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LOT・5

警告:LOT・5にはやや性的な描写が含まれています。ご注意ください。

 絶対の夜が訪れ、世界は黒く塗り潰された。

 ミラージオは、自身の前に立ち塞がった双子殺しを一撃で撥ね除ける事に成功していた。

 しかし、その攻撃によって砂の地面に激突した双子殺しは、おそらくまだ健在だろう。

 意識を取り戻して、また、シフォンたちを襲ってくる可能性も充分にある。

 だが、ひとまず馬に乗って二番地まで逃げて来た三人は、双子殺しの脅威から一時的に解放されていた。

 後は、シフォン・エカテリンブルクの看護だけだ。

「わたしも同行するわ」

 三人は、単体の馬よりも移動速度を上げる為、アレイダが住む彼女の兄の別宅に、二頭立て馬車を借りに来ていた。

 事情を聴いたアレイダは、快く目的の馬車を提供し、自分も一緒に病院に行くと言い出した。

「構わないけど、急ごう。傷口は炎撃で塞がっているが、かなり衰弱している。文字通り一刻を争うんだ。早く向かおう」

 二頭立ての馬車に乗るのは、五人。

 左肩に火傷の大穴を開けられたシフォン・エカテリンブルク。共闘したミラージオ・トリエステ。馬車の持ち主であるアレイダ・ブラックミント。打撲を負った御者の中年男性。彼らを病院へと連れて行く御者の少女。

 全員が滞り無く、馬車の御者台と客車の座席に腰を落ち着かせた。

 赤塗りのクッションが設えられた座席は、色から見て、アレイダの趣味だろう。

「それにしても、そのカッコで行くつもりなのか? アレイダ」

 アレイダの衣服は、薄ら赤味がかったフリルだらけのネグリジェと、肩に羽織った深紅色のクロークだけだった。

 色は違うが、彼女のネグリジェはシフォンが寝る時に着ている物と、デザインが良く似ていた。

 おそらく、同じメーカーの商品と見て間違いない。

「着替えてくる時間はないでしょ? 多少恥ずかしいけど、わたしとしては問題無いわ」

 問題は大ありだった。

 クロークには問題は無いが、ネグリジェに大問題がある。

 彼女が着ているそれは、シフォンの寝間着とデザインこそ似ているが、生地の薄さ加減が完全に異なっていた。

 薄さのせいで、アレイダの乳房や柔肌が透けて見えていて、色の印象も加わり、挑発的で、官能的な雰囲気を醸し出しているのだ。

 自宅ならまだしも、屋外でこの格好はありえない。

「キミは、頭がオカシイ……。前、隠しなよ……」

 蹄鉄の音が客車の中に軽やかに響くと、車体が少しずつ動き出す。

「いいけど。そんなに気になるものかしら」

 アレイダは、ミラージオの言葉に従って、深紅色のクロークを前に引き寄せ、シースルーのネグリジェを隠した。

「……………………」

 そっぽを向いているミラージオの頬には、朱が差していた。

 彼は、朱に染まった表情を拭い去ると、対面席のアレイダの右隣で横になっている怪我人に視線を移す。

「……ク……ア……ァ……ハァ……ッ……」

 そこには、痛ましいシフォン・エカテリンブルクの姿があった。

 皮膚を剥がしてしまう恐れがある為、衣服はそのままの状態にされている。

 患部の大穴には、白の包帯が二重にまかれ、二次感染を防いでいる。包帯の下では、いくつかのガーゼが活躍している様で、凸凹した突起が見られた。

 額の擦過傷と、左太腿の咬み傷にも応急処置の後がある。

 怪我の影響によりシフォンの全身には、はっきりとした熱気が帯びていて、幾粒もの玉粒の汗が浮かびながら滴り落ちていく。

「シフォン、大丈夫よ。大丈夫だから。あなたは死なない」

 アレイダが、持ってきていた鳶色の毛布を一枚、シフォンの体に丁寧にかける。

 ミラージオは、対面席から前屈みになって、毛布から出た彼女の右手へと自分の右手を伸ばした。

「…………」

 二人の右手の指同士が、絡み合い強く固く握られる。

 まるで、両者の繋がりが簡単に解けてしまわない様に。

「…………………………………………シフォン」

「ミラージオくん……。信じましょう。シフォンの生命力と手術の成功を」

「……そうだね。鎖のお姫様は、きっと生きてくれる」

 現在位置は、州都二番地六十五番の大通りだ。

 夜の到来にも関わらずその通りは、シックな渦巻き模様の細工が施された街灯たちの放つ仄かな光で照らされていて、礼服に身を包んだ紳士・淑女が優雅に歩いている。

 ここから一番近い外科病院は、同番地四十五番にあり、治癒系能力に秀でた当選者の医師が経営している。

 この国の医者の中には、治癒系能力を有する当選者が多く、医療・福祉関係の就職においてもその能力の存在は有利に働き、当然、実務でも役立つ事は言うまでもない。

「ミラージオくん、双子殺しに襲撃されたって言うのは本当なの?」

「ああ……。四十九番地ではなく三番地でね。変身系当選者のハズなのに、別の能力まで操って、最終的に炎の杭でシフォンに致命傷を与えた。それがその大穴さ」

「……能力の鍛錬を多方面に伸ばせば、複数の能力を持つのも無理じゃないけど……。能力のかけもちで、ここまでの威力が出せるなんて……」

「理論上はありえるけどね」

 ミラージオの右頬に、大粒の汗が滑り落ちる。

「…………双子殺しは、二番地(ここ)まで追ってくるかもしれない。新月の当選報告を妨害したヤツ

だから、一目をそれほど気にするとも思えない。けど、もしボクたちの元を訪れたとしても、好き勝手は絶対にさせない」

 シフォンの右手と絡み合ったミラージオの右手に———いや、体中に確かな震えが走った。

 それは、殺人鬼を完全に相手取った怯えでは無く、倒すべき敵に対する憤りが感じられる。

 彼の表情がそう感じさせたからだ。

「ヤツには奇襲でやられたけど、闘いは一進一退だった。勝ち様はあると思う。懸念すべきは、奇襲による攻撃と、アイツがまだ『隠し球』を持っている可能性だ。複数の能力を振るえるなら、何が飛び出して来てもオカシク無い」

 ミラージオは、冷静な表情に戻ると、敗北した闘いを振り返り、次の闘いに繋げようとする。

「……でも、仲間がこんな状態になってるのに、わざわざ闘う必要はないんじゃないかしら……」

「……ボクが言ってるのは、飽くまで迎撃の話だよ。三番地の闘いだって、襲撃されたコトに対しての正当防衛だ。無闇に戦場へ馳せ参じたいワケじゃない。シフォンは別だが……」

「……このコ助かったら、また双子殺しに向かっていきそうね」

「間違い無いね。シフォンは———そういう女だ」

 アレイダは、華奢な左手を差し出すと、左隣でうなされている友達の方へと動かした。

 シフォンの金髪の前髪を優しく掻き分け、消毒されて少し黄色くなった額の傷に中指が触れる。

「わたしは怖いわ。普通の人間だからじゃない。たとえわたしが当選者でも、傷の付け合いの闘いなんて怖くてできない。誰かを傷つける事もしたくない。でも、シフォンは、無鉄砲に立ち向かっていく……なぜなの?」

「さぁね。そこに自分の敵がいるからじゃないかな?」

 ミラージオは、簡単な調子でそう答えた。

「難しく考える必要はないんだよ。シフォンは、誰かの暴力で他人が傷つく事が許せない女の子なだけだ。だから、それに憤って相手に敢然と立ち向かう。相手が諦めるまで」

 アレイダは虚を衝かれたような顔で、ミラージオの顔を見返した。

「そういうトコがボクは好きなんだけどね」

 シフォンが体調が良い状態で聞いていたなら、おそらく面白い反応が見られたはずだ。

 しかし、寝込んで意識が朦朧としている彼女には、十中八九聞こえていないだろう。

「でも、それは命取りにもなり得るわ……」

「そういう意味では、非常に厄介な性格をしているとも言えるね」

「……ミラージオくん……」

 アレイダが、憂いを帯びた視線で、ミラージオの顔を見た。

「シフォンを———アナタの好きな人を、守り通してあげて」

 ミラージオは、真剣にその言葉を聞くと、淡々と答えた。

「……残念だけど、『守り通す』約束はできないね。闘いの中で傷一つ無く守り抜くのは無理だよ。今回のコトでよく思い知った。だから、その約束は契れない」

「……………………」

 アレイダの悲しげな表情が、更に曇った。

 たしかにミラージオの言っている事は、筋が通っている。闘いに傷は付き物だ。

 しかし、その話には続きがあった。

「———ただ、シフォンには世界を見せてやるって約束した。だから、シフォンが闘いに行っても、『必ず連れて帰る』約束はここで誓う」

 芯の強さが滲み出る様な声で、彼は穏やかに宣言した。

「約束よ。絶対に、絶対に守って」

 二番地を走行する馬車は、同番地の四十五番に十数分程で滞り無く到着した。

 四十五番にあった病院の外観の印象は、色的には冷たく感じられた。

 三十数メートルに渡る左右対称に構えられた病院の群青壁には、半円を描く複数の透明な出窓が張り出され、群青壁の中央には槍の様に、空に対して勇ましく切先を向ける厳かな尖塔が一本設けられている。

 建物の周辺には、馬車を停める為の厩舎が設置されていたが、緊急用として扱われる病院の青マークが記された白帯が体にかけられている馬の存在が見当たらなかった。

 馬車に乗っていた五人は、速やかに下車した。

 ミラージオは、目の前の外科病院を見ながら、ぐったりしたシフォンの体をお姫様を抱える様に両腕で横抱きする。

 歩き出した。

「急患だって電話で伝えたから、準備してくれてるハズよ」

「病院オカカエの馬車は全部出払ってるみたいだね。だから、駆けつけてくれなかったワケか……。あの様子だと、シフォンの他にも急患がこれから押し寄せてくるらしい」

 ミラージオは横目で、厩舎の様子を眺める。

「まさか……、双子殺しにやられた人が他にも……」

「その可能性は否定できないね。ボクたちは、来る途中で州都警察本部や病院の車を見ていないけど、別の番地で惨事が起こっていても不思議じゃない」

 御者の中年男性も加えた三人は、群青の扉を開けて、院内へと入り込んだ。

 院内の壁紙は外壁の彩色とは異なり、清潔な雰囲気を漂わせる純白で統一されていた。

 最近出来た病院らしく、壁紙には染みや腐食が全く見られず、綺麗な白の世界がそこには広がっている。

 院内に入ってすぐに、木製のカウンター受付窓口が通路の突き当たりに見えてきた。

 窓口の隅に置かれている拳大の木箱には、九枚のトランプサイズの診察券が入っている。

 カウンターの向こう側では、白衣に身を包んだ一人の看護士が業務用デスクに座り、服薬管理の書類を記す事務仕事を真剣に行っていた。

 他の看護士たちは、全員出払っているらしく姿が見えなかった。

「……ミラージオ様、アレイダ様、私は七番診療室ですので、あちらに向かいます。お嬢様の事を、どうか、どうか宜しくお願いします」

 御者の中年男性が、打撲を負っていない左腕で受付窓口の東———右側を指差し、言葉を告げる。

 彼の言葉に対して、アレイダは申し訳無さそうにこう言った。

「ごめんなさいね……。あなたも打撲を負っているのに一人で行かせてしまって、シフォンの方が重傷だからどうしてもこっちが気になって……」

「いえいえ。私のケガなどすぐに治る程度の物です。お嬢様の事を優先して差し上げてください。……では、私はこれで……」

 御者の中年男性は、嘘を吐いていた。

 双子殺しからの逃亡の際に、彼は右腕を庇っていたが、その庇い様は尋常ではなかった。

 そんな大変なケガが、すぐに治る程度の物であるはずがない。

 彼は、アレイダとミラージオにシフォンの方を気にして欲しかったから、嘘の言葉を紡ぎ出した様に感じられた。

「行こう」

「そうね」

 御者の中年男性が向かった方角とは、逆方向に二人は歩いていく。

 アレイダが、落ち着かないのか院内をしきりに首を動かしながら、キョロキョロと視線を移して見渡している。

「……アレイダ、担当の医者(センセイ)はどこの診療室にいるの?」

「五番診療室よ。ここをずっとまっすぐ行った突き当たりの部屋」

 アレイダが人差し指で示す通路の向こう側には、小さな長方形の扉が見えた。

 小さいと言っても、遠近法の関係でそう見えているだけだ。

「それにしても急患なのに出迎え無しなんて、ここの医者たちは随分と薄情だね」

「シフォンの手術の為の用意で忙しいみたい。その他の人たちも、別の患者や急患で猫の手も借りたい状況なんでしょ」

「…………なるほど」

 院内の白壁に、四人の靴の足音が反響する。

 歩を刻むと、純色の白衣を纏った人たちが彼らの横側を通り過ぎていった。

 黒の短髪を生やした長身の若い男性、金髪をポニーテールに結った若い美人の女性、白い顎髭を切り揃えた老人の男性、いっそ清々しく見える禿頭をした中年の男性。

 白衣の人々は、チームを組んでいるのか美人の女性が持っている診療簿を眺めながら、それぞれの意見を穏やかな姿勢で口々に言い合っていた。

「アレイダの言う通りみたいだね。忙しそうだ」

 程無く五番診療室に着いた一行。

 アレイダの右手が、獅子のデザインのドアノッカーを三度叩く。

 するとすぐに、五番診療室の白い扉が開かれた。

 中から出てきたのは、黒髪の艶やかな女性だった。

「お出迎えできなくてごめんなさい。手術の準備に手間取って……」

「イイですよ。それより、このコのコトお願いします」

 ミラージオが、横抱きしているシフォンへと視線を送り、医師に示した。

「とにかく診察台へ」

 黒髪の医師は踵を返し、自身の白衣を翻すと、来訪者を室内へと招いた。

 五番診療室の室内は、落ち着きのある様相だった。

 壁紙の色は、室外の壁紙と同色の白だ。

 南にある医師用の木の机には、様々な患者のカルテが本立てを支えにして横に並び、診療器具がその前に三つの木箱に整頓されていた。

 医師用の椅子と、患者用の椅子は、医師用の机と同じ材質、同じデザインで拵えていて、無駄の無いシンプルな印象を受ける。

 鋼製の診療用のベッドには、清潔な白のシーツがビシッとかけられ、部屋の奥———西側のシーツには、弾力のある軟らかそうな白枕が置いてある。眠れない時などに、この枕と家の枕を変えれば、抜群の効果を発揮しそうな程だ。東側のシーツの端には、同色の薄い毛布が寄せられていた。

 後は、西の壁に鎧を思わせる鉄の額縁に入った二流画家の絵画が飾られているくらいだった。

 ミラージオは、室内の患者用ベッドに、シフォンを丁寧に横たわらせた。

「え〜と……、鎖姫様……、いえ、シフォン・エカテリンブルクさんね。じゃあ、診察から開始するから、男性は外に出て」

 大した事にその医者は一目で、美少女の外見を持つミラージオが男である事を看破してみせた。

「ミラージオくんが男って分かるんですか……?」

 アレイダの口から、そんな台詞が漏れる。

 ミラージオは、その言葉に対して、むっとした表情を露にした。

「そういうスレンダーな体格の女の子もいるけど、声の性質がわずかに男性よりだから、すぐにわかったわ」

 普通では聞き分けられない。

 なぜならミラージオの声は、シフォンの美声に近く、女性特有の音域でいつも響いているからだ。

 そこに男性特有の低くて太い声など、微塵も感じられなかった。

 しかし、相当耳が鋭い人間ならば、聞こえてくる音声は変わってくるのかもしれない。

 この国には、当選者と言う特別な能力を持つ存在が闊歩しているし、当選者以外の人間の中にもそういう発達した耳を持ち合わせている者がいないとも限らない。

「ま、何でもいいから退室してちょうだい。患者さんは意識があったら、男の子に裸を見られたくないと思うはずよ。さ、退室。退室」

 ミラージオは、医師の言葉に従って、何も言わず部屋を出た。

「後は、医者任せか……」

 外の扉の前で、彼は誰に投げかける訳でもなく、独りごちた。

 すると、扉の向こうで複数の大きな声が扉越しに聞こえてくると、アレイダがとぼとぼと室内から出てきた。

「? どうしたんだ? アレイダ」

「……追い出されたのよ。シフォンに励ましの言葉を何度も投げかけてたら、『ぎゃあぎゃあ騒ぐなら、出て行って』……って」

 アレイダは、黒髪の医師に余程の剣幕で怒られたのか、曇天の様なしゅんとした顔でそう呟いた。

 ミラージオは、右手で頭を抱えると、深く深く溜め息をついた。

「そりゃ大声で励ましたからだろ。ドア越しでも聞こえてたぞ」

「ここに来て怖くなったのよ。この手術で、シフォンの生死が決まっちゃうのよ。心配だから大声にもなるでしょ」

「まあ、それもそうだが……」

 ふと、話し終えた二人に、静寂の沈黙が訪れた。

 突き当たりであるこの場所の向こう側から、医師が駆ける足音が響いては消えていく。

「……………………ァ……」

「?」

 突然、かろうじて聴き取れる程度のか細い声が響いた。

 ミラージオが、その声がしてきた方向に視線を送ると、アレイダ・ブラックミントが泣いていた。

「!!」

「……シ……フォ……ン……。…………シ……フォ……」

 まるで今まで溜めていた感情を吐き出す様に、玉粒の涙を目尻から滴らせながら、小さい声で友達の名前を呼ぶ。

 何度も。何度も。何度も……。

「……………………アレイダ」

 隣で泣いている女の子の名前を呟くと、彼はもう一つの言葉を口にして、前へと視線を移した。

「……ありがとう……」

 後には、小さな泣き声を上げる少女と、ただ前を向く少年の姿があった。

 ———幾つの時間が紡がれたのだろう。

 いつの間にか、アレイダは泣き止んでいて、瞼を真っ赤に腫らしていた。

 ミラージオの姿勢は、前を向いて腕を組んだまま、変わっていなかった。

 すると、ミラージオに動きがあった。

 彼は、白いベストの中から、藍色の懐中時計を探り出すと、蓋を開け放ち、現在時刻を確認する。

「随分時間が経ったな……。もうすぐ夜が開けるぞ」

 アレイダとミラージオは、一睡もしていなかった。

 二人の表情には疲れの色が見えていて、アレイダの方が遂に崩れ落ち眠り始めた。

 ミラージオは、まだ眠れない。

 それは、彼が当選者であるからだ。

 当選者は皆、能力の代償として、夜間に眠る事が叶わなくなる。

 現在時刻は、日の出の直前である為、ミラージオは後少しでその眼を閉じるだろう。

「———まだ眠っちゃダメだよー。ミラージオくんー。シフォンが頑張ってるんだからさー」

 ミラージオの右の耳元の辺りから、気軽な声が聞こえた。

 そこには、淡いピンク髪の少女の唇が添えられていた。

「——————ッ!?」

 ミラージオは、目を大きく開くと、自分の首を右側に勢い良く曲げた。

 そこにいたのは、ラヴィニア・エインズレイだった。

「……ラ……ヴィ……?」

「あはは。驚きすぎだよー。ミラージオくん。せっかくの綺麗な顔が台無しじゃないかー」

 ミラージオのまさに目の前に、明るく振る舞うラヴィの顔がある。

「キミは毎度毎度突然現れるな。……どうしてここに?」

「来る前にアレイダが連絡してくれたんだよー。シフォンの危機だってねー。最初聞いた時は驚いたよー。まさかそんなことが、ってねー」

 するとラヴィは、右手に持った木箱をミラージオの顔の方へと差し出した。

「お腹、空いてない?」

「…………悪いね」

 木箱を開けると、中身は溢れそうな程に詰め込まれた銀紙包みの板チョコだった。

「……ボクは無類のチョコ好きだから、これは嬉しいけど。アレイダにもこんなに食べさせる気だったのか?」

「そーだよー。チョコ食べると疲れてるのが治るからさー。今のきみたちに打ってつけと思ってー」

 ミラージオは、木箱の中の板チョコを適当に選び出すと、銀紙を破いて中身を咀嚼する。

 ラヴィも彼に倣って、音を立てながら食べ始めた。

「双子殺しに遭ったんだよねー? どんなやつだったー?」

「今朝の朝刊に容姿は書かれていただろ? 内面的なコトを聞いているんだったら、やたらと偉ぶって話す傲岸不遜なヤツだったよ」

「へー。でも、殺人狼相手に会話ができたってのも、ある意味大したもんだねー」

 確かに、ラヴィの言っている事は一理ある。

 殺人鬼相手に喋る暇など、普通は無いはずだからだ。

 それができたという事は、シフォンもミラージオも中々の実力者と見て差し支えないだろう。

「会話と言っても、罵倒のかけ合いの方が適切だと思うよ」

 するとミラージオは、背中を預けていた五番診療室の扉へと向き直った。

 獅子のデザインが施されたドアノッカーを再度叩き、中からの反応を待つ。

「……………………入ってもいいわよ」

 その言葉を聞いた彼は、アレイダをそのままに、ラヴィと一緒に室内へと再入室した。

 そこには、僅かに鮮血が飛び散った白衣を着ている黒髪の医者の姿があった。

 患者であるシフォンが、術後の疲れを癒すかの様に、診察用のベッドですやすやと可愛らしく眠っている。

 私服から薄水色の半袖の病院着へと、彼女の衣服は着替えさせられていた。

 彼女の左腕には、患部を固定させる為のギプス包帯が巻き付けられ、彼女の右腕には、動物が嫌いそうなアルコールの臭いが漂う小さな脱脂綿が医療用テープによって貼られていた。どうやら手術の過程で注射を受けた様だ。さらに、双子殺しに咬まれた左足の太腿にも、右腕と同様の衛生処置が見られた。

「私の能力【醒血(アウエイクブラツド)】で創り上げた血を、シフォン・エカテリンブルクさんの血肉に変換して、傷口を半分だけ修復したわ。残りの修復は今夜にでも」

「アウェイク、ブラッド?」

 ミラージオは、黒髪の医者から出てきた単語を不思議そうに繰り返す。

「人間の血肉を自在に生成する能力よ———」

『血肉』と言う生々しい言葉が、再度口にされる。

 黒髪の医者は、当選者である自分の能力の説明を続ける。

「———第一段階で血を生み出し、第二段階でその血から肉体を作り出すの。患者さんの血をベースにして血肉を作り上げれば、厄介で面倒な拒絶反応も起きないわ。壊死や炭化していた部分なんかは、【醒血】の能力で綺麗に刷新しておいたから」

 血肉の生成。

 医療分野において、この能力はかなり有益な代物と言える。

 活用すれば、輸血の為の献血は不要になり、欠損した患部は元に戻る。

 ある程度能力を使えば、一時的にその力は枯渇するのかもしれないが、それを踏まえても莫大な価値があるのは明らかだ。

「……とは言っても、人体用の血肉の生成は慎重な作業だから、生成前に精神集中の時間が必要なのよ。それが手術の前の準備って訳ね」

「なるほどね」

 そう言ったミラージオは、そのまま言葉を続ける。

「今夜で火傷の修復が完了するなら、明日にでも退院できるってコトですか?」

 質問に対して、黒髪の医師は自分の首を左右に振った。

「術後から体調の回復を待って……そうね、一週間は術後の経過を見ないといけないわ。退院の目処はそのくらいって所ね。まあ、左足の傷は特に問題無いわ。自然治癒で元通りになるはず」

「それじゃー、シフォンの舞踏会への参加は無理っぽいねー」

 ラヴィが、残念そうな顔をしながら、仕方の無い事実を口にした。

 舞踏会は、三日後の土曜日、ラヴィニアの自宅で執り行なわれる。

 一週間後には、当然、舞踏会は終わってしまっている。

「ところで、そのピンク髪の女の子はお友達かしら?」

 ラヴィの方を右手で指差して、黒髪の医師はミラージオに問った。

「あぁ、そうですよ。いつの間にか手術の応援に駆けつけてくれてたみたいです」

「エインズレイですー。シフォンのこと、よろしくお願いします」

 ラヴィは、明るい笑顔でニコッと笑うと、医師に挨拶を送り、深々と頭を下げた。

「必ず治すから安心して。とりあえず患者のシフォン・エカテリンブルクさんは、一旦七番病室に移すので、貴方たちもまだ一緒にいたいなら、そこまで移動してちょうだい」

 すると医師は、シフォンの体を診療用のベッドごと動かし始めた。

 動かすと言っても、自分の腕と腰と足を用いて持ち上げたのではない。

 医師は、先程説明した【醒血】と呼ばれる能力を使い、診療用ベッドの四脚を薄い血の水球で包み込み、軽々と浮遊させて、五番診療室の扉を潜らせた。

 ミラージオは眠っているアレイダを背負って、医師やラヴィと共に七番病室を目指しながら歩き出す。

 八メートル程、院内をストレートに歩くと、『SEVEN SICKROOM』の十三文字が刻まれた木製のネームプレートが貼ってある病室が、歩く彼らの左手の方に見つかった。

 ネームプレートは、ニメートルに届きそうな程の高さの出入り口の上にあり、出入り口には『扉』と言うものが存在しなかった。

 すぐさま、血の水球が支えるシフォンを乗せた診療用のベッドが、空き部屋だった七番病室の北西の隅に難無く着地した。

 醒血の能力は、作り出した血の消滅まで自在なのか、着地後、一秒の時も置かずに、跡形も無く揮発する様に消え失せた。

「すごいですねー。消すのまで自在ですかー。あれ? でも、白衣の血は付いたままですけどー?」

 血の水球の消失を見たラヴィは、気軽な感じで迷った様子も無く率直に聞いた。

「白衣の血? …………あー、気付かなかったわ。これね」

 黒髪の医師は、血痕の付着した白衣の部分を素手でなぞった。

 たったそれだけ———その動作だけで、紅の血痕が先程の血球の様に消える。

 残されたのは、紅の痕など無い純色の白衣のみだ。

「それじゃあ、私は徹夜明けの仮眠を取るのでここで失礼するわ。ここで患者さんを見守るのも自由。一旦帰ってまた面会に来るのも自由。ご自由にしなさい。あー……、ただ急患で運ばれた時は大目に見たけど、この病院の開業時間は、午前九時〜午後九時までだから、閉業したら速やかに帰ってちょうだいね」

 黒髪の医師はそう勧告すると、シーツの端に寄せられていた薄い毛布をシフォンの肩までかけ、仮眠室が併設された職員の詰所へと歩き出した。

 ミラージオは、ラヴィと一緒にシフォンのベッドまで近付くと、背負っていたアレイダを優しく、朝日が差し込んでいる窓際の壁に寄りかからせた。

「———じゃあ、ボクも寝るから」

 ラヴィが、その言葉に対して驚いた様な表情を作った。

「寝る?」

「ああ、寝るよ。手術が終わるのを徹夜で待っててクタクタなんだ。今は術後だし、問題無いだろう?」

 すると、ミラージオは発言の通り、アレイダの隣の壁にもたれかかると、寝息を立て始めた。

 その寝姿は、藍髪の美少女以外の何者にも見えなかった。

「……やれやれー、アレイダに続いて、ミラージオくんまで寝ちゃうとはねー。シフォンもぐっすりだし、ぼくも寝るのが適当かなー」

 ラヴィが、眠っている皆を見ながら、迷っている様に独りごちる。

 その時、診療用のベッドから反応があった。

「……ァ……ゥ……ア…………」

 か細い声ではあるが、ミラージオたちが待ちかねていた声が聞こえた。

「………………? ……朝?」

 楽器を鳴らす様な美しい声色が響く。

 眠っていたシフォン・エカテリンブルクが、閉じられていた瞼を開け、目を覚ました。

 左腕がギプスによって固定されている為、彼女はベッドから上体を起こそうとしたが、上手くいかずそのままシーツへと後頭部をとすんと落とした。

 シフォンは、近くで笑顔を向けるラヴィへと視線を移す。

「……さっきまでオレンジと黒の夕闇が広がっていたと思ったら、眩しい朝日が差し込んでくる時刻になりましたか。今は一体何時ですか? 双子殺しは?」

「四時十分だよー。殺人狼は……うーん、どうなったんだろーねー。二番地からきみたちが辛くも逃げてきたってのはアレイダから聞いたけどー」

 ラヴィは、懐からピンク色の塗装が施された懐中時計で現在時刻を確認した。

「……そうですか。ここは病院のようですね。私が着ている病院着から察するに」

 右腕で毛布を捲り、シフォンは自分の着ている服を確かめながら言った。

「そーだよー」

「アナタまで駆けつけてくれるなんて素直に嬉しいですね。……ん? アレイダも来てくれてましたか」

 シフォンの視線の先には、深紅色のクロークを纏ったアレイダの姿があった。

 さらに、彼女の視線は動き、一人のスマートな美少女へと止まる。

 いや、美少年か。

「ミラージオ……」

 シフォンは、蕩けるくらい甘ったるく微笑むと、

「……感謝します。無理にでも闘おうとした私は、アナタのお陰で危地を脱しました。アナタが私の相棒で良かったです」

 居眠りしているミラージオに、お礼の言葉を贈った。

「……私は、何日で退院できるんですか? ラヴィ」

「おいおいー。入院したばっかでいきなり退院の話かーい? せっかちだなー」

 ラヴィは、両手を大きく広げて、呆れた時に使われるジェスチャーを見せた。

「教えてください。私は知る必要がある」

 シフォンのしっかりした声には、凛とした意志が感じられた。

 彼女が退院を気にする理由は、おそらく、一刻も早く自由に行動したいからだろう。

 そして、自由に行動したい理由は、

「……一週間前後らしいよー。お医者さんの話ではねー。早く退院して、双子殺しを討ちたいの?」

「他に何か理由がありますか? あの化け狼は私が」

「———倒せるの?」

 シフォンの力のある言葉に、ラヴィの問いが割り込んだ。

 割り込まれた彼女の口が、間抜けな風に開いたまま止まっている。

「………………な」

「ねー、現実を見てみよーよ。鎖姫ちゃん。その化け狼・双子殺しを打ち倒せなかったから、今、養生しなきゃいけないきみがいるわけなんだよー。果たして次で倒せるの? 今度は肩を焼き貫かれる程度じゃすまないかもよー? 目や鼻や耳を全部削がれるかもしれないしー、それ以上の地獄が待ってるかもしれない」

 するとラヴィは、いつもの笑顔とは違う重苦しい表情のまま、シフォンの右肩にぽんと優しく左手を置いた。

「よく考えてみた方がいーよ。きみが頑張らなくても治安維持機関・州都警察本部もいるんだしさ」

 彼女の憂いを帯びた両瞳は、本当にシフォンを心配している様に見えた。

「…………………………」

 ラヴィの真剣な説得に対して、シフォンの唇は押し黙った。

 それだけの効果があった様だ。

「……まー、とにかく休養しよーよ。休養。学院には暫く休むって連絡しといてあげるからさー。ゆ——っくり休むといーよ。ちゃーんと完治するまでさ」

「……そうですね。とりあえずは怪我を癒すのを先決にしましょうか」

 シフォンは、患者用のベッドに横になったまま純白の天井を眺めながら、穏やかな表情を作った。

 彼女がそうしていると、突然、窓際の白壁から聞き慣れた声が響く。

「……ん……ぅ……ん? あれ? わたし、眠っちゃったのかしら?」

 アレイダの声だった。

 深紅色のクロークを纏った彼女は僅かに瞼を開けたまま、両手の指を重ねて大きく伸びの動作をする。

 動作の影響で、かけられていたクロークの隙間から薄ら赤味がかったフリルだらけのネグリジェがチラリと顔を覗かせる。

 シースルーのネグリジェの為、また彼女の柔肌が微かに透けて見えた。

「ん……ふぁああ……。あら、ラヴィも……来てたの。………………んん!? シフォン!」

 寝ぼけ眼だったアレイダは急にぱっちりと目を開けて大声を上げると、ベッドの上のシフォンに向かって毛布越しに勢い良く抱き着いた。

「!!! ア、アレイダ……?」

「あなたっ、め、目が覚めたのね! 待ってたのよ、この時を! 発売が一年も延期になっていた大人気恋愛小説のようにッ!」

 アレイダにとってのその表現は、おそらく彼女なりの最上級の嬉しさを表しているのだろう。

 彼女は、大粒の涙を空中に散らせながら、体全体が小刻みに震えている。

 でも、その顔は、涙を流しながらも優しく笑っていた。嬉し泣きと言うものの様だ。

「み……見ての通りです。手術の方は——————成功したんですよね? ラヴィ」

「うん? そーだよー。まーどーやら成功したのは『第一』手術みたいで、今夜で、詰めの『第二』の手術が待ってるらしいけどねー。でもまー、お医者さんは懸念すべき問題とかは特に言ってなかったから、滞りなく成功するんじゃないかなー?」

 質問されたラヴィは無垢な表情で、自分が知っている情報をシフォンに渡す。

「そう、なの? よかったじゃない、シフォン」

 シフォンを抱くアレイダの両腕が、さらに彼女を締めつけた。

「ぐごほっ……。アレ、イダ……締め……すぎです。傷に、障ります」

 シフォンの綺麗な顔が、激しく真剣に引きつっていく。

 一体どれほどの負荷がかかっているのだろうか。

「あ、あら。ご、ごめんなさい。嬉しさを全身で表現したら、上手くキマッちゃったみたい」

 シフォンの体が、アレイダの抱擁から何とか解放された。

「……はぁ、アナタ、意外に力あるんですね……。マジで苦しかったです」

「? そうかしら? わたしなんて華奢な方だと思うけど」

「……やれやれです。はぁ、痛かった」

 事態が落ち着いたので、シフォンは火傷を負っていない右腕で、アレイダがシワだらけにした毛布を綺麗に整えた。

 すると突然アレイダが、「あ!」と言う大声と共に、凄い勢いで両目を大きく開いた。

「———今、持ってるのを思い出したんだけど、入院の間、きっとヒマになるだろうから、これを読むといいわ!」

 彼女はそう言いながら、クロークのポケットから堂々と一冊の本を取り出した。

「なんですか? その、ぶあっつい本は……」

「『世界終焉の初恋(ピリオド・ラブ)』。恋愛小説史上最高発行部数を記録した国民的大ベストセラーシリーズ!

ティーンエイジャー向けであるにも関わらず、様々な世代の人たちが渇きを満たすように買い

求める至高の傑作。既刊は、現在の時点で41巻。もう本当にスゴいのよっ!! ページを捲る

時の極上の緊迫感と期待感!! 大破壊に見舞われる世界の中で栄える主人公と相手の男の子と

の絶対的で強固な愛!! ああ、作者のマシュー・ベーグルハウス様は今世紀最高の大っ天才だわっ! あんな線の細い美少年(こいびとやく)が大崩壊の最中に怯える心を振り払って、彼女の事を破壊か

ら護り抜く様をあれだけリアルに描ききれるんだから! あのシーンは、第1巻の時点でも格別の出来! 素晴らしい! 素晴しすぎるッ! そして、2巻の冒頭からも文化遺産級の名シーンが続々と……」

「……わ、わかりました。話はわかりました……」

 シフォンは、何かに怯えた様な顔をしながら、

「是非読んでっ! すっっっごく面白いから! ヤバいくらい!」

 震える右腕で、話に持ち出されたアレイダが差し出す『世界終焉の初恋』の本をおそるおそる受け取る。

「……じゃ、じゃあ。よ、読んでみます……」

 渡したアレイダの表情が、突然気象学者が驚くほどのレベルの高い快晴の様に晴れ渡る。

 また、初めて親友と呼べる存在ができた人付き合いの苦手な幼い子供が、心の底から喜んだ時の表情にも見えた。

 受け取ったシフォンは、薄い毛布の上にアレイダオススメの小説を静かに置く。

「……はー、アレイダー。小説の世界に熱血突入するのも、熱血宣伝するのも、個人の自由だけどー。今のシフォンは、言わば『片腕』なんだよー? 無理に読まさせるのはさすがに悪いんじゃない?」

「…………だって、好きなんだもの。慣れれば、片手の読書も問題無いと思うし……」

 アレイダはむっとした顔をしながら、木製の床に目線を送って小声で話す。

「………………」

「………………」

 シフォンの病室に、無を感じさせる沈黙が流れる。

 十中八九、この沈黙は、その場の誰も予期していなかっただろう。

 その独特の空気は、一切の発言を許さない様な雰囲気を醸し出していた。

 しかし、

「……だ、大丈夫ですから! ほら! ちゃんと読めますし! アレイダ、そんなに気にしなくていいんですよ」

 そんな中で、シフォンが勇気を振り絞る様に言葉を紡いだ。

 彼女は必死に、毛布の上に置いてあったアレイダの本を自分の枕元に移動させて、本を読む為に頭を傾けながら、片腕で器用に読んでみせた。

 懸命なその姿には、友達に対する心配りが伝わってくる。

「……そう? それならわたしもいいんだけど」

「でもまー、無理はしない方がいーよー。傷口に障るし」

 アレイダとラヴィの二人が、シフォンを労る言葉を送った。

「———ふ……あぁ……、何なんだ、キミたちは? 折角寝ていたのに……、そんなにボクを寝不足でストレス死させたいのか? あるいは、ブチギレて欲しいのか?」

「「「あ」」」

 その場にいたシフォン、アレイダ、ラヴィの声が綺麗に重なった。

 声の主は、眠りに就いていたミラージオだった。

「……ミラージオ!」

「……ン? ……ああ、シフォン……。目覚めたのか。よかったな」

 シフォンの嬉しそうな声に対して、ミラージオは寝惚けた表情で返答する。

 ようやくこの二人が、言葉を交わせられた瞬間だった。

「本当に、よかった」

 そして、ミラージオの表情には、シフォンが意識を取り戻した事に対する安堵が感じられた。

 アレイダの様に、感極まった大声や涙は無かったが、大切な人に対する思いやりがミラージオの言葉からは滲み出ていた。

「……まったくそのいつもの笑顔が見れただけでも、双子殺し相手に頑張ったかいがあったってモノだよ」

 昨日の三番地の激闘に対して、ミラージオは大きな溜め息を吐く。

「アナタには本当に助けられました。やはり私の相棒は、アナタでなければいけませんね」

「……いや、まだまだ力不足だよ。キミの『左腕の傷』がそれを証明している」

 病室のガラス窓にもたれかかった彼は、シフォンの左手の方にピンクの瞳を動かす。

「でも実の所、闘いに傷は付き物だ。それ無しで闘うのも無理に近い。だけど、その傷を一筋でも少なくする為に必死に動くコトはできるはずだ」

 ミラージオの戒めの言葉が、強く重くその場に響き渡る。

「守りたい相手が友達だったら、なおさら」

「ミラー……ジオ……」

 ベッドに横たわれるシフォンが、彼の名を呟く。

「ありがとうございます」

 相棒に向けられた彼女の言葉には、極上の喜びが感じられた。

 それは、彼の言葉が頼もしいからだけではなく。

 こうして、また顔を見て話せる事が———いつもの様に会える事が、とても嬉しいのだろう。

 その感情を語るかの様に彼女の笑顔は、とても綺麗で、とても穏やかだった。

「まあ、実戦ってのはなかなか上手くいかないモノだけどね。相手が強敵なら余計に」

「でも、二人とも大したものよ。あの殺人鬼・双子殺しと戦争して帰って来れたんだから」

 残念そうなミラージオの言葉をフォローする様に、アレイダが二人の健闘を褒め讃える。

「わたしは当選者じゃないから、鉢合わせした場合、確実に死んでたわ。武術の心得もないし、頼りになる武器も持ち合わせてないし、逃げる為の技法もないしね」

「それだったら、ぼくも同じようなもんだよー。せいぜいこの刺激物(レツドペツパー)で催涙を狙って、隙を

見て逃げる程度だねー。まー痴漢なんかの対処法と大して変わらないなー」

 笑顔のラヴィニアは、懐から出したトウガラシの粉末が入った小瓶を右手で持って示す。

 その赤い粉末は、学院でシフォンとミラージオに見せた物と一緒だった。

「……あなた、そんな物持ち歩いているの?」

「うん。危険な時のためにねー。これ一本だけじゃない。まだ九本控えてるよー」

「用意がイイね。双子殺し相手だったらそのくらいの方がイイ」

 ラヴィの非常事態に対するしっかりとした用意に対して、ミラージオが適切であると褒める。

 双子殺しは、犬同様に嗅覚の強い『狼』である為、彼女が持つ刺激物は人間以上の効果が期待できるはずだからだ。

「まー、使わないのに越したことはないんだけどねー。でも、そーも言ってられない現状だろー?」

 そう言いながらラヴィは、刺激物の小瓶をコートの中に素早くしまった。

 すると、

「……さてと! ぼくは帰ることにするよー。シフォンの傷もちゃんと治りそーだし、悪いけど、これから少し予定があるんでねー」

 彼女は踵を返し、高さが二メートル近くある七番病室の出入り口へと歩を進めた。

 他の三人が、去ろうとするラヴィの姿を目で追う。

「舞踏会の準備かい?」

 ミラージオが、質問を投げかけた。

「まー、そんなとこだけど、他にもいろいろ大変なんだよー。ぼくも一応、エインズレイ家の一員だからね。やるべきことは山積みなのさー。じゃ、またねー」

 別れの言葉を送って、ラヴィは漆黒のコートを棚引かせながら、七番病室を去った。

「……もうちょっといればいいのに。そんなに舞踏会や家の事が忙しいのかしら?」

 腑に落ちない様な表情をしたアレイダが、何気ない愚痴をこぼす。

 しかし、ラヴィ———ラヴィニア・エインズレイは、伯爵家の令嬢である為、本人の言う通り、様々な家庭の事情があるのだろう。

「アレイダ、キミも帰った方がイイ。昨日の夜からずっと病院にいたから疲れているハズだ。寝足りないだろう?」

「わたしはいいのよ……。たかが一夜をまともに寝ていないくらい……」

 アレイダが、ミラージオの言葉に抵抗する。

「イイから帰っておけって。ここはボク一人で大丈夫だ。仮に双子殺しがボクたちに強襲してきた場合、キミまで助けられる自身がない」

「…………………………」

 正当な理由を聞いて、彼女は押し黙る。

「———でも!」

「寝てください、アレイダ……。私は大丈夫です。火傷の修復は今晩で終わるみたいですし、一旦家で仮眠を取ってください。また明日にでも来てくれたら嬉しいです」

 アレイダの言葉を遮る様に、シフォンの説得の声が優しく響いた。

 諭されたアレイダは再び黙り込んだ。

 このまま残って、病床のシフォンを見守るか。

 シフォンの言う通り、体を休めてからまた来るか。

 心の中は見えないが、おそらく彼女の考えている事は、その二択のはずだ。

「……わ……わかったわ。でも、明日じゃなく、今晩また来るわ。あなたの事、気になるから。それじゃあ、また後でね……」

 言葉に余韻を残しながら、アレイダもラヴィを追う様に、病室を退室する。

 後に残ったのは、シフォンとミラージオの二人。

「さて、ボクはこれで帰れなくなった」

「自分から仕向けておいてなんですか」

 シフォンが、ミラージオに楽しげな顔で指摘する。

「……そうだ。シフォンに一つ訊きたいコトがあったんだ」

 するとミラージオが、休んでいるシフォンに向かって質問を訴えかけた。

 訴える彼の表情は、ことさら真剣で凛々しく見える。

「?? なんですか?」

「シフォン———キミは」

 二人の視線が重なり合う中、

「まだ、双子殺しを打倒するつもりか?」

 たった一つのその問いかけは生まれてきた———。

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