LOT・2
警告:LOT・2にはやや性的な単語が登場します。ご注意ください。
二頭立ての馬車は、中央区一〇〇番地のある新書店に辿り着いた。
さっきまで、シフォンとミラージオがいたのは、中央区一〇二番地だったので、馬車を使えば、十数分で移動できる距離だ。
新書店は、上に長い長方体の様な形をした白レンガの二階建ての建物だった。一階は、玄関から入ってすぐに、薄いソフトカバーの新書を大量に積んだ木製の台が置いていて、本の宣伝が記された羊皮紙がそれぞれの新書の近くに、赤い鉱石を重石にして設置されている。一階の床は、石灰岩を加工した石材で造られていて硬かった。
レンガが敷きつめられた白壁の壁際には、木製の本棚がそこかしこに設えられていて、赤、青、白、黒、深緑、灰色の背表紙をしたソフトカバーやハードカバーの新書たちが、本棚の中にカラフルに整頓されていた。
二階は、売れ行きが悪くて、ずっと売れ残ってしまった新書をまとめている階で、設えられている壁際の本棚に、買い手を待っている傷み始めた本たちがびっしりと隙間無く収められている。二階の床は、木材を敷きつめた床で、客が歩くと時折、ギシギシと軋み、古い家屋の様な特有の音を響かせていた。
「えーと、『だれでもわかる当選関連書』は……」
シフォンは、ある新書を店内の一階で探し回っていた。
彼女が言った『だれでもわかる当選関連書』とは、近年発行され、数年で学校指定参考書まで登り詰めた、当選の学術知識が載っている新書だ。
主に、彼女やミラージオが通う学院の高等部の上級生が利用する参考書で、広範で、詳細な情報が記載されていて、当選に関しての新解釈まで記されている分厚く堅いハードカバー本である。
「ありました。ありました」
西の本棚に目的の新書を発見したシフォンは、本棚からその一冊の本を抜き出す。
見つけた新書を片手に、ミラージオがうろついている上階へと向かった。
「シフォン、参考書、見つかったの?」
ミラージオは、階段から上階へ上がると、すぐ近くにある東の本棚で立ち読みしていた。
「ありましたよ。これです」
シフォンは、右手の青いハードカバー本を前に出し、ミラージオに示す。
「明日の授業で必要なんだろう? 見つかってよかったね」
「ミラはいいんですか?」
「ボクは、年度の初めに買っておいた。どうせ、必要になると思ってね」
二人は、参考書の事を話しながら、階段の方からは若干隠れている、奥にある北の本棚へと足を進めた。
新書店の床が、二人の体重により軽く軋む。
すると、奥の北の本棚で一人の少女が、真剣な表情で新書を立ち読みしていた。
「ん?」
「あれって……」
二人が、その人物をなぜか見つめていると、注目の人物がそれに気付き、本の文章から目を放し、その二人に対してこう言った。
「あら。シフォンとミラージオくんじゃない」
「アレイダ!」
その少女は、夕焼けの様なオレンジ色のショートヘアの少女だった。
鋭い切れ長の吊り目の持ち主で、瞳の色は髪と同じオレンジ。
瞳の前には、赤いフレームの眼鏡を掛けていて、知的な印象を受ける。
すっきりとした高い鼻に、柔らかく微笑む唇。
その容姿は、シフォンに負けないくらいの綺麗な美少女に見えた。
彼女の落ち着いた表情は、本とのセットがよく似合うものだったが、着ている服が、真っ赤な色をしたアフタヌーンドレスなので、落ち着いた雰囲気をぶち壊し、とても派手な雰囲気を漂わせている。
「グウゼンだね。一人?」
「そういうそっちは二人でデートかしら? 羨ましい限りだわ」
「デ、デートって……」
「あら、違うの?」
アレイダと呼ばれた少女の恋愛発言に、ミラージオは頬を少し赤く染めて、動揺した様な仕草をするが、
「ん?」
「シフォン?」
シフォンは、それどころの反応じゃなかった。
猛炎の様に、顔全体を激しく真っ赤に染めると、表情がガチガチに硬くなり、両手と唇を小刻みに震わせている。
「デデデデデ、デートッ……!?」
どうやら彼女は、自身の恋愛話に敏感で、とことん弱いらしい。
するとアレイダが、その様子を見て、
「シフォン……。そこまで恥ずかしがると、もっとからかいたくなるくらい可愛いわね。私の好きな恋愛小説でも、ここまで動揺するキャラはいないわよ」
「ど、どど動揺? な、何言ってるんですか? ここ、これは、アナタのレッドドレスを見て唐突に、本能的に、ヒートアップしただけですよ」
「へえ。あなた、いつもわたしのドレス見て興奮してたの。でも、いくら恋愛を夢見るわたしでも、発情した女の子のアプローチは受けられないわ」
「は、はは、発情って……!」
「あと、こんな公衆の面前で発情するなんて、さすが鎖姫様は性癖が違うわね。すごいわ」
「—————————ッ! アレイダァァァァ!」
アレイダのペースに乗せられたシフォンは、デートの件で揶揄された先程よりも、顔を真っ赤にし、大声を上げた。
いつの間にか、からかった張本人は涼しい顔をしながら、新書のページに目線を移して再び読書に没頭していた。
「ここは書店よ。静かにね」
アレイダの言う通り、周囲の客たちや店員たちが、騒がしいシフォンの方に視線を集中させ、睨みつける。
「まあまあ、落ち着きなよ、シフォン。興奮し過ぎだって」
「だから、してないですっ」
大声を出してしまったシフォンは、視線を気にしているらしく、声を小さめにして、自分の誤解を修正しようとした。
「ところで、あなたたち、何の本を買いに来たの?」
「……参考書ですよ。『だれでもわかる当選関連書』です」
「『だれでもわかる当選関連書』? あーあー! 明日必要な参考書じゃない! わたし、忘れてたわ! よかった〜。あなたたちに会ってなかったら、明日授業受けれなかったわ」
「そうかい。それはよかったね」
「礼には及びません」
シフォンは、アレイダの持っている新書の方に眼差しを向けた。
「アナタの方は、何を買いに来たんですか?」
「これよ」
アレイダは、読んでいたソフトカバーの新書を前に出して得意顔で示す。
「二重人格の当選者の少年と、平凡な普通の人間の少女が恋に落ちる恋愛小説。片方が二重人格だから、恋愛状況が三角関係になってて、どっちの人格が女の子と結ばれるのか気になって仕方が無いのよね。読んでみる? 読んでみる?」
「いや、イイよ」
「私もいいです」
シフォンとミラージオは、強引に本を差し出すアレイダの薦めを断る。
アレイダは、気に入らない様な顔をすると、早く読みたくて仕方が無いのか、本のページへと視線を変え、物語の続きを読み始めた。
アレイダが読書に集中し始めたので、シフォンとミラージオも、二階の売れ残った本を眺め始める。
シフォンは、階段に近い南の本棚へ。
ミラージオは、アレイダと同じ位置の、二階の奥にある北の本棚を見渡す。
彼とアレイダの方からは、中央の本棚に隠れて、シフォンの姿が見えないようだ。
「ねえ、ミラージオくん。絶対読むべきよ」
「まだ、その話続いてたの?」
「あなたにとってもイイ話なのよ。ミラージオくん、シフォンの事が好きなんでしょ〜?」
アレイダは、中央の本棚を壁にした、壁の向こう側にいるシフォンに聞こえない様にしているのか、小声で話した。
「!」
再びミラージオは、アレイダと出会った時の様に自分の頬を赤らめる。
「恋愛小説ってモノは、文字通り、恋と愛の知識の宝庫よ? シフォンをカノジョにしたいなら、読んでおいて損は無いと思うわ」
なおもアレイダは、ミラージオに小声で語りかけた。
「たしかに一理あるけど……。……んー……。……わかった。だけど、ココで買うのはダメだ。シフォンに見つかると勘繰られる」
「勿論。買うのなんてどこだっていいわ。内容について語れる友達ができる見込みが立てば、わたしはそれでいいの」
「いや、ボクは恋愛の参考として買うだけで、ソコまで入れ込む気は……」
「気はなくても、入れ込まされてしまうモノなのよ、恋愛小説ってヤツは」
当事者であるアレイダの意見には、恋愛小説愛読者としての妙な説得力があった。
恋愛話の終わったミラージオとアレイダは、シフォンがいる南の本棚へと歩を進める。
「——————シフォン?」
本棚を眺めていたシフォンは、二人の方へと向き直った。
「何の本を探してるの? シフォン」
ミラージオも、彼女が眺めていた本棚を眺める。
「ただなんとなく見渡してるだけですよ。まあ、それでも二、三冊ピンときたのがありましたがね」
「買う本が決まったのなら、そろそろ帰ろうよ、シフォン。日が暮れる」
「ええ、そうしますか」
新書店の出入口の近くにある、一階の支払所に向かうアレイダとミラージオ。
すると、遅れて進み出したシフォンが、二人の視線が消えたのを見計らった様に、本棚にあった一冊の茶色のハードカバー本を、持っている四冊の本の中に紛れ込ませた。
その本のタイトル名は———『涙を無くした少年』。
階下に続く階段に足音を響かせながら三人は、一階の支払所に辿り着いた。
しかし、そこで一つの異変が生じていた。
「———アレイダ、これはなんですか……」
「本に決まってるじゃない」
支払所には、アレイダが購入する本が置かれていた。
しかし、問題なのは、その量だ。
アレイダが支払所に向かった時には、例の『二重人格の当選者の少年と、平凡な普通の人間の少女が恋に落ちる恋愛小説』しか持っていなかったが、その本を支払所の木棚に置いた瞬間、アレイダは、出入口の側で待機していた彼女の従者らしき四人の黒服の一人に、一枚の羊皮紙を授けて、「『だれでもわかる当選関連書』も持ってきて」と言った。
すると、四人の黒服の従者は、数にして五十二冊のソフトカバーやハードカバー本を、一階と二階の本棚で見繕い、支払所の木棚に、山の様に積み上げた。
支払所の店員は、その様を見て、唖然としていた。
「買い過ぎでしょう」
「ついつい買い過ぎてしまう物なのよ。特に恋愛小説は」
アレイダの家には、彼女の『個人図書館』があるらしく、全てが恋愛小説で構成されたその特殊な図書館の蔵書は、優に二千冊を超えるらしい。
その蔵書を彼女は、全て読了しているらしいが、今の今まで異性を好きになった事が一度も無いらしく、いつか現実の恋愛をしてみたいと友達によく話している。
「いつ羊皮紙に買う本を書いたんだい?」
「来る前に書いたのよ。追加は口頭で伝えたし」
そうこうしている間に、アレイダの支払所での精算が終わった。
「四三五〇七アリアになります」
ちなみに、この国の通貨は、『アリア』で統一されている。
アレイダは、ドレスの中から上等な革財布を取り出すと、紙幣と硬貨を選び出し、支払所の店員に渡した。
アレイダが買った五十二冊の本たちが、五枚の紙袋に丁寧に入れられていく。
店員が本を紙袋に入れ終えると、四人の黒服たちが、すかさず屈強な腕で持って、アレイダとともに新書店の外へ出て行く。
次に、ミラージオが精算を終え、アレイダと同じ様に新書店の外に出て行った。シフォンの精算が最後だった。
新書店の側には、二頭立ての四輪箱形馬車が二台待っていた。
アレイダの馬車は、シフォンの馬車と形式は同じ物だったが、こちらは客車が白塗りで、アレイダの家の紋章である『黒薄荷』が、そのまま黒く客車の側面に描かれていた。
シフォンとミラージオが、新書店に入った時はこの馬車は見当たらなかったので、別の場所で待機していたのだろう。
紙袋の五十二冊の本たちは、既に積み込まれたらしく、姿を消していた。
「あなたたちは、これからどうするの?」
「私の家に戻りますよ。ミラージオも居候の身ですから、一緒に帰ります」
「そう。じゃあ私も家に帰るわ」
アレイダは、この中央区一〇〇番地から遠く離れた、中央区二番地に住んでいる。
彼女の兄は、他の州を治める伯爵で、この州の領主と仲が良く、この州の二番地に別邸を構えていた。
彼女は、学院から近いという理由で、その別邸に単身で引越して来て利用しているのだ。
「またね」
「ああ、また明日学院でね」
「さよならです、アレイダ」
アレイダと黒服の従者たちが客車に乗り込み、赤塗りの革のクッションに腰を沈める。
金属製の扉が閉められ、御者台の少年が、手綱を使って馬に合図を出し、アレイダの馬車は発車した。
馬の小気味良い蹄の音が、どんどん遠くなっていく。
不思議な事にアレイダは、二人の同居をからかわなかった。おそらくデートの件で満足したのだろう。
「行こう。シフォン」
「ええ。とっとと帰りましょう。ミラージオ」
二人は、黒塗りの馬車の客席に乗り込むと、青色のクッションのきいた革と綿でできた座席に座り、扉から一番近いミラージオが黒の扉を閉めた。
馬車が動きだし、二人は中央区一〇〇番地の新書店を後にする。
二人が向かう場所は、中央区一番地のエカテリンブルク家本邸。
その邸宅は、この州の中心となる場所だった。
するとミラージオは、青の座席に置かれた新聞を手に取り、大きく広げる。
新聞名は、『シアーズベル・タイムズ』。
『シアーズベル』とは、この州の中央区全番地を総称した『州都』の事である。
州全体は、中央、北、南、東、西の五区で区分されていて、シフォンたちの現在地である『シアーズベル』の区域は、他の東、西、南、北区よりも人口密度が高く、都会的で発達しているので、いつか『州都』に上京するのを夢見ている他区の者がいるほどだ。この州の要とも呼べる。
『タイムズ』とは、この国の新聞名によく用いられる名前で、主に公共新聞がその名を冠する事が多い。
「さっきの当選者発表式典のコトが載ってるよ。先月度に抜擢された当選者は、全国で五人。ほら、発表会に出てた三人の顔が写ってる」
「あの式は、先月度の発表ですよね? 今月度は誰になるんでしょうか?」
「そんなコト、今の時点では神様と【当選協会】にしか分からないよ。抜擢は明日の夜だから、明後日になれば嫌でも分かる」
するとミラージオが、『シアーズベル・タイムズ』の今日の一面をシフォンに言う。
「『女大公・新政策制定。エカテリンブルク州の当選者発表式典。予言の当選者、来月で休暇終了。国民的ベストセラー最新刊、来月発売』」
「国民的ベストセラーって、何の本ですか?」
「ほら、アレイダがよく読んでる世界の命運をかけるあのラブコメだよ。先月めでたく発行部数、一億部を突破したっていう王道のアレ」
「一億部って……すごいですね。この国の四人に一人は持ってる計算じゃないですか。今度アレイダに貸してもらいましょうか」
「アレイダは恋愛小説仲間を増やしたがってるから、熱心にイロイロ内容を教えてくれそうだね」
「そうですね。内容を楽しそうに教えるアレイダの姿が目に浮かびます」
シフォンの言葉の後、ミラージオは読んでいた新聞を畳んで青の座席に置く。
「【空鎖迷獄】、もうマスターしたんじゃない?」
「ええ。私の能力の特性上、見た目には何の変化もありませんが、その効果は我ながら絶大です」
「器用な能力だよね。ボクの能力は単純で一直線だから、そんな芸当はできないよ」
「ですが、攻撃力ならアナタの方が上でしょう」
「日常向きじゃないよ。一度発動したら危険極まり無い」
「……ミラ。アナタ、自分の能力が嫌いなんですか?」
「好きとか嫌いとかじゃないんだよ。ボクの能力は『危険』だから、『危険』だという自覚が、絶対に必要なんだ。あえて言うならば、ボクは自分の能力を『厄介』だと思ってるよ」
それから二時間程かけて、黒塗りの箱形四輪馬車は、一番地にあるシフォンの自宅へと舞い戻った。
日はすっかり暮れて、州都の建物の明かりたちが、黒の夜闇を照らし出す。
シフォンの自宅———エカテリンブルク伯爵家本邸は、灰色のブロック塀に囲まれた広大な敷地の中にある邸宅で、敷地の広さは、一〇二番地の州庁前広場の三倍はある。
ミラージオは、他州からこの州の学院に通う為、この家に居候している。
敷地の地面には、至る所に芝生が敷きつめられていて、庭師の大変さを痛感させられた。ブロック塀の内側には、高く育ったミモザの庭木たちが塀に隣接し、丁寧に刈り揃えられている
のが見える。庭木群の側にある敷地内の邸宅は、南側に位置する『本館』と、北側に位置する『分館』の二軒で全部だ。
どちらも、カーキ色の館の壁に張り出された複数の出窓が特徴的な屋敷で、州庁の建物とはデザインが異なり、無駄なデザインを徹底的に排除した立方体の形の瀟酒な建物だ。縦・横・奥行きは約三十メートルに至る。屋敷の持ち主と人間は、ほとんど『本館』の方を利用し、『分館』の方が利用されるのは、他の上流階級との社交会・舞踏会を行う時ぐらいだ。
シフォンとミラージオは、『本館』の東側に隣接するレンガ造りの厩舎に乗ってきた黒塗りの馬車を停めて、馬車を操っていた御者と別れた。
二人は、『本館』の大扉を開け、待っていた邸宅の使用人たちと挨拶を交わした。
『ローストチキン・シーザーサラダ・バゲット五本・オニオンスープ』
それが、エカテリンブルク伯爵邸の今夜の食事の献立だった。
伯爵邸の食堂は、横に長い長方形の大きなテーブルが中心に置かれ、そこに木製椅子が規則正しく十脚揃えられていた。木製のテーブルの上には、紅のテーブルクロスがシワ一つ無く綺
麗に掛けられ、そこに二人分の料理が置いてあり、料理の側には、金属製の食卓用金物が気品良く並べられている。
食堂の椅子に座ったミラージオは、ローストチキンを実に美味しそうに頬張り、シフォンは、何か不満がある様にむすっとした表情をしながら今夜の料理を凝視していた。
側にいた料理人たちが、シフォンの表情を見て、嫌いな料理を出してしまったかと不安な表情を浮かべながら、小声で耳打ちし合っていた。
すると、ミラージオが不思議そうに尋ねる。
「どうしたの、シフォン?」
「……今日は」
「?」
「今日は私が作るつもりだったのに、どうして作らせてくれないんですか?」
シフォンは、それを料理人ではなく、ミラージオに面と向かって言う。
実は、二人が帰ってきた時点では、まだ夕食は用意されていなかった。
普通、夜が近付けば、夕食の準備が行われるものだが、「明日の夜は私が作ります」と前日にシフォンが料理人たちに発表していたので、シフォンが帰って来るまで料理は用意されていなかったのだ。
しかし、今出ている料理は、料理人たちが作った物だった。
なぜかというと、ミラージオがシフォンの調理を止めさせて、料理人に改めて作ってもらったからだ。
「なぜですか? ミラージオ」
シフォンの問いに、ミラージオは優雅にオニオンスープを啜ると、さも当然の様にこう答えた。
「———シフォン、キミは料理を焦がすワケではない。作る料理がマズいワケでもない。ただ、キミの料理は、食べた人の寿命を縮めるほどの超絶高カロリーなんだ。ボクは自分の体の心配をしてるんだよ」
「超絶高カロリー? そんなはずは……」
「この前、一つの料理を食べた直後に、体重が6キロも増えたボクに向かって、それが言えるのかい?」
「うっ……」
シフォンは、ミラージオの予想外の告白にたじろいだ。
「アレから、元の体重に戻るのは大変だったよ。有酸素運動に、食事制限、マッサージ。イロイロ試したけどなかなか効かなかった。6キロ痩せるコトに成功した時は、感動モノだったよ」
しかし、ミラージオのスラリとした体は、そんな事が起きた事を全く感じさせなかった。
「す……すみません……」
シフォンが申し訳無さそうな顔をしてうつむく。
自分の料理の問題点を指摘され、ショックだった様だ。
しかし、シフォンはすぐに暗い顔を払拭すると、凛とした顔でミラージオに言った。
「今度は、気をつけます!」
すると、食堂の木扉がコンコンと叩かれる。
「失礼します」
茶髪の若い家政婦が、一人の客を連れて現れた。
「お客様です」
開かれた木扉から現れたのは、紅色のイブニングドレスに身を包んだアレイダだった。
「アレイダ……?」
「何しに来たの?」
「友達が遊びに来ちゃいけないのかしら? ほら、チョコカップマフィンをお土産に持って来たわよ」
アレイダは、持っていた手提げ木籠を、二人の前に出して示す。
「……マジで? やった! さすがアレイダ、わざわざボクのためにこんなモノを用意してくれるなんて」
「私の料理は食べないくせに、アレイダのお菓子は食べるんですね」
ミラージオは、奥の厨房から人数分の白い陶器の皿を、誕生日の様に嬉しそうに持って来て、シフォンは、機嫌の悪そうな顔をしてミラージオの悪口を言った。
アレイダが、二人に倣う様に、二人の近くの食堂の木製椅子に座る。
彼女は、ミラージオとシフォンが夕食を食べ終わるのを少し待った。
二人が食べ終わると三人は、ミラージオが持って来た白皿に寄せられたチョコチップマフィンをデザート替わりに口にする。
「そういえば、明日の一限目、何だったかしら?」
「【当選協会】についての評論ですよ」
シフォンが言っている【当選協会】とは、シフォンやミラージオ、アレイダたちの住んでいるこの国の当選を司る正体不明・神出鬼没の団体である。
当選者の抜擢・能力の供給を行っているのが他でもない彼らで、二世紀も前からその存在は確認されていて、メンバーは不老不死なのか、全くその姿を変えていないという、当選者以上に異質で、規格外な者ばかりで構成されている。この国の政府がその正体を長年追っているが、目覚ましい成果は出ていないらしい。
「一、二限続けてやるんだろう?」
ミラージオが、明日の授業予定をシフォンに確認する。
「ええ、そうです」
「当選、当選って言っても、当選者本人として断言できるよ。イイコトばかりじゃないってね」
「わたし、当選者じゃないから体感したことないんだけど、キツいんでしょ」
「『夜に眠れない』のも大変なんですよ。明日の日の出は何時ぐらいなんでしょうか。……そういえば、『ラヴィ』は、こうやって集まっている時、必ずどこかから現れると思うんですけど」
「ああ、あの子……。あの子は、週末にあの子の自宅で開かれる舞踏会の準備で大忙しなのよ。なんでも女大公まで出席するとか……」
「この国のトップが、この州に来るんですか? それは初耳です」
「さすがに地位が地位だから、出席を公にはしてないのよ。舞踏会に反体制派のテロリストがまぎれる危険性もあるから」
この国のトップが訪れるのだから、その舞踏会の警戒態勢は、なるほど厳しいものになるだろう。この州の警察組織も総出で、女大公の警備に駆り出されてもおかしくはない。
「なるほどね」
ミラージオが、納得の声を出す。
「で、わたしがここに来た理由はね、エカテリンブルク伯爵家をその舞踏会に招待するためなのよ。ミラージオくんの実家も伯爵家だから、あなたにもぜひ参加して欲しいわ」
アレイダは、本屋で伝え忘れたと自身の懐から招待状を渡した。
渡された二人は、緋色の封筒から招待状を出し、本文を眺める。
「堅ッ苦しいのは苦手なんだけどなぁ」
ミラージオが本文を見ながら、面倒臭そうに呟いた。
「週末でしたよね、アレイダ」
「そうよ。アナタの両親は、出席できるかしら?」
「父上は伯爵としての州庁の仕事が山積みでしょうし、付き添いの母上はそんな父上から離れたがらないでしょう」
アレイダはその言葉の後、不意にクスクスと可愛らしく笑う。
「相変わらず甘えん坊なのね。あなたのお母様」
シフォンも、アレイダにつられてコロコロと笑った。
「甘えん坊と言うか、あれは恥ずかしがり屋の方が正しいと思います」
「わかったわ。伯爵と夫人は参加できないっと……」
アレイダは、どこからか出した舞踏会の出席名簿に×を加えていく。
「まあ、一応後で訊いてみます」
「おねがい。まあ、せっかく女大公が来るんだから、色々と当選関連の事を訊いてみたら? なんせ、あの女性は———」
すると、彼女の声を邪魔する様に、食堂の柱時計が午後9時ジャストの鐘を鳴らす。
「あら、もうこんな時間? 突然来てなんだけど、突然帰らせてもらうわ」
アレイダは、時計の針を見ると、椅子から尻を上げた。
「帰るの?」
「ええ、目的は果たしたわ。二人は出席でいいのよね?」
「はい」
「イイけど、ずいぶん早足だね。何か急いでるのかい?」
「ええ。早く帰って今日買った恋愛小説を読み尽くしたいのよ。わたしの『図書館』がわたしを待ってるわ」
アレイダは「じゃあ二人とも明日学院で」と、食堂の扉の前で待っていた従者を連れて邸を去る。二人は、そんな彼女に手を振って見送った。
ちょうどその頃には、アレイダの持ってきたチョコチップマフィンは白皿から消えていた。
「アレイダは、将来恋愛小説家を目指すとか言い出すかもね」
「読むのと書くのはまったく別次元の話ですよ。それにそんな甘い世界じゃないと思いますけど」
「……小説と言えば、シフォン」
二人は、アレイダを見送ると、食堂の木椅子に座ったまま話を続ける。
「何ですか?」
「キミ、さっき本屋で『涙を無くした少年』って本を買っただろ」
「!?」
シフォンは、予想外の事が起こった様な顔をして、ミラージオの顔を見る。
「しかも、ボクたちに隠すように、ね」
ミラージオは、真剣な顔でシフォンのその顔を見返した。
「……どこで分かったんですか? レジの会計も見られないようにしたはずですが」
「キミが眺めていた本棚を見た時だよ。見渡してみて何の本を眺めていたのか、ピンと来たんだよ」
「………………」
シフォンは、ミラージオの勘の良さに黙り、苦々しい表情を作る。
ミラージオは、やれやれと頭を掻くと、
「何も隠すコト、無いのに」
「それは……」
「……まあ、キミにとっては切実な問題なんだろうね」
ミラージオは、その言葉の後、こう呟いた。
「———『涙』が流せないキミには……」
「………………」
「……シフォン……」
「……逆に問います。悲しい時に『涙』が流せるのは、どんな気分ですか?」
「………………」
今度は、ミラージオが黙り込む。
苦々しい表情のシフォンは、彼の表情を見ると、彼と入れ替える様に話し始めた。
「……私が初等部から中等部に上がる時、担任の先生と『お別れ会』をやったんですよ。クラスの皆は感極まって大泣きしていたんですけど。私は当選者としての能力の影響で、悲しみの感情を抱いても、『涙』が流せなかったんです。その時に仲良くしていたコに言われたんですよ。『シフォンはなんで泣かないの? 先生とはこれでさよならなのに、「涙」一つ流さないなんておかしいよ』……って。……それから私は今まで、色んな悲しい事と向き合ってきましたが、どんな事があっても、たった一滴の涙すら流れませんでした」
「………………」
シフォンの切実な表情が、ミラージオの言葉をなおも止める。
「過去も、現在も、私の『涙』は枯れたまま———」
彼女は、たった一つの事だけが許せなかった。
「———そんなのはもう嫌なんですよ」
そして、それが彼女の目的に繋がる。
「……だから、私はいつか『涙』を流したいんです。今まで流せなかった分、大泣きして喚き散らしてみたいんですよ」
「…………………………そうか」
話を聞いたミラージオは、溜め息を吐いてシフォンの方を見ると、さらに言葉を続けた。
「……なんて言うか、後ろ向きな目標だな」
「たしかに前向きではありませんね……」
「なにしんみりしてんだよ。前向きだろうが、後ろ向きだろうが、流してみたいんだろ? 『涙』」
「はい」
シフォンは、後ろ向きな目標でも、凛とした顔で拳を握りしめて言った。
「だったら、いつか叶えればいい。ソレがキミの望みなら。ボクはキミの相棒だ。その道行きをサポートするコトくらいできる」
「…………ありがとうございます、ミラージオ」
そう言ったシフォンは、ミラージオの言葉を聞いて、微笑んだ。