『通り雨』【掌編・文学】
『通り雨』作:山田文公社
焦げたフライパンから煙が上がっていた。椅子に座った女は、ぼうっとした表情でそれを見つめている。やがてフライパンから白い煙がもうもうと上がり、フライパンから火が上がった。部屋中焦げた匂いが充満し、やがて火災警報機がけたたましく鳴り響いた。
しばらくすると玄関を叩く音と、ドアチャイムが鳴り響く。しかし女は無表情のまま椅子に座り、正面を向いたまま微動だにしなかった。そしてドアが開くと、消化器を手にしたマンションの管理人が火元を探し始めた。付き添いの住人が焦点の定まらない女を見つけた。
「大丈夫ですか?!」
大声で尋ねられても全く反応せず、ただ、ぼうっとしたまま焦点の定まらない目で宙を見ていた。
「しっかりしてください!」
女性住人は彼女の肩を持ち揺さぶるのだが、やはり視点は宙に浮いたままで、いっこうに反応する様子はなかった。一方の管理人は火元であるガスコンロを止めて、燃えているフライパンへ蓋をして窓をあけて換気し始める。
「燃え広がってはいなかったけど、ちょっと増島さん!」
そう言い管理人は食卓に座っているこの部屋の住人である、増島佐恵子に呼びかけたが、未だに反応はなかった。
「どうしよう? 全然反応がないんだけど」
増島を声をかけ続けていた、二つとなりの住人、川原えつ(かわはら えつ)は心配そうに、振り返り管理人へ尋ねた。
「全然反応がないんです、どうしましょう?」
「ちょっと! 増島さん!」
管理人は慌てて、佐恵子の両肩をゆさぶってみたが、全く反応がなかった。しかたなく管理人は救急車を呼び増島を病院へと連れて行く事にした。当然到着した救急隊員も佐恵子の反応を確かめたが、やはり全く反応を示すことはなかった。
そして検査の結果が出た。管理人は佐恵子の主人である、増島卓夫を呼び出していた。慌ててやって来た卓夫は医師から佐恵子の症状を聞かされた。
「火事における外傷は見つかりませんでした……ですが、CTの結果、脳に幾つか特徴的な脳斑が散見されました。これがCTの画像ですが、こことここと……あと、ここにも、かなり多くの脳斑が確認されました。非常に申し上げにくいのですが、佐恵子さんは『若年性健忘症』である疑いが濃厚です」
医師の言葉に卓夫はついて行けずに、もう一度尋ねると、医師はゆっくり答えた。
「つまりボケです」
飲み込めずにわたしは再度尋ねた
「妻は……ボケているんですか?」
すると無情にも宣言した。
「ええ、そうなります」
突然の宣告にうなだれる卓夫をに医師は続けた。
「早発性で進行も急性で、しかも広範囲ですから、おそらく介護なしでの生活は厳しいかと思います」
「もう、治らないんですか?」
卓夫はすがりつくように医師の肩を掴んだ。
「残念ながら……今の医学ではどうしようもできないです」
その言葉に卓夫は肩を落として、うつむき狼狽え始めた。その様子を見て医師は気休めとしりながら付け加えた。
「ただ、若年性健忘でも回復された方もいらっしゃいますし、一概には言えません」
「治る……事もあるんですか?」
「非常に希ですが、そういった可能性はあります。まだお若いですし……」
その言葉に卓夫は何か自分に言い聞かすように頷いた。
卓夫は佐恵子を自宅へと連れて帰り、これからどうやって生活していくかを考えた。今まで卓夫は家の事は全て佐恵子に任せきりだったから、家事はほぼ出来なかった。毎日不慣れな家事をして、佐恵子の世話をして、そして多忙な会社へと向かう、そんな卓夫は徐々に精神的にすり減っていった。
ある日卓夫が帰って玄関を開けると異臭が漂っていた。糞尿の匂いだった。特有の不快な匂いが居間から匂ってきていた。卓夫は佐恵子が漏らした程度に考えていたが、それは間違っていた。居間の壁一面は茶色く染まっていた。壁に糞便をなすりつけながら笑う佐恵子がいた。今まで怒鳴る事も手をあげる事すらしなかった卓夫は、その出来事で頭に血が上り、怒鳴り散らした上に佐恵子の頬を思いっきり殴りつけていた。
「ふざけるな!」
卓夫は容赦なく倒れた佐恵子を足蹴にしながら、壁を見て咆吼をあげるようい叫んだ。そして芋虫の用に丸まって怯える佐恵子に食卓の椅子を投げつけて、さらに怒鳴り散らした。
「クソ! クソ! クソ!」
佐恵子はさらに怯えて喚き始めると、卓夫は佐恵子の腕を引っ張り風呂場へ押し込めるとシャワーを浴びせかけ、体についている糞便を流し始めた。逃げようとする佐恵子を蹴り、あるいは殴りつけて、シャワーわかけ続けた。
それが終わると卓夫はバケツにお湯と洗剤とタオルを持って、ゴム手袋をはめて壁を拭き始めた。佐恵子の糞便がついた壁を拭きながら卓夫は泣いた。全てが吹き終わると卓夫は疲れ果てて眠りについた。
目が覚めると異常な笑い声が聞こえた。それはいつも同じように発作のように深夜になると笑う佐恵子の声だった。深いため息が卓夫から漏れた。卓夫はもう限界を感じていた。これ以上自分一人では無理だと感じた。
後日卓夫は自分と妻の両親にお願いした。返事は良いもので安心していた。しかし佐恵子の奇行を見るたびに卓夫に電話が入り、そして徐々に両親は近付かなくなり、やがて以前と同じように卓夫だけになってしまった。
居間で食事をとりながら、向かいに座る佐恵子を見て、卓夫は呟いた。
「いっそ2人で死ねるか、お前を殺せるなら、もうどれだけ楽だろうか」
無表情で座り、口を開けたままの佐恵子を見て、卓夫は頭を抱えた。どうにもならない事をいろいろと考えた。だがそのどれもが、どうにもならない事を悟っている。
「佐恵子……俺はずっと一緒にいるからな……」
卓夫は焦点の定まらない佐恵子の頬をそっと撫でた。『もう自分の声は佐恵子には届いてはいない』と、卓夫は知っている。けれど卓夫は構わずに抱きしめた。胸に抱いた卓夫は気づかなかった。佐恵子の左目から一滴の涙が伝い落ちるのを、その言葉は微かに届いた事を……。
翌朝起きると、食卓には朝食が並べられていた。どれも不器用な作りではあったが、たしかにそれは以前、佐恵子がよく作ってくれた朝食だった。
「佐恵子?」
卓夫は当たりをうかがったが、どこにも佐恵子はいなかった。そして食卓の脇に置かれたチラシに気づく、それはとても酷い字だが、卓夫にはその文字が読めた。そこにはハッキリと『さよなら』と書かれていた。
卓夫は玄関から飛び出して、マンションの階段の踊り場から階下を見ると、そこに見慣れた白いワンピースのドレスが地面に横たわっていた。
「嘘だろ……」
卓夫は階段を駆け下りると、倒れている佐恵子を抱き上げた。
「おい、起きろ……なあ、ご飯冷めるぞ、おい起きろ、起きろよ!!」
揺さぶっても、ピクリとも反応することはなかった。
「うあぁぁあ……!!」
卓夫は動かなくなった佐恵子にすがりついた。突然降り始めた雨が、辺りのアスファルトを一瞬で黒く染めあげた。
雨音を響かせながら雨はいつまでも降り続いた。いつまでも。
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