11.音の調べに誘われて
すっかりご満悦でいつの間にか我知らずスキップしていたが、はたと気付いて足を止めた。松宮千豊をやりこめてスッキリしている場合じゃなかった。自分は現在迷子進行形だったのだ。彼に道を聞こうと思っていたのに……。
まさか戻って、道聞くわけには行かないし、とりあえず前に進んでみるしかないかな。そう思いながら、もはや探索ではなく散策していると、甘く美しい旋律が耳に流れこんで来る。誘われるようにその音の発生源へと足を運んでみた。
窓が開かれた教室から、同じ小節をバイオリンで繰り返し練習している男子学生が見える。彼は確か二年生の江角奏多。世界で活躍する音楽一家のサラブレッド。彼もまた優華さんと接点を持つ人物だ。
写真で見た彼は、柔らかそうな髪に、儚げな印象の中性的な顔立ちだった。まさか自分の人生で男性に儚いという言葉を使う日が来るとは思わなかった。童顔も手伝って男らしさよりも繊細さという言葉がよく似合う。しかし音楽系は結構ハードな練習だと聞くけど、こんな線の細い子で大丈夫なのか。あるいはバイオリンを持つと人が変わるタイプか。何にせよ――。
可愛い。
悠貴さんの前で、そう、ぽろりと言葉を零すと、周りの気温がぐんと低くなったのは記憶に新しい。恐る恐る顔を上げると、目が笑っていない彼がそうだね、女性にも人気あるよと口角を上げていた。いや、私の感想ですからね。優華さんの気持ちじゃないですからねと私は慌てて笑って言い訳したさ。
何とか話の矛先を変えようと彼と優華さんの関係を聞いたところ、詳しくは知らないけど、どうも彼の演奏をよく聴きに行っていたみたいだよ、よくねと強い口調で微笑まれた。余計にドツボにはまったようです……。
それにしても何というご都合主義。意図せず学園潜入初日にして、ほぼ主要人物を網羅しちゃったよ。私が主役か、そうなのか。まあ、それはいいとして。ここにいるのを誰かに見られて、さらにそれが悠貴さんの耳にでも入ったら、またややこしい事になりそうだから、とりあえず引き返すのが正解だろう。そう思って翻したとき。
「瀬野先輩!?」
背後から男性の甘い呼び声が聞こえた。いつの間にか、バイオリンの音は消えている。うーん。振り向くべきか振り向かないべきか、それが問題だ。
そう思い悩んでいると背後で砂が擦れるような音が聞こえ、思わず振り向いた。そこには窓から飛び出して、地面に舞い降りていた彼の姿があった。と認識するや否や、いきなり胸に引き寄せられて森林っぽい香りと共に包みこまれた。きゃー、抱かれてるー!
だが、不意に背筋に悪寒が走って甘い気持ちが吹っ飛んだ。代わりに私の脳裏に瞬時に過ぎったのは悠貴さんにバレたら、確実にヤラレルー! だった。だから私は慌てて、腕を突っ張らせて距離を取った。すると彼は我に返ったように自らも距離を取る。
「す、すみません」
「…………イエ」
どっきんこ、どっきんこ。どうよ、これ。変な心臓の音がするじゃないか。
「あの。お怪我されたって聞いて心配で、僕」
心配だったら抱きつくのか、今の高校生は。違うよね。まさかまさか、二人は許されぬ恋の間柄とかじゃないよね。勘弁して下さい、そんな修羅場を生みそうな事。そんなのだったら本気で泣きますよ、私。
「ありがとうございます。大丈夫ですわ」
かろうじて笑みを作って言った。とりあえずここは危険地帯ナリ。ひとまず退散した方が良さそうだ。
「わたくしはもう行きます。あなたももう練習にお戻りになって」
「先輩、あの、僕」
彼はこちらに伸ばした手をぐっと握りしめると、やるせなさそうにゆっくり腕を下ろした。
「お大事になさって下さい」
「ありがとうございます」
「あの。また、聴きに来て下さいますか?」
「…………ごきげんよう」
私はそれには答えず、軽く会釈してできるだけ自然に歩くと、校舎の角で曲がった。付いてくる気配はない事に安堵する。そして校舎の壁に身を寄せるとため息をついた。華奢っぽく見えたのに胸板が意外と厚かったな、とか、イケメン生男子高生の抱擁ごちそうさまでしたなど不埒な気持ちが入り込む隙などは例え一分たりともなく、これからの事を考えると頭が不安と混乱で一杯になってしまう私だった。
私は何とか教室に戻ることに成功し、生徒会の会議が終わった悠貴さんと合流し、寮へと戻る。
「学園探索、どうだった?」
「うーん。そうねぇ。情報過多になってしまって、ちょっと整理したいというところかな……」
私は江角氏に抱きしめられた件は危険性をはらむので当然除外して、出会った人たちについて話をしてみた。
「へえ、それで江角君はどんな感じだった?」
悠貴さん、だから松宮氏をやりこめた話や意味深な言葉を残した水無月さんは軽くスルーして、江角氏に食い付くのはやめようか。痛快な話でも謎でも何でもないので。顔が引きつりそうになるのを笑みに変える。
「私は芸術という芸術には疎いんだけど、すごく綺麗な音色だった。――ああ、そう言えば教室になぜか彼一人しかいなかったわ」
「彼は特別室をもらって練習しているから。他の一学生とは頭一つも二つもレベルが違うから一緒にはできないんだろうね」
「あぁ、なるほどね」
音楽一家だから、小さい頃から厳しい教育を受けてきているのだろう。幼い頃から始める音楽は絶対音感が養われると言うし、未熟ゆえに生まれる不協和音は耳障りになると言うもんね。
「それで他に江角君の様子は?」
まだ食い付くか。心の中でため息をつくも、表情にはおくびにも出さないで答える。
「それ以外は、特にございませんですのよ」
「……晴子さん」
悠貴さんは二人きりの時、私を晴子と呼んでもらうようにしている。優華さんモードと第三者視点モードの切り替えがしやすいから。ただ、今のは意図的に意味を含ませた呼びかけである事は明白だ。
「何かしら」
私がそう言うと、ついと場の空気が冷え込むのが分かった。彼は相変わらずいつものような笑みを浮かべている。随分、不穏な空気じゃないの。
「僕に嘘をついたり、隠し事をしたりするのは無しだよ。それによって君の身に危害が及ばないとも限らないから」
そう言って微笑む彼の表情は背筋が寒くなるほど美しい。彼もまた人の上に立ち、人を従わせる人間が持つ貫禄を秘めているのだ。それは傲慢な程に。
「それは……どういう意味かしら」
「そのままの意味だよ。君に危険が及ぶのを危惧しているだけ」
そう。それは人を従わせようとする人間の常套句。けれど……ねえ、本当に分かっている? 私は小さく笑い返した。果たして切り札を持っているのは一体どちらなのかしらね。
「……ねえ、悠貴さん。私は自分が何者かも分からないけれど、一つ確かなのは今、私は優華さんと言うことよ」
「…………」
「優華さんの身体に傷がつけば血も出るし、痛みもあるわ」
悠貴さんは笑みを消して、こちらをゆっくり見据える。あらあら、恐い顔。そんな余裕のない表情初めて見たわ。それに勘違いしちゃって。丸腰で私に喧嘩を吹っかけた事と言い、まだまだ青いなぁ。私は心の中で苦笑した。
「私は優華さんと不離一体なのよ。この先私がどういう結末を迎えようとも、私が優華さんでいる限り、優華さんを傷つける誰からをも守り抜いてみせるわ」
そう言うと、目を瞠る悠貴さんを真っ直ぐ見つめ返す。もちろんあなたからもね。暗に瞳に潜ませて。
「だから私が包み隠さず全て話すことで優華さんに危害が及ぶと私が判断したならば、隠し事をもするし、嘘もつくわ。当然の事でしょ」
はっきり隠し事する宣言した私に悠貴さんはしばらくこちらを無言で見つめていたが、やがて表情をふっと緩ませた。そしてため息をつき、諦めた様に手を挙げる。
「降参。僕のこれ、結構効果あるらしいんだけどね。君には効かないようだ」
こやつ、本気で私を脅しにかかっていたのか。悪い男だな! まあでも、私に喧嘩を売るには少々早かったわね。五年後には分からないけど。
「亀の甲より年の功よ。あなたとは場数が違うのよ、場数がね。ま、言ってて、ちょっと悲しい台詞だけどね」
そう言って笑うと、悠貴さんもようやく笑みを取り戻した。でもここで手を緩めたりする程、甘くないのよ私はね。悪い芽は若い内に摘んでおくことが肝心です。
「好きな人の事を何でも知りたいのは分かる。でも相手の心に土足で踏み込もうとするのは傲慢で許されないことよ」
しっかりと釘を刺しておく。その言葉に悠貴さんは悪戯して叱られた子供のように眉を下げた。
「……そうだね。ごめんね、晴子さん」
「うむ。罪を憎んで人を憎まず。許して進ぜよう」
茶化すように言うと、悠貴さんはありがとうと笑った。
「晴子さん、あの……」
「ん?」
「あ……ううん。ごめん。ただ、彼、江角奏多には気をつけて」
「……分かったわ」
そこまで言うからには何かあるのだろう。そもそも彼との接近はまずいと感じたし。私が頷くと、悠貴さんは何かを決意したようにこちらを見つめ、私の右手を取って包み込んだ。
「晴子さん」
「は、はい?」
「君が優華を守ってくれるように、僕も何があっても晴子さんを守り抜く――そう誓うよ」
真っ直ぐな彼の瞳には嘘偽りはない。そう信じられたから。
「うん。これからもよろしくね」
そして私は彼の手に自分の左手を重ねた。




