1.ここはどこ、私は
ピッ、ピッ、ピッ。
どこかで断続的な電子音が鳴っているような気がした――。
鈍く重苦しい身体の痛みに目が覚めたら、見慣れない天井と身体に馴染まないベッドの感触に気付いた。慌てて身体を起こしてみようとするも、軋む身体にすぐにベッドへと逆戻りとなってしまう。頭や腕には包帯が巻かれていて、そして左足首も包帯が巻かれているようで、少し動きが悪い。全身の筋肉痛のような鈍い痛みもこの怪我をした時にできたものだろうと推測される。
私は一つため息をつき、今度はゆっくり身体を起こして、周りの様子を窺ってみた。部屋は薄暗く、静まりかえっていて、大きな窓に掛けられたカーテンから零れる街灯の光が目に入る。
「夜、かな」
喉がカラカラ、うまく声が出せなくて、掠れ声になった。目が薄暗さに慣れたところで右側に振り返ってみると、豪華な応接間のように家具が空間ゆったりと配置されている。しかし、腕につけられた点滴と手元のブザー、そこはかとなく漂う薬品臭から、自分は病院のベッドの上にいる事で間違いなさそうだ。ああ、そうだ。病室のベッドなら、頭の方にライトのスイッチがあるはず。
そして手探りで何とか見つけると、ぽうと温かい光が灯った。改めて右側を見ていると、シックな作りのバロック調家具というものだろうか、室内はますますセレブ感を増してくる。
まだ頭が混乱中らしく、記憶は定かではないが、何やら事故にでも遭ったらしい。それにしても随分と豪華な部屋だ。親がこんな一泊いくらかかるか分からない特別室を選択するとは思えないし、自分はもしやお金持ちさんの接触事故を受けた被害者だったのだろうか。
身体の痛み具合から、そう大した怪我でもないように思えるし、ラッキー、入院満喫しよ……じゃなくて。全治どれくらいだろう、会社にすぐ戻ることができるレベルだろうか。有休がたまっているからこれを機に消化しろと言われそうだけど。
そういえば入院初日だろうに、家族が誰も側にいないのか。何と薄情な……。でも、もしかしたら病室の外にいるのかもしれないし、動いてみようか。怒られそうだけど、忙しいであろう看護師さんをブザー一つで呼び出すのも忍びない。私は看護師という過酷な職業に理解あるデキる女なのだ。
そう思ってベッドから足を下ろし、立ち上がってみる。左足首が少し痛むけれど、立ちくらみもないし、何とか歩けそうだ。一歩、二歩と足を踏み出したとき、目の端に何かが映る。ぎくりとしてそちらに視線を向けると、カーテンがわずかに開かれていて人の姿が映っていた。
何だ。自分の姿か。ホラーじゃないんだからあはははは……。
心の中で乾いた笑いをして、カーテンを閉めようと手を伸ばす。そこには髪の長い女性がただ一人だけ映っていて、ほっとして視線をそらした。良かった。自分以外の何かが映っていたら怖すぎる。髪の長い女性が一人映っていただけ……ん? 長い、髪? 私はミディアムヘアのはず、でしたよね。……うっ、わ。冗談止めて止めて止めてっ。怖い怖い怖いっ! ホラー映画のヒロインは何故かここで振り返ったりするけど、私は絶対振り向かないぞ、振り向かないんだからねっ。だが、ここで逃げたら相手(?)の思うつぼだ。怖いと思うから怖いんだ。そう、幽霊の正体見たり枯れ山水……じゃない、何とやらだ!
私は強い決意を固め、カーテンをつかむと一気に開け放った。するとそこには包帯が巻かれた髪の長い女性がぬぼーっと映っていて。ぬぼーっ……。
「……うっ、きゃぁあああ!」
出た出た出ましたー。
身体の痛みはいずこに、点滴を蹴飛ばす勢いでベッドまで必死に戻ると、震えた手でブザーを必死に探し出す。看護師さん忙しいからなどとさっきまでの殊勝な態度はどこへやら、携帯メールの早打ち名手と誉れ高い指使いを炸裂させた。ごめんなさい。私は仕事に理解あるデキる女じゃありませんでした。認めます。社会人としてはあるまじき行為だと叱責されてもいいです。ですからとにかく誰でも良いから早く助けに来て。はーやーくー。
私の強い祈りが通じたのか、あるいは扱いが厄介なモンスター患者と思われたか、早々に部屋が開け放たれ、どうしましたかーと点灯と共に若い女性の看護師さんが入って来るなり、ベッドの下にへたり込んでいる私に気付いて慌てて駆け寄って来て私の肩に手をかける。
「せのさん! どうなさいましたか」
「あ、あれ……」
必死に窓へと指さす。
「で、出た出た。ユーレー、出た」
「落ち着いて下さい。大丈夫ですよー。何もいませんから。さあ、立ちましょうか」
穏やかな看護師さんの声に落ち着いてきて、力を借りて促されるまま立ち上がる。
「ほら見て下さい。幽霊なんていないでしょう?」
にこにこ笑う看護師さんを信じて窓へと視線を向けると、そこには看護師さんとやはり髪の長い女性が。
「いるーっ! 包帯髪長人間がーっ」
妖怪名みたいになったが気にしない。私は看護師さんにがばりと抱きついた。看護師さんは、あら、うふふと笑って宥めるように背中を撫でてくれる。あらうふふって可愛いな看護師さん!
「大丈夫。それはご自分の姿ですよ。お怪我をなさったから処置してあるんです」
「…………え? 自分の姿?」
もう一度、窓を見ると私は手を動かしてみた。すると窓の中の女性はやはり自分と同じ動作をする。その時になってようやく肩にかかる髪の長さに気付いた。声も明らかに自分の声ではない。え、まさかそんな……。
「さあ、せのさん、ベッドに戻りましょうか」
看護師さんに促されて、ベッドの端に座り込んだ。さっきから『せのさん』って……名前? 私は枕上の名前のプレートを見る。そこには『瀬野優華』と書かれていた。
「あ、あの。か、鏡! 鏡を貸して、頂けませんか」
「はい、鏡ですね。少しお待ち下さい」
看護師さんは時を待たずして、すぐに鏡を用意してくれる。
ごくりと息を飲んで覗き込んだそこには、およそ自分とはかけ離れた、頭に痛々しく包帯が巻かれた青白く不安そうな表情を浮かべた美少女がいた。
「ねっ。瀬野さん、状況ご理解頂けましたか?」
にこにこ笑う看護師さんを茫然と見つめる。……ね、じゃないです。ご理解も頂いていません。だって私は――。
「瀬野さん! 瀬野優華さん!」
呼びかける看護師さんの声を遠くに聞きながら、暗闇に吸い込まれていく寸前に思った。
そんな名前じゃない。髪も長くない。美少女でもない。私は晴子、木津川晴子、二十七歳。会社の駒の一つ、ただの平社員です、と。