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去年ぐらいの作品。ガチガチの文学賞に応募した作品なので芥川っぽさを出してみた。落選したけど。
一
荒寥と広がる血を吸ったような赤土に深く根を下ろし、黒雲に覆われた空へと立ち向かっているのは、影を塗り固めて拵えたような純黒の鉄杭である。柵で囲い込まれた聖域の全方向から体を押しつぶしてくるような閉塞感に、何正は戦慄した。顔を俯けたその先で、赤茶けた砂利交じりの土をまざまざと見せつけられて、何正はハッとする。その脳裏によみがえる、土に塗れながら遊び回り、友と無邪気に笑いあった幼き日々の記憶――全てが自分を受け入れ、自分もまた全てを受け入れていた、残酷なほどに美しい調和の記憶! 何正は目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは両親の顔、友達の顔、青く透明な空。赤い土に一滴の涙が落ちて、何正は目を開ける。落ちた涙は既に、乾いた赤い土に吸い込まれて跡形もなくなっている。続いて何正はおずおずとその顔を上げた。友の姿は、どこにもない。立っているのは、遠くから冷たい嘲笑を浴びせる鉄の柱ばかりである。淡い期待を粉々に打ち砕かれ、何正は嘆かずにいられなかった。立場が違うだけで、世界とはこれほどに違い得るものなのだろうか? ――半ば本能的に抱かざるを得なかったその違和感こそが、何正にどうしようもない絶望を強いた。
さらに何正は、四方を取り囲んで自分を連行する四人の執行人に目を向けた。四人共に同じような黒衣を身に纏い、その顔にも丸い目の穴が二つだけ開けられた覆面がされているため、彼らの見分けを付けるにはその立ち位置を見る以外に有り得ない。自分に歩くことを強要するこの粗暴な男たちは、果たして本当に自分と同じ種類の生き物なのだろうか?
少し離れたところでその光景を眺めているのは、他ならぬ祁王公孫瑛である。巌に鑿を入れて整えたような彫の深い顔は青白く、そこからは一切の感情を読み取ることができない。その痩せた頬が示すのは痩せ木の虚弱さではなく、研磨された刀剣の鋭利さである。その傍には王妃と思しき女性が、赤茶色の地面に慎ましげに足を乗せ、たおやかな両の腕を行儀よく膝の上で組み合わせて座っていた。その名を麗春という美麗の婦人は、黒漆の長髪を悠然と風に遊ばせながら王の背中に不安げな視線を送っている。その麗しさは古今に比類ない。端麗豊満の体躯は天の石工が造形したように清らかで、明眸皓歯の細顔は天の絵師が筆を入れたかのように整っている。静かに佇む綽約多姿は、脆くも美しい金細工の花を思わせる。力を籠めたらぽっきりと折れてしまいそうな儚さは、その仙姿玉質に愛らしさの色を添えていた。竜の紋様に金の刺繍が施された薄紅の着物は決して壮麗に過ぎず、花に添える錦のように麗春の清楚な美しさを良く引き立てている。それはおよそ人間にはありえないほど、完成されきった宝玉の麗しさである。何正が今までに見てきた女が全て牛か蛙に思えてしまうほどであり、そのような女性をこの期に及んで見ることが出来たのは、なにかとひもじかった彼の人生における唯一の幸せなのかもしれないし、身分相応にやれることをやってきた彼の人生における唯一の不幸なのかもしれなかった。ともかく今の彼にとってその美しさは、陶酔すべき対象であると同時に恐怖すべき対象でもあった。死に際に手向けられた花の美しさは…………
王は罪人から目を離し、処刑場を幾重もの層をなして遠巻きに囲む人の群に目をやった。浮ついた興奮にざわついている観衆の服装はさまざまである。縫い付けられた虚飾が様々にその華麗を誇示する綾羅錦繍の豪装もあれば、麻布に袖穴を開けただけの粗衣もあれば、すっぽりと体を覆うことで世界への窃視を可能せしめる真っ黒な外套もある。しかしその中の誰もが全く同じ目をしていることを、王は見抜いていた。すなわち、どこにでもいるような他者が貴重な栄養源になるのを待ち受ける、狡猾な禿鷹の目である。彼らは禿鷹よりもさらに狡猾であったので、その興奮にぎらつく目に恐懼浩嘆の色を含ませることを忘れてはいなかった。祝祭を待ちわびる大衆の様子に、王は半ば本能的な嫌悪感を抱いた。彼らは、罪人が負の聖域に囲い込まれているのを見て安心している。罪人が歩む赤色の大地と自分たちの踏みしめているそれとが連続しているという事実を都合よく失念して。
王はその視線を罪人に戻した。覆面の中にその表情を用心深くしまい込んだ執行人に囲い込まれ、静々と鉄杭に向かって連行されていくちっぽけな男。後方を固める執行人がその左手に高く掲げている松明の先端では小さな炎が不満げに揺ら揺らとその体を震わせているが、罪人は抵抗する様子を全く見せない。ただ息苦しそうにしながら、自分を取り囲む執行人、あるいはさらにそれを柵越しに取り囲んでぞめき合う観衆を、理解できないものを見る目で眺め回しながら刑場に向かうのである。
さらに王は、凛然と座る麗春に目を向けた。麗春の琥珀色の目が、王の顔に向けられる。天帝が美のなんたるかを示すために力を籠めて造り給うた宝玉にも比すべきその美人には、しかし一点の瑕疵があった。その表情一面が、雪化粧を施された冬の大地のように凍り付いてしまっていたのである。神は完璧なる肉体を作っておきながら、それに見合う秀麗無上の魂を吹き込み忘れてしまったのだろうか? 良人たる王と目が合っても麗春は微笑むことなく、ただその琥珀色の眼でじっと王の目を見つめるだけであった。
ひときわ大きく銅鑼が打ち鳴らされた。一団が鉄杭の前にまで到達したのである。罪人を囲んでいた四人の執行人は各々の持ち場で処刑の準備を始めた。まず右脇を固めていた執行人が男のちっぽけな体を乱暴に鉄杭に押し付け、前側にいた執行人が泥を塗った荒縄で男の体をきつく縛りつけたので、男は思わず苦痛に顔を歪めた。
「旦那……もう少し、優しくしてくれろ」
執行人は押し黙ったままその縄を緩くも緊めもしないで、ただ縄がしっかりと結ばれていることを確認していた。
「……人でなし、か」
男はぼそりと呟いた。執行人は男の枯れ細った木のようにちっぽけな顔面を、岩石のような巨拳で殴りつけた。殴られた男はしかし、執行人の覆面の奥に用心深く隠された瞳を見据えて、ニッカリと笑った。
「慎め。いたずらに業を重ねるな」
松明を手に始終その様子を見ていた執行人がどちらにともなく、重々しい声で言う。男はもはや苦痛に顔を歪めることなく、むしろその口の端に笑みを残しながら大人しく首をめぐらして、自分の細い体を鉄杭に縛り付ける執行人を――そして彼に「人殺しめ」「黙って死ね」などと野次を飛ばす取り巻きの群衆を見下ろしているようであった。ふと、王の冷めたような視線と男の冷たい視線とが交錯する。王は、男がそこでもまたニッカリと笑ったような気がした。罪人何正。齢四十半ばほどの身寄りのない農民で、借金の踏み倒しや泥棒を度々繰り返し、そしてついに人を殺した。それが何正の罪状、すなわち死因である。
やがて執行人が男の側を離れた。その体を荒縄によってすっかり鉄杭に結び付けられて、今や何正は暗い空を見上げ、ただ大きく溜息をもらすばかりである。そんな彼に構うことなく、続いて執行人は淡々と彼の足元に枯れ芝を積み上げていく。枯れ芝はやがて燃やされる運命にあるということも気にしない様子で暢気に乾いた音を立て、刑場を訪れては去ってゆく乾いた風と雑談を交わしながら、執行人のなすがままに山積されていく…………
やがて、枯れ芝が何正の腰あたりまで覆ってしまう。乾いた枝が麻服を通して体を刺す痛みは、何正に焦燥を感じさせた。
「火を」
王の重々しい声が刑場に響く。何正は曇天から視線を戻した。そこには光が見えた――赤く嗤う、松明の火影である。執行人がいつの間にか、自分の真正面に立っていた。
「言い残すことがあれば聞こう」そう言った執行人に、何正は目を向けた。そして、執行人の表情を隠す覆面に開けられた二つの穴の深淵を見据え、その口を開いた。…………
その男の言葉が、やけに鮮明に王の耳に届いた。――しかし、本当に男はそう言ったのであろうか? もしかしたら聞き違いかもしれないし、「何もない」とぶっきらぼうに言っただけかもしれない。王は、既にその言葉を忘れてしまっていたのだ。
王はまたも麗春を見た。心なしかその顔はやや強張り、琥珀色の目が発する光は冷たく見えた。王は立ち上がる。
「火をかけよ」
祝祭の開始を、王が高らかに宣告した。松明は執行人の手を離れ、枯れ芝の山の側面に少しだけ開けられた穴の中へと無造作に投げ込まれた。観衆がわざとらしく息を飲む音が遠く聞こえる。間もなく火の跳ねる音とともにどす黒い煙があがり、それに追いすがるかのように、確かな猛毒を帯びた真っ赤な蛇の舌のごとき炎がその影からその姿を現した。男の顔は凍りつき、観衆の顔は輝いた。
やがて黒煙はその体を大きくして立ち上り、男の肺に侵入する。男はたまらず咳き込んだ。体を黒煙が男を苛んでいる間に、じわじわと掻き立てられる罪人の恐怖心を糧に、炎は徐々に徐々にその身を大きくしていく。そうして松明の上に行儀よくおさまっていた小さな火種はいつしか大きな炎となって枯れ芝の山の頂へと達し、男の白い罪人服の裾を掴んだ。炎はついに主菜に辿り着いて狂喜乱舞して轟と唸り、白い服にまとわりつくように一気に男の全身へとその領域を広げ、鉄の杭を、そこに縛り付けられたちっぽけな男を、紅蓮に染め上げる。
灼熱が身を焦がす想像を絶する苦しみに、男は大きく叫ぼうとしたが、肺で暴れ回る黒煙がそれを許さない。叫ぼうとして大きく煙を吸い込んでしまった男の口から洩れ出たのは、叫声とも咳音ともつかぬただの激しい空気音である。男は満足に叫ぶこともかなわず、ただ顔をグシャグシャに歪ませて悶え苦しんでいた。身体の表面は火で焼かれ、内部は煙で燻される。心を暴れ回る憎悪と憤懣は断末魔の悲鳴として男の口から外に出され、観衆を愉しませるのである。
厳酷苛烈たる劫火はときに大きく火花を散らし、風になびきながら気ままにそこらを狂いまわる。放漫にその美を誇る無邪気な炎は、伝説の薄紅の羽衣を思い起こさせた。天人が纏う壮麗なる衣装にもおさおさ引けを取らぬ美しきそれは、しかし纏い人がその美しさに相応しからぬみすぼらしい罪人であることを知るや、途端にその様子を著しく変貌させる。紅の羽衣は地獄の炎となって哀れな男の全身を包み込み、その身に過ぎる美を纏った男に容赦なく罰を与えるのである。全身を内側と外側から無数の火針で貫かれるような激痛に男は目を硬く閉じ、顎が外れんばかりに大きく口を開けているが、もはやそこから出てくるものは何もない。ただ、炎がそこから男の内部に侵入して五臓六腑を焼き尽くすばかりである。それを見て、周りを取り囲む人々もみな顔をグシャグシャに歪め、惚けたように口を開いて悶えていた――深層からこみあげやがて絶頂に至る、耐え忍ぶべき快感に。男は一際大きく目を見開いた、もはや何物をも見ていない虚ろな目を。観衆もまたその目を大きく見開いて、ただ、その幻想的な光景に見とれていた。ついに男は生命の臨界点に到達して、一際大きくビクリと体を震わせた。それと共に観衆の興奮もまた、絶頂に達するのである。そうして男は目を見開いたままがっくりと項垂れ、それきり動かなくなった。炎がすっかり男の魂を焼き切ってしまったのだ。後は、抜け殻となった肉体をじっくり焼き消すばかりである。
王は、そのまま右後ろを振り返った。
琥珀色の瞳が、王の顔をじっと見つめている。
麗春の端正な顔には、無邪気な天女の微笑が浮かべられていた。
二
先王公孫嵩は偉大であった。
西から北にかけては、農民の出でありながらその堅強な肉体と明晰な智謀を頼りに身を起こしその名を挙げて、ついには一国の王にまでのし上がった「強君」韓陸率いる軍事国家「蔡」があり、その蔡と北で国境を接しつつ西にかけての領域を治めているのは、名門夏侯家が代々その王位に就き、大商業都市隴章に蓄えられた絶大な財を元手に強権を振るう大国「隴」である。
その二強国に挟まれるようにして、南の山岳地帯に小国家「祁」があった。その規模は小さいながら鉱産資源と沃土に恵まれ、何よりも祁国の要所を守る数々の天然の要害は祁が国としてやっていくに重要な役割を果たしていたが、しかしそれらが同時に蔡と隴の両国の目を引き、常に両国からの侵攻に怯え暮らす要因にもなっていた。それにもかかわらず、宮中では危機への打開策が議論されることはなく、たいてい蔡と隴のどちらの国に味方するのが得策かなどという消極的な議論ばかりが展開されていた。その時の王は意志薄弱で諸臣は己の安全ばかりを考えていたし、国を思い直言を憚らぬ忠臣は重用されず疎んじられた。そのような状況なのだから、祁がどちらかの国に併合されるのは時間の問題かと思われた。
そのような状況で祁王の位を継ぐや、先王は金が理を捻じ曲げる腐敗した官僚政治の根を抜くような大改革を為した。まずは悪官を退け忠士を用いて己の発言権を高めると、厳格にして明瞭な法政を敷いた。さらに兵を徴しこれを鍛えるとともに険峻の地に築かれた砦を整備増築して敵に備えつつ、田畑を広く開墾して糧食を蓄えたのである。祁国は先王の強力な指導の下、たちまちのうちに富国強兵を達成した。そしてその強化した国力を背景に、巧みな外交手腕でもって蔡、隴の両国との同盟関係を結ぶことに成功したのである。そうすることで、どちらか一方が攻め込んできた際にはもう一方の援助を受けられるようにし、蔡と隴で互いに牽制し合わせたのである。かくして祁国はその二強国の間にあって、その緩衝国として当面の安全を獲得することに成功したのだ。
急進的な改革を為した一方で、先王は民からも大いに慕われた。厳格な人格者であった先王は質素倹約を率先して実行し、自ら麻を着て粟を食べ、家臣と膳を並べて食事をし、その分民の税を軽くしたのである。政は公正にして民意に添い、不正が無いよう全ての裁判記録に自ら目を通していた。悪人には断固たる態度で臨んでこれを罰し、善人には寛容なる態度を取っていつでも王に意見することが許されたので、民からは古の聖帝にも比すべき名君として絶大な敬愛を受け、先王もまた民を愛したのである
公孫瑛は、先王の唯一の跡取り息子であった。幼い頃に母を失くし、それ以来父の手によって王となるために厳しい教育を施されてきた公孫瑛は、明朗闊達にして隠忍自重、気宇壮大にして謹厳実直たる立派な若者へと成長を遂げ、偉大な父が病で急逝したとき、弱冠二十歳にしてその後を継いで祁王として即位した。
しかし、いかにその将来を嘱望される先王の後嗣であったとはいえ、所詮は二十になったばかりの若者である。先王急逝の報が祁国を駆けまわったときの人々の動揺はいかんともしがたいものであった。先王は、あまりに偉大であったのだ。今日の祁国の安定は少し舵取りを間違えればたちまち崩れ去ってしまうような危うい均衡の上に成り立っているものであり、先王の手腕によってこそ在らしめられたものである。果たしてまだ若き公孫瑛に、その均衡を保ち続けることが出来るのか? ――その過度な不安は、新王の能力に対する疑問へと吸収されることとなる。
聡い公孫瑛は理解していた。即位式における期待にあふれた諸辞歓声は祝祭における興奮以外の何物をも表していないことを、自分に向けられている万民の目線は懐疑に歓迎の皮を被せたものに他ならないことを、そしてその懐疑を解消することができなければ、それがそのまま権力争いや内乱へと発展しかねないということを。
ゆえに公孫瑛は、まず自分が積極的に為政に関わって強力な指導力を発揮する必要があると考えていた。そのために新王はあえて、即位後初めての大評議を即位式の翌日に予定した。大評議とは祁国で月に一度、王間で文武百官が一堂に会して重大な案件への対策を練りつつ批判検討をなすために開かれるものであり、それが諸臣に公孫瑛の王たるを印象付けるに良い機会であると考えたからである。それはまた諸臣にとっても、新王の力を見るに良い機会であった。万官が集う即位式の翌日ということもあり、その大評議には全ての官僚が出席した。
王間は騒然たる雰囲気に包まれていた。王間の出入り口と王座とを結ぶ一直線に敷かれた赤い敷物を境に文官と武官が分かれて立ち並び、がやがやと今日の大評議や新王の評判について好き勝手に噂し合っている者もあれば、静かに佇み何やら考え事をしている者もある。そこに一際高く銅鑼が打ち鳴らされた。雑然たる喧騒が消え、代わりに凝然たる沈黙が王間を満たす。王間の扉が軋むような音を立てて開かれたので、諸臣はことごとく出入り口の方へ顔を向け、赤い敷物を踏みしめて歩いてくる若き新王を目にした。その口は真一文字に引き結ばれ、爛々たる眼光は王座を見据えている。その佇まいは気品にあふれて、全員の眼差しが自分の顔に注がれているのを感じても、新王は堂々としてたじろぐことはない。公孫瑛は、前まで見上げるばかりであった王座にその腰を落ち着け、悠然と辺りを見廻らした。
そこに白髪の多い長身痩躯の男が出てきて、その顔に薄い笑みを浮かべながら小礼をした。彼は名を陳匡と言い、政治を司る丞相である。先王が大いに信頼を置いた人物であり、瑛にとってみれば教師でもある。
「王座の座り心地はいかがでございますか、新王よ」
それを受けて、瑛はやや硬い声で言った。
「今の官民の不安を考えれば、たとえ蓬莱の王座であろうと針の筵に変わらないぞ。早く大評議に移りその不安を取り除かねばならぬ」
陳匡は満足げに頷く。新王は立ち上がって言った。
「これより大評議を開催する。行政の不都合や民の訴えなどを諸臣の間で共有し、活発な議論でもって少しでも良き解決策に至らんことを切に願う」
王の言葉を受けて、まず陳匡が王の前で議論すべき問題について述べる。そしてそれに諸臣が自由に意見し批判検討を加えたあとで王がそれらをまとめ、一同が合意しうる結論に至り次第新たな議題に移る――それが大評議の一連の流れである。大評議は粛々と進行されたが、そこにただならぬ緊張が孕まれているのを誰もが感じていた。諸臣は活発に議論を交わすことよりも、なされた議論をいかにして新王が収めるかを見る方に神経を注いでいたのである。瑛は機に応じて自分の意見も発しつつ議論を上手くまとめ、衝突する意見もうまく折衷して結論を引き出していた。新王に良い感情を抱いていなかった家臣も、その手際の良さには先王の面影を感じないではいられなかった。
「昨日若君が新王として即位されましたことを、同盟国である蔡と隴に正式な使者を送って伝えると共に、同盟継続の確認をせねばなりませぬ」
陳匡は、続けて使者に持たせる親書について一般的なことを述べた。 陳匡が恭しくも理路整然と言葉を紡いでいく様子を、若き王はその目を見開いて、睨みつけるように見ていた。しかしそれは瑛が真面目に話を聞くときの癖のようなものであり、それを陳匡はむしろ良い兆候と感じてすらいた。
「我が国は先王が逝去されてから間もなく、新王の仁徳もまだ民に知られ及んでおらず国として脆弱でございます。いま他国からの攻撃を受ければひとたまりもございません。されば、ここは下手に出、臣下の礼を尽くして親書を送るべきかと存じます」
陳匡がその見解を述べ終えると、陳匡の意見に賛同する者はそうだとばかりに頷き、反対する者は不満の鼻息を漏らす。王は、ただ周りに紛れて騒きあうばかりの諸臣に対し「静まれ」という一言を発すると、たちまち諸官の動揺は水を打ったように静まり返った。
「丞相、私の考えは違うぞ」
続けて王は、その危うい静寂に恐れることなく亀裂を生じさせる。諸臣が、値踏みをするように自分の顔を覗き込んでいるのを公孫瑛は意識した。
「弱みを見せてはならない。今まで我が国が両国からの侵攻を受けなかったのは父上が隙を見せぬよう工夫を凝らし、攻め込めば必ずや甚大な被害を受けるであろうことを両国に強く印象付けていたからだ。この期に及んで下手に出ることは、それこそ我が国の脆弱無勢ぶりをしめすようなものであり、そうとわかれば蔡か隴かが時機到来とばかり、雲霞のごとき大軍を差し向けてくることは想像に難くない。ゆえに、両国にはあくまで対等の立場を示さねばならん。備蓄された五穀、鍛錬された兵力、堅牢たる要害を誇らねばならない」
そこで王は一旦言葉を切った。諸臣の耳がすべからく自分に対して向けられている高揚を感じながら、瑛は続けた。
「……そもそも、蔡も隴も大国とはいえ所詮は平野の国だ。たとえ蔡が大軍を動員し侵攻してきたとしても、向こうは山岳に阻まれ物資の補給線も絶え絶えならざるをえず、一方こちらは兵の数は少ないが、堅牢な城塞で圧倒的な地の利を得て迎え撃つことが出来る。蔡であろうと、容易に攻め落とすことは出来ん。長期戦になれば、その隙に隴が蔡の本国を襲うことは目に見えている。それを考えれば蔡も隴も容易に動くわけにはいかない。それでなぜ、祁国が下手に出る必要があろうか」
陳匡はその言葉を受け、柔和な微笑の色を濃くした。幼いころからその成長を見守り、教えを授けてきた先王の子息が、今や諸臣の前で筋の通った意見を立派に述べ、その成長ぶりを改めて感じたからである。しかしその意見はやはり若者らしく強気で、やや向う見ずでもある。それをたしなめるべく、陳匡は口を開いた。
「恐れながら、確かに我が国は偉大なる父王の手によって富国強兵を達成いたしました。王の仰る通り、険しき山地に築かれた砦はまさに難攻不落。一方敵方は遠地にあって物資の確保にさえ苦しむ。さればいかなる兵力が押し寄せようとも我らが祁国は簡単に攻め落とされるものではもはやありませぬ。しかし、忘れてはなりません――今まで隴や蔡に我が国が攻め滅ぼされていないのは、先王の富国強兵策による我が国の頑健な攻め難さゆえではなく、隴国と蔡国が互いに牽制し合っているがゆえであることを。最も恐るべきは、この両国が共に我が国と手を切って、その二つの矛先を我が国に向けることでございます」
それを聞いて、諸官はざわついた。その動揺を代弁するように王は口を開いた。
「隴蔡両国の同盟か。犬猿の仲である隴国と蔡国が、果たして同盟を結ぶかな」
「同盟を結ぶ必要はございません。ただの密約で良いのです。蔡が隴に、『これから祁を攻めるが、我が国に攻撃を仕掛けるのは止めて下さるよう。さすれば、祁の半分を与えん』と密書を送りさえすれば、それで事は済んでしまうのでございます。矜持の高い夏侯氏のことでございますから、我が国が強硬な態度を取ればその気を悪くすることは必然、そこにそのような密書を受け取れば、隴は恐らく蔡につくでしょう。単純に五万の兵を相手取って戦うだけならば我が国にも勝機がございますが、国を挙げた総力戦となれば我が国の圧倒的不利は火を見るより明らかでございます。その気を両国に起こさせないためにも、ここは下手に出なくてはなりません。反抗心を遜った甘言に包み込み、あくまで緩衝国としての立ち位置を強調しておくのでございます。なに、ただその振りをするだけで良うございます。親書を見てこちらの心中までを暴くことは出来ません。ただの形式の問題でございます。小利をもって大義を忘るるは、一国の長たる態度ではございますまい」
それを聞いて、王は少し強く陳匡を睨みつけた。陳匡は少し笑みを湛えたまま新王を見返した。やがて瑛は「ふ」とため息をつくと、その口の端を若干釣り上げた。
「陳匡、悔しいがそちの方に理があるようだ」
それを、陳匡はたしなめるように言う。
「陛下、理に正誤はあれど勝敗はございませぬ。悔しいなどとおっしゃらず、共に結論に至ることができたことを喜びましょう。父王はいつもそうされておりました」
瑛は薄く笑う。
「『採られなかった意見も決して無駄にはならない、他の方策を否定したというそのことによって、採られた方策はその理を一層強固にすることが出来る』――ということか」
それは先王の言である。何かにつけて極力自分の意見を述べるが、それをあくまで他の意見と同列に扱ってそれにこだわることはなく、他人の意見の方に理があると思えば迷わずそれを採るし、自分の意見に理があると思えば他者を退けるに躊躇はしない先王の性質を良く表す言葉であった。
続けて王は諸臣に向かって言った。
「他に意見のある者はおらぬか。ならば、陳匡の方策に従おうと思うのだがどうだろうか」
諸臣は、今や新王に先王の影を重ね合わせていた。先王にも劣らぬ資質を見せた若き王への感嘆と信頼の意を込めて、「賛成」と口をそろえて言うのだった。
三
臣下の礼を尽くす形で送った親書は狙い通り隴や蔡の気を良くさせ、今後の友好を約束させることとなった。また、新王は家臣の意見を良く取り入れた調整を為したので、内政も瞬く間に安定した。王の交代で生じた動揺は完全に収まり、いよいよ公孫瑛は新王から正真正銘の王となり、指導者として祁国を牽引することとなった。
公孫瑛は祁王となってから、午前中は書を読んで知を蓄え、午後は裁判記録や報告書の確認に充てていた。幼時から厳しい教育を受けて来て、父親以上に厳格な――あるいは厳格であることしか知らなかった彼は休憩もろくにせず、食事もきわめて質素で、娯楽といえば狩りをたまにする程度であった。顔色の悪い従者を一人だけ伴い、馬に乗って山に入り弓矢で獣を射るのである。王の腕は良いようで、半日ほどすれば、王はたいてい雉や兎、鹿などを従者に持たせ、満足した様子で城に戻ってくるのだ。その獲物はたいてい惜しげもなくその辺をぶらついていた民か門番に遣ってしまっていたが、それも庶民に王の気前の良さを印象付けた。また、民と触れ合う機会があればその言に耳を傾けるようにしていたこともあって、人々の王に対する信頼は日に日に厚くなっていった。陳匡にとっても王の挙動に概ね不満はなく、狩りをすることもむしろ望ましいことだと考えていたが、その時に伴う配下がわずか一人であることだけが気がかりであるようで、安全のためにもっと配下を連れて行ってほしいと言うのだが、王もそれだけは頑なに受け付けようとはしなかったのである。時に見られるそのような頑固さに目を瞑れば、むしろ公孫瑛は精励恪勤にして理を重んじ民を思う、理想的な君主たりえていたように見えたのだ。
「陳匡よ」
今年の年貢の収まり具合についての報告を一通り聞き終えると、王はおもむろに口を開いて陳匡に言った。
「内城壁を、私は壊したい」
あまりに脈絡なく述べられたその言葉に、陳匡は困ったような笑いを浮かべた。
祁国の首都祁中は、山間の盆地に位置している。東、西、南に祁中に入るための城門が設えられているが、それ以外は全て峻厳たる山岳が城壁の役割を果たしていた。南門が正門であり、正門から王城をつなぐ大通りには職人、商人、貴族の住居や商店などがずらりと並んでいる。東門と西門もさほど変わりはなく、王城に至る大路に面したところには立派な建物が並んでいるが、そこから少し中に入ると農民の住居が立ち並び、あちらこちらに畑や空き地が広がっていた。いずれの門前にも、有事に備えて二万ずつの兵が駐屯できるようになっている。攻め込む敵にとってみれば、周囲が山がちな地形であるため食料の確保はおろか布陣さえ容易でないし、各門を同時に攻めるにも、山に疎外されているため互いに連絡を取りづらかったりと厄介なことこの上なく、実際に古の時代より数多の敵の侵入を防ぎ続けてきた、まさに難攻不落の城塞都市である。
北側には城門が無く、代わりに高く聳える山を背に王城があった。王城内に兵の軍事教練場を兼ねる中庭や食料備蓄庫などが一通り揃っているために、内装は質素ながらその規模は大きい。その王城と民の居住地の間にもまた城壁が築かれており、そちらを内城壁、城門とその付近にある城壁を併せて外城壁と呼んでいた。
「これはまたどうしたことでございますか。内城壁は二十余年前の先王が即位して間もない頃、その命により国民の血と汗をもって建てられたものでございます。大した意味もなく壊して良いものではございませぬ」
王は鼻を鳴らして答えた。
「私にはどうにも、あの内城壁というものが良くないように思える。そもそもなぜ、我が居処と民の居処を隔てる必要があるのだ。私と民とは、それこそ親子の関係に他なるまい。壁を一枚隔てて会話をする親子は、いない。しからば王と民との間にも、また壁はあるべきではあるまい」
陳匡は居住まいを正した。そして合点が言ったようにその顔に笑みを湛えた。
「王の仰ることももっともでございます。城壁が存在すると、民は、王は隔絶された近寄りがたき存在であるというような思いを抱いてしまうでしょう。それは民に不信感を与えるでしょうし、また内城壁の存在によって民の声が王の耳に入りにくくなっているということもまた事実でございます。しかし城壁を取り去ることはまた、危険でもございます」
王はそれを聞くと身を乗り出すようにして、さほど気分を害した風な様子もなく言った。
「それは、我が善良なる民を信頼せぬということか」
陳匡はその顔から笑みを消した。
「……良いですか、王よ。恐ろしいのは悪人ではありません。一番の恐怖は、どのような善人であっても、何らかの拍子に残虐非道たる悪人になりうるという事実でございます。そのことを考えないで民の善良たることをのみ信じてこれを前提とするは、民のことを真に考えに入れたことにはなりませぬ。民は時に悪人たりうる。王に全幅の信頼をよせる民は、なにかきっかけがあれば王を討たんとする暴徒と化すでしょう。そしてそのきっかけは、ほとんど偶然なのでございます。なれば、民の悪人たるを責めることは出来ません。親として王がなすべきは善き子を信ずることでなく、善き子の悪なりうることを承知したうえで、なお子を信ずることでございます」
そこでまた、陳匡は表情を和らげた。
「私めとて、城壁を取り去ることに反対ではございませぬ。内城壁を作るようにとの王命を承ったのは私めでございますが、城壁の存在に善きところも悪きところもあることは承知してございます。しかし城壁を建造した国民の血と汗を考えればそれを簡単に無下にすることは出来ますまいし、実際建造に携わった者が反感を抱くことは必然でございます。なれば、城壁を壊すに足る積極的な理由――建造に携わった者も納得しうるような強固な理に至るまでは、とりあえず城壁は保つが良いであろうと存じます。確たる理由が立てられたときにこそ、あの城壁を壊すよう指示されると良いでしょう」
「随分のんびりしたようじゃないか」
その言葉に、陳匡は王の若者らしい性急さを感じ取った。陳匡は少し考えてから言った。
「……なればこう致しましょう。私めが内城壁を保つことの良さを申し上げますから、王はそれに応じて確たる論理を打ち出し、私めを言い負かしてください。王がことごとく私めを論破し、私めがもはや内城壁を保つ良さを挙げることが出来なくなれば、それを以って内城壁を崩すの理の完成とし、内城壁を壊すよう指示を出す。それが出来なければ、内城壁を保つことにこそ理があると王に納得していただき、そのままにしておく。いかがでございましょうか」
苦笑して王は言う。
「幼時の問答を思い出すな」
「その総決算のようなものやもしれませぬな」
笑う陳匡に、王は不敵な笑みを漏らして言った。
「……どれ、一つ試してみようではないか」
さようですな、と陳匡は考えてから口を開いた。
「一つに、壁を二重にすることは単純に祁中の防衛力向上につながります。有事の際、たとえ第一の城門が敵軍によって突破されたとしても、第二の城門で頑張ることが出来ます。時間を稼ぐことが出来れば、他県より援軍を待ち望むことも出来ましょう」
王は即座に答えて言った。
「第一の城門が破られた時点で、わが軍の形勢不利は明瞭である。その上なお第二の城門の内に籠ったとて、勝算があるとは思えぬ。畑は城門の外にあるのだから、その内側に籠ったところでそう長くはもつまい」
陳匡もまた空隙を作らず受け答える。
「しかれど、王宮の地下倉庫には十年分の食料が備蓄されております。また、王宮の城壁で敵兵をしのいでいる間に、隙を窺って屋上の脱出路から外に逃れ、再起の機会を伺うことも出来ましょう。第二の城壁が無ければそれも難しい。いずれにせよ、内城壁の存在は有事の際の保険になりえます」
「…………」
そこで王は椅子に背をもたれてしばらく考えた。しかししばらく考え込んでも良い案が浮かばなかったので、やがて王は「どうやら容易にはいかぬようだな」と苦笑した。
「私めとてまだ耄碌はしておりませぬゆえ……急ぐ必要はございますまい、むしろ時間をかけてじっくり固められた土壌が一層強固でございますれば」
そうだな、と王は肯んずる。
その日から、王と陳匡の壁論争が始まった。
四
王が即位して五年ほどが経ったある月の大評議で、陳匡が言った。
「恐れながら、王もそろそろ妻をお迎えになるのがよろしかろうと存じます」
その言葉を聞いて、しかし王は何ら反応を示さなかった。普段なら何であれ反応を示して自分の意見を言うところなのにもかかわらず。まだ若々しくも慎み深き青年ゆえの初心さなのかもしれないと思って陳匡は続けた。
「折よく、隴王夏侯越には年頃の娘がいると聞いております。隴王の娘を妻に迎えて隴国との同盟の強化を図られてはいかがでございますか」
「陳老人、それは危ないのではないか」
言って群臣より出て来たのは、赤ら顔に立派な髭を蓄えた巨魁、嘉苞である。先王の代より祁国に仕えている旧臣であり、その武勲は祁国随一と言われるほどの武勇の持ち主である。やや矜持が高く頑固なところがあるが、きわめて正直な人物で王の信任篤い武将の一人だ。嘉苞は大きな声で続けた。
「我が国は、蔡と隴の両国と同盟を結んでいる。その中で隴王の娘を娶ったとあれば、蔡王は面白くないに違いない。これをきっかけに蔡が我が国に精鋭を差し向けたとすれば、勝てぬとは申さねど厳しい戦いを強いられることになりましょう。蔡に睨まれるようなことは避けた方が良いのではないか」
もっともです、と陳匡は引き取った。
「隴と蔡とを比べれば、力のあるのは明らかに蔡。嘉苞将軍の言う通りでございます。隴ならともかく、相手が蔡の本軍、それも采配が戦の天才韓陸とあっては、我が国の精鋭を要害に立てこもらせたところで防戦一方、ふた月もてば大健闘といったところでございましょう」
それを聞いてざわついた諸臣を、陳匡は「静かに」と制してから続けた。
「弱気な意見のように思われるかもしれませぬが、これは恐らく事実でございます。己の慢心が作り上げた小なる虚像に挑みかかるは愚行でございますが、己の恐怖が作り上げた大なる虚像に踊らされるもまた愚かなことでございます。実像は実像として、しかと見ねばなりますまい。蔡が強大であり隴はそれに次ぎ、我が国はもっとも弱い。そのことは偽り得ぬ事実として認める必要がございます。そして、そうであるからこそ我が国は、隴との連携を深めなくてはならないのでございます。仮に蔡と結び隴と手を切れば、確かに我が国もしばらくは安泰でございましょう。ただし、それも隴が滅ぶまででございます。隴が滅べば、蔡は次に我が国へ手を伸ばすことは目に見えています。様々な要求を突き付けられてはそれに難癖を付けられ、搾取された挙句いずれ何か口実を付けて侵攻を受けるのは明らか。それならば我が国は隴と連携して蔡を討ち、最大の危機たる蔡をまず退けねばなりません。強国蔡といえど、祁隴両国が結託すれば互角以上に戦うことが出来ましょう。そうして蔡を討ち、その領土の一部を手中に収めた後で隴に決戦を挑むのでございますが、それならば勝算もございましょう。それ以外に、隴と蔡をうまく平らげる方法はありますまい」
諸官は歓声を上げた。嘉苞は腕を組んで頬を掻きつつ照れくさそうに言った。
「さすがは陳老人、恐れ入った。俺の出る幕ではなかったようだな」
嘉苞が下がると陳匡は改めて王に向き直った。そこで陳匡は、王の顔色がいつにもまして青ざめ、その表情も心なしか硬くこわばっていることに気が付いた。陳匡は小声で聞いた。
「……王、ご気分がすぐれないのですか」
「余には、…………」
「は?」
予想だにせぬ言葉を、人間は聞き取れないものである。陳匡は思わず聞き返してしまった。王はその目を見開いていた。
「余には、既に妻がいると言ったのだ」
諸官に衝撃が走った。その場に居合わせた誰も――陳匡すらも、そのような話を聞いたことがないどころか、王が女と共にいるところさえ見たことがないからである。
「王、私めには初耳でございます。いつの間に妻をむかえられたのでございますか」
「…………」
王は何も言わず、ただ陳匡を強く睥睨するばかりである。普段の評議で王に睨みつけられれば、陳匡はそれをむしろ頼もしく感じたくらいであったのだが――陳匡は、思わず俯いた。王の内面を察しかね、何も言うことが出来なかったのである。
「…………?」
自分が踏みつけている敷物の禍々しい赤をじっと見つめていた陳匡の脳裏に、ふと王の笑う顔が思い浮かんだ。俯いている自分を見て、王が笑っているような気がするのである。何故か? 根拠はないようにみえる。なにしろ陳匡の目は完全に王から外され、敷物の赤をじっと見つめるばかりであるのだから。あるいはそれゆえに? ……その抜き差しならぬ奇妙な感覚は心を強く縛り付け、陳匡に顔を俯かせたままでいることを強いた。年甲斐もなく、明らかに陳匡は狼狽していたのだ。
「麗春は今、ここにはおらぬ」
陳匡は顔を上げた。王座にあって陳匡を見下していたのは先と変わらぬ、少し目をいからせたような顔である。続いて陳匡は、あの奇妙な感覚がもはや自分の心を縛り付けていないことを自覚した。
「麗春、というのは王の妃様の名前で?」
嘉苞が再び王前に上がった。やや目を吊り上げて口を真一文字に引き結んだその表情は、どこか怒っているように見えた。しかし王は嘉苞に一瞥を投げるだけである。このような公孫瑛を見るのは、嘉苞も陳匡も初めてであった。
「若君に妃様がいるなんて話は聞いたことがありません。是非ともご紹介に預かりたく思います」
「無礼にも公衆の面前に我が妻を晒せというのか」
王もまた嘉苞を睨みつけた。しかし、嘉苞は顔を俯けることなく王に向かう。
「なれば、丞相にのみ引合されては。それならば女性の品位も保てましょうし、我々も納得がいくというものです」
王は眉をピクリと動かし、いつもの若々しさからは遠く離れた重々しい声で言った。
「納得? なぜ余の婚姻に家臣の納得が要るのだ」
嘉苞は一歩下がり、拱手して言った。
「恐れながら、祁のためを思い、家臣としての務めを果たさんとすればこそ。家臣たるもの、王の事を知るは国の事を知るに異なりませぬ。王妃の顔も知らぬ家臣は土地の産物を知らぬ徴税官も同じ、有事の際に王妃をお守りすることが出来ませぬし、良くお仕えすることもかないません。先王は、大評議の際にはいつもお妃様と肩を並べておられました。どうぞご理解を」
「…………」
王は沈黙した。固唾を飲んで、諸臣が王の動向を注視する。怒り出すか、あるいは嘉苞の言に従うか――やがて王は、その口を重々しく開いた。
「……妻は、祁中にはおらん」
「では、王妃はどこにいらっしゃるのですか」
食い下がる嘉苞を王はまたも睨みつけたが、やはり嘉苞はその目をそらすことはない。それを見てか、王はため息をついてぼそりと言った。
「妻は祁山にいる」
その言葉は諸官に波紋を広げた。祁山――険峻として雲表に聳える祁国随一の高嶺であり、その青木で鳳凰が羽を休め、その緑草を麒麟が食み、その清流は天女が羽衣を洗うといわれる霊峰である。さすがの嘉苞もそれを聞いて一瞬戸惑ったようであったが、すぐに気を取り直した。
「なぜそのようなところに? そのお方は王の許嫁でございますか」
王は「妻だ」と答え、それきり口を閉ざしてしまった。それ以上の言葉を引き出せそうにはなかったので、仕方なく嘉苞は言った。
「……王妃をそのような辺境の地に置いておくことは、家臣として見逃すことは出来ません。ただちにお迎えに上がりたいと思いますが、よろしいでしょうか」
「仕方あるまい」と王はことさら静かに答えた。
祁山は、祁中東門から早馬を飛ばして一刻ほどの場所にあった。しかし、ただでさえ山がちな地形で道を選ぶ必要があるのに、それが妃の迎えの馬車とあってはその歩みは遅々たるものにならざるを得ず、嘉苞が率いて王城を出立した馬車が東門へと戻ってきたのはそれから三日と半日の後であった。嘉苞戻るの報が門番より発せられると、それはたちまち祁中一帯に渡った。いつの間にか民衆にまで王の婚姻の話は及んでいたようで、馬車が東門から王城にまで行く道中には民が立ち並び、馬車の後をついて歩いて様々に騒ぎ合っていた。
やがて馬車が王城に到着したという知らせを受けたので、王は陳匡と共に王城の中庭に赴いた。そこには既に官僚から小役人まで大勢の人間が好奇心に駆られて集まってきており、閉ざされた王城の門が開くのを今か今かと待ち受けていた。内城壁の外からは民衆の騒ぎ声が聞こえ、それに同調するように諸官もまた浮ついた興奮にざわついていた。
やがて城門が開かれ、馬車が入城してくる。それについて民衆も城内に押し入ろうとするのを衛兵が懸命に留めようとしているのが遠目に見えた。そこで王は自分の側に控えていた顔色の悪い従者に耳打ちをすると、従者は頷いて城門の方に走って行った。
「あれに何を指示されたのでございますか」
心配そうに尋ねる陳匡に、王は感情を動かすことなく答えた。
「今回だけ特別に、城内に民を入れてやれと言ったのだ」
陳匡は今さら何を言っても無駄であることを悟ってか、陳匡は押し黙ったまま、ゆったりと城内を滑るようにやってくる馬車に目を向けるだけであった。顔色の悪い従者が門番に話を伝えると、民衆は喜んで城内になだれ込んで馬車を取り囲むようにやってくる。しかし彼らは馬車に近づきすぎることはなく、やや遠巻きにしてその様子をうかがうばかりであった。
やがて馬車が中庭の中央あたりで静止した。一万の兵の教練を行うことの出来る中庭は人々で埋め尽くされて、馬車の周りだけがぽっかりと空いている。ここを出立した時に比べると籠にはところどころ傷や汚れが目立ち、嘉苞を始めとした従士の鎧も泥で汚れ、その顔はまるで戦地から引き揚げてきたかのように疲れ切っていた。嘉苞は自分を取り囲む臣民の群中に王の姿を見て取ると、馬から下りて王の下に行って跪いた。
「嘉苞、ただいま戻りました」
「ご苦労であった。麗春は見つかったな」
衆目が嘉苞に集まる。嘉苞は言葉を続けたが、その声は心なしか震えているようであった。
「は。王のお言葉通り祁山よりお連れ申しました。人を払いますか」
「構わん」
王が言うと、嘉苞は立ち上がって籠の扉を開いた。諸人はこぞってその中を見ようとしたが、しかし籠の中は影で黒く塗りつぶされ、その様子を窺い知ることが出来ない。中に向かって、嘉苞はいつになく緊張した声で言った。
「お妃様……長旅、ご苦労様でした。王城に到着いたしましたので……お降りください」
諸人は固唾をのみ、籠から出てくるであろう存在に期待を寄せた。
はい――という声が聞こえたのだろうか、あるいは幻聴かもしれない。ただし仮にその声が幻聴であったとするならば、その幻聴をその場に居合わせた誰もが――すなわち身近に車を取り巻いていた官僚から遠巻きに眺めていた民衆まで全員が等しく、硝子で出来た鈴の音のようなその声を聞いたことになる。
最初に籠の暗闇から現れたのは一条の光――たおやかな白い指である。乗り口の縁にそっと添えられた指は純白の陶器かと見紛うばかり。続いて影の中から現れた丁寧に結われた黒絹の髪は、光に照らされて艶々とその美を誇る。琥珀色の目は玲瓏として、宛然たる蛾尾は遠山の色。籠の中から天女と見紛うばかりの美人がその全身を現した。笑うでもない、しかし確かな温かみが含まれたその表情は慎み深くも宛美であり、その視線をゆらりとあたりに巡らせるだけで、あれほどざわついていた百官万民はたちまちのうちに沈黙した。その優美な動作と洗練された意匠の赤い着物からは、とてもではないが僻地としての祁山を連想することはできない。一切の化粧を為さずして既に完成されているその風貌は、良知良能の文士や勇猛果敢の武士、あるいは無骨で風雅を解さぬ農工商人の別もなく、その場にいた全ての凡夫に天性の麗質の何たるかを知らしめた――本当に優雅で美しいものは理解を求めない。ゆえに、美それ自体が色欲や嫉妬、羨望といった情を呼び起こすことは決してありえないのだということを。さしもの陳匡もその美貌の前とあっては等しく凡夫の仲間にならざるを得ず、一度まみえたことがあるはずの嘉苞さえもが口をぽかんと開いて前後不覚に陥ったのだ。王が車の傍まで歩いて行き、その麗しき婦人の手を取って、互いに笑いあいながら連れ立って王城の中へと消えていく様子を、その場にいた誰もがただ茫然と眺めていることしかできなかったのは当然である。
二人が城門前の広場から姿を消し、みすぼらしい馬車だけがそこに残された。春眠を覚ます鶯の声がして、ようやく陳匡が理性を取り戻す。それに伴い周囲の者も段々と我に返って行った。彼らはしばらく東窺西望した後で、意気を阻喪したかのように各々の戻るべき場所向かって歩き出すばかりであった。
陳匡は嘉苞のもとに歩み寄った。
「……ご苦労さまでございます。今日はもう帰宅してよろしいから、ゆっくり疲れを取ると良いでしょう。供の者にもそう伝えておいてください」
「……ああ」
嘉苞は陳匡に目を合わせることなく、扉の開け放たれた空っぽの籠に虚ろな目を向けていた。
「……それにしても驚きました。あのような娘を、王はいつの間に妻としていたのでしょうか」
「知らんよ」と嘉苞はぶっきらぼうに答えた。続けて「俺は帰らせてもらう」と言って、嘉苞はそのまま陳匡に背を向けて歩き出した。陳匡は土で汚れた嘉苞の背中を眺めながら、麗春とまみえた時の王の笑顔を思い出していた。
王は結婚の儀すら執り行うことはなかった。その婚姻を正当なものとして世間に知らしめるためにせめて結婚の儀だけはすべきであるという陳匡の言葉を王は「既に我々は夫婦であるのに、なぜ改めて結婚の儀を為す必要がある」といって頑なに拒んだので、結局、結婚の儀が執り行われることはなかったのだ。
そのようなこともあって、麗春のことに関して人々の間には様々な憶測が飛び交うこととなった。王が祁山深奥の滝に棲む竜を打ち負かしてその娘を妻としたのだとか、王がかつて狩りをして祁山に迷い込んでしまったときに天女が羽衣を洗っているのを見つけ、そのあまりの美しさにその場で娶ることにしたのだ、などといった伝説まがいの噂がまことしやかに囁かれ、他にも、御殿では麗春のいる部屋は常に光り輝いているのでどこにいるか一目でわかる、あるいは麗春が生まれた日には、その美しさに太陽も月も恥じ入って、三日三晩どちらも空に昇らなかった、といったような話が実しやかに囁かれるほどであった。
「お前を天女という噂があるそうだ」
大評議の休憩中、王は奥間で麗春に話しかけた。王は執務の合間に休憩をとるときは、必ず王間から繋がっているこの奥間で、麗春と共に時を過ごすことに決めていた。麗春は王の言葉に対して嫣然たる微笑みでもって返すばかりであるが、それでも王は無上の喜びを感じた。そうして王は、麗春が淹れた、立ち上がる湯気さえ香ばしい茶をすっと口に含むのである。その口触りは雲のように柔らかく、広がる風味はほんのりと甘く極上である。霊峰に流れる霊水を汲み、桃の里で香る茶葉を摘み、名工の拵えた茶器をもって第一の茶人に淹れさせたところで、麗春の淹れた茶には遥かに及ばぬようにすら思えた。王はさらにもう一口茶を飲んで、「ああ、美味い茶だ」と満足げなため息をつく。それから、向かいの席に座って微笑んでいるばかりの麗春に対して言った。
「麗春、お前も飲むといい」
王は椅子から腰を上げると、卓上に置かれた茶壺を持って手ずから茶碗に注ぎ、それを向かいに座っている麗春の元に置いた。麗春はその微笑の中に少しばかりの嬉色を差した。そして慎ましやかに右手をかぶせるように小さな茶碗の中腹のあたりを持ち、ちょっと茶碗を浮かして底に嫋やかな左手を添え支えると、そっと右手を茶碗の側面に移してゆるゆると茶碗を口元にまで運び、首を少し俯けるようにして音もなく茶を啜る。そうして、その顔に極上の笑みを浮かべて王に報いるのである。その飲み方は一般的な茶飲みの作法からは外れていた。作法から外れているのは麗春が茶を飲むときだけではなく、茶の淹れ方や陶器の配置、歩き方、座り方、勧め方といった全てのことについて本来の作法から外れていた。知らなかったのだろう。しかし王には、作法を整然と守ることに専心する風流人の淹れ方や飲み方よりも、麗春のそれの方が遥かに美しく、それでいて心がこもっているように思えた。ゆえに、王は陳匡を始め周囲の者が麗春にいちいち作法を教えようとするのを頑として跳ね除け、ついには何人たりとも許可なく麗春の側に近寄ることを禁じてしまった。それを聞いた時には陳匡も苦笑して承諾したのだが、王にとってみれば大真面目な問題であった。
とはいえ、王は女に溺れて政務を怠るようなこともなかった。麗春とのひと時をかけがえのないものとしながらも、そのかけがえのない時間を守るために王はますます厳格に政務に取り組むのである。睡眠時間は日に日に少なくなっていき、机に向かっている時間は日に日に多くなっていった。狩りはもうやめてしまっていたが、時間が足りないため午前中の読書の時間も政務に回さざるを得なくなってしまった。そうして激務の中でたまった疲れを、麗春とのひと時で癒すのである。それが幾年も続いていくにしたがって王の心は摩耗されていくが、その粉骨砕身によって祁国はその勢いをますます盛んにしていくのである。
●
赤茶けた土と灰色の空。墨で塗り固めたような太く長い鉄の柱がそこに一本だけ突き立っていて、そこに一人の人間が縛り付けられている。彼は、これから燃やされて死ななくてはならない。視界の端に映っている赤いものは、父上の背中だ。
やがてその人間に火がつけられた。叫び声がやけに生々しく響く。その人間が着ている白い罪人の服にまとわりつくようにして赤い炎が燃えていく。やがて人間の全体を炎が包み込む。人間は苦しそうにしているが父上の背中は動かない。天に向かってそびえたつ、赤々とした火柱。それはとても――
『瑛』
父上が呼んだ。ビクリと肩が震えたが、父上は気づいていない。
振り向いた父上の顔。それは鮮明だ。とても辛そうに歪んでいる。『これが死ぬということだ』――多分そんなことを言ったのだろう。懸命に顔を辛そうに歪めようとした。きっと変な表情をしている。それでも父上は満足したように頷いて立ち上がり、火柱に背を向けて歩き出してしまった。どうして最後まで見ないのだろう?
その後に、ついて行かなくてはならない、ことを知っていた。そうしない、と父上は怒る。しかし視界は動かない。美しい、その光景を、いつまでも、見て、いたかった。
「それは、王たる者の態度ではない」
その声はわざとらしく鮮明に響いた。きっと、その時に父上が言った言葉ではないからだろう。
五
光陰は矢のごとく過ぎ去り、月日は無慈悲に流れた。まだ若かった公孫瑛は名実ともにすっかり王たる風格才知を身に着けて、父から受け継いだ祁の国を一層強大なものにしていた。隴も蔡も目立った動きを見せることなく、長らく平穏な時間が続くこととなった。しかし、時は乱世である。その平穏は密かに爪を研ぎ牙を磨くための沈黙であり、互いに睨みを利かせ合いながら隙を窺いあうための計算された静寂に過ぎない。それを王は良く理解していたので、十年の歳月を油断することなく過ごした。兵を鍛え穀を蓄えて自らも刻苦勉励に打ち込み、常に家臣の模範たりうる存在であろうと意識し、それを実行していたのである。
そうして着々と力を蓄え続けた祁国に、初めて大いなる危機が訪れた。すなわち隣国隴による一方的な同盟破棄、及び宣戦の布告である。隴は蔡と密約を交わして自国の安全を確保した後、二万の兵力を動員して国境近くにある祁の町、安北への侵攻を開始したので、王は差し当たって一万の援軍を嘉苞に与えて安北に向かわせた。しかし援軍が到達する前に安北は陥落してしまっていたので、仕方なく嘉苞の軍は、隴軍の進路上にある城塞、衛楼関に入って隴軍を待ち構えることにした。その兵力は約半数と遥かに祁が劣っていたが、一方地の利では祁国が圧倒的優位に立っている。砦に立てこもって弓矢や重弩、長槍を駆使して防衛する祁軍に対し隴軍はほとんど打つ手なく、日々いたずらに死傷者を増やすばかりであった。
ひと月ほど一進一退の攻防が繰り広げられ、一向に動かぬ戦況に業を煮やした隴はさらに衛楼関に一万の援軍を差し向けた。さすがに兵力が相手の三分の一となれば、いかな要害に立てこもろうと苦戦は必至である。祁中でも打つ手を検討すべく、王は緊急で大評議を開いた。
王が衛楼関の現状について述べると、それに一人の青年が答えた。彼はその名を程凱という、今の王の代になってから仕官してきた武官である。体格は王とさほど変わらないが、その爛々とした瞳の奥には滾る闘志が隠されていることはその場にいる誰もが知っており、槍を取れば無双の使い手と言われながら頭も切れる強者である。嘉苞に次ぐ実力を持つ者と周囲に目されており、とりわけ王からの信任は篤い。程凱は明朗な声で王に言った。
「私が援軍に向かいます。嘉苞殿を見捨てるわけにはいきません」
予想通りの程凱の言葉である。王は答えた。
「しかしそれでは振り出しに戻るだけなのだ。程将軍が一万の兵を率いて衛楼関に援軍として赴けば、三万の隴軍に互角の戦いをすることは出来ようが、そこでさらに隴が二万の援軍を出せば、またも我が国は不利となろう。兵力では遥かに隴に劣っている我が国が、兵力に対して兵力で報いるのは得策とも言えまい」
「確かにそうかもしれませんが、それ以外に何か策がございますか」
「腹案がないわけでもない。……足りぬ兵力は、火で補えば良い」
それを聞いて程凱は得心しがたいように首を傾げた。代わりに陳匡が引き取った。
「火計でございますか」
「そうだ。まずは嘉苞に、夜陰に乗じて衛楼関を引き揚げさせる。その時に、大量の荷物を置き去りにするのだ。いかにも慌てて退却して、兵糧物資をことごとく置いて行ったかのように見せかけて、だ。その中には火薬や枯れ草を満載しておく。それで、意気揚々と隴軍が陣地を占領したところに火矢を放ち、衛楼関もろとも隴軍を爆破してしまうのだ。さすれば隴軍には壊滅的な打撃を与えられようし、衛楼関を隴軍に拠点として使われることもなくなる。一挙両得だ」
「妙案でございますな」程凱は感嘆して言った。諸臣も、王の提示した巧妙にして豪快な火計に喝采しかけたが、しかし陳匡は賛同しかねるように渋面を作った。
「丞相よ、どうした。我が策に欠陥は無いように思うが」
「は、確かに王の策は妙案であると私めも思います。されど、徹底的に過ぎることが心配の種なのでございます」
回りくどい言い方をするではないか、と揶揄する王に、陳匡は答えて言った。
「王は、今現在嘉苞と対峙している隴軍の指揮官の名前をご存じでございますか」
知らぬ、と王は答えた。
「隴軍の指揮官は曹延という人物であり、隴国きっての猛将として知られております。猪武者でございますれば、王の策を実行することで容易に葬り去ることが出来ましょう。されど曹延は、隴国王家、夏侯氏の親族にして実質的な隴の支配者である大商家、曹家の子息でございます。その曹延を我が国が奇計で討ったとあらば、たとえその報復を隴王夏侯越が望まぬにせよ、曹家が圧力をかけて隴軍に弔い合戦を強いることでございましょう。隴の本軍五万が総力を挙げて我が国に殺到したとあらば、我が国に防ぐ術はございませぬ」
五万、という数字を聞いて諸臣に動揺が走った。現在祁中に残っている兵力は二万ほどであることを鑑みれば、いかに要害祁中といえどかなりの悪戦苦闘を強いられ、一手間違えればたちまち祁国が滅んでしまう事態に陥ることは必至である。「静まれ」と王はやや苛立ったように言うと、陳匡に続きを促した。
「……つきましては、出来る事ならば曹延を生け捕りにして、曹延の身柄と引き換えに停戦協定を結ぶのが良いかと思われます。さすれば曹家、夏侯家は共に我が国に感謝するでしょう。理想と致しましては、そこで両国の間に確固たる同盟を取り結び、共闘して蔡を討たんことを約すことでございます。隴とて蔡が強敵であることは重々承知しておりましょうし、恐らくはこちらの申し出を受けるでしょう」
ふむ、と頷く王の顔は変わらない。が、ややその表情はこわばっているように見えた。
「生け捕りにすると言うが、相手が猛将とあっては容易ではあるまい」
「なに、策を巡らせば容易でございます。まず適当な武者二人に出陣していただいて、どちらかが曹延に一騎打ちを申しこみます。それで五十合ほど打ち込んだらその者を引かせます。曹延のことですから、調子に乗って深追いしてくるでしょう。そこにもう一人が一騎打ちを申し込み、また五十合ほど打ち込んだ後で引いてもらう。そこで最初の者が再び――と、これを繰り返していけば、知らず曹延は深入りすることになります。それも相当疲弊しているとあっては、それを生け捕りにするのは容易いでしょう」
陳匡の深謀遠慮を凝らした献策にも諸臣は頷いた。王は傍らにいる程凱に目を向けて言った。
「程凱、お前はどう思う」
程凱は抑揚のない声で短く言った。
「恐れながら、私には出来かねます」
だろうな、と王は答え、続いて陳匡に冗談めかして言った。
「陳匡には理解できまいな」
ええ、と陳匡は慨するでもなく言った。
「私めは文官でござりますれば、理屈は分かりますが気持ちは分かりかねます。それに、武将の好き嫌いで国家の大事を左右するわけにはいきません。見るべきは情ではなく、理でございますれば。
……されどその前に、まずは基本的な方針を決めることと致しましょう。すなわち、曹延を殺すか活かすかでございます」
「ずいぶん余裕がございますな」と程凱はやや皮肉めかして言った。それを陳匡は、「なに」と引き取って言った。
「家の支配する国はその損得を家の損得に結び付けますれば、恐るるに足りませぬ。もし蔡の韓陸が五万の兵を率いて我が国に迫ったとあらばこのようにはいきません。今回は相手に恵まれただけのこと。さて王よ、いかが致しますか」
陳匡は微笑を湛えながら言う。王は、何やら嫌な感情が深奥から沸々と沸き起こってくるのを感じた。それをごまかすためか、王は言った。
「弔い合戦となれば、夏侯越は全軍を挙げて来るだろうか」
「全軍とまではいきますまいが……蔡と隴との間に密約が交わされていると考えれば、相当量の兵力がつぎ込まれることが予想されます。隙ありと見れば、蔡も兵を投じてくるかもしれません」
王は少し考えた。陳匡の言葉ももっともであり、衛楼関を爆破することが愚策であるとする考えも理解できる。一方で王の中には、衛楼関を爆破するということが何かかけがえのない重要性を帯びているという無根拠な確信があった。そしてそれは、無根拠であるがゆえに覆しがたい力を持って王に迫った。陳匡が自分に向けている眼は、信頼の色を帯びている。しかしその信頼は、果たしてどこに向けられたものなのか? ――その時王が逡巡したのは、まさにこのことに他ならなかった。
王はおもむろに立ち上がり、いつになく大きな声で言った。
「腹は決まった。偽誘の計をもって、まずは隴軍に打撃を与えることとする」
その言葉を聞くと陳匡はそれまでの笑みを消し、顔色を変えて諫言を述べた。
「恐れながら、その策は確かに目先の勝利を得るには確実な策でございます。しかし、それは小さな勝利を取った結果大きな勝利を失うことになりかねません。隴の本隊が祁中を囲めば、兵力では圧倒的にこちらが不利でございます。それに、そうすれば我が国と隴国との決裂は決定的になり、再同盟はもはや望めませぬ。ここは将来を見据えて、今回の戦は上手く引き分けに持ち込み、共に蔡を討つ盟友を作る方が得策でございます」
陳匡の言葉を聞いているうちに、王の中に存在していた漠然たる確信に理の外殻が取り付けられていった。今や王は、確固たる理由を持っていたのである。王は憤然と答えて言った。
「違うぞ陳匡。死中に求めるべきは、死なぬ方法ではなく活きる方法である。多少の危険を恐れて、どうして虎の子を得ることが出来ようか。隴とは徹底的に争わねばならぬ。隴をいつ裏切るともしれぬ盟友とするのでなく、隴を併合し、我が国の血肉そのものとせねばならぬ。たとえ隴の本隊がやって来たとしても、隴がごとき薄弱の軍に我が国の頑強な要害は突破できまい。こちらは山積された兵糧と意気衝天の精鋭がいる。一方あちらは遠路はるばる兵糧を運んでこなければならず、しかも地の利では圧倒的に不利である。持久戦になれば、我が国の有利は動かない。隴を討つための前段階として、まずは余裕綽々たる奴らの肝を冷やしてやろうではないか」
「いけません。我が国はまだ隴を討ちきるほどの力を有してございません。いずれ隴を討つにしてもここはとりあえず凌ぎ、外郭を削ぎ落とすように少しずつ隴の国土を手中に収めていく方が安全でございます。失敗すれば一族郎党ともども命を失いかねません。どうか慎重な判断を」
「私は王の策に賛成です」と程凱が言った。「丞相も、隴など恐れるに足りないと仰りました。あのような国に媚びるは気高き王の品位を落とすことになります。隴を滅ぼして祁王の名を広めるとともに、我らが祁を、蔡と肩を並べる強国にしようではないか」
程凱の言葉に諸臣は意気揚々として声高に賛成を叫んだ。陳匡の反対は大衆の熱気にかき消されてしまい、陳匡はそれ以上何も言うことが出来なかった。
その後も細かい調整事項を確認したりして、緊急の議題が一通り片付いた頃にはもう日が傾きかけていた。王はそこで半刻ほどの休息を入れることを宣言すると、途端に弓弦のように張りつめていた王間の雰囲気が緩む。王は大儀そうに王座から立ち上がると、そのまま奥間に引っ込んだ。
「麗春、いるか」
麗春は白い柱の影からそっと姿を現し、何かを待つかのようにぼうっと王の顔を見上げた。王は麗春の白い額を見つめながら言った。
「茶を淹れてくれないか」
麗春は奥に引っ込んだ。王は椅子に腰を下ろすと、ぼんやりと窓辺に生けられた赤く燃え盛るように咲き誇る美しい花を眺めていた。その花の名前を、王は知っていた。二十日草である。赤々とした花弁は幾重にも連なって花冠を成し、中心には黄金の蕊がそっとその顔を覗かせている。思えば、花をじっくりと眺める機会は今までになかった。二十日草は、古来貴人に親しまれてきた花であるというのは詩を学び始めた幼時に教わったのだが、こうして現物をじっくり見ることはなかった。王はしばらくそれに見入っていた。
やがて麗春が茶を運んできたので、王は二十日草から目を離した。ゆったりとした仕草で麗春が陶器に注いだ茶を受け取る。湯気の立つ茶碗は王の手を温め、その心を和ませる。王はその茶を啜った。口に広がる優しい香りは芳甘であり、あの赤い二十日草を食べたら、きっとこのような味がするのだろうと、そんなことを王は思った。
「そなたも飲むと良い」
しかし、麗春は俯き加減に座っているばかりで卓上の盆に手を出そうとはしなかった。――シン、と腰が痛む。一日中座り通しであるため、いつからか王は腰痛を患ってしまっていた。さりとて王務を放棄するわけにもいかないので、腰痛をこらえながら王は日々の激務に身を晒していたのである。
不意に麗春がその顔を上げ、二人の視線が交錯した。冬の大海のように閑々としている、琥珀色の麗春の瞳…………
「――――――――」
王は突如として気が付いた。麗春の美しい顔が冷たくこわばり、何も主張することのない無表情であったことに。それと同時に、王の中で一つの致命的な疑念が巻き起こる。
――いつから私は、麗春の笑顔を見ていないのだろうか?
見当もつかなかった。気が付けば咲き誇る春の花の微笑はその顔からすっかり姿を消してしまい、麗春の端正な顔には一面、冷艶にして無機質な雪化粧が施されてしまっていたのだ。
王は異様な衝撃を受けた。それと共に王は、その日から笑わない麗春を絶えず気にするようになった。そしてそれを気にすればするほど、麗春が笑わなくなってしまったことがいよいよ強く思い知らされ、王は悶々とするのである。
麗春が笑わなくなってしまったことに、諸臣は気づかない。そもそも諸臣の前に麗春が出ることは極めて稀であり、ましてや今は戦争中である。そのことが王を表立って悩ませることはなかったが、代わりにその煩悶は王の深層部分に潜り込み、確かに存在しながら名状しえぬ蟠った不安として王が一人でいるときにその心を苛み続けることとなった。
六
天は祁に味方した。嘉苞は恙なく策を遂行し、完全に王の目論見通りに事が運んだのだ。嘉苞が撤退した衛楼関を占拠して戦勝気分に沸く隴軍に火矢が放たれるや地が裂けんばかりの爆音が峡谷に轟き、大火が隴軍を焼き尽くすこととなった。曹延は焼死し、率いられていた二万足らずの隴兵も多くが炎に散り、算を乱して逃げ惑っているところに祁軍が襲い掛かり、これを散々に打ち破ったのである。また、数日後にその惨事も知らず衛楼関に到着した隴の援軍には奇襲をかけ、嘉苞がその指揮官を一騎打ちで討ち果たしたことで総崩れとなった。隴軍の武器兵糧はことごとく祁の手に落ち、捕虜は五千余りを数えたという。
かくして衛楼関の攻防では隴軍が完膚なきまでの惨敗を喫することとなった。その後で嘉苞は衛楼関近くにある城塞都市洛応に入り、現地の兵に嘉苞の軍、隴の降兵を併せたおよそ二万の兵力で防備を固めた。案の定曹家は怒り狂い、隴王夏侯越に詰め寄って隴の主力五万を祁国に差し向けさせた。弔い合戦に息巻く新手の隴軍はたちまち洛応に至り、嘉苞の軍と激突した。しかし洛応は祁中に次ぐ堅牢な要害である。道は細長く隴はその人員を活かしきることが出来ず、五万の兵がおよそ二万の兵によって釘づけにされることになった。
その間、王は程凱に五千の兵を預けて山道より祁国を密かに抜けさせ、あろうことか隴本国に急襲を仕掛けることを考えた。しかし、そのことに陳匡を始めとした多くの文官が大反対した。あの大国、隴をわずか五千の兵で打ち崩そうというのだからそれも当然である。しかし王は、隴の本軍がいない今本国は手薄になっているに違いないこと、蔡に気取られる前に決着をつけるため、五千程度の兵力で素早く移動した方が良いこと、隴兵の国に対する忠誠は薄いので攻めるに易いだけでなく、うまく手なずければ隴兵を手勢に加え兵力を補充、増強しつつ進軍できるであろうことなどを主張し、王は陳匡らの反対を押して、程凱に出撃の命令を出した。
程凱は喜び勇んで祁中を出立した。祖国の危機に奮起する祁軍は凄まじい進軍速度で祁の山間を抜けて、隴の国境を守る雁城に攻撃を仕掛けた。雁城を守る兵は本来五千ほどであったが今回の遠征に伴い三千の兵を動員され、城内には二千の兵が残るばかりであった。それも金で雇われたような兵士ばかりである。想像だにしない逆襲を受け、しかもこちらが圧倒的不利であるとなればその士気はどん底たらざるを得ない。雁城の兵は城外で祁軍を迎え撃ったものの、士気でも兵力でも遥かに優る祁軍に散々に打ち破られ、辛くも雁城に逃げ帰った残党も祁軍の包囲を受け、たちまち祁の軍門に降ることとなった。
程凱は祁兵に厳しく略奪を禁じた。それと共に降ってきた隴軍にも一切の危害を及ぼさずに優遇し、祁国のために尽くすよう諸兵を説得した。隴兵にも祁王の名君ぶりは知られ渡っていたし、金権政治に嫌気を感じている者も多かったので、彼らは祁軍として行動を共にすることを承諾、程凱はその兵力の一部を手勢に加えて進軍を続けた。やがて次の麓牢城に至ったが、麓牢城もほどなくして陥落、同じように麓牢城の兵も祁に味方することになった。一度その風潮が出来てしまえば、確固たる信念が無い限りそれに逆らうのは難しい。もはや士気の上がらぬ城を落とすは易く、中には内部で諍いが起きたり、あるいは城主が城門を開いて祁軍を迎え入れるような城もあった。やがて程凱の軍が隴の首都隴章に近づくにしたがって頑強に抵抗を試みる城も出てきたが、それもせいぜい五千程度の軍勢であり、一方祁に味方する兵はいつしか二万にまで膨れ上がっていたのだ。それを打ち破るのに大した労は要らなかった。
一方、洛応で嘉苞に足止めを喰らわされている五万の隴軍は未だに戦況を打開できずにいたが、そこに程凱が隴本国を強襲し快進撃を続けているという報せが届くと、隴軍は慌てて退却しようとした。無論、王はそこに執拗な追い討ちを掛けさせた。嘉苞は退却する隴軍に付かず離れずの位置を保って追いすがり、隴軍が隙を見せれば奇襲をかけ、隴軍が野戦の構えを見せれば退き、逃げればこれを追い……と巧みな用兵で隴軍の退却を遅らせたのだ。
本軍が祁で足止めを喰らっている今、隴章の夏侯越が快進撃を続ける程凱に対し打つ手はなかった。ついに祁軍は隴章に殺到し、立てこもる一万の隴兵を二万余りの祁兵が包囲した。頼みの本軍は来る気配も見えず、それが到着するまでに城内の兵糧が尽きてしまうことは明らかであった。士気も兵数も兵糧も劣る隴軍に、もはや勝ち目はないと判断した隴王夏侯越は、曹家の反対を押し切って全軍降伏を決意、城門を開いて隴章を嘉苞の軍に明け渡した。君主が降伏したとあっては本軍も抵抗するわけにもいかず、たちまち隴の本隊も白旗を掲げて嘉苞の軍に投降し、その他の都市も祁への恭順の意を表することとなった。
かくして隴の圧倒的有利と思われた決戦は最後まで祁がその主導権を握り続け、わずか三十余日のうちに祁の勝利に終わったのである。王は祁中に引き返してきた嘉苞に祁中を任せると、陳匡と共に麗春を引きつれて隴章に赴いてその内政と人心の安定に力を注いだ。諸税を軽くし悪官を退け民を思いやった政治を行ったので、人心は新たな王に良く懐いた。また、元隴軍であった兵士はその身分を解放し郷里に帰ることを許したので、彼らは大いに感謝してこれからも祁兵として働きたいという者が後を絶たなかった。
隴は隴州として祁国に併合されることが決まったが、王が祁国に引き上げる前に隴州の長官を決めなくてはならず、前国主である夏侯越の処遇もまだ決まっていなかった。王は陳匡と程凱を隴章の王間に集め、まずは夏侯越の処遇について話し合った。
「隴国は巨大ではあったが、その中身は腐敗しきっていた。それも夏侯越が自国の管理を怠ったことに原因がある。隴の民も夏侯家、曹家には恨みを抱いているようであるし、その元締めたる夏侯越は首を切ってしまった方が良いと思うのだが、どうだろうか」
そう言った王に「いけません」と口を挟んだのは陳匡である。
「将ならばいざしらず、夏侯越は仮にも一国の王でございます。隴章を嘉苞将軍が取り囲んだ際、曹家、夏侯家は強硬に交戦を主張したそうでございますが、夏侯越は勝ち目のない戦で兵士を苦しめるに忍びず、敢えて反対を押し切り降参することを決意したのでございます。その夏侯越を打ち首にしてしまっては、今後敵方が降参してくることがなくなってしまうでしょうし、王の御名に傷も付きます。先王は、よほど抵抗し服従を拒んだ者でない限り打ち首は致しませんでした」
王は陳匡に目を合わせることなく、そのまま程凱に顔を向けた。
「程凱、お前の考えはどうだ」
「私も、夏侯越を打ち首にするのは反対です。抵抗せぬ相手を打ち首にするのは人道に反します。それに隴の人は夏侯家を恨みこそすれ、夏侯越には恨みどころか同情さえ感じております」
「……ではどうする。見逃して野に放つというのか? いつこちらに牙を向けるともわからぬ手負いの狼を」
王は陳匡を睨みつけた。しかし陳匡はその口の端を歪めて言う。
「夏侯越には、引き続き隴を治めさせるのが良いかと思われます」
「なんと。敗国の暗君を続けて国主に据えるなど前代未聞。隴の滅亡は夏侯越の優柔不断たるがゆえ。それがわかっているのに、どうして夏侯越を隴民の上に立たせることが出来ようか? 人々をして、余を愚昧の王と呼ばしめようというのか」
怒気を含んだ王の声に、陳匡はやや畏まって続けた。
「とんでもございませぬ。私めは夏侯越を隴王の位に据えよと申したわけではございません。差し当たった問題として、我々はまだ隴の様子を完全に把握しきれていないということがございます。どこに何を産し、どの家が財を持ち、どの都市でどの商人が力を持っているのか――国を治めるに必要な事柄を、我らはほとんど把握しておりません。それを夏侯越は把握しておりますれば、その知識を利用することで即座に隴の随所に神経を巡らすことが出来ます。
確かに夏侯越は、主君に足る器ではございませんでした。しかしその気性は至って温和で頭も良く、変に矜持にこだわるような人間でもございません。文官としてそれなりの働きをしてくれるでしょうから、夏侯越を隴州の文官として今後用いるのが良かろうと申したのでございます。そうするなら、前の身分を考えて隴州の長官に任命するのが妥当でございましょう。そして、その副官にはこちらの息のかかった者を据えて夏侯越にこれを教育させる……夏侯越も年ですから、そう長く為政者の座にいることも出来ますまい。夏侯越がいよいよ長官の任に堪えられなったところに副官を隴の太守に据えれば、ごく自然に、それも隴人に好感を持たれながら隴の全てを手に入れることが出来ましょう」
「……ふむ」
王は決めかねた。陳匡の言うことに筋が通っていることは分かっていた。それでも王には、考えれば考えるほど、夏侯越を殺してしまった方が良いように思えたのだ。王をその考えに固執せしめたのは、やはりあの無根拠な確信であった。その思考が既に思考ではないことに、王は気づいていない。
「お迷いになるのでしたら、実際に夏侯越にお会いになってみたらいかがでしょうか」
陳匡は、ふと表情を緩めて言った。
「王は、夏侯越の能力に疑問を持たれているのでしょう。確かに夏侯越は無能ととられても仕方ない男であったことは確かでございます。王が自ら夏侯越に会われて、それで彼の能力人柄を見極められてみては?」
「うむ……そうするか」
ただし、その肯定は王自身が積極的に夏侯越と会見することに意味を見出したからではない。王が陳匡の提案を肯んじた理由はただの二つである。すなわちそれによって決定不能の虚脱状態を打開しうること、そして提案それ自体が王の考えと衝突しないことである。しかし一旦それと決めてみると王には夏侯越との会見が非常に重要なことであるように思われ、その日のうちに蟄居している夏侯越へ使者を送り、翌日には陳匡と程凱の立会いのもと夏侯越と対面した。
夏侯越は隴章の城に臣下の礼服を着て現れた。王にはそれがあまりに露骨であるように思われたが、王間に現れた夏侯越の仕草はあくまで恭しい。その目つきは穏やかで、長い白髪は後ろに束ねられて行儀よくぶら下がっている。小太りで人懐こそうな顔をした、いかにも田舎の老翁と言った風情であり、王が前々から想像していた名門貴族然としたような人物とは根本的に異質であった。思えば隴王夏侯越の名を意識すること十年を数えるが、二人が直接対面するのはこれが初めてであった。
夏侯越は王前でゆったりと跪く。かつて自分が座していた位置に他国の王が座っているのを見て、ほんのわずかな微笑をその顔に浮かべた。王はそれを見咎めた。
「なぜ笑うのだ」
夏侯越は「申し訳ありません」とのっぺりとした声で言いよどんだ。
「祁王が隴の王座におられる様子が至極自然に思われたのです。それに引き替え、誰が見ても王に向かぬわたしが王座にふんぞり返っていたときは、周りから見てさぞかし滑稽だったろうと思ったのです」
王はそれに対して何も言わず、代わりに夏侯越を強く睨みつけるばかりであった。その甘い物言いの裏には毒が隠されているような気がしてならなかったのである。
「夏侯越、お前はなぜ我が国に戦を仕掛けてきたのだ? いたずらに血を流すことは、王位にありとはいえ決して許されることではあるまいぞ」
それに答えて夏侯越は、隴がその運営の大部分を大商家に依存していること、その商人たちは祁国に産する硫黄を欲しており、前々から祁国に侵攻するよう圧力を掛けられていたこと、そして祁の旗を掲げた小隊が曹家の商品輸送隊を襲撃したことをきっかけに家臣からも祁への侵攻を強く主張する者が現れだし、やむなく侵攻を開始したことを淡々と述べた。それを聞いて、王は不機嫌そうに言った。
「祁の小隊? 隴の商人を我が軍が襲うはずがない。この期に及んで虚偽を言うな」
目を怒らせる王を見て、夏侯越は恐縮したように肩を狭めた。陳匡は取りなすように言う。
「まだ夏侯越の言葉を偽りとするは早計でございましょう。夏侯越、それは確かに祁の軍旗を掲げていましたか」
「商品の輸送にあたった者全員がそう主張しておりますれば、恐らくは」
「……しかし、少なくとも我々はそのような指示を出してもいなければ、報告も聞いておりません。なれば、恐らくは祁への侵攻を正当化するために曹家が自演したか、あるいは蔡が仕組んだ謀略やも知れませぬ」
そこで陳匡は王に目線を移して続けた。
「無論、夏侯越が嘘を吐いている可能性もございますが、ひとまずはそういうこととして話を進めるが賢明かと思われます」
王は無言でわずかに頷き、夏侯越を強く睨みつけたまま口を開いた。
「では、夏侯越よ。仮にお前の言葉が本当であったとして――お前自身に、野心はなかったのか」
夏侯越は、まるで弾劾された罪人のように顔を伏せる。それを見て王は、夏侯越に対する苛立ちが自分の中に膨れ上がってきていたことに気がついた。それがどこに根ざし、どこに立ち向かっている感情なのか、王にはわからない。
夏侯越は躊躇いがちに続けた。
「……なかったと言えば嘘になります。貴殿の父上がお作りになられた大倉庫には十年分の食料が備蓄されていると聞きますし、その天然の要害は蔡を討つ上でも重要な足場となり得ます。為政上も魅力的な土地であったことは間違いございません」
王は一層強く夏侯越を睨む。
「野心があった……そう答えることに、身の危険は感じないのかな」
その言葉を聞いて夏侯越はその肩を少し震わせたが、その目に灯る光を揺るがせることはない。
「わたしは……王の質問に、正直に答えただけでございます。それぐらいしか、わたしには取り柄がありませぬゆえ」
そう言って、夏侯越は決まり悪そうに笑う。
「…………」
王は返事の代わりに射殺すような一瞥を投げるだけで、そこからさらにいくつかの質問を重ねた。隴の名産品や土地の特徴であったり、商人の力関係や情報網であったり、隴において好まれている芸術であったり。どれについても夏侯越はやや恐縮した様子で、しかし正確な受け答えをした。そのあらゆる言葉や仕草は王を苛立たせ、その眼光を一層鋭くさせる。
「これが最後の質問だ。夏侯越――今、余はお前の処遇について決めかねている。お前自身、どのような処遇を希望するか」
程凱や陳匡はその意図を察しかね、ちらと王の目を盗み見た。当の夏侯越は王のその言葉に対し、数秒を開けてから柔らかな表情で言った。
「わたしは敗軍の将なれば、殺されたとて何も異存はありませぬ」
それから夏侯越は、躊躇いがちに目を伏せた。
「しかし――厚かましいようではありますが、もしわたしを生かしておいていただけるのでしたら、王が隴をよりよく支配するためにお力添えをさせていただきたく存じます」
「……下がって、我が命を待て」
「は」
夏侯越はのらりと立ち上がると、律儀に一礼して退出していった。
「いかにも知恵ある人格者といった風情であるな」
王は座に就いたまま、ぽつりと言葉を漏らした。陳匡は微笑を浮かべて言う。
「決して愚かな人物ではございませぬ。隴の敗因は周囲に名家出身の官僚がはびこって私利私欲を尽くしたがゆえであり、夏侯越の人格に問題があったわけではございませぬ。敗国の君主を同国の長官にするなどあまり前例のないことではございますが、それだけに、恐らく夏侯越は感激し――」
「――あやつを火にかけよ。今後の見せしめとするのだ」
陳匡の言葉を遮って、王は言った。予想だにせぬ王の言葉に、陳匡も程凱も絶句した。
「恐れながら、夏侯越の態度を繕われたものと考えてはなりません。夏侯越はいつでも誰に対しても、あのような物言いを致します。夏侯越が嘘を申し上げているようには見えません」
王は曖昧に頷いた。そう、夏侯越は恐らく偽りごとをしてはいない。腹に一物を抱えているような輩は、あのような間の抜けた表情をしない。夏侯越はただ本心を吐露しているだけ……王自身にも、そうにしか見えなかった。しかしそれこそが何より王にとって不気味であり、また信じがたいものであった。打算無き空隙、そのようなものがありえるのだろうか? 打算をもって、打算無き空隙を演じているにすぎないのではないか? しかし、だとすれば去り際に見せた、あの満ち足りたような表情は? …………
「恐れながら、夏侯越の温良篤厚たるは広く知られ、その人柄をもって隴の民にも慕われています。そのような人物を殺しては、王の名に傷がつくだけでなく今後の隴における為政にも支障を来たします。それならば敢えて殺すよりも、生かしておいて上手く利用する方が得策でございます。一時の感情に流されず、どうぞご明断を」
「……為政者には、知恵者も人格者もいらぬ」
あまりに重々しい口振りで突然に発せられたその言葉の意図を掴みかね、二人は間抜けたような顔を王に見せた。王は苛立ちを隠そうともしないで続ける。
「為政に必要なのは、計算高き冷徹者だ。冷徹に国民を思いやり、冷徹に敵兵を滅ぼせる者。冷徹に悪人を許し、冷徹に善人を殺せる者。冷徹に法を敷き、冷徹に計を謀り、冷徹に命を下せる者。冷徹に喜び、冷徹に怒り、冷徹に哀しみ、冷徹に楽しむ者。為政者とはそうでなくてはならぬ――ゆえに、夏侯越は無能だ」
二人はその言葉を聞いて、しばらく黙り込んでしまった。重苦しい沈黙は、なぜか王の苛立ちを緩和した。ややあって、陳匡が口を開いた。
「……恐れながら、無能であることは死罪に値いません。それに、今回に限っては夏侯越が無能であっても構わないのでございます。長官とは名ばかりで、実権はその副官に持たせればそれで良いのです。仮に夏侯越を殺すにしても、何か手落ちがあったときに正当な理屈をつけて処刑すれば禍根は残らぬでしょう。今すぐ夏侯越を殺しては、百害はあれど一利とてありませぬ。一方夏侯越を隴の長官にすることに百の利はあれど、実害はありませぬ」
「私の意見も丞相に同じでございます」
二人の言葉を受けて、王は沈黙した。その理が覆しがたいほどに堅固であることを悟ってか、王は弁解めいた口調で言った。
「……実のところ、余の本心は隴章への遷都にあった。祁中は交通に不便な地にあるからな。そうする上で夏侯越は邪魔な存在になるだろう。ゆえに、夏侯越は殺してしまった方が良いと思ったのだ」
それを聞いて、二人はようやく合点が行って安心したようにその表情を緩ませた。陳匡は引き取って言う。
「なるほど、それには一理ございます。……されど、都は遷さぬ方が良いであろうと思います。祁中の民は王を大いに慕っておりますれば、民を捨て隴章に移るは民の感情を害しましょう。政の根幹は民にありますれば、それも得策とは言えますまい」
「程凱、どう思う」
「私も丞相の意見に賛成です。隴章は平野にあって非常に攻めやすい場所ですし、土は痩せているため田畑を領内に作ることも出来ず、籠城戦となっては非常に脆弱です。やはり都とするには、守るに易い祁中が良いかと思われます」
「両者ともに遷都には反対か」
仕方あるまい、と王は言った。
「遷都はやめよう。隴章にはやはり未練が残るが……そうよな、祁中に残してきた民を思ってはそうもいくまい」
「なれば、夏侯越を殺す意味も無くなりまする。どうぞ昔の罪を赦す寛容な御心でもって夏侯越を隴の長官に据えるようご決断ください」
うむ、と王は続けた。
「そのようにしよう。夏侯越を、隴の長官に任じよ。そして、その副官には程凱、お前を据えよう。二人で協力して良政を為すように」
それを聞くと、程凱はその顔を輝かせた。陳匡もまた、ご賢察痛み入りますと王に小礼をなす。
それから王間に夏侯越が再び呼ばれた。静かな面持ちで再び王間に姿を現した夏侯越は、隴州の長官に任命される旨を王から聞くと、感激して涙をこぼした。そうして年甲斐もないと泣き笑いしながら王に忠誠を誓うことを述べ、王から隴州長官の任状と印を受けたのだった。
かくして隴の内政は安定を見た。王は程凱を残し、麗春と共に祁中に戻った。
七
隴章陥落――その報に驚いたのは蔡王韓陸である。祁兵を装って曹家の商隊を襲わせ、隴の矛先を祁に向けさせたのは他ならぬ韓陸であり、隴軍によって祁中が陥落した直後に疲弊した隴を攻撃することで一挙に二国を平らげようと企んでいたのだが、その計略が思いも寄らぬ最悪の結果となったからである。
韓陸は次善の策として、体制が整わない内に三万の軍を隴に差し向けて祁から獲物を横取りしようと考えた。しかし祁王が誰よりも隴の事情に通じている隴王夏侯越を引き続き隴州の長官の地位に据えたことで隴は瞬く間にその安定を取り戻し、早くも盤石の体制になっていることがわかったので韓陸はそれをも諦めて切歯扼腕の思いで総員退却の命令を下した。
その後、祁王は蔡王に和睦を申し出た。祁にとっては国の安定のための時間稼ぎであり、蔡にしても、祁の飛ぶ鳥も落とすような勢いに動揺している家臣や将兵を抱えたまま戦をするのは望ましくなかったために韓陸はこれを諾し、両国は和睦を結んで向こう七年間の友好を約すこととなった。
祁を大国ならしめた大王の誉れ高き公孫瑛は、しかしその頃、大変な懊悩に頭を抱えていた。そう、麗春がどうしても笑わなくなってしまったのである。日に日にその悩みは王の心の中で肥大化していき、いつしか政務を執り行っているときも評議の場で部下の失態を責め咎めている時も、あるいは兵法書を読んでいるときも常にそのことが頭から離れなくなってしまっていたのである。
それで王は麗春を何とかして笑わせようと、麗春を笑わせた者に百金を与えるという布告を出した。そのことは、奇妙にも王の普段の精励恪勤たる生活ぶりに対し、実務的にも理念的にもなんら衝突することはなかった。その布告を受けて、我こそはとばかりに国内外から様々な人間が王前に赴いたが、しかしそのどれもがいささかもその効果を示さなかった。見ればすなわち心に波立つ感動が全てを攫っていくと評判の演劇を見ても、白々しい台詞に対し眉をひくりともさせず、聞けばすなわち誰もが抱腹絶倒して前後不覚に陥ること必至であるとされる語りの達人を呼んでも、必死にこちらを笑わせようとする道化に対し終始冷たい視線を送るだけであった。伝説の宝物も異国の芸術も、どれもが陳腐にして心を動かさない。王は麗春を笑わせようと千手万手を尽くしたが、そうすればするほど、その顔の陰影はますます濃くなっていくようにすら思えたのである。
「……注進だ」
王間と休憩室をつなぐ扉から声が聞こえた。立ち上がるのも大儀だったので、王は「入って良いぞ」と声を上げた。入ってきたのは、顔色の悪い従者である。何かの拍子に家来が麗春を見ることがあれば、大抵はまるで神の宣告でも受けたかのように固まってしまい、数瞬ほどその美貌に見入るのが普通であるのに、従者はその青ざめた顔色を全く変えることが無い。王はぶっきらぼうに問うた。
「どうかしたか」
「公孫瑛にまみえたい者がいるそうだ。二人の小使を連れた大男で、大道芸人趙楽と名乗っている」
そうか、と王は答えた。丁度今は休憩時である。王間に通して諸臣の享楽がてら見るのも悪くないだろうと考えた。
「王間に連れてこい。諸臣の前で演じさせよ」
「だが、趙楽とやらは王間ではなく中庭を使いたいそうだ」
「ではその通りにせよ。望むものは何でも貸し与えてよい」
わかった、と答えて従者はゆっくりと歩き去った。王は麗春に向き直って行った。
「大道芸、だそうだ。大して面白いものでもあるまいが……まあ期待せず見ようではないか」
麗春はただ、無表情に王の顔をじっと見ているだけだった。
準備が出来たと報告があったので、王は麗春と共に中庭へ赴いた。中庭には、嘉苞以上の巨体を持つ禿頭の男が堂々と立っていて、その周りをぐるりと諸官が取り囲んでいた。男は小使と思しき二人の矮人を後ろに連れていた。男の後ろ右側に立つ小使は三本の松明を両手に持ち、左側に立つもう一人は自分の半分ほどの背丈の樽を足元に置き、その手に小さな銅鑼を持っている。その二人は非常に似通っている。申し訳程度に頭に伸びた黒い毛の縮れ具合といい、貧相で起伏に乏しい顔の萎び具合といい、骨が透けて見えるような体の薄さといい、その二人を見分けることができるのはその立ち位置と持ち物以外には何もない。
王と麗春が中庭に設えられた座椅子に着くと、醜悪な巨魁はたどたどしく拱手した。
「僭越ながら王前に参上致しましたは天下第一の大道芸人、趙楽でございます。命を賭した技芸に肝を冷やされませんよう」
王はその男を睨みつけたが、そこで気づいた。趙楽は禿頭であるばかりでなく、眉や髭、あるいは胸毛などといった体毛が一切なく、その褐色の素肌を隠しているのは爪と腰回りに巻いた布だけであったのだ。趙楽はすかさず、まだ駆け出しであったころ、ある技芸で大失敗をして、このような身なりになってしまったといったようなことを述べた。
「これからご披露いたしますは、それと同じ曲芸でございます」
いわく、それは彼の故郷でザギリンと呼ばれる西方仕込みの曲芸で、火のついた松明を投げては取って取っては投げてを繰り返し、常に三つの松明を制御する――そのような内容である。今回はさらに、その体に油を塗りたくっておくという。すなわち松明を取り落すどころか、わずかでもその炎が体に触れれば即座に火だるまになってしまうというのだ。その無謀さに諸臣は興奮を隠さず、麗春の無色透明な顔には、心なしか期待の色が見られるようであった。さらにそこから前口上を長々と並べ出した。諸臣は期待の目を向けながら、王は頬杖をついてそれを聞いていた。傍らに座る麗春の顔は、既に退屈しているように見えた。
趙楽が話している間に、左の小使は足元の樽を開けた。その中には油がなみなみと入っている。そこに小使は無造作に手を入れて油をすくいだすと、それを喋り続ける趙楽の腰回り、腹、足、腋と手慣れたように塗りたくる。たちまち浅黒く毛のない贅肉だらけの体が油で照か照かになったが、腕から手にかけての部分には油を塗ったふりをしていただけであることに王は気付いていた。油を塗り終えた小使は元の位置に戻ると、手持無沙汰そうに手銅鑼の埃をつまんだり、その紋様を爪でなぞったりしていた。その間右に立つ小使は、手元で揺らめく炎に呆けたように見入るばかりであった。
やがて趙楽が口上を終え、曲芸を開始することを宣言した。それを受けて左の小使は銅鑼を強く打ち鳴らし、松明を持った小使は慌てて趙楽と王の中間あたりに走ってくると、そこで手にした松明の一つを趙楽に投げ渡す。空中に放られた松明は回転し炎をちらつかせながら放物線を描く。火のついた部分を手に持てばただでは済まないが、松明は従順に、その火のついていない方を趙楽の左手に収めた。
続いて趙楽は手にした松明を上下に振り動かした。すると、その軌道をちらつく赤い炎が追いかける。左右に振ればその通りに炎が動き、回転をかけて松明を空中に放り投げれば炎は円環を成して空を遊ぶのである。
また小使が銅鑼を鳴らした。松明を持った小使が、さらにもう一本を趙楽に投げ渡す。趙楽はそれを普通に受け取るのでなく、まずは既に左手に持っていた松明を空中に高く放り投げた。そして小使から投げ渡された松明を右手で取ると、それを今度は低めに空中に放る。別々に投げられた二つの松明は、互いに示し合わせたように時を同じくして趙楽の両手に戻る。それを見て「おお」と声を漏らす者もいたが、趙楽は「この程度で驚いてはいけませんぞ」と毛の無い不気味な顔を嬉しそうに歪めて言う。次に趙楽は、両手に一本ずつ持った松明を同時に空中に放り投げた。趙楽の手を離れた松明は旋転しながら空中に踊り、二つの赤い輪を彼の周りに作る。趙楽の手に戻る松明が必ず炎のないところを彼に向けているのが、王にとって不思議でならなかった。それから趙楽は二つの松明を次々と背面に投げ上げて、落ちてきた松明を背面で取ってまた投げ返したり、股の間を通して投げ上げてみたりといったことを危なげなくやって見せた。それは美しく見事であったが、油で照か照かした男の贅肉が気になった。
そうして三度目の銅鑼が鳴り、最後の松明が趙楽に投げ渡された。趙楽はまたも、それを受け取る前に手にした二つの松明を次々と空中に放る。さらに投げ渡された松明も即座に投げ上げ、その円舞の中に加えた。右側に放られた松明は趙楽の右手に戻るとすぐに左側へ投ぜられ、左側に放られた松明が落ちてくればそれを左手が捉えて右に投げ上げる。交錯しながら輪舞する三つの炎の輪を、今や趙楽は完全にその手中に収めていた。諸官は喝采した。趙楽は時に松明の一本を高く投げ上げてみたり、松明を投げ上げる調子を速めてみたり遅めてみたりと様々に変容させていき、その度に観客は息を呑んでは感嘆するのである。
王もまた、その絶えざる炎の美しき演舞に見入っていた。為すがままになっている、美しい紅色。時に炎はその欠片を不満げに空中に吐き出すが、趙楽の脂ぎった体にまでそれが届くことはない。むしろ飛び散る火の粉はその意に反して、趙楽の演舞を美しく彩ることとなる。手籠めにされた紅炎の不満は、際限なき循環の中に取り込まれ、炎の望まぬ形で発散されることによって抑圧されるのである。円環の中にある限りにおいて、炎は趙楽にとって安全であり、それも安定しているように見える。しかしそれはきわめて絶妙な釣り合いの上に成り立ち、ともすれば全てが崩れかねないような危うい安定感である。その断崖絶壁の上を歩くような危うさゆえに――あるいはそこから一歩踏み外したところでぽっかりと口を開ける深淵の度し難き魅力ゆえに、観衆は食い入るようにそれを見つめるのである。それは美しき舞姫への陶酔ではなく、綱を渡る道化師への期待に他ならない。
――男の体がぐらと揺れた。何かに躓いたわけではない。趙楽は、自らの巨体を大きく傾けざるを得なかったのだ。見れば、先ほどまで趙楽の手によって維持されていた綺麗な円環が歪み、松明の軌道が不安定になっていた。保たれていた均衡が崩れ、それを強引に押し戻すためには体を傾けて調整せざるを得なかったのである。観衆は興奮に目を輝かせた。
その隙を突こうといきり立ってか、炎が心なしかその輝きを増す。趙楽はその額に脂汗を浮かべながら松明を高めに投げ上げ、その間隔を調整しようと試みる。やや強く投げ上げられた松明が趙楽の下に戻ってきたとき、しかし、それは燃え盛る炎をその手に向けていた。その手を炎が掴み、妖しく嗤ったような気がした。
苦悶の声を、上げたのだろうか。松明は取り落され、さらに男の足に炎が触れ――抑圧への意趣返しとばかりに、紅蓮の炎が瞬く間にその全身を包み込んだ。行儀よく制御された炎、被っていた油。均衡の上にあるときはそれらも周囲を沸かせて趙楽に栄光をもたらしていたが、ひとたびその均衡が崩れ去れば、全ての価値は逆転する。趙楽の手の内から離れた炎は彼の玉の緒を噛み千切ろうといきり立つ灼熱の牙と化し、油はそれを一層鋭く尖らせる。美麗なる炎を弄びその技巧を披露していた趙楽は、その無慈悲な復讐を受ける。全身をその紅炎に犯され、断末魔の苦しみに大地を転げまわるのだ。そして、百金のためには惜しくもないと思っていたその命に対する限りない執着を、大音声の叫び声としてあたりにぶちまける。
そこにいた誰もが呆気にとられていた。「水」という呟きが小使から発せられたが、今や手ぶらになった二人の小使のうち、どちらがその言葉を発したのかはわからない。ともかくそれで諸臣はようやく我に返って悶絶する男の周りにどやどやと集まるが、彼らは遠巻きにそれを眺めて狼狽えるばかりであり、二人の小使も主が火だるまとなっているのをただ呆然と眺めているだけである。何人かの小役人が慌てて水を取りに行ったが近場に水はない。しばらくして、顔色の悪い従者が水の入っている瓶を持ってことさらゆっくりと歩いてやってきた。そして炎に巻かれ、もはやピクリとも動かなくなってしまった趙楽に、水を乱暴に打ち撒けた。
『…………』
炎の衣を乱暴にはぎ取られ、その後に残ったのはただ醜いだけの黒い肉塊である。鼻を鋭く突く、酸性の不快な臭いが辺りに漂う。諸臣は思わず鼻を塞いだ。
――王は、ふと隣の麗春の顔を見た。交錯する目線。麗春の顔には、艶やかな微笑が湛えられていた。
王はハッとした。しかしそれが見られたのはただの一瞬。今や麗春の顔には、再び冷たい雪が降り積もってしまっていた。
それでも王の心には既に、麗春の咲きこぼれるようなその笑い顔が忘れがたく刻みつけられてしまっていた。それは今までに見たどの笑顔よりも王の心を強く捉えて離さなかった。同時に、その凍土を溶かし得たのはあの美しい炎であると王は確信した。松明や灯篭ではない。その中心に、人間がいなくてはならない。身の丈を過ぎた美をその身に纏ったがゆえに罰を受ける、ちっぽけな罪人がいなくてはならないのだと。
その確信を裏付けるべく、王は視察と称して、借金を返さずに泥棒を繰り返し、ついに人を殺して捕まった何正という貧相な男の火刑を、麗春を伴って見たのである。荒漠たる処刑場に屹立する鉄の杭に縛り上げられた貧相な男。その周囲を取り囲み、祝祭に歓喜する狡猾な観衆。立ち上がる炎、灼熱の断罪。美しい紅蓮の衣を纏った男の断末魔――そうして全てが終わった後で麗春の顔に浮かぶのは、春の具現がごとく麗しい笑顔であったのだ。全ては王の思った通りであった。王は歓喜に打ち震えた。
その恐るべき意味に、王は気づかない。それに伴うべき葛藤は葛藤として自覚されず、ただ漠然とした不満以前の蟠りとして、王の心中にひっそりと巣食うのみである。ゆえに後日、王が死刑を全て火刑にする布告を出すことを陳匡に諮り、さらに「我が子とも言うべき自国の民を殺すのだから、その場面に立ち会うのは父としての定めである」と述べた時、王は、そうすることが犯罪の抑止につながり、王として死刑の場面に立ち会うことは当然であると本気で思っていると思っていた。だから陳匡も、王の諮問に対し是と答えた――そうせざるを得なかったのだ。
かくして祁国の死刑は全て火刑となり、その執行には必ず王が立ち会うことになった。治安の良い祁国では死刑とて頻繁に起きることはないが、それでも王は何の不満を自覚することなく日々を過ごした。偶に火刑が執行されれば、そのときに見られる麗春の笑顔が王の全ての懊悩苦心を浄化するかのようであった。それは、無上の快楽であった――
八
「民を捨てて我利を通すは王たる者の態度ではない。民を守る外城壁が既に突破されている以上、どうして王城の壁を頼みに出来ようか」
何度めともつかぬその解答を聞いて、陳匡は満足げに頷いた。
「では、次の利点に参りましょう。内城壁は民の血と汗をもって作られた忠義の結晶でございます。それを打ち崩すことは、民の信頼を裏切ることになりえます」
王は即答した。
「表面を見れば確かにそうかもしれん。だが王は民を良く牽引する者でなくてはならず、民に良く従うものであってはならない。加えて、内城壁を廃することは民にとって有益である。王として、情に流され理を逸するわけにはいかぬ」
「よろしゅうございます。では次」
陳匡はさらに王に問を重ね、王はそれに淡々と答えていく。陳匡は、壁論争の周期を少なくとも二週間は開けた。そして王が詰まった答えへの回答を準備して再開する時、必ず最初にした質問から順番に始め、かつての回答を再び述べることを王に求めた。
それからさらに十五の問が繰り出されるが、いずれにも王は流暢に模範解答を述べていく。続いて王は、城壁が無くなると王宮の動きが外部に漏れやすくなり密偵の侵入を容易にするという陳匡の問題提起に対し、警護を厳重にすることとその具体的な方策について述べ終わった。前回はその具体的な方策の部分で詰まったのだった。陳匡は満足げに頷いて言った。
「王の述べられた方策をとれば恐らく万全でしょう。さて、次の問に参りましょう。王城の壁がなくなれば、王宮で狼藉を働こうとする浮浪者や泥棒にとって利となり得ます。これにはいかが致しますか」
「……ふむ。先ほど述べた方策に従って警備を厳重にすれば、不届き者も減るのではないか」
王の答えを聞くと、陳匡はにやりと笑う。
「不十分でございます」
王はしばらく考えた。
「……そもそも浮浪者や泥棒を出してしまうことが、王たるものとしての過失である。浮浪者には職をあてがい、生活に困窮している者には保護を与えるようにすれば、浮浪者も泥棒も自ずと消えよう。その上で、警備を厳重にしよう」
よろしゅうございます、と陳匡は答えた。
「犯罪を、犯罪者のせいにばかりするのはいけません。悪人が犯罪者になるのではなく、犯罪者となった善人を悪人と我々は呼ぶのでございます。善人を犯罪者ならしめてしまった己を反省しなければ、民の父たる国王に相応しくありませぬ」
王は頷いた。
「では、これが最後の質問でございます。仮に王がこの上なき善政を施そうと尽力されたとしても、民はそう受け取らず、やがて手に武器を持ち反乱を起こしたとしましょう。民は暴徒と化し、王城をたちまち包囲してしまいました。城門を開けば城内になだれ込んできて、乱暴を働くことは必至でございます。いかがいたしますか」
「……城兵によって反乱を鎮圧させるより他にあるまい。できるだけ死傷者は出さぬよう、厳重に言い含めてだ」
「それではいけません」
王は沈黙して考えた。
「善人が暴徒となるときは、必ず何らかの助けがいるものだ。その場合、農民は集団の力をもって暴徒と化している。よってその中から一人だけ代表の者を選出させ、その者に意見を陳述させる。そうして彼らの不満を聞き、その解消を約す」
「いけません」
「では城門を開き、敢えて彼らを招き入れよう」
「いけません」
「…………ここまでだな」沈黙の後、王は苦笑して言った。
「見当もつかぬ。もう少し時間をくれい」
陳匡は何も言わない。王は続けて言った。
「……もう何年になるか。未だにそなたを完全に言いくるめることが出来ぬ」
いつもなら陳匡は、それに答えて小言の一つでも言うのだが、今日は、まるでとってつけたような乾いた笑いを漏らすだけであった。ふと、王は違和感を抱いた――見れば、陳匡が右手の拳を左手で包み込み、その顔を軽く俯けて拱手していたのである。
「…………?」
拱手は至極一般的な礼法であり、王も今まで数え切れぬほど目にしてきたはずであある。それなのになぜ、陳匡の拱手にそれほど違和感があるのか? そこで気づく。自分が陳匡の拱手を見るのは、これが初めてであるということに。しかもそれは、自分に向けられている。王は陳匡の意図を掴みかね、目を見開いてその顔を見返すばかりである。
「恐れながら、私めも齢にして六十五を過ぎました。物忘れも激しくなり、少し遠出をすれば骨にまで堪え、最近は体力も衰えて参内すらままなりませぬ。つきましては丞相職を始めとした私めの官位を全てご返上申し上げ、隠遁生活に入ろうかと存じます」
そこで初めて、公孫瑛は鱗が落ちたような心持で陳匡の姿を見た。その髪は真っ白になって既に久しく、顔に深く刻まれた数多の皺の一つ一つには、陳匡が生涯に受けた艱難辛苦が詰まっているようであった。元から痩せぎすだった体はさらに痩せ衰え、まるで骨が皮を被って戴冠していているかのような印象を与える。あれほど王にとって大きな存在であった陳匡――しかして目の前にいたのは、宮中よりの引退を願う、ただのちっぽけな老人である。年齢を考えれば引退も当然であることは理解できる。それにもかかわらず、そのことは根幹を揺るがすような大きな衝撃を王に与えた。
「……陳匡よ、私が今までさしたる欠陥もなく政を為してこられたのは、ひとえにそなたの見識の深さと慎重さゆえであった。そなた失くしては今日の祁国も、私自身もあり得なかった。そなたが丞相を辞めてしまったら、誰がその跡を継ぐことが出来ようか」
王はそれらの言葉を、ほとんど無意識のうちに言っていた。それに対し、陳匡は寂しげな笑みを浮かべた。
「王はもはや父君にも劣らぬ立派な王でございます。先王より承った、後嗣を立派な王にせよという最後の命はしかと果せたと自負しておりますれば。それに、年寄りは長らく政治に留まらぬ方が良いのです。年と共に保守的になり、先取の気概を失ってしまいますからな」
冗談っぽく陳匡は笑いを漏らす。瑞々しさのない、干からびたような笑いである。陳匡は続けた。
「……我が後任でございますが、現在廷尉をしております楊岱を次の丞相に据えてはいかがかと存じます。なかなかの切れ者で、見識も深うございますれば」
楊岱という男のことは王も知っていた。五年ほど前に仕官してきた男で頭の回転が速く思慮深くもあったため、陳匡は自らの跡継ぎとして楊岱を目し、それとなく教育していたのだ。彼の頭が良いことはその実績が証明していたし、品行も方正である。ただ、その極めて柔らかい物腰は自分への絶対的な自信に根差した慇懃無礼な振る舞いのように王には感じられ、何を考えているかわからないその男が苦手であった。とはいえ根拠もない私情を政に差しはさむのは為政者としてあってはならないことである。王は思い直して言った。
「……楊岱か。あの者の秀才ぶりは余も聞いている。あの者なら確かに丞相も勤まるであろうし、そなたにしても、もう丞相職は年に堪えることもわかる。それならば、せめて太傅としてここに留まってはもらえまいか。楊岱に、我が失策は諫められまい」
しかし陳匡はそれも辞退し、代わりにたまに宮中に顔を見せるようにし、相談事があればいつでも使いをよこしてくれて構わないと言ったので、王はそれを承諾した。
「つきましては、楊岱にその旨をお伝えくださるようお願いいたします。楊岱は恐らく自分が次の丞相たることを察しているでしょうが、やはり正式に王から通達しておいた方がようでしょう」
王は頷いて楊岱を呼んだ。楊岱はすぐにやってきた。
「お召しでございますか」
楊岱は拱手して言った。その身恰好はいつもと変わらない。細長い体躯、柔らかい物腰、目の細い女顔、自信ありげな薄い微笑。やはりこやつは好かんと内心で思いながら、王は答えて言った。
「陳匡が引退することを決めた。丞相職を始めとした全ての官位を返上して隠居するという。ついては、お前に丞相を引き継いでもらいたいのだ」
なんと、と楊岱はさも驚いたかのように答えた。
「それは身に余る光栄でございますが、私めはまだ青二才に過ぎません。知恵もなければ魅力もなく、取り柄と言えば勤勉さばかりでございます。私めよりもふさわしき人材はいくらでもおりましょう。嘉苞殿の方が私めよりも遥かに見識深く魅力に溢れておりますれば、丞相に相応しかろうと存じまする」
王は内心で苛ついていた。楊岱はいつもそうだ。謙遜が過ぎるのである。それも、自分の絶対的優位を自覚したうえでの謙遜である。「それなら程凱を丞相にしよう」とここで言うことが出来たら、どれだけ気味良いか知れない。しかし陳匡の手前そうするわけにもいかないので、王は「そう言うな」と言うだけにとどめた。
「人には役回りというものがあろう。それを強いて辞するは望ましいことではあるまいし、これは陳匡たっての願いでもある。やってくれるな」
「……は、では微力ながら祁国の発展と祁王の栄光のために尽くさせていただきます」
楊岱は少し間を開けた後でそう言った。そのとき王はなんとなく楊岱の行動を奇妙に思った。楊岱の性格が王の思っている通りであれば、楊岱の才を一切強調しない王の言い方に、必ず不満な色を一瞬でも見せると思ったからである。しかし楊岱は平常に過ぎるような声色で王に答えただけだった。それは楊岱の自制の力が強く働いているのか、あるいは楊岱への嫌悪ばかりが独り歩きして、ありもしない虚像を作り上げそれを憎んでいただけにすぎなかったのだろうか? それとも楊岱は…………
気が付けば、楊岱は退出してしまっていた。楊岱だけではない。もはや王間には陳匡もいなければ、自分の指示を待っていた官僚もいない。いるのはただ、薄ら笑いを浮かべて傍に控えている顔色の悪い従者だけである。一人残された王の内面で沸々と湧き上がるその感情の名前と意味を、王は知らなかった。
それから三日後に楊岱の丞相叙任式が行われた。諸官が見守る中で、まず陳匡が王に丞相の印を返却し、続いて王がその印と新たな任状、そして自らがその身に帯びていた剣を楊岱に授けた。かくして楊岱は丞相として正式に任命され、それと共に陳匡は正式に宮中から身を引いて蟄居の身となった。陳匡はそれ以降も週に二度ほど参内をしては諸官からの相談を受けたり、王に献策をしたり、楊岱の仕事ぶりを見たりした。楊岱の仕事ぶりは恙なかったが、王の言うことはたいてい「よろしゅうございます」と答えるばかりであり、どうにも張り合いが無いように王には思えた。
さらにひと月ほどすると、陳匡は病気にかかってしまった。王は隴から名医を呼び寄せて付きっきりで看病をさせたが、その甲斐もなく陳匡は危篤に陥り、そのまま息を引き取った。享年六十二。三十年以上の長きにわたり祁国に仕えた最大の功労者の、あまりにあっけない死である。
その葬式は国を挙げて行われた。王は哭礼をもって、そのあまりに急すぎる死を悼んだ。祁中にいる民は全員がその葬列に参加して涙を流し、遠地にある各県からも代表の者が寄越され、悔みを述べ花を手向けた。しかしこの時、隴州の各県からは全て弔使が派遣されてきたのにもかかわらず、何故か夏侯越が治め、程凱がその副官をしているはずの隴章からだけは使者が派遣されて来なかった。
葬式が終わって使者が帰路につき始めても隴章からは何の音沙汰もなく、そのことに王はいつになく激怒し、すぐに夏侯越を祁中に呼び寄せた。二週間ほどあって夏侯越はげっそりと痩せた体に喪服を着て現れたが、その全てが王には弁解めいて思え、跪く夏侯越に語気を荒げて言葉をぶつけた。
「夏侯越、お前はなぜ国家の忠士の葬式に際して弔問の使者を送ることをしなかったのだ。恩師の病を看ぬ弟子は弟子としての礼を欠き、父の死に悔みを言わぬ子は忘恩の悪徒であることは今更言うまでもあるまい。その非礼は万死に値するぞ」
夏侯越は静かに答えた。
「申し訳もございませぬ。やむにやまれぬ事情ありとはいえども、陳丞相の死に際しそれを弔問し得ぬなどあってはならぬことでございますれば、どのような罰であっても甘んじて受けます」
夏侯越のその言葉は、王の怒りをますます募らせた。王は憤然として言った。
「己が過失を受け入れたとて、その罪が免ぜらるわけでは断じてあり得ん。……取り返しのつかぬ非礼は、同じく取り返しのつかぬことでもって報いねばならぬ。火を被り、あの世で陳匡に詫びよ」
王の一方的な糾弾に対し、夏侯越はまるで話と違うとでも言うかのようにその顔を上げ、口を開いた。
「恐れながら、此度の過失にはいかんともしがたき事情が――」
「言い訳は聞かぬ。こやつを連れて行け」
夏侯越はその顔色を変えた。控えていた番兵が夏侯越を連行していく時も、夏侯越は何やら物言いたげに王の名を呼んでいたが、王は一切聞く耳を持たなかった。
夏侯越の火刑は、王城脇にある例の処刑場でその日のうちに行われた。準備完了の報を受け、王は麗春と連れ立ってその荒れ果てた処刑場に赴いた。
処刑場に吹く風は強い。柵によって切り取られた空間、その内部に佇む鉄の杭は黙然と時を待ち、設えられた二つの座椅子は行儀良く佇んでいる。王はそこに足を踏み入れた。途端、王の脳裏に麗春の笑顔の像が浮かぶ。それを呼び起こすのは刑場の冷たい空気であり、赤茶色の水気のない砂利であり、硫黄の鼻につく臭いであり、そそり立つ鉄杭である。そのどれもが、王にとって尊ぶべきものであった。
王と麗春は砂利の上に設えられた座椅子に座った。王は、生贄を待ちかねて舌なめずりをするかのように鈍い光を発する鉄の杭に目を向けた。幾多の命を抱きかかえて煉獄に罪人を引き渡してきた、その鉄の杭は恐懼すべき美しさを持って屹立している。王は麗春の顔を省みた。その表情はやはり冷たく強張っていたものの、口の端が既に緩みかけているように王には見えた。
やがて銅鑼が打ち鳴らされる。当日に決まった処刑であるためか観衆はそれほどおらず、柵の外から連行されてくる夏侯越の様子が良く見えた。柵の内部に入った夏侯越はもはや項垂れることなく、まるで自ら鉄の杭に立ち向かっているのだと言わんばかりに堂々と胸を張っていたが、その懸命に伸ばした背丈は、それを見下ろす黒き鉄杭に対してあまりにちっぽけであった。
夏侯越は磔にされる際も泰然と構えていた。執行人が夏侯越の胴回りを乱暴に縄で締め付けてきたとき、夏侯越は言った。
「これ、少し縄がきつい。今さら逃げ出すこともせん、もう少し緩くしてくれ」
それを受けて執行人は乱暴な調で答えた。
「これから死ぬ罪人風情が贅沢をいうな」
「君が私と同じ立場に立ったとして、同じことを言うのかな」
執行人は縄を結ぶ手を休めて言った。
「そもそも俺とお前は立場が違う。俺はお前を殺すことを命じられ、お前は俺に殺されることを命じられている。お前の話に意味はない」
「そう思うなら、――君はきっと、苦しんで死ぬだろう」
執行人は殴りつけこそしなかったが、その縄を一層きつく結ぶことで夏侯越への返事とした。夏侯越は一瞬苦しそうに顔を歪めたが、すぐにあの自若たる顔に戻る。枯れ芝が積まれる間もその顔色は一見変わらないようであったが、その下に隠された夏侯越の青ざめた顔が、王には透けて見えるように感じられた。
王の合図で、いよいよ火がつけられた。風にたなびく黒い煙を見ても夏侯越は動ずることはなかったが、足下より這いよる赤き死を目にすると夏侯越の顔色は徐々に変わっていく。夏侯越は体を揺らし出した。最初は小刻みにその体を震わせ、炎が大きくなるにしたがってより激しく揺すり出す。そして炎が枯れ芝を伝って夏侯越の服に燃え移り、その絶望的な熱が確かな死への実感を抱かせるようになると、夏侯越は恐怖に顔を凍らせ、体で動くだけの部分を出来る限りの強さで動揺させた。その動きが縄を解こうとしているのか、あるいは単に身悶えしているだけなのかもわからない。そんな夏侯越の様子にはまるで無関心に遊び回る炎は、しかし夏侯越の体を確実に蝕んでいく。夏侯越は炎の呵責にじっと耐え忍んでいたようだったが、ついに恐怖と火熱に耐えられなくなり、今までその内側に抑圧していた恐怖、絶望、苦悶を絶叫した。それでも、燃え盛る彼女らは気にしない。風にあおられて舞い踊る火花、遊び回る火炎。その様は無邪気で美しい。
轟と炎が一際高く唸る。すると、夏侯越の絶叫が不意に止んだ。夏侯越は体を強く二三度痙攣させると、そのままぐったりと項垂れて動かなくなってしまう。炎はどやしつけるように夏侯越にまとわりつくが、その肉塊がもはやどうあっても動きえないことを知るや、まるで幼児が壊れた玩具を容赦なく投げ捨てるように、その勢いを俄かに強め、きわめて事務的に夏侯越を焼け焦がしていくのだった。
そこで王は、麗春の顔を見た。
麗春の顔には普通の罪人を火刑にした時より遥かに美しい、天にも誇るべき無上の笑顔が浮かんでいた。
夏侯越、処刑せらる――それを聞いて驚いたのは、隴章に残った副官程凱である。程凱はすぐさま祁中に出向いて王への謁見を求めた。王は奇妙に思いながら、その顔を青ざめさせている程凱に会った。その姿があまりに痩せていたので、王は驚いた。
「王、夏侯越殿を火刑に処したというのは本当でございますか」
「うむ」と王は答えた。いつになく切迫した程凱の様子を、王はどこか冷めた心情で見ていた。
「夏侯越殿は、隴章が陥ったやむをえぬ事情についてご説明申し上げなかったのでございますか」
詰め寄るような程凱に対し、王は淡泊に「聞いてない」と答えた。
それを聞いて、程凱は「なんと」と言って顔を伏し、さめざめと涙を流した。どういうことだと問うと、程凱は涙ながらに言った。
「恐れながら、隴章より弔使が派遣できなかったことには大変な事情があったのでございます」
そう言ってから、程凱は今回の隴章に起こった一連の事件ついて説明し出した。隴章近辺に起きた旱魃の影響を受けて食料が不足し、為政にも滞りが出ていたこと。そこに祁中から葬式の旨を伝える使いがきたため、夏侯越が程凱に為政を任せて隴章を出立しようとしたとき間悪くして総勢五百人ほどの賊が現れて城を包囲し、食糧を出さなければ包囲を解除しないとがなり立てたこと。そのときちょうど城兵の大部分が、口減らしもかねて各県に物資の援助要請に向かってしまっていたこともあり、撃って出てこれを掃討する余力も残っていなかったこと。民から集めた食料を保身に使うを良しとせず、夏侯越は籠城を指示したこと。賊徒は頻繁に人員の出入りを繰り返しながら三週間も包囲を続けたが、賊にしてはあまりに統率が良く取れていたこと。賊徒はある晩に突然引き揚げてしまったが、その直後に王から怒りの使者がやってきたこと。
それらの言葉を受けて、王は「そうか」と無感情に続けた。
「夏侯越には悪いことをした。遺族には手厚い保護を与えることにしよう。程凱、お前は隴の長官として、今後の隴を切り盛りせよ。夏侯越の事は悔やまれるが、過ぎてしまったことは致し方あるまい」
「…………は」
程凱は短く、そう答えるだけであった。
九
祁山の高原は広大である。その傍らに、美しい一人の女性がいた。悠然と座し空を見上げるその可憐な様子は、麗しき春の精か、あるいはそれと戯れにやってきた天女かと思われんばかりである。
そこに、殊に大柄な騎兵がを先導する長蛇の列が通りかかる。凛たる気品を漂わせる青年は、その身の回りを四人の騎兵によって守られながら遠く行く手を見据えて駒を進める。その後には数千を下らない兵士がついて歩いているが、その手にした槍々は沈んだ鈍色に嗤い、身に着けた鎧は無骨な音を立てて行進を続ける。漂わせるは血の臭い、その目に帯びるは深淵の闇。平和な春景色を犯すその全ては、青年の気品の裏返しである。
不意に青年が駒を止めたので、兵団は一時の停止を余儀なくされる。青年の顔は、今や草原に佇むその女性に向けられていた。そして女性の顔は遥かなる空に。共の一人が剣に手を掛けた。太子が足を止めたのは、自分の一行を見ても礼すらせぬ女性の傲慢さに腹を立てたからだと誤解し、その女性を罰して己が忠心を示そうと思ったのである。それを青年は袖で隠すように押し留めると、馬から下りてその麗人から十歩ほどのところで立ち尽くすようにしばらく彼女の様子に見入っていた。しかし女性の顔は、まるで傍らに人などいないがごとく空に向けられたままであった。
やがて彼は道端で控えている一行に、先に戻っているよう指示を出した。隊を先導していた大柄な騎兵は怪訝な顔をしたが、青年の強い言葉を受けて慌てて進軍を再開した。後にはただ一人、顔色の悪い従者だけが青年の馬の手綱を持ってそこに残っていた。
すっかり軍団が遠のいて最後尾の兵士の姿が地平線にその姿を隠してしまった後も、しばらく彼は彼女の様子を食い入るように見つめていた。やがて彼はその十歩の距離を二歩にまで縮めて女性の側に腰を下ろし、やはりその麗しさに見とれていた。それでも彼女は、その視線を動かそうとはしないのである。
彼は、その女性の視線につられるように空を見た。
『――――――――』
風が頬を撫でる。燦然たる白い光の衣装をまとった春の風が、悪戯っぽく微笑んで行ったような気がした。地に広がる瑞々しい緑は、天を覆う玲瓏な青と遠くでその境界を接している。地に根ざして天を突く連峰は巍然として屹立し、平和を伸びやかに歌う小鳥たちのさえずりは遠くに響き近くに返り、それに合わせるように胡蝶が繚乱たる百花の舞台で華麗に舞い踊る。――その悠然たる時間! 森羅万象は天意と共にあった。そこにある全てが、青年の心を強く打った。歪みの一つも無いその世界は、なんと鮮やかに美しいのだろう! 青年はいつまでもその景色を見ていられるような気がした。ずっとその景色の中で時を過ごすことが出来たらどれだけ幸福なことか知れない。そして、その美しさに今まで気づかなかったことが酷く恥ずかしく思えた。
彼は視線を落とした。彼女の無垢にしてどこまでも透き通った鏡のような琥珀色の瞳が、今は彼に向けられていた。重なり合う目線はしかし決して衝突することなく、互いに互いの目の奥底を覗きあう。あるいはこの上なく独善的な幻想なのかもしれない。それでも、彼女の優しい目線はそれすらもそっと包み込んでしまうように思えた。いつの間にか、二人の距離は半歩にまで縮んでいた。
彼の顔は、笑みを湛えた。
そして、彼女の麗しい顔には――
○
薄く開いた目を、容赦なく朝日が突き刺す。美しくもない、乱暴な白いだけの光――重い頭を、怠さの残る全身で持ち上げるようにして王は体を起こした。
何かを忘れているような気がする。その感覚は、心をいたずらに苛々させた。果てない日常が、また始まった。
麗春と共に質素な朝食を手早く済ませ、王は執務に取り掛かる。祁中の民の裁判記録に目を通し、蔡の動静や練兵、軍備糧食の備蓄状況といったことについての報告を受ける。それだけで王の午前中は終わってしまった。一日の執務の中でもとりわけ重要で時間もかかる、政策の審議検討と各県の行政記録の確認を残して王は昼の休みに入った。
王は昼の食事前にたいてい少し城内を散歩することにしていて、その道筋も決まっていた。王間を出てから階段を下り、中庭の外周を囲む廊下を歩いて中庭の向かいに出、そこから屋外に出て控え室や倉庫の側を抜ける。そして立ち並ぶ内城壁が目前に迫るところまでやってくると、そこから城郭に沿って左回りにぐるりと一周してから同じ道を辿って王間に戻るのである。その日も王はいつものように、嘉苞の指揮で軍事教練が行われている様子を眺めながら廊下を回り、控え室で文献を読み耽る文官を横目に、食料庫の喧騒と強い日差しに心を苛立たせながら城内を闊歩し、そして目の前に立ちはだかる城壁の前に佇むのである。
王は、黙する城壁を睨みつけた。遠目には一枚の岩のように見える城壁も、近くで見てみるとその実、矮小にして堅固な石が大量に積み重ねられて出来上がっていることがわかる。塗り固められ抑圧された小石たち。ただ硬いという理由によって安息を破られ、ここに連れて来られた可哀そうな小石たち――果たしてその数は? 一つの偉大な城壁のために、いかほどの石がそこに抑圧されているのだろうか? 王は考えた。それを知っている者は、恐らく誰もいない。城壁を建設するように指示を出した父王も、その総監督に当たった陳匡も、それを実際に建造した労働者も、使った石の数など知らないだろうし興味もなかったに違いない。城壁を作る者は石を見ない。なぜなら一つ一つの石を見、それを数えることは彼らの目的ではなかったからである。当然のことだ。父上には内城壁を築き王城の守護を堅くすることがその目的であり、陳匡には王の期待に報うため、己が知識を動員して城壁を完成させることがその目的であり、労働者には雇い主の期待に沿う仕事をして賃金をもらい、生活の足しにすることがその目的であったのだから。
目的は人に力を与えるが、その代償として人を盲目にさせる。彼らは自分たちの目的ばかりを見据えて、あの美しく聳える祁山からたくさんの石をひと所に集め、あるいは集めさせたのだ。祁山にある全てに目的はない。ゆえに美しいのである。そこに人間は土足で立ち入る。さんざんあたりを荒らしまわった挙句、自分たちの目的にそぐうというその一事のために、あたりの美しき景色に目を向けず、必死になって転がっている石ころを略奪していくのである。そうして一方的に手中におさめた石ころを次々と積み上げていき、ついには自分の背丈など優に超えた一つの巨大な壁を完成させて満足げに笑うのである。王には、城壁を形作る一つ一つの石が自分たちを嘲笑っているように見えた。
王はやがて城壁から目線を切るとそのまま左に体を向けて、ゆるりと歩き出した。
「………………」
結局、完全に言いくるめることが出来ないまま陳匡は死んでしまった。陳匡はその死に際に、城壁は王自身の判断で壊すか保持するか決めるよう言ったのだが、王はどうにも城壁を壊しかねた。矜持か、あるいはそれ以外の何かがそれを許さなかったのだろうか? いずれにせよ、巨大にして稠密牢固たる牆壁は未だにその姿を留めているのだ。それを最終的に壊すか残すか、王は考えていない。何か不都合があれば壊すし、不都合がなければ壊さないだろう。もはや城壁は、王にとって大した意味を持たなかったのだ。
散歩から戻れば昼食である。王は執務室に戻り、まずは一杯の茶を飲みだした。程なくして召使の一人が料理を運んでやってくる。毒見の済んだ食事を執務机において、召使は退出した。王は食事を採ろうとした。しかし食事を目の前にして、王は鉛を飲んだようにその腹が重く、とても物を食べる気が起こらぬことに気が付いた。一口だけ汁物を飲んだが、それきり箸は進まない。王は周りを見た。そこにいるのは、脇に控えている顔色の悪い従者だけである。王は顔色の悪い従者を呼び寄せた。
「お前、昼食は済ませたのか」
「まだだ。公孫瑛が昼飯を食い終えるまで俺はここにいないといけないのだ」
そうか、と王は続けた。
「余は食欲が無い。これはお前にやる」
言って、王は従者に食事ののった盆を示した。従者は王の顔を見、すぐに「では遠慮せずいただこう」と言ってその盆を手に取ると、そのまま礼もせずに退出した。それを見届けてから、王は奥間に引っ込んだ。
「麗春」
奥間で、椅子に座って赤い二十日草を眺めていた麗春に王は声を掛けた。麗春は答えず、じっと二十日草に目を向けたままである。王もつられるようにして赤い二十日草に目を向けた。かつていっぱいに体を広げて、燃えるように天へと向かって咲き誇っていた赤き二十日草は今や俯き加減に肩を狭め、その色合いは毒々しい深紅の色合いを呈していた。花弁の端々には撚れが見え、紅の中に囲い込まれた黄色の蕊もどうしようもなく避けがたき黒い斑紋の侵食を受けてどんよりと暗く沈んでいた。
「あっ」
つつ、と二十日草の花が、まるで意思を持ったかのように動いたのだ。ふらりと空中に解き放たれた花は自らを束縛していた茎から離れ、束の間の自由を得る――はずもない。花は天に昇ることも叶わずに、そのまま斑になった蕊を下にして堕ちていくより他にない。
ぼとりと音がして、花は無残にも埃だらけの床に落ちてしまった。茎は花瓶に残り、地面に落ちた花を呆然と見下ろしている。美しすぎる花を長く支え自らの身を削って栄養を送り続けた結果、今や醜く痩せさらばえた哀れな茎。
王は、麗春の顔を見た。麗春は、王の顔を見ていなかった。
麗春は、泣いてはいなかった。相変わらずの無表情である。虚空に向けられた、少し悲しそうな無表情――
昼の休憩が終わり、王がまた執務に取り掛かり出してから一刻ほど経ったあとで、顔色の悪い従者が王間にやってきた。
「公孫瑛」
なんだ、と書類から目を上げることなく答えた王に、従者は極めて平明な声で答えた。
「公孫瑛からいただいた食事に毒が入っていた」
そこで初めて、王は驚いたように書類から目を上げた。
「……なんだと。どういうことだ、詳しく述べよ」
「公孫瑛からいただいた食事を、俺は中庭で食べていた。最初に汁物を飲んで鶏肉を食べていたところで、腹を空かせた様子の犬が一匹やってきたのだ。その様子がいかにも不憫であったし、俺は城に戻れば俺の昼食が食えたからな、饅頭は犬にくれてやったのだ。犬はすぐに喰らいつき、うまそうに咀嚼していた。俺は一通りの物は食べ終えたから、今度は城に戻って自分の分の昼食をいただいた。そしてつい先ごろ、ふと中庭に目を向けたらまだあの犬がうろついていたのが見えたのだ。おやと思ってしばらく眺めていたのだが、突然犬は地面に倒れて苦しみだし、辺りに血反吐を撒き散らしたのだ。上手く呼吸が出来ないようにもだえ苦しんでいたかと思うと、そのうち体を痙攣させて死んでしまった。俺は不審に思って毒見の者を探してみたのだが、どこにも姿が見当たらなかった。よって、とりあえず公孫瑛に報告に来たのだ」
それを聞いているうちに、王はみるみるその顔色を変えた。今の言葉を聞いてざわついている召使たちに、王は毒見の者をここに呼ぶよう指示し、顔色の悪い男には医師を訪ねて犬の死因を究明するよう言った。毒見の者は本来の持ち場におらず、城中を探し回ったところ、厠で血反吐を撒き散らして絶命しているのが発見された。城中は大騒ぎとなり、王間は話を聞きつけてやってきた人々でいっぱいになった。やがて顔色の悪い従者が老医を連れて王間に戻ってきた。老医は王前に控え、ぼそぼそと言った。
「恐らく烏頭の毒でございましょう。烏頭は猛毒でございますれば、王に害意を抱く者が饅頭に混入させたものと思われます」
彼らは医師の言葉を聞いてざわめくが、それはただ遠いところでやたらと騒ぎ立てているにすぎない。その蛙鳴蝉噪に煽られて驚愕に飲み込まれていた王の心に苛立ちの火花が吹き付けられると、それを火種として沸々と怒りの炎が巻き起こった。王は控えていた番兵に命じて言った。
「この料理に携わった者を全てひっ捕らえてこい。調理師はもちろん、今日厨房に立ち入った者も食材を管理していた者も、これを運んだ者も全員だ」
衛兵は急いで王間から退出し、まだそのとき厨房に残って洗い物をしている者や倉庫の管理をしていた者などを次々と捕まえていった。王の指示通りの人々が続々と王間に集められ、その数は三十を数えた。縛められて王前に座した彼らは、口々に身の潔白を主張する。それを聞いて、王はその者たちに視線を向けた。
「貴様らは、我が食事に毒を盛っていないと言う」
彼らはみな頷き、あるいは声を上げて王の言葉を肯定する。その形相は必死であるが、王はそれと余りに対照的な冷たい一瞥を彼らに投げた。
「されど我が食事には実際に毒が盛られていて、それで余は危うく一命を失いかけた。貴様ら家臣は王の安全を保障せねばならないのに、それを破ったのだ。ならば、貴様らは償うより他にあるまい、取り返しのつかぬ過失を、取り返しのつかぬ罰によって。貴様らは死罪だ」
突然の、それも無罪の者にとってみれば理不尽な死の宣告である。彼らはますます声を大にして無罪を叫ぶ。
王は何かを考えているような仕草をした。人々は王の再考を期待した――しかし、やがて口を開いた王の言葉は、彼らを呆然とさせるものであった。
「これら不届き者を王城の外の林に連行し、木々に縛り付けよ。それと共に弓兵を集めるように。罪人らを木々に縛り付け終え次第、火矢を放たせるのだ」
王が考えていたのは彼らの無罪たる可能性ではなく、彼らをいかに燃やすかに他ならなかった。王の言葉の意味を理解すると、彼らはいよいよ青ざめて、不満の声を爆発させる。その迫真ぶりに命令を受けた衛兵たちはたじろぎ、どうすればよいのか迷ったように立ち尽くすばかりである。それを見て、王は調理師たちの恨みの声をかき消すように、声高く大喝した。
「罪人を連れて行けと言ったのだ! 躊躇うのなら貴様らも共犯と見なして同罪であるぞ!」
その場にいた誰もが、王のすさまじい剣幕に恐れおののいた。それで衛兵たちは、すっかり萎縮してしまった哀れな罪人たちを王城の西側にある林に連行していった。
林に立ち並ぶ冬の木々は、その固く乾いた木肌を北風に晒している。はらはらと頼りない褐色の葉は命の輝きを失って、ただ無気力に終わりの時を待つばかりである。うら寂しい冬の林は、しかし、祁王の命によって急誂えの大処刑場へと変貌を遂げた。その一つ一つに罪人たちを縛り付けられ、火矢を構えた弓兵に囲まれておきながら、それでも木々は知らん顔である。
当然、その林の近くに座椅子は据え付けられていなかった。しかし王はそんなことには構わず、立ったまま麗春と共に並んで処刑を見ることにした。三十余の罪人が木々に磔にされていくその光景は壮観である。麗春の表情からは早くも期待の色が濃く現れているようであった。
やがて全ての罪人を木々に縛り付け終えると、王は待機していた弓兵に命じて、罪人を抱えた林へ一斉に火矢を放たせた。
何本もの火矢が赤い弧を描きながら、彩りのわびしい林に向かう。ある矢は地面に落ち、ある矢は枯れかけた木に突き刺さり、ある矢は直接人を貫き、その炎をあたりに広げる。停滞した冬林に、燃え盛る死に際の命が吹き込まれた。黒い煙を燻ぶらせながら徐々にその勢いを増していく炎に怯える罪人たちは、否みがたき死への拒絶と戻り得ない生への渇望に顔を歪ませて、苦しみ悶え叫ぶのである。地面を覆い尽くす黒い煙、そこから立ち上がる、罪人たちを地の獄へと引きずり込まんとする轟々たる紅の魔手。灼熱する巨大な多頭の蛇は乾いた木肌を辿って罪人の体を巻き付くようにして捕らえると、その命を糧に勢いを強めていく。風が煽ればたちまち火花が空高く吹き上げられ、やがてちらちらと舞い降りてくる。赤い粉塵を振りまきながら時折聞こえる破裂音は、閻魔の舌がごとき貪欲な炎が、空腹に耐えかねて叫び声をあげているのだろうか?
曇天を衝いて焼き焦がす、数多の紅蓮の柱――人の身にはあまりに美しすぎるその炎をその身に纏ってしまった代償である。一人、また一人と罪人が耐えがたき責め苦に魂を焼き切られていく。ついに最後の一人がその魂を悪魔に差し出したのとほぼ同時に、炎の勢いは絶頂に至った。迎えるべき罪人を全て迎え終え、地上に現出した煉獄は徐々にその力を弱めて地下へと戻っていき、真っ黒な火柱の残骸――燃え残った木々ばかりが残された。黒い煙に覆われた地表から伸びる罪人たちの墓標は、墓碑銘の代わりに葬られた死体を掲げる。
その時に麗春がその顔に浮かべた莞爾として美麗な笑顔は今までの比較にならぬほどに美しかった。王はますますその虜となり、いつしか王はいかに麗春を笑わせるか――火刑を執行するかということばかりを考えているようになっていた。
やがて王は近頃祁中の治安が悪化していることを受けて、罪を犯した者はその軽重を問わずことごとく火刑に処すという法令を出すことを楊岱に諮った。楊岱はいつものように「よろしゅうございます」と言うだけである。嘉苞をはじめ反対する家臣も多くあったが王はそれらをことごとく論破し、その法令はすぐに施行されることとなった。それで火刑の執行回数は急増し、毎日処刑場に罪人が連れ込まれては美しい火柱を立ち上げることとなった。それで王は毎日のように麗春の笑顔を見ることが出来たが、麗春の笑顔を見る回数を重ねれば重ねるだけ、普段の麗春の無表情は一層堅く、冷たくなっていった。それと同時に火刑のときの麗春の笑顔も、どこか咲ききらぬ花のような不満を残したものになっていっているように見え、次第に王は満足することが出来なくなっていった。
王は気づいていた。火刑の規模が大きければ大きいほど麗春の笑顔もまた素晴らしいものになると同時に、もはや平凡な罪人の火刑を見せたところで、麗春の笑顔はさしたるものではありえないということに。そのことへの決定的な気づきは、しかし、却って王の頭を悩ませるものであった。
どうにかしてあの甘美な笑顔を見たい。そのためには、より大規模な火刑をせねばならない――しかし、全ては裏目に働いていた。最初のうちは罪の軽重問わず罪人は即火刑に処すという布告を本気にしないで変わらず罪を犯す者もいたが、やがてどんな小さな罪でも本当に火刑が執行されることがわかると、人々はたちまち行動を慎むようになったからである。恐怖政治の結果、祁中の治安はたちまちに回復されたのだ。王は家臣からの賞賛を受けたが、彼らの内心には常に死への怯えがあり、そのことを王は敏感に察知していた。罪人は減り、麗春の表情はいよいよその影を濃くしていく。王は日々を鬱々として過ごしていた。
十
ある日、隴の程凱から急使が派遣されてきた。定期報告以外で隴から使いがやってくることは稀であるので、王は不審に思いながら程凱からの手紙を読んだ。
「程凱殿はなんと言って参ったのでございますか」
傍らに控えていた楊岱が王に尋ねた。王は手紙から目を上げることなく答えた。
「蔡に不穏な動きがあるという。隴州との国境を守る涓城に掲げられる軍旗が日々その数を増やし、夜には密かに物資が運び込まれているというのだ」
奇妙なことですな、と楊岱は引き取った。
「蔡と祁とは和を約したはずでございます。国境に兵を集め物資を運び込むのは、戦争の意図があるとしか思えませんな」
うむ、と王は続けた。
「楊岱よ。蔡との和睦の期限はいつまでだ」
「私めの記憶が正しければ、あと二月ほどでございます」
二月か、と王は嘆息を漏らした。それは経年への嘆きか、平穏が破れることへの嘆きか、あるいはそうではない何かへの嘆きか。
「楊岱よ、これをどう見る」
「は。恐らく蔡王は和睦の約が切れると同時に、我が国に攻め込む腹積もりではないかと思われまする」
「だが、それにしては行動が噛み合っていないようではないか」
はて、と楊岱は微笑を湛えたまま得心しかねるように言った。王は少し苛立って言った。
「秘密裏に準備を整えての急襲を目するならば露骨に大旆を掲げはするまいし、行動を誇示し我らを畏怖させるを目するならば、わざわ夜に軍馬を担ぎ込む必要はあるまい。なにか別のところに意図があるとは考えないのか」
楊岱は考え込む仕草をしてから言った。
「夜に軍馬を運ぶは我が国の襲撃を警戒してのことと考えます。戦は心を攻めるが上策と言われますれば、掲げられる軍旗は我が国への脅迫。そう考えればさほど不自然なこととは思えませぬ。蔡には戦争の意図があると見て良いでしょう。差し当たって隴州に二万ほどの援軍を差し向けてやるのがよろしかろうと考えます。仮にそれが蔡の偽計であったとしても、残りの三万の兵で守りを固めさえすれば祁の堅牢な要害は突破できません。そうして頑張っていれば隴州より援軍が参ります。さすれば祁中の兵と隴州の兵とで蔡軍を挟撃し、容易く勝利を得られましょう」
楊岱の言葉に、王は漠然とした違和感を抱いた。しかし一方で王の中には援軍を送るのが良いという確信があった。
「隴州に援軍を差し向けよう。二万の兵を嘉苞に率いさせ、隴章に出立させよ」
は、と楊岱はその旨を嘉苞に伝えに退出した。その命を受けた嘉苞はすぐさま準備を整えて、二万の兵を率いて祁中を出た。
その夜、王はどうにも眠ることが出来なかったので、少し外を散歩することにした。寝付けないのは頭ばかりが疲れているのに体が疲れていないからであり、散歩して体を疲れさせればきっと寝付けるだろう――そう思ったのだ。王は季節が冬であるということをすっかり失念していた。しかしその日は妙に暖かく、寝間着のまま中庭を歩いていても寒さは感じなかった。城壁のところに至り、暗闇のなかにその輪郭だけが見える内城壁を見上げたときに雲間に浮かぶ半分だけの月が鮮明なのを見て、今が冬であることをぼんやり意識しただけである。
ふいに月が空から消え、うっすら見えていた城壁の輪郭が闇に埋没した。王はいつものように城壁の周囲をぐるりと左回りにまわることにした。
その道筋がいつも通りであっても、時間が違えばそこはもう違う世界だ。いま自分の右に聳えているはずの城壁はのっぺりとした暗闇に覆われ、その姿を見ることは出来ない。ゆえにそれが昼間にあるときのような厳然たる威圧感を与えることはないものの、しかし暗闇に包まれたそれは視認しえぬがゆえに、限りない質量を帯びて闇に潜んでいるかのような錯覚を王に与えた。
それでも手を伸ばせばきっと、あの冷たい石のゴツゴツした感触が手に返ってくるはずである。巨大な城壁をなす矮小な石が他者と肩を寄せ合いながらも必死に自己を主張するような感触が……しかし、王はそうすることが出来なかった。おずおずと伸ばした自らの手が空を切ったとすれば、自分は城壁があるはずの暗闇に向かって歩き出すより他にない。そして――もし、傲然と立ち聳える城壁は忽然と消えていて、そこにはただの虚無だけが延々と続いていたとしたら? あるいは、もし伸ばした手が城壁ではなく、それを包み込む闇そのものを触ってしまい、そこから自分の全てが闇に取り込まれてしまったら? ――そして恐ろしいことに、王にはその全てを鮮明に脳裏に描くことが出来たのだ。荒漠たる暗闇の中、あるはずの手ごたえを求めて永遠にさ迷い続ける自分の姿、伸ばした手を闇に絡め取られ、そこからどんどん存在が犯されていく自分の姿……その考えはまことしやかに王の心を絡め取る。王はただぎこちなく、そこにあるはずの城壁に沿って、その歩を進めるより他にない。
不意に、実は自分は既に闇と同化してしまっているのではないかという錯覚が王の心を捕らえた。実際に腕を掲げるように力を入れて、次にそちらの方を見やるべく眼球を動かしてみても、そこにはただの闇しか存在しない。自分は本当に、歩んでいるのだろうか? 足の裏に返ってくる感覚は、地面を踏みしめているにしてはあまりに柔らかいように思えたのである。王は立ち止まった。するといよいよ世界と自分の境界が曖昧になり、まるで体が辺りに溶け込んでいくかのような、不気味な心地よさが訪れる。それらの奇妙な感覚は王を不安にさせたが、同時に王の心を安らげた。調和の狂気へと誘う深淵の闇…………
――タン、という音が静寂をかき乱す。それが着地音であるということが、王には自然と理解された。そしてそれが城外から侵入してきた何者かのものであるということも。スス、というかすかな音がその後に続く。虫の音が一つでもあれば聞き逃してしまうような、忍び足の音である。半分の月が雲間から顔を覗かせ、何者かの背中が中庭へと入っていくのが見えた。王は、その後を密かに追った。
彼は迷うことなく、真っ直ぐ目的地を目指しているようである。それでも歩みは緩やかであったため、なるべく音を立てないように物陰に隠れながら、その後を追うことはさして難しくもなかった。やがて影は静かな中庭に入り、そのすぐそばに面した闇の深まる廊下に入ると、ある部屋の扉をト、トトンと小さく三度叩いた。その様子を王は、中庭から屋内に入ったところにある番いの獅子の銅像の物陰に隠れ、淡い月の光を頼りに見ていた。影が扉を叩いたその暗い部屋には明かりも灯らなかったので何も反応が無いと思われたが、やがて暗闇の中で静かに扉が開かれると、すぐさま影は扉の中に消えた。それと同時に、今まで薄く見えていた景色の全てが等しく深淵に溶けていった。世界から境界が無くなる。王は暗闇と共に息を潜め、その動静を窺っていた。意識が拡散し、闇の中に浸透していくような感覚。その時間は永遠にも思えたし、一瞬にも思えた。さりとてそれは、その時間が過剰な喜怒哀楽を与えた結果というわけではない。単に、そこでは時間が意味を為さなかっただけである。
やがて薄く扉が開く音が聞こえた。ぼそぼそと何かを囁き合う声に続いて、再びあの忍ぶような足音が聞こえだした。その音は来た道を引き返して真っ直ぐこちらに向かってきた。王は、心臓がドキリと跳ね上がる音を聞いた。
しかし、次の瞬間には既に落ち着き払っていた――否、落ち着き払っていたわけではない。仮にその場にあって冷静に考を巡らすことが出来たなら、まだ影が遠くにいるうちに大きな声を上げて警護兵に助けを求めるという、恐らくは唯一の対抗策に思い至らないはずがないからだ。しかしその危機の致命的なるを認識し、頼みになるものは何も無いことに気づいていたのにもかかわらず、その口は閉ざされていたのである。口の両端には若干の力が入り、下唇が張っているような感覚だけがあった。
かすかな衣擦れの音がだんだんと近づいてくる。やがてその音は王のわずか一尺ばかり離れたところを横切り、そのまま中庭に出、内城壁の方に消えていった。
足音がすっかり消え去った後も、しばらく暗闇の中に佇んでいた。やがて雲間より再び月がその姿を現し、城内の様子がぼんやりと映し出された。静かに伸びる廊下、ところどころに設えられ、淡い月光を取り入れる無骨な四角の窓や壁に立ち並ぶ扉の輪郭が露わになり、そこでようやく王は我に返った。王は強い眠気を感じたので、宵闇の優しい静寂を壊さぬように気を付けながらそこを引き上げた。
翌朝いつになくすっきりと目を覚ました王は、寝間着のまま昨晩の散歩道を同じように辿って昨日の部屋のところまで行ってみることにした。次々と目の前に現れては過ぎ去っていく、明るく聳える城壁や早朝の喧騒に包まれた中庭、強い朝日で照らされた廊下。そのどれもが、王の心をかき乱す。王が昨日隠れていた錆びついた番いの獅子の銅像は、朝の陽光の苦しみを訴えるように王の顔を見上げていた。
昨日影が入っていったあの部屋の正面に行ってその扉に提げられた札を確認してみると、そこには丞相の居処を示す白い札があった。とっさに王は、陳匡の顔を思い出した。それも、陳匡が死ぬ間際に見せたあの乾燥しきった皺だらけの顔ではなく、まだ王が幼かったころ、白髪と黒髪が半々くらいであったころの、幾分若々しい顔である。
そこで、王は違うと首を振った。いま、丞相という言葉は陳匡を示さない。丞相と言えば楊岱のことなのだ。そう、昨晩あの不審な影が入って行ったのは楊岱の部屋であったのだ。静かに城内に侵入し楊岱の部屋に入り、すぐに戻って城から出て行ったあの影。その正体は果たして――
「――おはようございます、王」
王は声のした方を見た。そこでは、あのいかにも柔和そうな顔立ちに薄ら笑いを浮かべた楊岱が立っていた。
「私めの部屋がどうか致しましたか?」
王は何食わぬ顔で答えた。
「お前の部屋はこのようなところにあったのだな」
楊岱は意味を掴みかねるように「はあ」と言う。王は構うことなく続けた。
「騒がしい中庭に面していては気が散ろう。それが嫌で、陳匡は三階の奥まったところにある、書庫のすぐ側の部屋を自室としていたのだが……どうだ楊岱。今はそこも空き部屋だ、そちらに移った方が集中できるのではないか」
それを聞いて楊岱は一瞬だけ顔色を変えた、ように王には見えた。しかし、次の瞬間に楊岱の顔に浮かんでいたのは、やはりあの食えない微笑である。楊岱は言った。
「いえ、私めはここで何も不自由しておりませぬゆえ」
「なに、遠慮することはない。お前の作業が捗らないで困るのは余も同じなのだ。何に気を払うこともない、移れ」
それを聞いて、今度こそ楊岱は困った顔をした。実際は少し困ったように笑っているだけであったが、それだけでも王には、楊岱が内心に注意深く隠した動揺がにじみ出ているように思えた。もし昨晩のことが楊岱にとって後ろめたいことであるのなら、楊岱は絶対にその提案を受けるわけにはいかないはずだと王は考えたからである。
「お心配りは有り難く存じますが、私めはこの部屋が気に入っておりますれば。広すぎず狭すぎず、必要なものが必要なだけしか入りませぬ。故事にもございます通り……」
楊岱はいかにももっともらしいことを言って、王の言葉をあくまで断る。王はその話を聞き流しながらほくそ笑んだ。楊岱はなにか後ろめたいころをやっているに違いない。さてはあの影は密使かなと王は勘付いたが、しかし彼らがそこで何をし、楊岱が何を企んでいるのかはまだわからない。
「そうか、まあ無理強いもせん。気が変わったら言えよ」
は、と楊岱は頭を下げた。俯けて見えなくなったその表情は、きっとあの気持ちの悪い微笑ではなく、他の誰も――陳匡すら知らない、用心深く隠された暴かれるべき表情に違いない。王はひっそりと笑った。
王は顔色の悪い従者にだけそのことを話し、楊岱の秘密を暴く手伝いをするよう言った。彼は承諾し、それから毎晩楊岱の部屋の近くに張り付いて密使と思しき謎の影がやってこないか監視した。すると次の半月の晩に、また城外から何者かが侵入してきた。その影は足音を忍ばせながら中庭から廊下に入り、楊岱の部屋の扉をト、トトンと叩くと部屋は暗いままで扉だけが開かれ、影がその中に入っていったのである。試しに次の満月の晩に顔色の悪い従者が楊岱の部屋の扉を叩いてみても、楊岱は寝てしまっているらしく反応が無かった。また次の半月の晩には影がやってきて、楊岱の部屋の扉を叩くとすぐに扉があいたので、恐らく半月の晩にやって来るよう互いに示し合わせているのだろうと従者は断定した。
「なるほど」
王は従者の報告を聞きながら、暗い部屋にぼんやりとした明かりを供給する橙色の炎を眺めていた。炎は常に、今ある形を惜しげもなく放りだしては違う形へとその姿を変えていく。常に自分が変化し続ける――そのようなことは、人間にはおよそ考えられないことだろう。ゆえに炎はきっと気楽に違いない。気楽な炎に照らされる闇も、また気楽である。だからこそ部屋を満たしている暗闇は、何に拘泥することもなく炎に場所を譲っては譲られてを繰り返し、その形を揺らがせ続けているのだ。
「どうする、公孫瑛。次の半月の晩にも恐らく密使は来るものと思われるが」
ああ、と王は燭炎と暗闇の境界の揺らぎから目線を外し、跪くこともなく自分と同じ目の高さで自分の目を覗き込み続けている、顔色の悪い従者に目を向けた。冷たい蝋燭の火でその顔の半分だけが露わとなっている従者の顔もまた、冷たく凍てついていた。王は少し考えた後で、その重い口をゆっくりと開いた。
「次の半月の晩に、密使を捕らえる。密使が楊岱の部屋に入ったその帰り際だ」
わかった、と従者はニヤリと笑って言った。
「人手がもう一人分あると良いのだがな、公孫瑛」
致し方あるまい、と王は即答した。
その次の半月の晩、王は顔色の悪い従者と共に、例の番いの獅子の像の影に身を潜めた。案の定密使は夜中に現れて、中庭を抜けて楊岱の部屋に向かった。この時はやり過ごし、密使が帰っていく時を見計らって王と従者は縄を張ったのだ。密使は思惑通り足を取られ、中庭の地面にうつ伏せに転倒した。密使が隠れ蓑としていた闇は、思わぬ奇襲を受けたことでたちまち状況の把握を妨げる暗幕へとその価値を変貌させる。突如として混乱状態に叩き込まれた密使の背中に従者は馬乗りになってその両手を封じると、密使の髪を乱暴に掴み、その喉元に小刀を突き付けた。
「騒げば番兵が集まってくる。そうすれば貴様は確実に死ぬだろう。死にたくなければ観念して、楊岱から受け取った密書を出し、その言伝てを吐け」
従者が低い声で凄む。密使は手足を暴れさせて抵抗を試みたが、それが従者に届くことはない。抵抗の無駄を悟ってか、密使はその手足を暴れさせるのをやめた。そう思うやいなや、密使は全身をぶるぶると震わせだした。どうしたのかと思う間もなく、密使はその口から大量の血を吐き出し、苦しそうに喉をかきむしり出した。それを見て、王は密使が舌を噛み切ったことを悟った。舌打ちをしながら、従者は喉元に突き付けた小刀を横に引いた。薄闇に赤い血が噴き出す。従者は突き放すように密使の頭を手から離すと、支えを失った密使の体はそのまま重力に従って地面に倒れ伏し、自らの血だまりに没むのであった。
従者は痙攣を繰り返すそれから立ち上がると、小刀についた血を拭い、心臓の鼓動にあわせて一定の間隔で噴き出る血を眺めていた、月の光に照らされて、黒く濁ったような鮮血を。
時間が経つにつれて、噴き出す血の量が少なくなっていく。やがて傷口から血が噴き出なくなったのを見て取り、従者は乱暴に密使の体を持ち上げて血だまりからすくい出すと、それを乱暴に仰向けに転がしてその衣服を手際よく剥ぎ出した。その密使の体が月に照らされて黒光りしたのを見て取り、王は従者に「鎧を着込んでいるのか」と尋ねた。
「うむ……蔡の軽鎧のようだ」
従者はその鎧も手早く外していく。ゴトリ、ゴトリという乾いた音が闇夜に弾む。この一連の騒動に気付いている者はいないだろうかと王は気になったが、聞こえるのは従者が密使の身ぐるみを剥いではその一つ一つを綿密に調べる音と、密書が隠されていないことを確認して無造作に鎧を投げ捨てる音ばかりである。程なくして従者は、男の懐の奥に隠された密書らしき書簡を見つけ出し、それを王に渡した。
「金は後で良い」
従者が短くそれだけ言うのを聞いて、王は何も言わずにそこを立ち去った。王はひっそりと静まり返った寝室に戻って再び蝋燭に明かりを灯すと、興奮を抑えながら手にした密書の文章を読みだした。
「何が書いてあった」
王がその密書を三度読み返して沈思黙考していたところに、顔色の悪い従者がやってきた。不意に静寂が破られ、王はやや苛立ちの色を含んだ目を声のした方に投げた。暗闇を力無げに照らす、机の上に灯った薄明。それはかえって従者の輪郭をぼんやりとさせ、まるで本人を差し置いて、従者の影だけが立ち上がってしまったかのような不気味さを感じさせた。王は声を潜めて言った。
「蔡王からの密書だ。楊岱は蔡王と内通していたのだ」
ふむ、と従者は驚いた様子もなく頷いた。王は続けた。
「ついては、お前にはこれから蔡に行ってもらう。そしてあの密使の振りをして蔡王韓陸に謁見し、この手紙を渡してくれ」
王は従者に手紙を渡した。従者はそれを受け取ると、ろくに調べもせずに懐にしまった。
「恐らくそれ以降、お前は楊岱と韓陸の遣り取りを取りもつことになろうから、毎回その密書を楊岱に渡す前に私に届けよ」
「蔡王は気づかぬか」
恐らくは気づくまい、と王は答えた。
「どうせお前の事だから、あの密使の身ぐるみは一通り分捕っているだろう」
薄闇の中で、従者はくつくつと笑いを漏らす。
「確かに、全て分捕った。蔡の通行証までな――それを着て行けば問題ないだろうか」
「うむ。為政者は人を見ることが出来ぬ。その人間が意味するものしか見ることが出来ないのだ。だが、万一ということもありうる。そうなれば適当に嘘をでっち上げて言い逃れれば良い。それもお前は得意であろう」
「了解した。それだけで良いのだな」
うむ、と王は肯んじた。
「今すぐ出立してくれ。それと、これは今回の褒美に路銀を含めたものだ。受け取れ」
言って王は、膨らんだ革袋を従者に投げ渡した。従者の手の中でジャリと鳴る、金銀が窮屈そうに身をこすり合わせる音を聞いても従者はさして喜ぶでもなく「では俺は出るぞ」といってそのまま去ってしまう。
従者が去り、王が一人残された。そのとき油が切れたのだろう、炎が儚げに揺れて、ふっとその姿を消してしまった。
暗闇の中で、王は静かに笑っていた。