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目覚めたら記憶喪失でした  作者: じゅり
― 本編 ―
32/43

32.これからの行方

 こ、怖っ! 


 社長の冷たい瞳に、思わず表情が強ばる。きっと社長まで私の噂は届いているんだろうな。社内をかき回した罪で、社長自ら、退職願いを出すよう要請されるのかもしれない。そうだとしても、やだな。こんなに弱っている時じゃなくて、もう少し心が回復した時に言い渡して欲しかった。


「君は確かまだ独身だったな。今、実家暮らしか?」


 ……ん、え? 思いがけない質問に戸惑う。


「どうなんだ?」

「ひ、一人暮らし、です、けど……」

「そうか。じゃあ身軽だな。来月から本社勤務になるが構わないな? 今月半ばまでに今住んでいる所を引き払って、来月からはこちらが用意した所で暮らしてもらう。通勤で時間を使うのは勿体ないからな。ああ、心配するな、家賃はこちらから出す。それと、これからの仕事を今月末までに頭に叩きこんでもらう。書類他は後で持っ――」

「…………えっ!?」


 いえいえ、待って。急に何の話ですか!?


「あ、あの少しお待ち頂けますか」


 思わず手を伸ばして、話を止めてしまう。すると社長が私の腕を掴んだ。……はっ!?


「細いな。むしろガリガリだ。肌はカサカサだし、顔もやつれている」


 顎を掴まれて仰向かされて、端整な顔を寄せられても全くトキめかない不思議。あまりにも事務的だからだろうか。でもさすがにどこか大人の色香がある。


「入院してからの問題じゃないな。来月までに無理矢理でも食べて、少しは肉をつけてもらわないとな。秘書は会社の顔でもあるから貧弱では困る。仕事もハードだしな。胸は……元々手遅れか」


 そこ、やかましいですよっ! 大人の色香とか、前言撤回である! ……じゃなくて。


「一体……何のお話をされているのですか?」

「君は頭が切れると聞いていたんだが」


 あ、それはガセネタです。って、いやいや、これって私が悪いんですか?


「……すみません。初めからお願い致します」

「君は秘書課希望だと聞いている。だから来月からは俺の秘書になってもらう」

「…………はっ!?」

「まあしばらくは秘書見習いという感じだが。俺の今までの優秀な秘書がうちの祖母に引き抜かれる事になったんだ。さすがに未だ現役当主の命令には敵わないからな」


 ああ、あの威圧感びんびんのお祖母様ですね。


「どうして私を……もしかして優華さんですか? それとも事故の事ですか?」

「勘違いしないで欲しい。確かに優華に社員を本当にちゃんと見ているかと怒られはしたが、君にいい役職をつけろと言われた訳じゃない。事故に関して責任はあるが、負い目はない」


 本当にはっきり物を言う人ですね。


「じゃあ……なぜ」

「もちろん君の実績に鑑みて、君にふさわしい役職が必要だと思っただけだ。まあ、社長と言えど、そう容易く人事に口出すことはできないから、名目上、全社員の人事の検討見直しをさせたんだ。最終的には融通をつけられる人事は秘書の役職くらいしかなかったが、君が以前から希望していたという事もあってそれがふさわしいだろうという結論に至った」


 おかげで自分まで手続きやら何やらで徹夜続きだ、とため息を吐く社長。えーと、ここは私が謝った方が良いのでしょうか?


「あの事故の日、君が勤める支社に行く途中だった」

「……私の部署の事でですか?」

「そうだ。今は定年退職した君の元上司、今川さんから電話があってな」

「今川課長? 一体誰が」


 職場の誰かが連絡しないと、今川課長には伝わるはずがない。


「それは言わなかった。ただ、どうやら可愛い元部下たちが大変な事になっているようだ、よしなに頼む、とね。まさか大変な事になっている社員と衝突事故を起こすとはさすがに夢にも思わなかったがな」


 確かに。社長の車と衝突だなんて、何と言う因果なのでしょうか。ともかくも彼らの誰かが元課長に電話して泣きついたのだろう。私も部下思いでいつも親身になってくれていた今川課長の電話番号は未だに消さずに残してある。あの時は電話を掛けるとは思いつきもしなかったけれど。


 社長が言うには今川家と瀬野家とは旧知の仲なのだそうだ。家柄良く性格も穏やかな優秀な人で何度も昇進の話はあったが、自分は社員と近い場所にいて、共に喜びを分かち合いたいと固辞したそうだ。後ろがつかえるから頼むから昇進してくれと言ったのになと愚痴っていたのは聞かなかったことにした。


「そして柳原課長について調べてみた」


 課長の名前が出て、反射的に身体が震えた。シーツを強く握りしめる。社長は横目で私を一瞥して続けた。確かに柳原課長が就任する先々の職場は軒並み営業成績が良かったが、新入社員の退職率の高さや顧客や取引先のクレームの数もかなり多かったと言う。


「今後は数字だけで判断するなと営業部や人事部には強く言っておいたよ。彼には地方へ出向してもらった」

「そう、ですか」

「他に質問は」


 短い質問で社長は問う。


「今はまだ……分かりません。何の質問をすればいいのかさえ、分かりません」


 何もかもが急すぎて、頭が追いつかない。柳原課長への感情すら何も湧いてこない。そして自分の身がこれからどこへ行くのかも、全く想像がつかない。今の状況を受け入れることだけで精一杯だ。


「そうか。まあ、リハビリを兼ねてしばらく入院だから、その間に体勢を整えておいてくれ。ああ、有休扱いにしておくから安心しろ」

「……うん、有休は労働基準法によって定められた労働者の当然の権利だよね」


 心の中で言ったつもりだったが、どうやら口に出していたようだ。社長は目を見開いた。私も目を見開いた。口は災いの元。悠貴さんの事は言えません。そもそも手配してくれたのだからやはり感謝すべきだった、やばい社長に向かってこれはないだろう、心証悪いとかぐるぐる考えてめまいを起こしそうになっていると、彼はくっと笑ってみせた。……笑った顔も男前ですね。


「確かにそうだな。まあ、これからよろしく頼む」

「……よ、よろしくお願い致します」


 口悪くてすみません。私はただひたすら頭を下げた。




 病室に山と積まれた書類に私は目を丸くし、大きくため息を吐いた。昨日の社長のお言葉通り、これからの仕事内容を理解する為に用意されたのだ。


「まだ本調子ではないのに、社長が無理を言って申し訳ありません。とりあえずしばらく養生なさってからで結構ですので」


 そう眉を下げるのは社長の現秘書、門内豊さんだ。すらりとした物腰柔らかく、柔和なタイプの好青年だ。『お祖母様』、執事さんも渋い男前でしたし、なかなか面食いのようですね。社長はと言うとケーキだけ押しつけて、悪いがこれから仕事があると言って去って行った。門内さんは今回の人事に関してまだ手回しが少々必要ですのでと、フォローしていた。


「いえ。こちらこそ、ご指導ありがとうございます」

「いいえ」


 にっこり笑う門内さんに癒やされます。


「門内さんの他に秘書の方はいらっしゃらないのですか?」

「ああ、受付などする一般の秘書が数人いますよ」

「じゃあ、その方々のどなたかが社長秘書になられる訳ですね」


 そう言うと、門内さんはその柔和な笑みをしばし固めた。……ん?


「あの、社長が申しておりませんでしたでしょうか」

「何をでしょうか?」

「木津川さんには一般職の秘書ではなく、社長秘書になって頂くのですが。それで私が引き継ぎを……」

「……は、はいっ!?」


 聞いてません、聞いてませんよーっ! い、いや待てよ。社長は確か『だから来月からは俺の秘書になってもらう』と言った。え? 俺の秘書イコール社長秘書だったんですか?


「む、無理、無理ですっ無理!」

「ああ、落ち着いて下さい」


 まだ身体に負担をかけてはいけませんよと彼は興奮する私を穏やかに抑える。


「ど、どうして経験のない私がいきなり社長秘書なんです。一般秘書されている方からの繰り上げが普通ですよね」

「えーっと、そうですね。一般秘書の方で社長秘書を望む方は誰一人、いらっしゃいませんよ」


 門内さんは困ったように笑った。だ、誰一人ってどういう意味でしょうか。聞くのが非常に恐ろしいが、今聞かないと後悔する気がした。……聞いたらもっと後悔する気もしたが。


「……な、なぜ?」


 門内さんはますます困ったように笑う。


「とにかく私も協力致します。木津川さんが実際、秘書に就いてから一月半くらいは引き継ぎという形で瀬野社長の下で働く方向になりましたから。木津川さんは優秀だとお聞きしていますので、すぐ仕事に慣れますよ」


 そう言ってごまかし笑いする彼は、結局最後まで私の質問には答えてくれなかった……。



「まあ、そうでしたの」


 机の上に隙間なく置かれた書類について説明すると、優華さんはそう言った。本日もまた彼ら三人はお見舞いに訪れてくれた。早紀子さんは日曜日ながらも勤務のシフトが入っているらしい。


「大変ですわね……。でも嬉しいですわ。こちらに来て下さるなら、いつでもお会いできますものね」

「来て頂いてありがとう。ここまで来るのは大変でしょう」

「大丈夫ですわ。ヘリコプターでひとっ飛びですから」

「いやいや。タクシー代わりにヘリを使わないで……」


 彼女の凡人と違うヘリの使い道に引き気味の私を見て、悠貴さんと松宮氏が苦笑する。


「でも顔色も良くなってきたみたいで安心したよ」


 悠貴さんには敬語をやめてもらった。背筋が寒くて寒くて仕方がないので。


「ありがとう。社長も美味しそうなケーキを持ってきてくれるからかも」


 まだ食欲はないから彩りと香りだけ頂いているんだけどね、ケーキ好きなんだと言うと、優華さんがまぁ、そうですの、本当に気の利かない兄でごめんなさいね、仕事のことしか能がないのですわと辛辣にそう言って、ため息を吐いた。


 と、その時、コンコンと扉がノックされる。返事をして開放された先にいたのは瀬野家、現当主の『お祖母様』だった。


「お祖母様!? どうしてこちらに」


 執事の江藤さんに車椅子を引かれて入ってきた『お祖母様』は軽く孫娘たちに挨拶すると私を見つめた。相変わらずの威圧感だ。


「こんにちは。あなたとは二度目ましてね。以前もベッドの上だったわ」

「こんにち……えっ!?」


 咄嗟に優華さんと悠貴さんの顔を見るが、二人とも驚きの表情で首を振っていた。私は視線を『お祖母様』に移す。


「孫娘が、優華が随分とお世話になったようね。ありがとう」


 私は失礼にもまじまじと現当主を見つめた。すると彼女はやっぱりその瞳ね、と言ってふと笑った。


「伊達に歳を取っている訳ではないのよ。これからも孫たちをよろしくね」


 彼女は孫たちと言った。もしかして私に秘書の地位を用意してくれるために門内さんを引き抜いたのだろうか。しかしそれ以上語らない彼女に私は笑みと共に返した。


「……ありがとうございます。承知致しました」


 優華さんと悠貴さん、そして私は顔を合わせると参ったねと笑った。



『お祖母様』が退室してずっと気にかかっていた事を優華さんに尋ねた。


「優華さん、その後学校はいかが?」

「ありがとうございます。クラスメートに掛ける第一声は緊張したのですが、普通に受け入れて下さってからは肩の力が抜けました。晴子様のおかげで今は楽しく過ごさせて頂いております。松宮さんも協力して下さいますし」


 そう言って笑う彼女の表情に陰はない。……良かった。


「それと高岡さんとか、あと……みなみさんとかは」


 そう言えば最後まで、みなみさんの名字は知らなかったな。


「橋本美波様の事ですね。彼女は退学して病院で療養するとの事です」


 優華さんが階段から突き落とされた日。自分の評判は悪化の一途を辿り、悠貴さんに顔向けもできず、何もかもから逃げ出したかった優華さんは自然とあの階段へと足が向いたと言う。ところが突然目の前に現れたのは憎らしげに睨んでくる橋本さん。もしやつけ回していたのはあなただったのかと問い質すや否や、日頃から恨みを抱いていた橋本さんは人目がないのも引き金で優華さんを突き落としたらしい。


「敬司もさすがに自己嫌悪に陥っていたよ。責任からなのか、今のところ彼女との婚約は解消しないようだよ」


 それが果たして彼女にとって、そして彼にとって、良い事なのか悪い事なのか、私には分からない。そして瀬野家としては世間体もあり、表立っては責任を追及しない方向で動いているらしい。表立っては、ね。


「彼女は家の厳しい教育と浮気性の婚約者の狭間で随分と苦労されていたようです」

「そっか……」


 彼女の瞳に宿った狂気を思い出す。本当はずっと苦しんでいたんだろう。私の表情に同情の色が見えたのだろうか。松宮氏はため息を吐いた。


「お前は本当にお人好しだな。突き落とされた相手なのに」


 はっとした。違う、突き落とされた身体は優華さん・・・・だったのに。


「ごめんなさい、優華さん……」

「謝らないで下さいな。晴子様がそんな晴子様だったからこそ、今わたくしは、ここにいられるのですから。もうこのお話はこれでおしまいにしましょう」

「……ありがとう、優華さん。そして松宮さん、あなたもありがとう、約束を守ってくれて」

「男に二言はない。と言うか、もし破ったらお前、恐いもんな」


 そう言って松宮氏は苦笑いする。


「それとすみれ様ですけど、仲直りしましたの。と言ってもわたくしが一方的に縁を切るような真似をしてしまいましたので、謝罪しましたけれど」

「優華さん……」

「わたくしを友人として本当に大切に思って下さっていたのは嘘ではありません。だからそれだけで十分です」


 私は悠貴さんの顔を見ると彼は穏やかに笑った。そうね、始まりが家の為だったとしても、すみれさんは優華さんを大事に思っていた。それだけは真実だ。


「ああ、じゃあ、高岡さんが、話したいことがあると言っていたのは事故の現場を黙って立ち去ってしまった事だったの?」

「そうみたいですわ。後で先生に聞いたそうですの。それにしても、彼女も隅に置けませんわね」


 優華さんはふふと笑う。彼女も今年三年生だし、後一年で堂々と恋愛できるだろう。


「それと有村さんはお元気?」


 有村さんを囲う男性たちは私に任せろと言ったのに、結局その約束を反古する形で戻って来てしまったから気がかりなのだ。


「それはわたくしにお任せ下さい。晴子様が基盤を作って下さったのだもの。わたくしも足を踏み出そうと思います。そしてわたくしたちがこれからもっと学園を良くしていきたいと思います。だからこちらの事はもうご心配なさらないで。わたくしたちは大丈夫ですわ」


 悠貴さんも松宮氏も同じように頷く。


「……ありがとう。お願いします」


 私が学園に関わる事はこれにて終了なのだろう。大人には大人の、学生には学生の世界がある。これからはそこで過ごす優華さんたちの役目なのだ。頼もしい彼らを見て、私は肩の荷が下りた気がした。そして今度は自分の番だ。私は私の世界に戻り、私の役目を果たそう。そう、心に誓った。

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