29.犯人は現場に戻る
犯人は現場に戻ってくる。デカ長! やはりデカ長の言葉は正しかったです……などとドラマ気分に浸っている場合ではない。辺りは私たちの他に人影なく、静まりかえった廊下。目の前には憎しみも悲しみも全て呑み込むような深い闇の瞳でこちらを見つめてくる彼女。私の背後には階段。まるで崖の上で犯人と対峙している主人公のようだ。私はこくんと息を飲んでその名を呼んだ。
「あなたは……みなみ様」
彼女は薫子様の取り巻きの一人。いつも小さく身を潜め、ビクビクしていた彼女がなぜ?
「気安く名前を呼ばないで頂きたいわ」
だって……名字か名前か、それすらも知らなかったんだもの、とは気軽に言い出せない程、空気が緊迫している。あなたが私を突き落とした犯人? などと問うまでもなく、間違いなく彼女がそうなのだろう。胸の高鳴りが彼女は危険だと警告を示している。
だとしたら、ずるくないですか? 推理小説の鉄則に反しているし。推理小説ではもっと伏線があってだな、関係者の中から犯人が出るわけで、名前も明確に分からなかったモブが最後いきなり昇格して犯人ポジションってあんまりじゃない。このジャンル一体どうなっているのよなどと流れを恨んだところで、この切迫した状況が変わる訳でもない。それに何の裏付けも取れなかったのは結局、『その他大勢』だった。むしろ現実は非情で、こちらの事情なんてお構いなしというのが正しい姿なのかもしれない。
それでも胸の高まりと反して未だ現実味が薄く、思考する余裕がある自分はただ自覚できていないか、混乱と恐怖で感覚が麻痺しているかのどちらだろう。ああ、でもなぜ私はさっき薫子様に聞かなかったのだろう。泣きついてきた取り巻きは誰か。そして危険をはらんでいたにも関わらず、なぜ一人で現場に戻るような真似をしてしまったのか。
「あなたが……わたくしを階段から突き落としたのですね」
「あら、ようやく思い出したの。あなたが学校に戻って初めて会った時、私に全く反応しなかったから、頭を打って記憶を失ったのだとは思っていたわ。それでも階段の低い場所だったとは言え、目立った怪我一つしなかったなんて悪運の強い人ね」
うっすら楽しそう笑う彼女に、寒気が走った。普通じゃない。ようやく恐怖が押し寄せてくる。何とか時間稼ぎをしなければ……。先ほど時間を確認したときは五時半を過ぎていた。生徒会の方もそろそろ終わる頃だろう。教室に私が戻らなければ、きっと悠貴さんは探しに来てくれるはずだ。
「どうしてあなたが? あなたとはほとんど接点なんてないはず」
「どうしてですって? 敬司さんに色目を使っておいて、どうしてですって?」
「けいじ……?」
けいじ……刑事。紺谷敬司かっ!
「私の婚約者の名をあなたが軽々しく呼ばないで頂戴」
婚約者! みなみさんの婚約者は紺谷敬司だったのか。でも確か彼は色んな女性と遊んでいるような人だったはずだ。
「ご、誤解ですわ。色目なんて使っておりません。私は――」
「嘘おっしゃい!」
びしりと叩きつけるような冷たい声に息を飲む。だが引いている場合じゃない。
「で、でも紺谷さんが懇意になさっているのはわたくしだけではなく、他の女性も……」
「分かっているわ。女性にもてる人だから何人もの女性と付き合っていた事は」
やっぱり最低最悪だな、紺谷敬司!
「けれどね、彼女たちは本気で彼の事が好きじゃないの。私が少し注意すればあっさり去って行くんだもの」
ああ、そうか。悠貴さんは彼が振られているみたいだと言ったが、彼女が紺谷氏に近づく女性を排除していたのか。だから彼の横にいる女性は入れ替わり立ち替わり、毎日のように違ったのだ。ただ、彼の軽薄さを考えれば、全くもって同情しがたいけど。
「何よりね、彼こそ本気じゃないの。いつも最後には私の元に戻ってくるのよ。当然よね。私こそが誰よりも彼を理解し、彼の全てを受け入れ、本当に愛しているのだもの。私は彼のために生まれ、彼のために努力を重ね、そしてこれからも彼のために生きていくのだから」
陶然と酔いしれた表情で微笑する彼女に私の身体はひどく寒気を感じるのに、私の目には彼女があまりにも美しく映るのはなぜだろうか。
「……それなのに。いつもなら新しい女にすぐ飽きては私の元に戻って来た彼が、一年生半ば頃から変わったわ。一人の女に、あなたに執心していた。ずっと彼があなたを見つめていたのを私は知っているのよ」
それは丁度悠貴さんが留学した頃。つまり、紺谷氏は悠貴さんに頼まれて、優華さんの情報集めでストーカーし始めた頃だ。むしろ優華さんの方が被害者です。ってか悠貴さん、元はと言えば全部あなたのせいだったのかーっ! くぉらーっ! よく考えてみれば本当のストーカーは悠貴さんの方じゃないか!
「それだけではなく、二宮様まで色目を使って何て汚らわしい人なの」
激高するでもなく、ただ深淵の瞳で淡々と話す彼女に恐怖がより増してくる。
「ゆ、悠貴さんはわたくしの婚約者ですわ」
「妄想も甚だしいのね。彼には柏原静香さんという立派な婚約者がいるのにもかかわらず、恥知らずにも程があるわ。何より私の婚約者をたぶらかしたふしだらな女ですものね」
そう言って彼女はふと口を歪めた。私が違うと否定しても彼女は聞き入れないだろう。全てを拒否する瞳だ。
「わたくしの悪い評判を流したのは……あなた?」
「そうよ。始まりは知らないわ。けれどそれに便乗したのは確かよ。噂に翻弄されてあなたが日に日に憔悴していく姿、見ていてとても気分が良かったわ。顔に似合わず意外とやわだったのね」
もしかすると以前優華さんが助けたと言う女生徒の相手の男が逆恨みしたのかも知れない。そして尾ひれを付け、悪意を潜ませた噂がさらなる噂を呼び、雪だるま式に転がり続ける内に大きくなっていったのもまた事実なのだろう。
「……あ、有村雪菜さんについては」
「ああ、彼女も敬司さんに色目を使ったから反省してもらわなくてはと思ってね。でも周りの男性方がいて手を出すのは、私では難しいと思ったわ。だから君島さんを利用したのよ。彼女は私が気弱なフリして頼ると満足していたから。私が君島さんにちょっと泣きつけばすぐに有村さんの所に注意しに行っていたわ」
まあ、いつの間にか、あなたが筆頭に苛めている事になっていたけれどね、と彼女はそう続けると嘲り笑う。噂なんていとも容易く曲がるのねと。
「でもね、あなただけは私の手で制裁してやろうと思っていたの。彼を狂わせたあなたをね」
狂っているのは紺谷氏じゃない。彼女自身だ。心臓の鼓動がさらに高鳴り、額から冷や汗が流れるのを感じる。
「ねえ。あの時、警告したわよね? 彼に近づくなって」
階段から突き落とされた時ですか!? し、知りません知りませんっ! 全然知りませんっ! そもそも記憶を失っていたって、知っているじゃないですか!
「それなのに、ねぇ?」
彼女は一歩、また一歩近づいてきて、私は後ずさりをする。
「あなたは私の警告を無視して、また彼に近づいたわよね。しかも嫌がる彼にストーカー行為までして」
も、もしや私が彼に報復していたときの事かっ!? それは確かに私のせいだ。私は火に油を注ぐ真似をしていたのか。
「頭の悪い人間にはもう一度身をもって知ってもらわなくてはねぇ?」
「あ、あなた、気は確か!? こんな事をしてただで済むと思っているのですか!?」
「彼を愛した時に、私と彼の間を妨げる障害物は全て取り除くと誓ったの。あなたは……障害物よね?」
じりじり下がる私には、もはや逃げ場はなかった。迫る彼女に私は手を打つことができない。背中に流れるじっとりした嫌な汗が現実を呼び起こさせる。辺りは先ほどと変わらず静寂を帯びている。ヒーローが来る気配はない。現実には誰も助けてなんてくれない。
そう、ヒーローなんて幻想だ。負け犬には誰一人、手を差し伸べてくれる人間など存在しない。ただの小さな駒にしかならない私がいなくても世界は回る。私が消えても世界は素知らぬ顔して明日を迎えるのだ。この世で私はただ一人……。土砂降りの中、ただ一人私は歩く。冷たい雨は自分の体温を情け容赦なく奪いながら。……土砂降り?
あの日あの時、私は……。
頭の中で警鐘音が鳴り響いた。目の前の彼女が暗い笑みをのせながら唇が動く。あなたはいらない、消えて。――あんたなんていなければ良かった。恥さらし。さっさと消えろ。……消えて、私なんて消えてなくなれば、いっ――。
「やめてーっ!」
私は叫んだのだろうか。それとも心の中の叫びだったのだろうか。彼女は動じる事なく、妖艶なまでの美しい笑みのまま、私の肩に手を置いた。
「さようなら、瀬野優華。せめて最期は良い夢を見られることを祈ってあげるわね」
彼女の容赦ない力強い一押しに身体が一瞬ふわりと浮かび、重力の赴くまま身体が傾いて、ようやく今の状況に引き戻される。ヒーローなんて現実にはいない。だからこそ夢を見ていたかった。だからこそ自分がヒーローになりたかった。誰かのヒーローになりたかった。なのに……悠貴さん、ごめんなさい。優華さんを守れなか――。
「優華ーっ!」
「瀬野っ!」
悠貴さんと松宮氏の切迫した声が背後で聞こえた。間に合わない、そう思った時。
『晴子様っ!』
誰か聞き慣れた女性の声が聞こえ、救いの手を伸ばす彼女に縋りたい気持ちで必死に手を伸ばし、彼女と手を重ね合わせた瞬間、私の目の前の光景は黒く塗りつぶされた。
強制的に流れ込んでくる空気に息苦しさを感じて意識が浮上する。なのに目を開けて身じろぎしたくても、なぜか身体が重くて動かせない。まるで金縛りにでもあったようだ。私は一体どうしたというのか。
ピッ、ピッ、ピッ。
静寂な室内のどこかで断続的な電子音だけが鳴り響く。聞いたことのある規則音に、自分の現状がゆっくりと蘇ってくるのを感じた。
……ああ。なんだ。やっぱり夢オチだったのか。動かせない身体のまま、心の中で自嘲した。
長い夢を見ていた。……夢を見ていたかった。権力は正しく使われ、正義の力で悪をばたばた倒す世の中。弱き者が強き者の理不尽に泣かなくても良い理想の世の中。そんな世界を夢見ていたの。自分が力を持ったならば誰かを助ける人間になりたい、そう願っていた。けれど私はそれが叶う夢の世界ですら最後の最後には我が身可愛さに逃げ出したのだ。
私は晴子、木津川晴子、二十七歳。いくらでも替えの利く会社の駒の一つ。本当の私は権力一つ立ち向かえないただの一社員。そう、現実では我が身の不幸だけを嘆き悲しむ、所詮何の力もない負け組の平社員でしかなかった……。




