30.木津川晴子
「おとうさん、おかあさん! わたしね、大きくなったらしゃちょうひしょになるの!」
「しゃ、社長秘書? ずいぶん現実的な夢だね」
幼い頃、意気揚々に宣言した私に父は苦笑し、母は楽しそうに笑った。
「あら、いいじゃないの。社長秘書になって社長のお嫁さんになるのよねー?」
「うん! あのね。しゃちょうひしょになって、しゃちょうのあいじんになって、それでかいしゃをのっとるのよ!」
「あ、愛人!?」
「の、乗っ取り!?」
真っ青になる両親を前に得意げな顔をして言った。
「そう! そしてわたしがよわいひとたちをたすける、しゃちょうになるのよ」
「明美ーっ! 何てドラマを子供に見せるんだぁぁーっ!」
「だ、だってこれすごく人気の昼ドラでねっ。これまた男女間のドロドロ愛憎劇がたまらないのよー」
「は、晴子! 愛人は駄目だぞ! 愛人は、愛人だけは絶対だめだからなぁぁーっ!」
母の昼ドラ好きのせいか、我ながら斜めを行っていた子供時代だったと思う。けれど、昼ドラとはいえ、勧善懲悪ドラマが幼心に響いたのは、きっと同年代の子供達が悪を倒すヒーローに憧れる感情と同じだったようにも思える。父の泣きながらの愛人は駄目だ発言と共に成長して、自分が『しゃちょうのあいじん』になれる器ではない事も早々に悟ったので、地道にコツコツと堅実な道を歩むことを決意し、努力し始めた。
「ねえ、大学卒業したらどうするの?」
「私は庶務課か総務課といった普通のOLだろうね。晴子は?」
「んー、やっぱり秘書課希望かな」
そう言う私に友人達は顔を見合わせて、中々大胆な事言うのねと、次の誕生日にはパストアップサプリメントと胸パッドをプレゼントするねなどと失礼な事を言われた。
就職活動の際には面接で望む部署を聞かれたとき、迷わず秘書課を宣言した。社長秘書は幼心に憧れていた職業ですと熱意のこもった私に面接官は苦笑をしたのを覚えている。きっと平凡な容姿ながらも、秘書課を夢見る発言の私に呆れたのかも知れない。それでも、若手社員では難しいかもしれないが、経験を積めば秘書課に異動できるチャンスはあるだろうと面接官は笑い、そして私に採用内定を与えてくれた。だが案の定、希望した秘書課には配属されず、なぜか支社の営業部に配属される形となった。最近では女性の協調性や親和性の性質が営業に向くと考えられて、女性社員が営業部に配属されるケースが増えてきているそうだ。
そして会社に入って五年、それなりに苦労もあったけど、充実していた毎日を送っていたと思う。少しばかりは会社に貢献できたのではないかと思う程の経験も積んできていた。上司はおっとりしているけれど、責任感があって優秀な定年退職間近の課長。仕事のできる男性社員。気の合う女性同僚。仕事は未熟でも明るくて元気な若手の社員。女性というだけで出世が遅いのも、希望の秘書課に異動ができないのも満足はしていなかったけれど、互いを信頼し、補助し合う職場環境が良くて仕事がしやすかったのでさほど気にならなかった。
それが変わったのは惜しまれつつも今川課長が定年退職し、入れ替わりになった柳原課長の就任だった。三十歳ながらも学歴と家柄、そしてその能力の高さから課長にまで上り詰めたという新たな上司だった。まだ若く、独身でハンサムな彼は瞬く間に女性社員の心を掴み、喜びの内に受け入れられた。
「うわぁ、最悪。全部、女性社員持って行かれるんじゃないのか」
「まあまあ、あなたの良い所を見つけてくれる女性はきっと見つかるって」
「いつだよ」
「……あー、それは聞かないお約束よ」
「まあ、お前も人の事言えないもんな。悪かった」
「うっさい!」
そんな風に男性社員が色恋沙汰で泣き言を吐くくらいまでは可愛らしかったのだ。しかしいざ彼が課長の座に収まると、社員の締め付けが厳しくなった。高いノルマを求められ、それが達成できないものは平気でさらし者にされる。さらにはノルマを達成できなかった者は自己負担を強いられる。おそらく彼は自分の財力と権力、そしてコネに物を言わせ、実績を作ってのし上がってきたのだろう。課長が手がけているプロジェクトが難航しているのも拍車を掛けていたようだ。職場内が殺伐とした雰囲気になるのには時間がかからなかった。最初に影響を受けたのは経験の浅い若手社員。彼らは薄給の中からノルマ未達成分を自ら賄う事になり、困窮するのが目に見え始めた。
「このままじゃ、若手社員が潰されてしまうわ。何とかしないと」
「……手を出さない方が良い。こっちまで火の粉を被るぞ」
「何て情けない男なのよ。会社は社員で成り立っているのよ? いいわよ。私一人で行くから」
その時の私はいつか観たドラマの主人公のように正義感に満ちていて、きちんと説明すれば課長の気持ちを変えられると愚かにもそう信じていたのだ。今から思えば男性社員の判断は正しかった。
「柳原課長」
「何だ、木津川君」
常にノルマを達成していた私を柳原課長は和やかに迎えてくれた。奥で話したいことがあると言ったが、課長は微動だにせず、何だと問う。ためらう私に光陰矢のごとしだ、早く話せと促された。極力声を抑えながら言う。
「その、最近のノルマの事ですが……。あまりにも厳しくて、経験の浅い若手社員にはとても達成できるレベルではありません。彼らだけでももう少し――」
「君は課長の私に意見するのか。随分とお偉いものだ」
人当たりの良い笑みを瞬時に消して私の言葉を遮ると冷たく笑う。職場がざわめきと共に気温が一気に引き下がるのを感じた。
「も、申し訳ありません。そんなつもりでは……。ただあまりにも厳しいノルマが結局は社員によって賄われるなら会社利益にとって決してプラスには――」
「もう一度言う。君は課長の私に意見するのか」
「……っ!」
言葉を失う私を彼は冷たく一瞥すると一つ息を吐き、引き出しから書類を出して机の上に置く。
「そうだな。君がこの会社と提携できるくらい優秀ならば、考えてやってもいい。もちろん君の普段の仕事に加えてだ」
「これは……」
最近、赤丸急上昇中の会社、上川コーポレーションとの契約で、確か課長自ら乗り出していたものだった。普段のノルマさえ、私でもぎりぎり達成できているぐらいなのだ。それに加えて別案件を処理するとなるとその仕事量は計り知れない。課長は何を思って私にその仕事を与えようと言うのか。失敗したら課長の責任も問われるはずなのに。
「どうした。出来ないのか。口が達者なだけか」
「い、致します。ありがとうございます」
頭を下げる私に対して彼はじゃあ頼むぞと手元の書類に目を落としたので、私はデスクに戻った。この頃の社員はまだ私に同情的だったように思う。
「おい! こんな事になって。だから俺が言ったじゃないか」
「……とにかくやってみる。せっかく課長が与えてくれたチャンスなんだから」
けれど実際始めてみると、上川コーポレーションは酷く手強いと気付く。とりつく島がまるでないのだ。課長が動いていたのではなかったのか。普段の業務に加えてのその仕事はかなり負担になり、休みを返上して不眠不休の日々で走り回っていた。と同時に総務に勤務する友人に何とか事情を調べてもらうようにも頼み込んでいた。
「年上彼氏は確かそれなりのポストだったよね。何とか調べてもらえない?」
「それより晴子、あんた本当に顔色が悪いわ。しかも随分痩せたんじゃない。ちゃんと食べてる? ねえ、身体は大丈夫なの?」
「平気平気。もう少しなのよ。上川社長も最近は話を聞いて下さるようになってきたから。ただ事情も知っておきたいし。課長には……聞けないから」
「……分かった。頼んでみるわ。本当に気をつけてよ」
友人の気遣いは余所に私はひたすら業務に打ち込んでいた。過労からミスを繰り返す事もしばしばあったが、周りのフォローで何とか乗り切る。そして漸く、契約成立の運びとなった。嬉しさのあまり泣き出して困らせてしまったぐらいだ。上川社長は君の熱意には負けたよと苦笑されたが。そして意気揚々会社に戻り、契約がうまく行ったことを課長に報告する。これできっと課長は私の話を聞いてくれる、そう思っていた。
最初、課長は驚いてその報告を受けたが、やがて口を歪ませて言った。
「ほぉ。枕営業がうまく行ったんだな」
「…………え?」
理解出来なくて言葉が耳を抜けていく。ざわめく職場の中、理解を拒否して、柳原課長の言葉が雑音にも聞こえた。
「大した物だ。君の枕営業で取れるとは思わなかったよ」
「な……ん」
今度ははっきり耳に届く。課長の冷たく笑う唇がさらに動く。
「おい、聞いてくれ。木津川君が枕営業で、大きな契約を取ってきたぞ。男性社員はともかく、女性社員は彼女を見習ってもっと契約を取って来たまえ! ああ、枕営業は彼女に教えを請うがいい」
職場が水を打ったようにしんとなった。頭が真っ白になって反論の言葉すら出なかった。身体が震えて立っていることさえままならない。
「木津川君。戻っていいぞ」
そう課長に言われ、ぽんと肩を押されると、そのまま膝から崩れた。力が抜けて動けなかった。彼は冷たく見下ろすと、私に興味を失ったように辺りを見回して、ぱんぱんと手を打った。
「さあ、皆は仕事に戻れ。……ああ、木津川君、後で報告をまとめるように」
彼がそう言うと、職場は誰も彼も崩れ落ちた私を置いて、おずおずと再開し始めたのだった。
後で知った事だが、上川社長は課長の同級生だったそうだ。学生当時、課長は親の権力を振りかざし、かなり横暴な振る舞いをしたのだと言う。やがて会社が大きく成長し、こちらの会社側が提携を結びたくプロジェクトを立ち上げ、初顔合わせしたところ現れたのが課長だった事に気付いた。課長を見るなり提携申し入れを拒否し、席を立ったのだ。引き手数多の上川社長にとってはうちとの提携がなくても問題はなかったからだ。難航していたのはその為だった。そしてどうせ自分が手がけても失敗に終わるのが目に見えていたから、私に回したのだ。ところが私がその契約を成立させた。きっとひどく自尊心を傷つけられた事だろう。彼にとっては汚点となったのかもしれない。
そしてそれ以来、さらに厳しさは増した。とりわけ女性社員に。何かと結果が出せない女性社員に私の事を引き合いに出しては、もっと仕事を取ってこいと締め付けた。若手社員は震え上がり、ベテラン社員は私への風当たりが強くなった。私に近づけば容赦なく巻き込まれるだろうと男性社員は見て見ぬふりをする。廊下を歩けば、他の部署の人間にひそひそ話された。
噂は膨らみ、私を押しつぶそうとする。耳を塞いで足早に化粧室へと逃げ込んだ先には泣いている若手社員。先輩、先輩といつも笑って慕ってくれていた後輩だった。そんな彼女をベテラン社員が慰めていた。そして私に気付くと彼女たちは表情を強ばらせた。
「あんたのせいよ! あんたが余計なことをしたから余計に私たちが苦しくなったのよ。どう責任を取るつもり!」
「あんたなんていなければ良かった!」
「男と寝て仕事を取ってくるなんて恥さらしっ!」
「さっさと目の前から消えてよ!」
「先輩っ、やめっ、先輩っ!」
激高するベテラン社員を後輩が泣きながら抑える。言い訳なんてできなかった。何もかも私の責任だった。ただ青ざめて震えるだけで、私は何一つできなかった。彼女たちは私の肩に強くぶつかって、課長よりもっと上の男と寝て、課長を辞めさせるくらいの責任取りなさいよね、得意でしょ、そう言うと出て行った。
課長は女性の扱いを心得ている。女性の敵意を私に向ければ、私を助けてくれる人間なんてもうどこにもいなくなると踏んでいたのだ。周りから固めて私の居場所を奪って行った。……だけど本当に罪深いのは私。私は彼女たちから笑顔を奪ったのだ。
そしてあの日。土砂降りのあの日。一人、傘も差さずに町中を歩く。私には力がない。戻るべき場所もない。私のせいで周りがさらに苦しくなった現状は、もうどうすることもできなかった。私があの時、愚かにも正義感を振りかざしていなければ。あの会社にいなければ。私なんていなければ。私なんて消えて………消えてしまえばいいっ! 周りが何も見えなくなっていた私が足を踏み出した次の瞬間。
土砂降りの中でも響く大きなクラクション、急ブレーキの音、真っ白になった目の前。そして私の意識が遠く飛んでいった……。
全てを思い出した。いや、全てを思い出したからと言って、何になるのだろうか。むしろ思い出したくなんてなかった。……ああ、ドライバーはどうなったのだろうか。私のせいで、見知らぬ人にまで迷惑をかけてしまった。私が動いて、また誰かを傷つけるのならば、このまま一生目覚めなければいい。夢の中でずっと生き続ければいい。夢の中でずっと……生き続けたい。だからお願い。
誰も私を起こさないで。




