28.羽鳥蘭子の事情
教室の入り口に立っている羽鳥さんに笑みを向けた。
「なぜ分かったのですか」
「なぜと言うより、秘密裏にしたい事でも壁に耳あり障子に目ありの世の中ですわ。あなたなら、どこからか窺っているのではないかと思っただけですの」
椅子を勧めると彼女は座りながら、そうですかと言った。
「それで単刀直入に申し上げますけれど、先ほどの会話はオフレコにして頂けないでしょうか」
「もし……断ったら?」
私は悠貴さんより受け取った調査資料をカバンから取り出して、パサリと机の上に置いた。
「羽鳥蘭子さん……いえ。大手新聞社を始め、テレビ業界にも幅を利かせるマスコミ業界の一つ、成田グループのご令嬢、成田蘭子さん。この学園に潜入させる為に、娘が幼少期の頃からマスコミに一切関係を持たない遠縁の養子に入れるまでなさるだなんて、なかなかビジネスライクなご家庭のようね。それと……成田家から援助を受けているのかしら、羽鳥家は」
羽鳥蘭子さんの背景があまりにも気になったので、悠貴さんが実家に帰る時に詳細な調査依頼を瀬野家にお願いして来てもらったのだ。こういうのは人脈が広いプロに調べて貰うのが一番ですからね。学生にできる範囲なんて所詮、知れているもの。
「……よく調べられましたね。学園でもそこまでは調べがつかなかったのに」
「わたくしを誰だとお思いですか?」
「それも……そうですね」
諦めたように彼女はため息をつく。自分に興味を持たれてしまったのが痛かったですね、と。
「学園の情報屋だったのに、むしろ今まであなたに誰も注目しなかったのが奇跡だったくらいですわ」
彼女は言う。以前も言った通り誰も自分自身に興味が無かったのと、依頼内容が学生ならではの色恋沙汰がほぼ占めていたからだと。どこの学校にも新聞部くらいある。学園側にもあれと同じレベルだと思われていたはずだと。そうね。どこの学校にもある新聞部レベルだったら学園側も黙っているでしょうね。けれど。
「けれど……政治経済を左右させる要人の子供達の失態ネタをあなたがお家のマスコミ関係者に流していると学園側が知ったら、あなたはどうなるでしょうか。いいえ、それよりもライバルである他社のマスコミに娘をスパイとして潜入させている事実が知れ渡ったらどうなるでしょうか」
私の心ない脅し文句に彼女はただ視線を落として黙っている。だがこちらも引くわけにはいかないのだ。私は息を吐いた。
「おそらく来年。私たちが卒業する来年には、二宮家と婚約発表をするでしょう。マスコミ各社が入ることにもなるでしょう。その時にあなたのお父様の会社を優遇しますわ」
「……え?」
羽鳥さんは顔を上げる。
「だから今は内密にする旨でご家族の方に交渉して頂けないでしょうか」
なぜと彼女は尋ねる。
「今……私がこのネタを上に流す事より、あなたが私の事を学園と他社に暴露する方が影響力はあまりにも大きいです。それに本当に情報を止めようとしたら、簡単に押さえつける事ができる程、瀬野家は強大なはずです。それなのになぜこの取引を持ちかけるのですか」
確かに多少の傷はついたとしても、瀬野家が受けるダメージはそう大きくはないネタではあるだろう。彼女が疑問に思うことも分かる。
「そうね、一つはわたくしと悠貴さん、そして柏原さんがあと一年平穏無事に過ごすのを望んでいること。そしてもう一つは……」
私はところでと話を切り替える。
「あなたは本当に望んで情報屋をしているのかしら?」
「……え?」
「学生同士の可愛らしい情報の売買はともかく、重要な情報によって誰かの今の生活を根底から覆す羽目になるかもしれないのに、素知らぬ振りして学友として生活できるのかしら。それとも成田家の娘として、誰を傷つけようともそんな事は厭わないかしら」
「……あいっ、つらと一緒にしないでっ! 私はっ、私は成田の娘じゃない!」
彼女は憎々しげに、そして血を吐き出すように叫んだ。
「そうよ! 私を捨てた成田家に対して愛情も誇りもないわ。私の家族は羽鳥家だけよ! 自分たちがこの学園に私を放り込んだくせに、恩着せがましく羽鳥家に援助しているような言い方をして。あいつらのやり方には虫酸が走るわっ!」
娘が羽鳥家を想うその気持ちまで利用しているのかと思うと切なくなった。
「……そう。それを聞いて安心したわ。取引を持ちかける理由のもう一つはね、あなたにも学園生活を楽しんで欲しいことだから」
羽鳥さんを警戒すると私が言った時の彼女の瞳はとても悲しげだったものね。罪悪感を覚えたわ。
「え?」
眉根を寄せる彼女に私は机の上の書類を手に取った。
「ということで、この資料はあなたではなくて成田様に直接買って頂くことにしますわ。代金はあなたの在学中の二年間よ」
「え、どう、いう……」
「今後わたくしに何かあってもあなたはそれに一切関知しない、上に報告しないという事よ。それだけではなくて成田家から命令された情報収集の任務の全てを放棄し、あなたはただの学生として高校を過ごす事になるの。もちろん学園で情報屋を続けても構わないですわ。でもそれは学生内の問題だけね」
瀬野家としても未熟な孫娘が気兼ねなく高校生活を送ることができるなら万々歳だという回答も頂いている。さすが『お祖母様』、この資料で『孫娘』がどう動くのか察していたのだろう。そして意外にも理解があったのねと驚いたものだ。交渉は実家の方でやってもらう事になるだろう。
「どうして私のために……?」
「格好良く、理由なんてないわと言いたいところだけれど……。『強きをくじき、弱きを助ける』。権力を持つ者はそうであって欲しい……切にそう願うからですわ」
彼女はこちらをじっと見つめ、そしてやがて深々と頭を下げた。本当は世間に暴露されるのもいいかもしれないと一瞬思ったと言う。自分を仕事道具としてしか見なさなかった成田家への報復ができると。でも例え二年間でも、一番重要な時期に彼らの思惑を無にできた事に少しは報復できたかと気が晴れたと笑う。事が大きくなりすぎると、きっと羽鳥家に迷惑をかけてしまうから。彼女はそう言った。
「娘を守る為なら成田家とでも戦いますと羽鳥さんのご両親はおっしゃったそうよ。……あなたには帰る場所がある。あなたを愛し、共に戦ってくれる人たちがいる。良かったですわね」
彼女はその言葉に目を見開くと、光輝くような滴をいくつもいくつも零した。私はハンカチを差し出すことすら忘れて、彼女の美しい涙をただ眺めていた。
「すみません、ハンカチをお借りして」
「構わないですわ」
私もようやくハンカチを差し出す事を思い出して彼女に渡すと、それを切っ掛けに彼女も落ち着いたようだ。
「じゃあ、そろそろ帰りましょうか」
「はい」
そして私は教室を出ようとした時、瀬野先輩、と羽鳥さんから声を掛けられる。
「あの、高岡すみれ先輩の事ですけど……」
「え? すみれ様?」
「高岡先輩は……この学園の教師と恋仲です」
「……ん? ……んんん?」
私はパチパチと目を瞬いた。何が言いたいのかしら? ……いや待って。と言うか、教師と付き合っているですってー!? 青少年保護何とか条例で教師と生徒の恋は禁じられているのでは。漸く事態が飲み込めた私はどういう事か尋ねた。
「恋仲になった経緯は省きますが、つまり私が言いたいのは、高岡先輩は学校で教師と密会しているのです。密会の場所と言えば、滅多に人が立ち寄らない場所ですよね」
「それってつまり……」
「ええ。その場所は瀬野先輩が階段から落ちた場所の近くです」
あの日、駆けつけてくれたのは紺谷氏と悠貴さん、数人の生徒、そしてたまたま通りかかった先生。
「新部先生……?」
私が登校初日の時に真っ先に出会った先生だ。羽鳥さんは頷く。
「おそらくあの日も高岡先輩と密会中だったのではないでしょうか。そして声か音か聞いて、駆けつけたのでは」
そして高岡さんは騒ぎに紛れて、こっそりとその場を立ち去る。え、ちょっと待って。それじゃあ、高岡さんは教師と密会していただけで犯人じゃない……?
「最近、二宮先輩が瀬野先輩の事故を調べているご様子だったので、何か情報の足しになればと思いまして」
「……あ、ありがとうございます」
「先生からはさすがにお話を聞けないでしょうけれど、高岡先輩からならお話し頂けるかもしれません」
もう一声欲しい。何か見落としている気がするから。彼女は他に何か知っているだろうか。探りを入れてみよう。
「……わたくしたち、仲違いしていますのよ」
「それは先輩が自分の噂に高岡先輩を巻き込みたくないから、おっしゃったのでしょう?」
噂に巻き込みたくない。そうか、だから優華さんはわざと相手を傷つけるような事を言って遠ざけたのか。あるいは高岡さん自身、身に覚えがあったから否定できなかったのかもしれない。
「でも、どうしてあなたにそんな事が分かるの」
「それは……」
羽鳥さんは気まずそうに言った。
「それは先輩が高岡先輩と別れた後、ごめんなさい、ごめんなさい、傷つけてごめんなさいと呟いて泣いていらっしゃったから」
「……っ! そ、それ、あなたは見ていたの」
「はい……すみません。でも、高岡先輩は瀬野先輩の事を分かってくれていたのだと思います」
じゃあ、やっぱり早紀子さんの言葉の方が正しかったんだ。確か早紀子さんは『どうせあなたも家の権力目当てだろう』と聞いたと言っていた。もし悠貴さんが言っていたように権力目当てだと優華さんが知っていたならば、『目当てだったのね』と確定して言っていたはずだ。だけど高岡さんを傷つけたであろう事で優華さんは泣いていた。だから少なくとも仲違いしたときには、優華さんは高岡さんの裏事情を知らなかった事になる。
深みにはまって考え込んでいる私に、羽鳥さんは情報屋としては依頼主の名前を明かす事は信用に関わることなので当然御法度なのですがと、おずおずと話し出した。
「実は高岡先輩に瀬野先輩が泣いていた事を告げました」
「は、はいぃっ!? なぜ!?」
「高岡先輩は瀬野先輩の事を心配されていました。私に何とか瀬野先輩の力になって欲しいと依頼されたのです。それで思わず先輩の気持ちをお伝えしてしまいました」
前にも思ったけど、お喋りは情報屋としてどうかと思うわよ。しかしそうなると高岡さんがその後、優華さんの言葉で逆恨みするのは動機が若干弱まった気がする。もちろん人の心なんて、その時々でどう転ぶか分からないものだ。ただ、あの日、高岡さんが新部先生と一緒にいたことが分かれば、アリバイにはなるだろう。話すリスクが高い内容ならなおさらその信用度は高まる。
「私は情報屋なのでそれ以上の事はできませんと言ったら、ではあなたが情報屋である事だけでも明かして欲しいと。そうして私は瀬野先輩に近づきました。後はご存じの通りです」
いや、ご存じではないのですが……。でも心配をしてくれるような人が階段から突き落とすような真似をするはずない。そう信じたい。
「そう、話してくれてありがとう。すみれ様とお話ししてみますわ」
「私の情報が誰かを傷つけるものではなく、誰かと誰かを繋げるものになるようにこれからも情報屋として精進したいと思います」
「……そうね。あなたにはその方が性に合っているわね。ありがとう、羽鳥さん」
彼女はそれは私の台詞ですと、改めてありがとうございましたと微笑した。
「はい、お願い致します」
私は瀬野家に交渉を進めて貰うように依頼し、電話を切った。
さてとそれでは、現場百遍ですね。捜索に行き詰まった時は何度でも現場に訪れて丹念に調べるべきだとか、何とか。ということで、私は現場に訪れた。とりあえず付近の教室を捜索してみようか。一番近い教室は実験室2の教室か……。近年、学生の人数が減って、現在はこの部屋はほとんど使わないらしい。
ああ、そう言えば、新部先生は化学の先生だったわね。なるほど、ここでビンゴだろう。ただ、ここだと廊下から窓を通して中が見えるから、密会には向かない。となると、その横の個室の準備室か。ここなら廊下からの扉にも窓はなく、外からは見えない。ドアノブに手を伸ばしてみたが、やはり鍵が閉まっていた。仕方ない。階段の方をもう一度調べてみようか。そう思って階段へと歩いていたら、背後から人の気配がする。またか……。
私はため息を吐いて振り返った。
「紺谷さん、あなたも懲りない方――」
「……あなたこそ、懲りない方ね、瀬野優華」
氷のように冷たい瞳でこちらを見つめる彼女に私は目を瞠った。
「あ、なたは……」




