31.目が覚めればきっとそこには
誰かが枕元で泣いている。
ごめんね、気付いてあげられなくてごめんね。でも、お願いだから帰って来て。強く握りしめられるのを感じた。しわしわの熱い手。きっと母の手の平なのだろう。姉ちゃん、晴子とただ悲しそうに呟くのは弟と父。何でよ何であなたがこんな目に合うのよ、私は気付いていたのに、何で助けてあげられなかったの、晴子ごめん、そう、か細く呟くのは友達だろうか。
……ごめんなさい、ごめんなさい。ああ、私は何て不孝者だろう。寝ても覚めても人に迷惑をかけるのならば、私は一体どこに行けば良いのだろうか。
ねえ、神様……教えてよ。戻っても居場所なんてないのに。誰にも必要とされないのに、それでも私は帰らなければならないのだろうか。またあの場所に身を投じなければならないのだろうか。それが世の理に逆らった私への断罪なのだろうか。
強く握りしめられていた力が抜け、手が離れた。誰かと母が何かを話しているのが聞こえる。やがて人の気配が動き、小さな足音と共に自分の側に誰かが近づくのを感じた。それでも身体が動かない。きっと心が拒否しているからだろう。
「晴子様」
若くて澄んだその声はどこかで聞いた事のある声だった。ああ、そうか。夢の中の声。最後に私に手を伸ばしてくれた女性の声。……夢の中の彼女の声にそっくりだった。
「わたくしはあなたに助けられたのですよ、晴子様」
助けられた……? 一体私は誰を助けたと言うのだろうか。
「晴子さん、大丈夫、無事だったよ。僕たちが受け止めたから」
「ぎりぎりだったけどな。間に合ったんだぞ」
「本当にあなたと言う人は一人で無茶をして。どうして私を呼ばないの!」
次々と話しかけられる相手は、そう遠くない過去に聞いた事のある声。夢の中の住人。
「晴子様、わたくしは自分の中の奥深くでずっと晴子様がなさる事を見ておりましたのよ。臆病な自分が出来なかった事を晴子様が代わって、状況を変えて行って下さるのを感謝と憧れの目で見ておりました」
それはだってね。夢の中だから。夢の中では自分は最強だからよ。私はね、現実逃避していたの。ただ、それだけなの。
「晴子さん、色々君とは話してきたよね。よく叱られもした。今度は本物の晴子さんと面と向かって話をしたい」
「私もよ。同年代で同趣味で、嬉しいって言っていたでしょ。その姿で私とお話しましょうよ!」
「ったく、聞いたぞ。お前はここでも結局お人好しの苦労性なんだな。……お前らしいけどな」
「……晴子様」
現実味を帯びた、ほっそりすべすべした手が自分に重ねられた。彼らは……夢じゃない?
「わたくしは晴子様に助けられましたの。今、ここにこうして立てるのも、全て晴子様のおかげですわ」
本当はね……優華さん。本当は私の方こそ救われたんだよ。誰かを救うことで、私こそ救われたかったの。
「君は自分が優華でいる限り、守り抜いてみせるとそう言ってくれたよね。そして僕は誓った。君が優華を守ってくれるように、僕も何があっても晴子さんを守り抜くって。今度は僕が守る番だよ」
ちゃんと守れなかったのに、甘いわね……悠貴さん。
「ねえ、晴子さん。私ね、有沢先生と付き合うことになったのよ。あなたが背中を押してくれたお陰よ。今度は私が応援するわ」
良かったね、早紀子さん。でもね、私は今、好きな人はいないわ。リア充爆発しろ。
「こんな細腕で一人戦ってきたんだな。今度はお前の力になってやるよ。……だから。助けてとお前の声で聞かせろ」
ホントいい男ね、惚れそうだわ、松宮さん。こんな自分勝手な私なのにあなたはそれでも救おうとしてくれるのね。
「皆待っています。そして今度はわたくしが晴子様をお助けしたい。だから……戻って来て下さい。お願いですわ」
そして私の手や腕に色んな人の手が次々に重ねられるのを感じられた。ああ、そうなんだ。本当にあなたたちだったのね。私が歩いてきた軌跡は確かに形として残っていたんだ。そしてその軌跡を辿ってきてくれる人がいたんだ。……戻りたい。戻ってあなたたちをこの目で見たい。話したい、私の事を。聞きたいの、あなたたちの事を。
熱い物が目にこみ上げて、目尻から耳へと伝うのを感じた。そして力の入らぬ指で、必死に握り返そうと動かす。
私には何も無い。力も無ければ、戻る場所も無い。
「っ! 晴子さ――」
けれど目覚めよう、目が覚めればきっとそこには彼らの笑顔があるはずだから……。
私が意識不明のまま、入院してから二週間は経っていたようだ。身体自体はそう大きな傷を負っている訳ではないが、ずっと意識だけが戻らなかったらしい。きっと戻りたくなかったのだろう。そして時系列で考えると、学園で過ごした日々とぴたりと重なる事が分かる。何の因果か分からないが、自分たちの世界から逃げ出したい私と優華さんの意識が互いの事故によって中途半端に入れ替わっていたようだ。
精神離脱だの霊魂だのの概念は分からないが、ほとんど記憶のなかった私はおそらく大半の意識を自分の身体に残していたのかもしれない。そして優華さんは優華さんで、どこか知らない所の奥深くで眠り込んでいたみたいだと言う。それが鏡に接したあの日、ほんの少し意識が自分の中に引き戻されたと言うのだ。学校の怪談も少しは役に立つのね。
「となると、結論は『幸薄そうな性格の悪い令嬢にうっかり取り憑いちゃった残念な浮遊霊設定』の四番が正解だったわけだね」
「誰が幸薄そうな性格の悪い令嬢なんです。酷すぎますわ」
ぷんぷんとそれでもおしとやかに怒る優華さんに苦笑する。しかし優華さん本人を前にしても相変わらずの毒舌っぷりだな、悠貴さんは。
「ごめんなさい、優華さん。私が余計な事をして二度も同じ目に……」
「何をおっしゃるのですか! わたくしはずっと晴子様のお気持ちに助けられてきましたのに。そもそも諸悪の根元は」
彼女はそう言って悠貴さんに振り返る。すると彼はみるみる内に血色を失い、強ばった笑みを浮かべた。優華さんの真性悪魔の微笑みが発動中なのだろうか。悠貴さん、息していますか。多分、今の私より顔色悪いですよ。
「僕が原因です……申し訳ございません。平に謝罪申し上げます」
「当然ですわね。――ですから晴子様のせいではございませんわ」
ツンとした動作で振り返った優華さんだが、こちらに向き直った時にはもう穏やかな笑みを浮かべていた。
「しかしまぁ、あれだな。中身が違うと雰囲気も違うんだな」
「そうね。晴子さんが主だった時、気品がな――庶民的で親しみやすかったもの」
お、俺はそこまでは言ってないぞと焦る松宮氏。早紀子さん、あなたはまた気品がないと言おうとしたわねっ。身体が本調子じゃないから、あまり口を開かないけれど、心の中で思いっきり突っ込んでいるからね私!
「……運転手の方はどうなったのかな。それにどうして私がここにいると?」
しかも、この病室も個室で高そうだし。優華さんになって初めて目覚めた時の病室と同じくらい豪華なのだ。それこそ事故の相手はお金持ちの人だったのだろうか。
「それは――」
優華さんが何か言おうとした時、コンコンと扉が鳴らされ、そして返事をする間もなく開放された。……扉を叩いた意味あるの、と思いつつ。そこに現れたのはスーツ姿の切れ長の瞳で冷たそうだが、顔立ちの整った長身の男性だった。誰だこの迫力イケメン。三十代くらい? 若そうなのに威圧感が半端ないんですけど。
あれ? でもこの顔、どこかで見たことがある。どこかで会った? いやでも、こんな迫力ある壮絶イケメン一度会ったら絶対忘れないと思うんだけど……。そんな風にまじまじと彼を見ていると優華さんは、あらお兄様と言った。お、お兄様っ!? た、確かにどことなく纏うオーラが似ている気がする。けど……何だろう。何かこちらを睨み付けていらっしゃる!?
「晴子様、こちらわたくしの――お兄様、晴子様を睨み付けないで頂けます? 怯えていらっしゃるではありませんか」
優華さんはこちらの表情を見ると、すぐさまお兄さんの方へと視線を移して注意する。
「睨み付けていない。元々こういう顔だ」
「あははは、そうですよね。失礼だよ優華」
……あなたこそ失礼だよ、悠貴さん。
ともかく……と言って彼はコホンと咳払いした。
「この度は申し訳なかった。君の面倒の一切合切はこちらで引き受けさせて頂くので了承頂きたい」
「え、あ、え」
「お兄様! 態度が偉そうですわ! ほらご覧なさい。晴子様、怒っていらっしゃるじゃないの」
え。いや、怒っていません。ただ混乱しています。
「あ、あの。どういう……」
状況の飲めない私に、悠貴さんが衝突事故の相手は優華さんのお兄さんだったのだと説明してくれる。
「え、あ……そ。そうでしたか。こ、こちらこそ申し訳ありませんでした。前方不注意で」
「そうだな。確かに君の不注意だ。こちらは青信号だった。俺の視力と運転技術に感謝することだ」
「す、すみませんでした」
威圧感ある物言いに思わず萎縮してしまう。
「お兄様!」
諫めてくれる優華さんの気持ちはありがたいですけど、私が完全に悪いです。ごめんなさい。
「ところで君は何かスポーツでもやっているのか?」
「え? あ、む、昔、合気道を少し……」
「……そうか」
まさか咄嗟に受身でもしていたのだろうか。だからまだ傷が軽かったのかな、とかだったりして。……なんてね。そんな風にと考えていると、悠貴さんがさっきの質問の続きですけど、と切り出した。
「名前と社会人という情報だけでしたので、貴之さん、優華のお兄さんにも力を借りようとしたところ、事故の相手が本当の偶然で晴子さんだったんです」
僕たちは出会うべくして出会ったのかも知れないですね、何より現代人で良かったですと悠貴さんは笑った。確かに彼らと生きている時代が違っていたら、こうして出会う事はできなかったものね。しかし、どうでもいいんですけど、悠貴さんの敬語がむずがゆいです。むしろ薄ら寒いです。
「ところで……。悪いが君たちは一度席を外してもらえないか」
彼は見舞客である彼らを見回す。ひぃっ!? な、なぜ? 怖いよこの人。一人にしないで。怯えた様子の私の前に優華さんが立ちはだかる。
「なぜですの?」
「仕事の話だ」
「……仕事?」
意外な言葉にきょとんとする。この人と私、一体何の関係があるのだろうか。彼はそんな私を見て、ため息を吐いた。
「君は自分が勤めている会社社長の顔すら知らないのか」
「っ!? しゃ、ちょう……?」
そもそも私が勤めている会社は支社だから、本社勤務の社長とは縁遠いのだが、確かに会社のパンフレットだの、ホームページだので見たことがある! どうりで貫禄があるわけだ。
「し、失礼致しました」
「まあいい。そういう訳だから少し席を外して欲しい」
優華さんは心配そうに私に視線を移すので、大丈夫と頷いた。
「分かりましたわ。何かあったら大声で叫んで下さいね。……ああ、だめですわね。携帯に電話して下さいな。すぐに飛んで参りますから」
優華さんは私の手をきゅっと包み込んだ。そして彼女は社長に振り向く。
「お兄様、晴子様には半径十メートル以内に近づかないで頂きたいわ」
「それだと部屋から出てしまうだろうが。まったく優華は俺を何だと思っているんだ……」
どうやらさすがの会社社長でも優華さんには滅法弱いらしい。ため息を吐いた。
「それじゃあ、一旦僕たちは席を外しますね」
「じゃあ、また後でな」
「後で! 後で詳しく聞かせてねっ!」
いや、早紀子さん、あなたは何を期待しているんですか。
「それでは、失礼致しますわ。くれぐれも……気をつけて」
な、何を!? 優華さんは意味深な言葉を残して出て行き、病室の中は一気に静寂を取り戻す。そして社長はその冷たく美しい瞳をこちらに向けた。




