25.ヒロインはヒーローに助けられてこそ華ひらく
私は校舎外に出て、庭を散策する。今日も今日とて運動部員はこの青空の下、駆け回っている。そのすぐ側には女性マネージャーがあくせくと動いているのが見えた。
学生時代と言えば、運動部のマネージャーに憧れたものだが、意外とハードなものらしい。大量の洗濯物は重いし、手はガザガザになるし、破れたユニフォームを繕わなきゃいけないし、スポーツドリンクは作らなきゃいけない。運動部並みに走り回っていたとか。そして優遇されるのはやっぱり美少女に限るって、友人は言っていたなぁ。
努力なんて報われない。力がある者、容姿がいい人、天賦の才能、それだけで自分の努力の全てを上回るんだって泣いてたっけ。世の中は学生時代から、いや、生まれた瞬間から不平等で成り立っているものだ。そんな風に考えを巡らせていると、ふと気付いた。徐々に記憶を取り戻している自分に。そう遠くない未来に自分自身を取り戻すだろう。その時私は……。
思いを振り払うように、私は足を進めた。
前回同様、美しい音色に誘われるかのように庭を進むと、音楽室の窓際に辿り着いた。考えてみれば音楽室はせっかく防音仕様なのに、彼は窓を開けていていいのだろうか。防音効果が高くて音の調整ができなくなるのかな。あるいは優華さんが聴きに来るために開けていたのだろうか。私は窓の下に座り込みながら、そんな事を考えた。しかし、思考をひととき止めると、バイオリンの音色を素直に楽しむ事にした。美しい旋律は世の中の煩わしい騒音を消し去って、別世界に連れて行ってくれるようだ。優華さんは何度もこの場でそれを味わっていたのだろう。
ふと、切り良く音が途切れたかと思うと、上から声が降ってきた。
「瀬野先輩。来て下さったんですね」
江角奏多君が窓から顔を出していた。さすが音楽家。耳が良いのだろう。きっとここに来て、すぐ気付いていたのかもしれない。私は立ち上がると、何とはなしにスカートを払う。
「素晴らしい演奏でしたわ。ありがとうございます。ところで少し……お話があるのですけれど」
「いいですよ。休憩しようと思っていたところですから。教室にお入りになりますか?」
「ええ、できれば。お邪魔してもよろしいかしら」
「はい、もちろん。喜んでご招待します」
彼はにっこり笑って両手を差し伸べるも、私は顔を引きつらせた。
「……さ、さすがに低い窓とは言え、ここからは入りませんわ。入り口の方に回らせて頂きます」
「あ、それもそうでしたね。じゃあ、お待ちしています」
照れたように江角氏は笑った。
音楽室の扉を前に私は胸のブローチを直して、一つ大きく息を吐く。コンコンと扉を叩くと、すぐに扉が開かれる。
「どうぞお入り下さい」
「ありがとうございます」
レディーファーストごとく、扉を押さえてくれていたのはありがたいです。だけど直後の扉を閉めてカチャリと鍵がかかる音が頂けない。しかもさっきまで開かれていた窓も閉めているし! 別に逢い引きにきた訳じゃないんですけどっ。この季節なのに、ちょっと背筋が寒い……。
「この部屋に入られるのは初めてですね」
「そ、そうね」
にっこり可愛い笑みでそう言う江角氏に、私は部屋をざっと見渡してみた。ここは彼だけの教室だと言っていた。壁際にはひと一人余裕で横になれそうな豪華なソファが添えられている。中央には譜面が立てられ、その横にはケースに入れられたバイオリンが机の上に置かれていた。
も、もしや何億円もすると言うストラ何とかというやつでしょうか。見ても分からないけど。それに興味はあるが壊したときの弁償がいか程になるのか考えると恐ろしい。君子危うきに近寄らず。バイオリンからさりげなく遠ざかる。しかし、内心びくびくしている私を見抜いたかのように江角氏が言った。
「大丈夫ですよ。それは練習用だから。せいぜい数百万円ですし」
せ、せいぜいですとっ!? あなたにとってはせいぜいのレベルでも、こちとらただの平社員には大ダメージだーいっ! 庶民である私の動揺を隠すように、無理に笑う。
「そ、そうですか。それでも道具は大事にしないと駄目ですわよ。あなたの練習に付き合ってくれる良きパートナーなのですから」
江角氏は意外そうな瞳をこちらに向けるが、素直に頷いた。
「そうですね……。ああ、すみません。お話でしたね。立ち話もなんですから、ソファへどうぞ」
そう言って促されますが、もしこの状況下で暢気に座ってお話する人がいるなら、それは危機管理が足りないと思いますよ。
「いえ。お気遣い無く。すぐにお暇致しますので」
「……そう。それで何でしょうか?」
可愛い笑みのはずが今は何故かとっても色っぽくて怖いです。ああ、考えていた以上にまずい。これは万が一のために退路を確保しなければ。
「ええ、っとそうね。その前に暑くはございませんか? 窓を開けてもよろしいかしら」
私は内心焦りながら足早に窓に近づくと、鍵に手を掛けた。その瞬間その手を包み込まれたかと思うと、もう片方の手でドンと窓に腕をついて私を囲う。ぎゃあぁ! こ、これはもしや、正統派壁ドンっ!? 退路を自ら断つとは私は愚か者の大馬鹿者です。誰か私を罵ってやって下さーい。
「先輩。……焦らさないで」
耳に低く囁かれる声に肌が粟立つ。やばいでしょう、この色気は!
「え、江角さん? ち、近いわ?」
彼を見上げて、押し返そうとするも彼は力を抜く気配はなく、逃げ腰の私に気付いたのか、むしろもう片方の腕を取られた。まずい。力では負ける。線の細い男性だと思ったが、さすがに体格差だけでも押さえ込まれて動けなくなる。ただし、甘い気持ちにはこれっぽっちにもなれないのは、こちらを見つめる彼の瞳があまりにも冷たいからだろう。とても惚れた女に向ける瞳では無い。……などと冷静に分析している場合じゃなーいっ!
「れ、冷静に行きましょう、冷静に。江角さん」
「僕は至って冷静ですよ、先輩」
「話があるって言ったでしょう」
「ええ。どうぞお話し下さい?」
よ、よし仕方ない。ここは話をまくし立てて気を逸らすプランBに変更だ。Aはないけど。
「江角さん、わたくしの事がお嫌い?」
「……この体勢でその質問ですか?」
「じゃあ質問を変えますわ。わたくしを階段から突き落としたのはあなた?」
江角氏は目を見開くと直後、力強く抱きしめてきた。いきなり何するんですか。
「可哀想な先輩。人間不信になってしまったんだね。忘れないで。僕だけはあなたの味方だよ」
「……本当ですか? 柏原静香さんの幼なじみの江角奏多さん」
その言葉に彼はぴくりと反応すると身体を起こし、私を見下して冷たく笑った。
「何だ。知ってたの」
「……ええ。先ほどの質問ですけど、あなたではないのですか?」
「と言う事は、瀬野先輩、本当に突き落とされたんですか? あははは。本当に色んな人に恨まれているんですね」
その言葉に江角氏はその可愛い容姿を冷たく歪ませて笑った。寒い。寒すぎるわその笑顔。凍えそうよ!
「……それがあなたの本性?」
「本性ね。そうだと言ったら?」
「……残念だわ。あなたがわたくしに好意を見せるフリをしていたのは、柏原さんがそうさせたと言うことですわね」
その時初めて感情が動いたかのように彼は目を瞠った。
「事実無根のわたくしの悪評判、目に余る物が有りますわ。誰かが仕掛けたとしか思えません。わたくしを恨んでいるのは柏原静香さん。彼女があなたに頼んだのかしら? 大人しそうに見えて酷い方ね。……いっ!」
彼が掴んだ私の腕に力を入れて握りしめる。痛いわねっ、か弱きレディーに何するのよ。
「静香を悪く言わないでくれる? 彼女は君と違って心の綺麗な持ち主なんだ。それにあなたと二宮先輩のせいで、静香がどれだけ心を痛めたと思っている!」
君と違ってとは何よ! 事実無根だと言っているでしょうが。それに悪いのは悠貴さんのお父様ですからね! 優華さんは何一つ悪くないんだからっ。と言うか、悠貴さんサイドはつくづくトラブルメーカーだな。私はため息を吐いた。
「……そうですか。確かにわたくしを恨んで何か仕掛けようとするのは、何も柏原さん本人ではなくても、彼女を想う人でもおかしくないですわね。では、あなただったという事なのね」
「いいえ。噂は僕じゃないですよ。そんな手間をかけるよりも、先輩本人をモノにすれば確実だし、早いでしょ?」
モノにって、怖い発言をさらっと冷たい笑顔で言わないで頂きたい。さすがの私も冷や汗が流れそうよ。
「ここで身体の既成事実を作ってしまえば、二宮先輩どう思うでしょうね」
「……わたくしたちに対する復讐のつもりかしら」
「そうですよ」
「ずっとそう思いながらわたくしと接してきたの?」
彼はそれには答えず、ただ黙ってこちらを見つめる。
「あなたの音色に励まされてきたのに」
優華さんは書き記している。心が折れそうになる自分を勇気づけてくれるような音色に何度も胸を打たれたと。
「あなたが奏でる優しい音色に何度も心が癒やされましたのにっ!」
私の言葉を通して、優華さんが心から訴えかけるような叫びだった。ほんの一瞬だけ、彼の瞳が戸惑いに揺れるのが見えた。けれど彼は腕を解こうとはしない。落胆と共に優華さんが受けた心の傷がズキズキ熱いほど響く。
「僕の大切な静香を傷つけた報いを受けてもらえますよね?」
「…………馬っ鹿じゃないの! 逆恨みもいいところよ。受けるわけないでしょうが!」
筋違いの恨みに苛立ちすら覚え、いい加減頭に来てそう叫ぶと、江角氏は目を丸くして驚いた。
「先輩、思いの外、口が悪いんですね。それが本性ですか?」
悪かったですねっ! ちなみに口が悪いのは優華さんではなくて、私、木津川晴子ですよ。とりあえず優華さんに謝れ。……いや謝るのは私ですか。
「まあ、その方が罪悪感覚えなくて済むからいいか」
え。何言ってんの!? それは良くないよ! 口悪い私でも少しは良いところもあるんだから、罪悪感くらいは覚えようよっ! などと若干的外れな事で焦る私のブラウスのリボンに彼が手を掛けて外したその瞬間、机にあったはずのバイオリンの弓がなぜか音を立てて落ちた。
え、何っ!?
江角氏も思わず振り返り、彼の気が逸れたかと思った次の瞬間、ドアノブを強引にガチャガチャガチャと回す激しい音が立てられた。
ぎゃあああっ! 何てタイミング。何かホラーですっ!
でも扉の向こうの相手は誰か分かっている。そしてようやく鍵が外される音が聞こえた。……はぁ、来た来た。ヒロインはヒーローに助けられてこそ華開くもの。ヒロインがピンチの時に絶妙のタイミングで現れるのがヒーローなのだとうんうん感慨深く頷いていると。
「奏多っ! やめて奏多!」
最初に教室に踏みこんで来たのは、涙を浮かべて叫ぶ柏原静香さんだった。
…………なぜだ。




