第8話 胃袋より先に、心が落ちた
「忍様の様子はいかがでしたか?」
執務室に戻ったアレックスに、ビンセントが静かに問う。
「楽しげに料理をしていた」
アレックスの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「そうですか……」
幼少期から不遇な境遇ゆえ、どこか厭世的だった主人が、
これほどまでに他人に心を向ける姿を、ビンセントは密かに喜ばしく思っていた。
「宝石も金も欲しがらず、ただ料理をしたいとは。
本当に、欲のない清廉な子だな」
(慎ましく、儚げで……守ってやりたくなる子だ)
アレックスは静かに目を伏せる。
「左様にございますね。これまで来られた方々とは、毛色が違います」
「ふふ……だからこそ、余計に私が守ってやらねばと思う。ビンセント、下の者たちに伝えろ。
忍をコンウォール家の一員として、最大限の敬意を持って遇するようにと」
その時、ドアがノックされた。
入室したメイドが、少し困惑したような、しかしどこか興奮した面持ちで告げる。
「旦那様……忍様が『お昼をご一緒に』と……」
アレックスの顔がぱっと明るくなった。
「誘いに応じると伝えなさい。すぐに向かう!」
アレックスは期待に胸を膨らませ、足取りも軽く食堂へ向かった。
食堂に入るなり、アレックスの眉が寄った。
ダイニングテーブルの席に着いているのはクリスティナ。
そこに忍の姿はなかった。
「……忍は?」
「開口一番にそれかぇ?」
クリスティナの揶揄った。
メイドが気まずそうに答える。
「その……忍様は、まだ、厨房にいらっしゃいまして……」
「厨房?」
アレックスは一瞬固まったが、すぐに踵を返した。
「やれやれ、余裕のない……」
呆れたクリスティナの声が聞こえたが、反応するのも惜しい。
胸の奥がざわつくのを抑えながら、厨房へ向かう。
そして扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは――
「ボリス! そこはもっとケチャップ多め!追いケチャップこそが正義なんだから!」
「がははは! 承知した、忍先生!」
布を巻き付けただけの大きなエプロンを揺らし、自分の二回りも大きな料理長ボリスと肩を並べて笑い合う忍。
周囲の料理人たちも、
「忍先生、味見お願いします!」
「先生、塩加減はこれで?」
と完全に弟子のように従っている。
(……私以外に、あんな笑顔を?
料理長と、そんな短時間で意気投合したのか……?)
アレックスの胸に、かつてない「モヤリ」とした感情が芽生えた。
自分が「清廉で儚い」と評した少年は、
今や厨房の荒くれ者たちを完璧に統率し、
あろうことか楽しげに料理長と密着している。
(……私の知らない忍が、そこにいる)
嫉妬とも焦燥ともつかない感情が胸をかすめる。
「……忍、これは何だ?」
盛り付け台に置かれている見たこともない料理。
忍は振り返り、満面の笑みで答えた。
「じいちゃん直伝、“世界を救うジャンクフード”!ハンバーガーだよ!」
「ハンバーガー……?」
「うん、あつあつが美味しいんだ。ボリス、あとはよろしく!」
「おう、まかせとけって、忍先生!」
忍はアレックスの手を引き、食堂へ向かった。
豪華なダイニングテーブルには、いささか不釣り合いな昼食が並んだ。
横二つに割られた丸いパンにこんがりと焼かれた肉厚なパティと葉物野菜が挟まれたハンバーガー。
細長い麺に鮮やかな朱色を纏わせたナポリタン。
麺の間から顔を出す緑の野菜。
見たこともない料理に、アレックスは目を見張った。
小さな口元に嬉々としてハンバーガーを運び、齧り付く忍。
小さな両手でハンバーガーを持つ忍が、にこっと笑って言う。
「アレックスさんも、ほら。大きな口開けて食べて!」
貴族としては憚られるマナーだが、忍の期待に満ちた瞳を前に、否と断れようか。
アレックスは手づかみで肉の塊を口に運んだ。
その瞬間――衝撃が走る。
「っ……!?」
溢れ出す肉汁。
それを包み込む濃厚な赤いソース(ケチャップ)と、
まろやかな白いソース(マヨネーズ)。
さらに忍がこっそり仕込んだスパイスの香りが鼻を抜ける。
これまで「素材の味(虚無)」こそが至高だと信じてきたアレックスにとって、
それは味覚の革命――いや、暴力だった。
クリスティナは無言で頬張っていた。
「……美味い。美味すぎる……! 忍、君は本当に……魔法使いか何かか?」
「魔法じゃないよ。ただの“味付け”。ほら、口の端にソースついてるよ」
忍が自然な動作でアレックスの口元を指で拭った。
ピリッと電流のような感覚が走り、
アレックスは思わず忍の手首を掴んでいた。
「……忍。君を、一生この屋敷から出すつもりはないからな。……いいな?」
「えっ? いや、帰れるなら帰りたいんだけど。……それよりボリスに頼んだポテト、揚がった?」
忍はメイドに確認する。
アレックスの重すぎる誓いは、
忍の“揚げたてポテトへの執着”によって華麗にスルーされた。




