表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

2/2


          十一


 涓城付近の物々しさは、和約の期日が迫るとともにその度合いを増していった。王は諸臣の懇願を受けて和約を延長することを提案する使者を出したが、今さら和約を更新することは必要ない、蔡と祁の和平ぶりは天下の認めるところであるというような白々しい文句を綴った親書を得ただけであった。それは王の予想通りであったが、いよいよ蔡が決戦をする腹積もりらしいということは諸臣民に大きな衝撃と共に知れ渡ることとなった。祁中にも何となく張りつめた空気が漂っていたが、しかしそれは体面上の白々しい雰囲気に過ぎず、その裏側には自分が隴にいなくてよかったという安心が見え隠れしているようであった。

 和約の期限まで、あと一週間となった。涓城付近にはますます旗が多く掲げられ人馬の出入りも激しくなり、蔡はいよいよ露骨に対決姿勢を見せ始めた。というのも、五千ほどと見られる蔡軍が涓城を出、隴との国境にある泰朗原に、軍事教練と称して土塁を積み上げて強固な陣を築き始めたのだ。それに対抗して隴の嘉苞と程凱にも、蔡の陣から十里ほどの場所に三万の兵を集め、蔡に劣らぬ陣塁を築かせた。泰朗原は、一触即発の緊張状態にあった。

 楊岱は相変わらず気味の悪い軽薄な笑いを顔に貼り付けて王の言うことに追随するばかりであったが、その裏に秘められた陰謀は、蔡の密使に扮した顔色の悪い従者の手によって大方が王の知るところとなっていた。顔色の悪い従者は韓陸にも楊岱にも疑われることなく、まんまと密使に成り代わりおおせたのである。王もまた着々と準備を進めていた。しかし王はそれを表立ててやるのではなく、蔡と祁を往復する顔色の悪い従者を介し、出来る限り秘密裏に行った。


 和約の期日の三日前の晩である。その夜空には半月が上っていた。王城内の中庭には、その一隅に用意された一台の馬車に乗り込む楊岱の姿があった。楊岱は夜陰に乗じて王城を脱出し、そのまま祁中を出るつもりであったのだ。馬車は静かに中庭を抜け、やがて煌々と篝火が焚かれた王城の城門に至った。その警備に当たっていた衛兵が、その馬車を止めた。

「これはどなたの馬車でござろうか」

 御者があくまで泰然と、しかし若干声は潜めて衛兵に答えて言う。

「これなるは丞相の御車である。丞相は王より密命を受け、今より隴州に赴かれるのだ。通行証はここにある」

言って御者は衛兵に通行証を出した。衛兵はそれを確認することなく、御者に答えた。

「ここをお通しするわけにはいきませぬ」

 それを聞いて、御者はたじろいだ。御者だけではない。馬車の周りを固める従者も、あるいは籠の中で外の声に耳をそばだてていた楊岱も、皆等しく不安に胸を早鳴らせていた。

「……なぜ通行証を確認しない? 通行証を持つ者を通すのは衛兵の義務であろう」

 言い返した御者に、衛兵は答えた。

「王よりお達しがございました。近いうち丞相が密かに城外に出ようとするだろうが、そのときいかなる理由があろうとも通してはならないと」

 それを聞いて、楊岱はいよいよ血の気の引く思いであった。楊岱は籠の窓から顔を出し、いかにも何を言っているかわからないという風情で衛兵に言った。

「はは、また王もお戯れをなさる。隴章に行けと言ったのに祁中を出てはならぬとは、まったくお人が悪い」

 それから楊岱は、キッと衛兵を睨みつけた。

「良いからお前、さっさと門を開け。これは丞相の命だ。背けば、逆臣として斬り捨てる」

 楊岱の権幕に、思わず衛兵はたじろいだ。楊岱は続けて怒声を張り上げて言った。

「開けろと言っているのが分からないのか、この――」

「――人間は、いつも皮を被っている」

 突然、後方から声がした。楊岱は振り返ったが、門前に掲げられた松明の頼りない明かりでは、そこにいる人物の姿を見ることが叶わない。

「頭から皮をすっぽりと被せ、そして安心している。その内側に、隠すべき正体を隠すことが出来たとほくそ笑む」

 暗闇の中から足音だけがこちらに歩んでくる。その姿は見えなくとも、暗闇に重々しく響くその声にはその場にいた誰もがよく聞き覚えていた。

 楊岱は焦っていた。夜逃げに気付かれていた?しかし、そのことは腹心の御者にしか言っていない――いや、今となっては気づかれるはずがないと考えるのは意味を為さない。どうにかして気づかれてしまったのだ。では、どの程度まで知られているのか? それが問題である。危機にあって祁を見限った脱走者という認識だろうか、あるいは蔡王との内通者として? それとも……全てが、既に露見しているのだろうか?

 暗闇の中から、祁王が姿を現した――その顔には湛えられていた薄い笑みは、楊岱をぞっとさせた。

「その皮が剥がされた時の、そやつの慌てふためきよう……なんとも見物ではないか! そうは思わんか、楊岱。あるいは蔡の尚書、陽樋と呼んだ方が良いかな」

 陽樋とその本名を呼ばれ、馬車の籠からその顔を出したまま呆然とする祁の丞相は、明らかにその顔色を青ざめさせていた。王はさらに言葉を続ける。

「陽樋よ。もし、今からお前が心を入れ替えて余に忠誠を誓い、蔡王と連絡した全ての内容を話すと誓うなら、お前を殺さないでやっても良い。さて、どうする」

 楊岱は考えた。自分が蔡王と内通していることは、どうにかして王に露呈したのだろう。ただ、自分たちの目論見の全てを知っているわけではない。だからこそ王は自分を活かそうとしているのだ。最悪の事態だけは免れたのだ――楊岱は青ざめた顔をしたまま、王を嘲笑って言った。

「愚君に話すことなど何もない。さっさと殺せ」

 王は、楊岱の言葉に侮蔑の色を込めて答えた。

「この期に及んで吠えるか。忠臣の装いも何もかも、炎に巻かれればただの灰燼に帰すというのに」

「しかし、我が屍は土に還り蔡の土壌を豊かならしめ、屍の上に残る墓標は後世まで我が功を伝えるだろう。それを無意味というからお前は愚君なのだ、公孫瑛」

 迷い無く言い放つ楊岱の言葉を聞いて、王は、高く嗤った。その目に映っているのは、内通者楊岱でも、潜入者陽樋でもない。王の視線の先には、彼の背後に連なり聳えている内城壁があった。城門付近だけが篝火で赫赫と照らされ、奥に行き城門から離れるにしたがってその輪郭が暗然と闇に溶けていく、長大にして傲慢な、無数の石が抑圧された塁塊。王の不気味な笑い声だけが辺りに反響し、それが却ってその場にいる誰もに薄闇の静寂を意識させた。

 王は不意に嗤うのを止め、恐ろしく冷たい目で楊岱を睨みつけた。

「馬車を降りろ、楊岱。お前の官位を全て剥奪する。法規に照らし、お前を火刑に処す」

 楊岱はそれを聞いて諦めたように項垂れると、そのまま大人しく馬車から下りる。衛兵が楊岱に近寄ろうとするが、楊岱はそれに背を向けて王の立つ方へ歩き出した。

 その動作に違和感を抱いた周囲の番兵が楊岱を制止しようと身構えたそのとき、楊岱は剣を抜いた。そして腰を低く猛進し、王に鋭い剣の一突きを浴びせようとした。王と楊岱の距離は十歩ほどであり、衛兵の制止は間に合わない。絶体絶命かと思われたが、王の側に控えていた顔色の悪い従者が小刀を手に、楊岱に立ちはだかった。

「どけ雑兵! 天下に号令をかけるのは、親の威光を借りて政を己の恣にするような愚王ではない! 天命を受け、その身一つで王にまでのし上がられた韓陸様こそ天子に相応しいお方なのだ!」

 従者は動じることなくその手にした小刀を振りおろす。鋭い剣撃の音が高らかに鳴り響き、楊岱の剣が地面に落ちた。狼狽する楊岱の右足に従者は冷徹に小刀で刺突を浴びせた。すると楊岱は呻き声を上げながら地面に崩れた。それでも楊岱は諦めず傍らに落ちていた剣を拾い上げると、それを王に向かって投げつけた。その剣は従者の顔のすぐ横をすり抜けて、王の喉元に飛んでいった。

 しかしその剣は王の喉元にまでは至らなかった。楊岱の手を離れた剣は重力に従ってその軌道を曲げ、そのまま王の足元の冷たい地面に突き立つだけであった。地面にその刃を埋め、もはや微動だにしない自分の剣を青ざめた顔で見つめる楊岱のところに、ようやく衛兵が至った。衛兵は乱暴にその体を押さえつけ、縄でもって楊岱を縛めた。その顛末を見届けると、顔色の悪い従者は踵を返して王の足元に突き立つ楊岱の剣を抜き取った。

「これは貰おう」

 ニヤリと笑って従者はそのまま王の横を通り過ぎ、そのまま闇の中に消えて行ってしまった。

「王」

 そこで王は我に返った。縛められ、力なく項垂れる楊岱を地面に押さえつけながら衛兵が王の顔を窺っている。王は言った。

「処刑場に連れて行け。即座に火刑を実行するように」

 その言葉を受けて、衛兵は乱暴に楊岱を立ち上がらせる。右足が利かないのを無理やりに歩かせられながら城外の処刑場へと連行されていく楊岱の背中は小さい。王は傍らにいた麗春を見た。麗春の顔は青ざめていた。しかし、楊岱の処刑を見ればきっと麗春の顔には今までになく美しい笑顔が咲き誇るにちがいない。そう考えると麗春の頬にも薄い紅色が差して、来たるべき祝祭に対する期待の色が見られるようであった。


 王は連行される楊岱の後を追うように刑場に赴いた。楊岱は執行人に引き渡されたが、右の足から血を点々と落としながら鉄杭に縛り付けられるその顔には不敵な笑みが湛えられ、始終王を呪う声を撒き散らしていた。

「私ひとりを殺したとて、もはや蔡を止めることは出来ない! 弱く愚かな者が、強く賢き者に屠られるは摂理である! 蔡は泰朗原の祁兵にを蹴散らしてたちまちに隴州を屠り、今に祁中も手中に収めるだろう……」

 楊岱が喚き散らす間も、執行人は一切の感情をその覆面から覗かせることなく黙々と枯れ芝を積んでいった。楊岱のその声が王の心を苛立たせることはもはやない。むしろ、楊岱が日常的にその柔和な女顔に貼り付けていた気持ちの悪い薄ら笑いや王に追随するあの声色に比べれば、罵詈雑言やそれを投げる楊岱の必死に嘲り笑う顔の方がよほど見ていて心に良いようにすら、王には思えた。

 やがて枯れ芝が積み果てられ、赤々とした炎を宿す松明が放り込まれた。炎は投げ込まれた先からぬらりとその形を立ち上げると、夜風に煽られ火花を散らしながらその勢いを強めていく。地獄に引きずり込もうと自分に向かってその美しき魔手を伸ばす炎を見ても楊岱は気丈であろうとし、祁王を侮辱し蔡王を賞賛し続けた。しかしその炎が楊岱の足を捉え、やがて灼熱の舌でその全身を舐め出すと、今までのあらゆる罵声の比較にならぬような大音声、懸命さでもって楊岱は悲鳴を上げ、少しでも熱から逃れようと体を必死にくねらせる。そこにはもはや祁王への呪詛も蔡王への賛辞も存在せず、ただ、自分のための渇望ばかりを懸命に絶叫するばかりである。しかし、真実に気づいた時には既に遅い。その身を結びつける縄はあまりに堅く、その身に焼きつける炎はあまりに熱い。ほどなくして炎は楊岱の精神をすっかり焼き尽くしてしまった。その口からは、もはやどのような音も漏れ出ることはない。楊岱は体を痙攣させ、それで体からあらゆる力が抜けてしまった。

そこで王は、麗春の方を振り返る。その時の麗春の笑顔は百の天女も遥かに及ばぬように思われる、艶美な笑顔であった。苑転たる双蛾、芳潤たる桜唇。妖艶なる一対の琥珀はその中に赤を揺らめかせてますます美しく輝いている。王は、その豊かで満ち満ちている美に酔いしれた。


 やがて楊岱の処刑が終わった。炎は満足したようにその勢いを弱めてゆき、鉄の杭に取り残された黒き魂の残滓にはわずかに赤いちらつきが見えるばかりとなった。そして、その一部始終を震えながら見ていた三人の楊岱の従者に一瞥を投げ、王は言った。

「お前たち、死にたくはあるまいな」

 びくりと彼らは肩を震わせて命乞いをしようとした。しかし舌のもつれたその口から発せられるのは意味の分からない音である。彼らはただ、子どものようにこくこくと頷くばかりである。


          十二


 その翌日、緊急で大評議が開かれた。何かあったかと噂し合いながら諸官が王間に集う。全員が集まったところで王が奥間から現れ、王座につくやいなや口を開いた。

「昨晩、楊岱を処刑した」

 諸官は騒然とした。王は続けて言った。

「丞相が処刑されるなど、古今東西にあまり例のないことである。しかしそれは、楊岱もまた古今東西に例のないほどの卑怯者であったからのことだ。楊岱は昨晩、あろうことか祁を見限り、祁中を脱出しようとしたのだ。それは未然に防ぐことに成功したが、あろうことか咎めを受けた楊岱は逆上して余に刃を向けたのだ。危ういところで余は危機を脱し、その万死に値する罪によって処刑した」

その場にいる誰もが、王の言葉に納得するより他になかった。それで王は楊岱に関する説明を終え、さらに言葉を続けた。

「先ほど、物見から報告があった。およそ六万と見られる蔡軍が三路より祁に侵入し、祁中を目指して進軍しているという」

 それを聞いた時の諸官の動揺は、先の比較にならぬほどであった。涓城に兵を集めているように見せたのは祁の兵力を分散させるための罠であり、蔡の狙いは初めから祁中にあったのだ――諸官はもはや楊岱の事を忘れ、未曽有の危機に狼狽し右往左往するばかりである。

「狼狽えるでない!」

 王の大喝をもって、諸官は口を噤む。しかしそれは混乱を抑圧しただけであり、決して収まったわけではない。王は続けて、落ち着き払った口調で言う。

「確かに蔡軍六万は脅威である。しかし、恐れることはない。祁中は天下無双の要害だ。こちらの人員は蔡の策で分散させられてしまっていて兵差は開いているが、しかし道は狭く、蔡もその人員を活かしきることが出来ない。ひと月も頑張っていれば、今に隴から援軍が駆けつけ、蔡を挟撃しこれを滅ぼすことも出来る。厳しい戦いにはなるだろうが、臆せず対抗すれば、勝機は我が国にある!」

 王の言葉を受けて、まるで様子を窺いあうかのような沈黙が王間を満たす。

「……そうだ、蔡など恐れるに足らん」と誰かがぼそりと呟いた。その隣にいた者が、「その通りだ」と、少し大きな声で同調した。波紋が静かに広がるように諸官は口々に王への賛意を示していき、ついに全員が声高に蔡への徹底抗戦を叫び出した。王間は愛国と憎悪の声で満たされ、ここに恐怖は興奮で覆い隠された。ただ一人、脇に控えている顔色の悪い従者だけがその顔を歪ませ、ひっそりと笑いをこぼしたのに気づいた者は誰もいない。


 そうして和約の期日がやってきた。それとともに西、南、東からそれぞれ進軍してきている蔡軍が王城からも視認できるようになった。王は麗春を傍らに、顔色の悪い従者を控えさせ、王城の城郭に立ってその様子を見下ろしていた。山路を採った蔡軍の歩みは緩やかであり、距離にして日に十里を進むかどうかといったほどの進軍速度である。

 続いて王は西門に目をやった。城門付近には兵舎が設えてあり、八千の兵が駐屯して警護に当たっている。それが南門、東門にも同じように配され、蔡軍の到着を待ち受けていた。各門は狭隘な山間にあるので、蔡軍にとってみれば互いに連絡を付けあうのが難しく非常に攻めにくい。一方こちらは城門を守るにしても一つの門に四千の兵があたればそれで十分であり、残りの四千は休めておくことが出来る。昼夜で交代させて警護に当たらせることで、こちらは極力隙を見せずに守り続けることが出来る。さらに残る六千ほどの兵士を遊隊として王城に待機させてあるのだから、こちらの守備は盤石であり、短期決着を見込めるような戦では到底有り得ない。隴から援軍が来るまで耐えるのも難しい話ではなく、祁が有利であることは間違いない――王はそう言って兵士を鼓舞し民の心を落ち着けた。ほっと胸を撫でおろしたような彼らの顔を思い出す。彼らが安堵したのは事態に解決の見込みが立ったからではなく、恐怖を興奮で覆い隠すことに成功したからである。今や、王は彼らを内心で嘲笑っていた。

「………………」

 冬の乾燥した風が吹きすさんでいる。遥かに聳える祁山は蒼穹に続き、その先端は雲海に覆われて窺い知ることが出来ない。大地から空に向かって立っているように見える祁山は、その実、逆に空から大地へと続いてきているのかもしれない。その考えは、不思議と王にはもっともらしく感じられた。もっともその直後には馬鹿らしいとばかりに鼻を鳴らしていたが。

 王は、傍らで遥かな祁山にぼうっと目を向けている美しき麗春に顔を向けた。

「麗春よ、今に見ているが良い」

 麗春もまた王の顔を見た。麗春の顔は相変わらず固く強張っていたものの、そこに間もなくこれまで以上に美しき満面の笑顔が咲き誇るだろうことを、王は予感した。


 三路より侵入してきた蔡軍はいずれも翌日に到着し、各門から一里ほど離れたところに陣を敷いた。同日の夕方ごろ、五百ほどの騎兵を連れ、蔡の指揮官高頌が西門前に姿を現した。

「祁王よ、無駄な抵抗は止されよ。今降参すれば、諸侯に封じても良いと韓陸様も仰っている。賢者は機を見るに敏であり、無駄な流血を好まぬものである。貴公も民を愛する一国の王ならば、自分の王たるために幾多の命をいたずらに散らすより、天命に身を委ねその城を明け渡す方が遥かに賢明な判断であることはお分りだろう!」

 それを西門の城郭で聞いていた王は、せせら笑って答えた。

「はは、下賤の王が何を言う! 天命だと? 韓陸が、その手にこびりついた死臭とその頭にはびこる詭計をそう呼んだのか! 下策を弄し、かつての友に矛を向けるような卑怯者に頭を下げてまで延命を図るような腰抜けは、あいにくだが祁にはおらん」

 お引き取り願おうか、と王は高らかに言い放つ。祁兵は喝采し、蔡兵に野次を飛ばす。

「その言葉、覚えていなされ! 明日の昼に総攻撃を開始する。それまでに降伏するなら良し、さもなくば恐るべき殺戮も已むをえまい。祁兵よ、恨むなら蔡ではなく、貴様らの上に立っている祁王を恨むことだ」

 高頌はそう言い捨てて駒を戻した。


蔡軍は高頌の言った通り、翌日の昼ごろに攻撃を開始した。蔡の各陣から狼煙が上がり、それを合図に蔡軍三隊は一斉にその陣を出て各城門に押し寄せた。各所で銅鑼が打ち鳴らされ、一気呵成の攻撃が掛けられる。蔡兵は城壁に走り寄って梯子を掛け、背後からの援護射撃を頼りに城壁を上るのだ。それを、城郭に立つ祁兵が岩石を落とし長槍で突き、梯子を壊し矢の雨を降らせて妨害するのである。投石器や雲梯などといった蔡の攻城兵器に対しては火矢を浴びせ重弩で撃ち抜き、致命的な打撃を与えられる前にこれを退ける。そうして数刻に渡って攻城が続けられたが、城郭に至る蔡兵は未だいない。やや後方で戦況を見ている高頌が苛立たしげに言った。

「さすがに天下の要害。なんとまあ堅牢なことよ」

 城郭の上に立つ祁兵の士気は高いようで、上りくる蔡兵を危うげなく突き、射り、落としていく。一方の蔡兵は、その人員こそ多いものの同時に城壁に取り付ける人数は限られているため小出しにしていかざるを得ず、その兵力差を活かすためには長時間攻撃を続ける必要がある。そのために高頌は一向に戦況が好転せずとも執拗に波状攻撃を仕掛けさせたのだが、こちらの被害が嵩むばかりである。一方の祁軍にはまだ人員の余裕があるようで、時々兵を交代させながら蔡の侵入を頑強に阻み続けている。

「そのとおりだ」と引き取ったのは、副将の管衛である。

「まともに攻めれば、かなりの長期戦にならざるをえない。泰朗原での声東撃西の計が奏功してなおこれでは、陽樋の内応なくしては短期決戦はありえん」

 うむ、と高頌は不満げに頷いた。管衛は、高頌が陽樋を嫌っていることを知っていた。それゆえに、陽樋の力を借りずに祁中を陥落させてやると意気込んでいたことも。

「祁中が容易に落とし得ないと分かった以上、韓陸様の言いつけどおりにした方が良い。これ以降は怪しまれぬ程度の攻撃を続け、新月の夜を待とうぞ」

「……陽樋は従者を残して祁中を脱出する手筈と聞くが、消息はまだ分かっていないのか」

 管衛に答えず、高頌は言った。

「うむ、まだ分かっておらん。ひとまずは今のように攻撃を続けておいて新月の晩に夜襲をかけ、その時に内応が無ければ策は失敗したものとして引き揚げよ、というのが韓陸様のご命令だ」

「そうか」と高頌は答え、城郭にはためく祁の旗を恨めしげに睨みつけた。

「もう日も没する。これ以上攻撃を続けたとてたいした戦果は見込めまい。高頌よ、ひとまず今日は引き揚げさせよう」

「致し方あるまい」

 高頌は総員退却を宣言した。狼煙が挙げられ、銅鑼が打ち鳴らされる。それで各門を攻めていた蔡軍は攻撃を止めて退き、各々の陣へと退却した。どの門も状況に大差はなく、その後には蔡兵の累々たる死体が残された。初日は祁軍の圧倒的な優勢に終わった。


その日以降も、状況にさしたる変化はなかった。昼頃に西門を攻める蔡の本陣から狼煙が上がると、それに呼応して南門、東門のを蔡軍からも狼煙が上がり、それから三軍同時に一気呵成の攻撃を仕掛け、夕方頃になると総員退却を知らせる銅鑼と狼煙が上げられ、潮が引くように蔡兵は本陣に戻るのである。それが毎日のように続けられ、夜襲を仕掛けてくることは無かった。それを王は、互いに連絡が取りづらい中で蔡軍が一斉攻撃を仕掛けるにはそれしか方法がないため、蔡は夜襲を出来ないのだとして夜の人員を減らし、その分日中の警護を厚くするよう指示した。

それから一週間ほどが過ぎてなお、祁軍は蔡の一兵たりとも祁中に足を踏み入れることを許していなかった。とはいえ祁軍も負傷者は多い。無論蔡軍の方が単純な被害者数は多いが、そもそも兵力では祁が圧倒的に劣っているのだ。今や戦況は互角である。祁中の人々もなんとかここを耐えしのぎ、一日も早く援軍が来ることを願っていた――ゆえに、蔡軍の城攻めの勢いがその兵力の割に弱く、まだ余力を残していることに違和感を抱く人間は誰もいない。


 やがて、新月の晩が訪れた。

 西門前の闇は静かに眠る。城郭には煌々と火が焚かれていたが、夜警に当たる祁兵はちょっとした休憩気分であった。王の言葉を鵜呑みにした彼らにとって夜警の当番は誰もが待ち望むものであった。敵襲を厳戒する昼のような緊張感もなく、のんびり喋り合いながら夜が更けるのを待っていれば良いのだ。厳しい戦いに身を置く彼らにとって、それが唯一心休まる時間であると言っても過言ではない。それほどに気が緩んでいたのだから、突如として西門前に現れた蔡軍に、祁兵が度肝を抜かれたのは必然であろう。銅鑼を打ち鳴らし鬨の声を上げながら夜襲を仕掛けてきた蔡兵に、祁兵は混乱しながらも辛うじて応戦し、その侵入を拒んだ。完全に不意を打たれた形になりながら、それでもなお祁中を守る城壁は堅牢にして敵を阻み、祁兵が応援が来るまでの時間を稼ぐには十分であると思われた。

 しかしその時、祁兵にとってさらに予期せぬ事態が起こった。何の前触れもなく、大きく軋むような音が鳴り渡ったのだ。何かと見れば、堅く閉ざされているはずの城門が、おもむろにその重い扉を開きだしていたのである。どさくさに紛れて、城門警護に当たっていた十名の祁兵が門を開いたのだ。異変を見に来た祁兵によって、内応者はその場で斬り殺された。その中にはかつて楊岱が祁中を脱出しようとした晩に捕らえられた三人の従者たちの顔もあったが、それを知る者は誰もいなかった。知っていたところで何になろうか、城門は開かれ、既に二万弱の蔡兵が雪崩打つように侵入せんとしていたその状況で。

 西門を守っていたわずか二千ばかりの祁兵は為す術もなく、蹴散らされ、辛うじて生き残った者はこぞって王城の方向へと逃亡した。蔡軍はこれを深追いせず二手に分かれ、友軍を城内に導き入れるべく鬨の声を上げながら、街路の脇に据えられた松明の薄明りを頼りに南門と東門に向かった。

           

「今の銅鑼の音は、西門の方からだったな」

 王は頷いた。その傍らに控えた従者の顔さえ視認できない、新月の宵の闇である。西門の方に目を向けても、そこで何が起こっているのかが明瞭には見え難い。それでも、王には全てがわかっていた。

「もう少し待て。南と東からも銅鑼の音が鳴り渡り、響く地鳴りが王城に届くまで」

 ふふ、と従者は闇の中で笑いを零した。


 三万の祁軍が六万の蔡軍を防ぎ得たのは、立ちはだかる堅牢な城壁によって地の利を保障されたがゆえである。それが崩され、白兵戦となってしまえば両者の勝敗を決するは純粋な力のみである。兵力において圧倒的に劣る祁軍にとって、それはまさに絶望的な状況である。西門の異変を受けて南門や東門の守りを固めていた祁兵も、城内外から同時に攻め立てられては為す術もない。城門はたちまち開け放たれ、蔡兵の合流を許してしまう。城門を守っていた祁兵は王城へと逃亡し、それを追って蔡軍もまた怒涛の勢いで王城に向かって進軍した。

そこに王城から祁の遊軍が駆けつけ、蔡軍の足止めを試みる。その兵力差は比べるべくもないが、しかし城門から離れた今や新月の闇夜を照らすのは、道の脇に点々と並べられた松明だけである。彼らが視認できるのはぼんやりとした影の輪郭ばかり。間近で見なくてはそれが敵か味方か判別できず、両軍入り乱れて戦いあう状況でそんな余裕があるはずもない。敵は視認しえぬが、確かな殺意を迸らせてそこにいる――その恐怖心の前にはもはや敵も味方もない。自分以外を全て敵とせざるをえないその状況で、全員が自分の命を守るためだけに右も左もわからぬまま剣を振るう――それは悪夢のような大混戦である。そうあっては圧倒的兵力も仇となり、至る所で蔡軍の同士討ちが頻発した。

「城内に入れば勝負は決すると思っていたが……思わぬ苦戦だな」

 王城に向かう中途で出くわした祁軍を友軍が蹴散らす音を聞きながら、管衛は高頌に言った。時折白刃が闇夜に煌き、ぼんやりとした影があちらこちらを動き回るばかりで一向に判然としない戦況に、高頌は苛々した様子で答えた。

「ああ。我らの見込み違いは、敵が祁軍しかいないだろうと思っていたことだ。恐るべきはこの暗闇よ! 友軍すらも敵としてしまうこの闇こそが本当の敵だったのだ。人は刃で殺せるが、闇を殺すには光が無くてはならん。しかもこう広くては…………」

 そこに、暗夜をつんざく大銅鑼の音が祁中に鳴り響いた。途端、辺りで何やら動きが起こった。何かと思う暇もなく、街路の松明が次々と押し倒されていったのである。火が地面に落ち、薄ぼんやりとしていた影の輪郭は、完全に闇の中に没してしまう。それは、万一の事態に備えて王が祁兵に言い含んでおいた策である。すなわち王城より銅鑼の音が発せられたら、すぐさま街道の脇に並べられている松明を押し倒す。そうすることで祁中を漆黒が覆い、蔡兵は恐怖心に駆られて一層同士討ちが多発するだろう。一方で自分たちは剣を収め、闇に紛れて王城の方向に走り、王城の防備を固めることで最後の決戦に備えよ――というのである。祁兵は王城に向かって走り出し、一方で蔡兵は完全な暗闇の中でいよいよ恐慌状態に陥って、さらに凄惨な同士討ちを繰り広げる。様子がおかしいことを察した高頌が、剣を収めるよう兵士に指示を出そうとしたその時――爆音が夜闇を切り裂き、鮮烈な赤い光が突如として現れる。

「!」

 突如として現れた度し難き爆発音と熱量に対し、高頌も管衛も本能的にその体を竦ませた。彼らだけではない。剣を振り回していた蔡兵も急いで王城に向かおうとしていた祁兵も誰もかもが、等しく叱られた子供のようにその体を竦ませたのである。

「何事か!」

 高頌は叫んだ、取り付けたような威厳では包み隠しきれない、恐怖の漏れ出るその声で。管衛は、爆発音を伴いながら凄まじい速さで辺り一帯に広がっていく火の手を見て言った。

「こ……この火の回りの速さは火薬かもしれん。松明を落とした時に、ちょうど引火するよう配置してあったのに違いない」

 それを聞いて、高頌は顔色を変えた。

「なに……さては謀られたか! 全軍――」

 高頌の叫びを、爆音が掻き消した。それと共に炎がその巨大な手を伸ばし、高頌の体を捕まえる。火に巻かれた高頌は絶叫しながら馬から転げ落ちた。火に驚いて興奮した馬は暴れ回り、地面でのた打ち回る主人を強かに踏みつけた。火だるまとなった高頌は、それで動かなくなってしまった。主を踏み殺した馬は辺りを暴れ回り、人間たちを蹴り薙ぎ倒しながらどこかへ行ってしまう。

「……!」

 管衛は恐れおののき、高頌の様子を確かめもせず一目散に逃げ出した。しかし、管衛もまた逃がすまいとばかりに横手から噴き出してきた炎に捕まってしまう。高頌の死を見ていた管衛は炎に巻かれながらも馬から振り落とされまいと懸命に馬の首に抱きつくが、炎を押し付けられた馬はたまらず無茶苦茶に走り回り、やがて管衛は敢え無く振り落とされて体を強かに打ち付けてしまう。

火の餌食になったのは、何も二人の指揮官だけではない。あちらこちらで爆音が鳴り、赫赫たる巨大な火炎は彼らを獲物と見て取るや、その手を伸ばして捕まえようと燃え盛る。彼らは生きた心地もせず本能的に来た道を引き帰して逃げ出そうとしたが、それを先回りするように炎が爆音とともに現れて、何人かの兵士をその手中に収めるのである。哀れな生贄たちが叫ぶ、命を焼かれる苦痛は、辛うじて火の魔手から逃れ出た彼らにどうしようもなく確かな実感を与え、恐怖のどん底へと叩き落とした。

 火に驚いたのは何も兵士たちだけではない。家の中で敵に震えていた民間人もまた、予想だにせず炎の侵攻に慌てふためいて家から飛び出し、辺り一帯に広がる炎の海を見て恐慌し錯乱するのである。こうなれば民も兵も関係はない。忍びがたき絶望を前に、彼らはただ叫び狂い逃げ惑うばかりである。爆音は恐怖を生み、爆風は理性の殻を吹き飛ばす。明らかに精神の容量を超越した圧倒的な恐怖に飲み込まれたとき、人の心は、どうにかしてそれを排出することで破裂を回避しようと試みる。力のある者はそれを他者への攻撃性として外に排出し、ただ殺すためだけにその剣を振るう。本能の根幹から押し寄せるその衝動を、彼らは決して押し留めることが出来ない。そうしなければ、その背後に差し迫って彼らを飲み込んでしまおうと付け狙う、どうしようもない混沌の質感に耐えられないのである。そして力なき者は、恐怖を叫びながらただ強者の餌食になり、火に呑まれるか血に沈むかのどちらかである。展開される阿鼻叫喚の地獄絵図の中で、人々は全てを炎に剥ぎ取られ、それでもなお他者を踏みつけて逃亡を図る。

絶望の泣声は炎天に響き、断末魔の叫声は炎海に没する。辺りで火炎は猛り狂い、その中で苦悶の声を上げながら燃え散りゆく同胞。喪失に慟哭する人々の思いを無慈悲に踏みにじり、炎は全てを焼き焦がす――そこにおいて、理性は罪悪であり無価値である。全ては炎の前に平等だ。…………


 その様子を、王は内城壁のさらに内側にある、王城の屋上から眺めていた。その背後には巨大な山が聳えている。美しく燃え盛る町々、逃げ惑う人々。人々の怨嗟と苦悶と絶望を種に、獄炎は夜天にまでその手を伸ばして踊り狂い、飛び散る火の粉は星屑と共に赤い夜空に煌めく。

祁中の全てが、火に沈んでいく。轟音とともに、内城壁は崩れ去った。その残骸を乗り越えた炎は城内にまで入り込み、十年分の食料も大量の蔵書も、武器道具も何もかもを貪欲にその手中に収めながら、今や彼らのいる屋上に向かって嫋やかな手を伸ばしている。

 麗春は、王に向けて満面の笑みを浮かべていた。この世にありうるおよそ全ての幸せ喜びの全てを表現したといってなお足りぬ、婉然たる笑顔である。王は酔いしれた。体の輪郭があいまいになって、世界の微熱に同化してしまいそうな陶然たる酩酊に――

「公孫瑛、随分嬉しそうだな。お前を慕う国民が火に巻かれ、お前を信じた兵士が血に沈み、数多の命が地獄に引きずりこまれている最中というのに」

 撥を持った手をだらんと下げて、顔色の悪い従者が言った。赤く照らされたその顔には嘲笑が浮かべられている。王は炎の海に目を向けて答えた。

「何を言う、私はこれほどに胸を痛めているではないか。あのような絶体絶命の状況にあって今後祁国を絶やさぬためにはこうするより他になかったとはいえ、民を犠牲にすることは王としてあってはならぬことだ」

「それなら、なぜ民を……いや、そんなことはどうでも良い。なぜ公孫瑛は、笑っている?」

「麗春が笑っているからだ」

 即答した王に、従者は嘲笑を浴びせる。

「いま見てみるが良い。麗春は笑っていないぞ、公孫瑛」

 王は、麗春の顔を見た。麗春は、琥珀の瞳を不安におびえさせて王を見ていた。蛾尾は垂れ下がり、薄紅色の口は半開きになって白い歯を覗かせている。その顔の半面は炎に照らされて赤みを差し、もう半面は陰に隠れて蒼白く沈んでいた。王は、まるで遠い昔に打ち込まれた楔を突然引き抜かれたかのような深い衝撃を受けた。

「何故だ麗春、何故笑わないのだ? ついさっきまで、あれほどに美しい笑顔を浮かべていたではないか! それなのに――」

「――その理由は、俺だけが知っている」

 王は従者の顔を見た。従者は王の顔を見て、ニヤリと笑った。その皮肉めいた微笑は、王が良く浮かべるそれと良く似通っていた。

「知りたくないだろう? 公孫瑛」

 顔色の悪い従者は撥を放り投げた。撥は傍らに置かれていた大銅鑼に当たり、オォンとその身を震わせる。そして、撥を投げ捨てたその手で従者は剣を抜いた。それは王がかつてその腰に帯びていたものを楊岱に授け、それを従者が分捕った剣である。

「公孫瑛は殺しすぎた。平安に生きたければ、最後に俺を殺さねばならない。長年連れ添ってきた、公孫瑛の半身とも言うべきこの俺を」

 従者は剣を炎に照らした。赤い光を受けて、剣は不吉に哂う。

「とはいえ、俺も死にたくはないのでな――なれば、衝突しかあるまい!」

 言い終わるや、従者は王に切りかかった。王は一切の戸惑いを見せることなく、スラと剣を抜いてそれに応じた。真一文字に振り下ろした従者の剣に対し十字に刃を噛ませてそれを止めると、王はすぐに剣を引いて従者の胸に鋭い突きを繰り出す。従者はそれを避けて反撃に転じる。

 炎はやがて屋上にまで至る。どちらかが、ここで死ななくてはならない。さもなくば二人そろって炎にその身を委ねることになる。燃え盛る炎の爆ぜる音、その中で交わる剣の打ち合わされる音、息の弾む音、心臓の跳ねる音。それが二人の世界の全てである。互いに隙をさぐり合う。隙と見ればすかさず刺突を繰り出す。相手は危なげなくそれを受けて反撃する。それも当然のようにいなされてしまう――それが延々と繰り返された。両者は、全く互角である。

それでも、その勝負を決着させた原因を何かしらに求めるのであれば、それは単に従者が目をまばたく瞬間と王が突きを繰り出す瞬間とが偶然一致したからというだけにすぎない。従者はその攻撃を無理に避けようとしたせいで態勢を崩し、それを立て直そうとするところに王が執拗な攻撃を仕掛けた。それを後ろに避けるしかない従者は辛うじて王の攻撃を捌き切ったものの、一気に屋上の端へと追いつめられてしまったのである。従者は後ろを見た。生贄が来たのを喜ぶかのようにその口をぽっかりと開けて嗤う炎――王は、従者の喉元に剣を突き付けた。

「私の勝ちだ」

 従者は、剣を取り落した。乾いた音を立て、屋上の石畳に剣が落ちる。それで安心したように、顔色の悪い従者は笑った。

「俺の負けだ」

 王は高く剣を掲げ、それを振り下ろした。剣は静かに従者の肩口に入ると、そこから従者の腹部までを大きく切り裂いた。炎よりも濃い赤色をした鮮血が噴き出し、従者の体がぐらと大きく揺れる。支えを失った従者は膝を突き、炎に焼かれた城石の上にその身を投げ出すように横たえた。王の目は、ただ茫然とさっきまで従者の姿があった空間に向けられたままである。そしてその手に残っている、剣を打ち合わせた時に感じた固く響くようなそれとは全く別物の、柔らかくも弾力のある不気味な手ごたえを感じていた。

 ――公孫瑛。

 王は、声のした方を見た。

 ――逆巻く炎の中に、麗春が佇んでいた。

 王はハッとして剣を取り落した。カラン、と無機質な音を立てて屋上の石畳に剣が落ちる。王は麗春の元に小走りに行った。しかし炎は轟と王の行く手を阻み、三尺ほど離れたところで立往生をさせるばかりであった。

「麗春」

 王は呆然と見上げた。炎の花弁に抱かれて佇立する麗春が、細めた琥珀の目から玉のような涙を縷々と流しながら、薄い唇を柔らかく三日月型に曲げて微笑しているその様を。麗春のその表情に、苦しみはない。この上なく美しい紅の羽衣を纏って、逆巻く炎の竜を周りに遊ばせて、麗春はなお美しく笑って――泣いて――いたのである。王は自分の頬に流れる涙にも、薄く歪む口の端にも、気づいていない。

「――――――――」

その言葉を、王は聞き取ることが出来なかった。

「な……なんと言ったのだ、麗春? もう一度……もう一度言ってくれ……」

 それを聞いて、しかし麗春は寂しそうに泣き笑いするばかりである。豪と猛る炎が、麗春を包み込む。彼女は踊る。とても悲しそうに美しく笑い、その目に涙を湛えながらにっこりと。

最後の何かが、音を立てて崩れた。


          十三


 公孫瑛は隴章で目を覚ました。気を失っていた瑛を何者かが祁中近くの村に運び、そこから様々な地を経由して隴章に担ぎ込まれたのだという。祁中が大火に見舞われたという話は隴章にも届いていたがその詳細は何一つわかっておらず、諸臣はそれを尋ねようと王に様々な質問を浴びせた。しかし瑛はそのいずれに対しても何を言っているのかわからないという顔をするばかりであり、幾日経ち幾度それを繰り返しても結果は変わらないため、いつしか誰もそのことを口にしなくなっていた。

様々なものに対する反応は人並みであったが、瑛が隴章で意識を取り戻した日より過去の事に関しては、どのような質問しても一切反応を示さず、王は記憶を失っているのかもわからないと人々に噂されるようになった。その人柄はまるで別人のように変わってしまっていて、王の厳格にして勤勉な性格は見る影もなく、今や瑛は温和にして悠々閑々とした人間になっていた。程凱や嘉苞を始めとした旧臣は変わり果てた王の姿に涙し、祁中全体を火の海にするような残虐非道な策を取った蔡に対する復讐心を燃やした。瑛は王位にはあったが、到底実務に堪えられる様子ではなかったので、その実権は新たに丞相となった程凱と大尉の嘉苞が握り、共に祁国を運営していた。

瑛は日々漫然と花や山を眺めて暮らし、政治には全く関心を示さなかった。祁中が火に包まれてから十年後、瑛が隴章の街を散歩していたところを突然刺客に襲われて、肩口に深い傷を負った。かつて王が処刑した男の弟だそうで、それを聞くと瑛は自分の傷も省みず、涙を流して刺客に許しを請うばかりであった。刺客は、その場で自殺したという。それがあの日以来、公孫瑛が激しく感情を見せた唯一の事件である。

それからひと月後、瑛は病気にかかった。瑛は病気が発覚すると、名医の看護を断って一人きりで自室にこもり、窓から外の景色を眺めて静養していたが、それから三日ほどして危篤に陥り、そのまま静かに息を引き取った。享年四十六。その髪は真っ白で、死に顔は安らかであった。本人の遺言で葬儀は極めて質素になされ、その遺骸は祁山の頂上に風葬された。

余談であるが、王が不在となった祁国では、以降王政が廃止され、民が一所に集って互いに相談し議論を交わして方策を検討する形で政治が為されるようになった。その運営は案外上手く行き、それから間もなく侵攻してきた蔡に、祁国は一致団結して対抗し、これを返り討ちにすることに成功した。すっかり意気阻喪した蔡は程なくして祁国に降り、王無き祁国が天下を平定、後に異民族による征服を受けて滅ぶまでのおよそ五十年間にわたる太平の世を実現したという。


感想をいただけると幸いです。批評をいただけるともっと幸いです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ