あな、たと言う、人はっ!」
私だけでなく、社長まで侮辱している事をこの男は気付いているのか。
「しかし君みたいなのを置いて、どこが良かったんだか。ああ、堅物そうな君が発情期のメス猫のように鳴く様子は更にギャップがあって良かったのかな」
「……っ!?」
キンという鋭い音と共に目の前が真っ赤に染まり、頭が朦朧とした。身体がふらつく。次にこの男に会った時には絶対怒りに任せて全てをぶちまけてやろうと考えていた。なのに実際その場に立つと言葉が詰まって出ない。結局私はあの日から何一つ変わることができていなかったのか。
「でもまあ、今の君ならそう悪くもないな。一度俺にも試させ――」
「それ以上!」
怒りがこもった鋭く冷たい声が課長の言葉を遮る。そして二つの高い靴音が自分の横を通り過ぎると、私を庇うように両側に立ちはだかる二人を目にした。
「それ以上、晴子様を侮辱しようものなら瀬野家の権力を使ってまでも全力であなたを潰しますわっ!」
「そうね。その時の優秀な弁護士の紹介なら私に任せて。セクハラ・モラハラ・パワハラ、何で訴えてほしい? お好きな物を選んでちょうだい。社会的抹消に至るまで徹底的につぶしてくれるいい弁護士がいるのよ」
この世に救いなんてないと思っていた。ヒーローなんていない。誰も助けてなんてくれないと思っていた。ただ世の中の不条理に流されていく毎日だと、そう思っていた。
救いはきっといつだってすぐ側にある。自分が頑張っただけ、応えてくれるはずだ。きっと、いつかどこかで報われる。……そんなのは夢の話。何もかも全て虚飾に満ちた自分に都合のいい世界。そう思っていた。それでも――。
誰かの腕がふらつく私の腰を支え、誰かの手が私の肩に力を添えるかのように置かれた。
「自分が仕事できないからと言って、優秀な人材を潰そうとするとはずいぶん器の小さい人間ですね。あなたの下で働く方々は気の毒としか言いようがない」
「お前はホント誰に対しても平等に辛辣だな。ま、得てして当たっているんだけどな。人の上に立つ人間がこんな奴なのかと思うと――っ、反吐が出るっ!」
それでも本当はもう一度信じたかった。ヒーローなんていなくてもいい。たった一人でいい。膝をついた自分に手を差し伸べてくれる人が欲しかった。そしたら、きっと明日からまた頑張れるから。そう、毎日願っていたから。
目の前の景色が滲んで歪み、自分が泣いている事に気付いた。これまで流れた涙は肌に冷たく、心を冷やすばかりで癒されたことなどない。なのに今、頬を伝う涙はなぜ温かくこんなに優しいのだろうか。
「残念だな。地方へ飛ばしただけでは足りなかったか」
「社、長……」
「君の所の営業部、追跡調査させてもらった。君が行くまではいい営業部だったんだがな」
足音を鳴らし近づく社長はうんざりしたため息を一つついた。
「ビジネスの格言にこういうのがある。『一匹の羊に率いられた百頭のライオンの群れよりも、一頭のライオンが従える百匹の羊の群れの方が強い』とね。つまりビジネスではリーダーの資質が問われる。どんなに優秀の人材が揃っていても、人材を正しく評価し、相応しい仕事に配置させるリーダーでなければ良い成果は望めないって訳だ」
柳原課長は顔を青ざめて、社長を見つめている。きっと社長が次に口にする言葉が分かってしまったのだろう。
「君は優秀な人材を潰す側の人間のようだ。君に相応しい役職を改めて与えることにする。人事変更は後日通達するので、身辺整理して待っていたまえ」
社長が最終通達をすると、課長は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
「晴子様っ! 大丈夫ですか!」
振り返る優華さんを余所に私は声も無く、歪む視界の中、課長をただぼんやり眺めていた。結局この人は最初から最後まで私の事なんて何一つ見ていなかった。見ようとはしなかった。認めてなんてくれなかった。人の権力で彼を押さえこんだところで、それで私が認められた事にはならないのだ。ああ……そうか。そうだったんだ……。
「晴子さ、ま……?」
ゆっくり足を進める私に気付いたように支えてくれていた腕と手は自然と離れ、前に立ちはだかっていた二人は道を開けてくれた。そして私は課長の前に立って見下ろす。
「……課長」
張り詰めた空気の中、私が声を掛けると、彼はのろりと顔を上げた。先ほどの勢いを無くし、憔悴した表情だった。愚かな人。私に暴言を吐かなければ、少なくとも今の地位を守ることができただろうに。それでも言わなくては済まないほど、彼は私に憎しみを抱いていたのだろうか。不満を抱いていたのだろうか。屈辱的だったのだろうか。だとしたら……。私は手の甲で涙を拭った。
「課長。私、頑張ります」
課長は私の言葉に目を瞠った。
「次に会う時こそ課長が私を認めざるを得ないくらいの人間になってみせます」
そう。今の地位は皆の力があってこそなのだから。
「だから今度こそ課長も『私』を、『人』を見て下さい」
「っは。次ね……。もう二度と会うこともないだろう」
「だったら私が会いに行きます。その時、まだあなたが今と変わらなかったら……」
大人の女なら大人の対応が必要だ。だけど……私はそう、子供なんですよ。頑張った分だけいつかどこかで報われるはずだと信じたい甘ちゃんなんですよ。私は所詮、等身大でしか生きられない。だったら私は私なりのやり方で対処する。
子供上等! むしろ大人の女でいてたまるものですかっ!
私はスリットの入ったスカートを持ち上げ、片足を勢いよく上げると、驚愕の表情を浮かべた課長に向かって一気に振り下ろす。
そして――。
地面にヒールで叩きつけた甲高い音と課長の声にならない絶叫が共鳴するかのように廊下に響き渡った。
「今度は……今度こそ、このヒールであなたの頭を踏み捻って思考の構造を変えてさしあげます」
課長は顔を青ざめて、尻餅をつくようにのけぞっている。私はとどめと言わんばかりに地面をグリグリと一捻りすると、バサリとスカートを払った。
全てがすっきりしたわけでは無い。思いの全てを吐き出せた訳ではない。だけど呆然と青ざめる課長の表情を見て、気持ちが少しだけ軽くなった気がした。これで皆にかけた迷惑の責任を取れた訳ではない。それでも課長にプライドを踏みにじられた人たちが課長のこの末路を知って、自分が培ってきた誇りを少しでも取り戻してくれたらいいと、そんな風に思った。
……それにしても意外と膝が痛むわ、何てこったい畜生め。そんな風に頭の中で口悪く罵っていた私だったが、やがて辺りがしーんと静まりかえっている事に気付いて、漸く血の気が引いてきた。さてこの空気どうしましょうか。恐る恐る振り向く私にその時小さく、ぷっと誰かが吹き出した。
「……っは、はは、ははははっ! お前、すげー迫力。やっぱラスボス魔王様だわーっ!」
逆にこの張り詰めた空気を破る勇者は君か、松宮千豊クン!
「松宮君、君は間違っている。この場合は『女王様』の名がふさわしいよ」
うん、悠貴さん、S&Mが関わってきそうなその通り名はやめようか……。
「いや、あの格好は桜吹雪のお奉行様だったと思うが」
社長、あなたも時代劇が好きなんですね。おめでとうございます。私の中で好感度が1アップしましたよ。
「格好良かったわよ、晴子さん! 忘れない内にっと。――彼女はスカートをたくし上げると足を振り上げ一気に叩……」
や、あの。早紀子さん、私の行動をネタとしてメモらないで下さいますか。
そして――。
「晴子様……」
優華さんは私に駆け寄って来ると、少し背伸びして、首にぎゅっと抱きついてきた。
「わたくしは晴子様が……好き、大好きですわ」
「ありがとう、優華さん」
私は優華さんを抱きしめ返すと、肩に熱い雫が落ちてくるのを感じる。……そうだ、私には自分の為に涙を流してくれる人がいた。なのに、気付こうとしなかった。肩肘ばっかり張って周りを見ようとはしなかった。そして私のミスをフォローをしてくれていた同僚にも気付かないふりをして、私はただ悲劇のヒロインになっていただけだったのだろう。……本当に何も見ていなかったのは私の方だったのかもしれない。
「本当に……ありがとう。私も優華さんの事が大好きよ」
私はさらに強く抱きしめる。そして視線を変えて、早紀子さん、悠貴さん、松宮氏を見た。
「ありがとう、皆」
最後に社長を見つめた。私は優華さんの背中からゆっくり手を離すと、優華さんも釣られたように私を解放してくれる。私は社長に近づくと頭を下げた。
「木津川君……?」
私は顔を上げると、笑ってみせた。もう涙はない。
「社長、今まで本当にありがとうございました」
「……何を言っている?」
「社長のご厚意に甘えてこの一年やって来ました。ですが、私にもう一度、一からやり直すチャンスを頂けませんか。誰にも負けないくらい力をつけて、人の役に立つ人間になりたいんです」
それが課長に対する私なりの敵討ちだと、そう思うから。
社長は私の揺るぎない決意を見て取ったのか、ため息をついた。迷惑ばかりかけてすみません。
「分かった。ただし」
「は、はい」
社長の『ただし』は嫌な予感しかないのですが。
「こちらの業務が滞った場合、すぐさま戻ってもらうからな」
何だかんだ言って、社長は帰る場所を用意してくれる。そう思うと胸が熱くなった。
「はいっ! ありがとうございます!」
そうして私の敵討ちという名のやり直しの人生は今まさに始まるのだった――。
「……とか思っていたのに、何なんですかっ。たかだか一週間で呼び戻すなんて」
私は腰に手を当てて、社長室の椅子にぞんざいに座っている社長に抗議の目を向ける。
「仕方ないだろう。社長秘書に据えた奴が一週間で音を上げたんだから。君がいなくなってから業務は滞るし、こっちは大変だったんだ。むしろ一週間も我慢してやったんだから感謝しろ」
そう言ってイライラした様子の社長はいつもの飄々とした態度ではなく、どこか疲れ切った表情をしている。
「横暴だぁ。せっかくこれから頑張ろうと思っていたのに……」
肩を落とす私に社長はふんと鼻で笑った。
「横暴結構。俺は社長、君は単なる一社員だ。どちらの意見が通るか分かるな?」
「っ……また権力ですか」
「その通りだ。強い者が勝つ。これは世の常識だろ。それより溜まっている仕事、さっさとこなせ。未来より今、役に立て」
「うっ……」
あまりの正論に続けて抗議する勢いを失っていると、テーブルにどさりと頭の上までうずたかく積まれた業務書類を渡してくる。
「な、なっ、何ですかこの量! 何で、一週間でこんなに溜まるの!?」
「君が優秀過ぎたんだろ。以前の君と同じ量を言いつけたら、できるわけがないと泣いて猛抗議されたよ」
猛抗議って……。確か私と入れ替わりに社長秘書になったのは以前、社長秘書の辛さに嘆く私に『うふふ。私はこれからデートなの。あなたは社長とデート頑張ってねー』と投げキッスしてきた宮川美奈子さんだったはず。そうか、彼女も社長の洗礼を受けたか。ふふふ、リア充に天罰が下ったぞヨシと仄暗い笑みが浮かんでしまうのは仕方ないことだろう。
「なるほど。笑っていられるとは余裕だな。少し手伝ってやろうかと思ったが気が変わった」
「え!? ち、違っ」
「考えてみれば、この一年ずっと君の能力基準でスケジュールを組んでいたんだ。全部君が責任取って何とかしろ」
「なっ。や、やっぱり、やっぱり……。ああいや、もういや。やっぱりこんなブラックな上司の職場、やだー」
私は頭を垂れ、テーブルに手をついてぼやく。もぅマヂ無理。意識飛ばそ……。
「後生ですから次に目覚める時には、私をもう一度記憶喪失にしておいて下さい」
「ばーか。誰が忘れさせるか」
顎を掴まれ、仰ぎ見て目に入るのは意地悪そうに笑みを浮かべるイケメン社長のドアップ。
「ほら馬車馬のようにキリキリ働け、俺の社畜よ」
社畜とな!? 私は会社カースト制度の最下位ですか。ああ、私が柳原課長を見返す立派な人間になるまで道のりは果てしなく遠いようだ……。
(完)
これにて本編は終了とさせて頂きます。展開が遅い物語でしたが、ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました。番外編は社会人に戻ってからのお話です。あくまでも蛇足の物語ですがご興味がございましたら、そちらも足(目)を運んで頂けると幸いでございます。
たくさんの方々のお目に止めて頂きましたこと、またご感想を頂きましたこと、本当に励みになりました。改めまして、心より感謝と共にお礼申し上げます。本当にありがとうございました。




