第6話 守護者は空から落ちてきた幼児に振り回される
魔の朝食後、忍はぐったりしていた。
椅子に座っているだけなのに、全身から力が抜けていく。
腹は確かに満たされているはずだった。
量だけなら、むしろ食べ過ぎと言っていい。
だが――満たされていない。
舌も、心も、何一つ満たされていなかった。
(お腹はいっぱいなのに満足できない…これが毎日続くの……?帰れないより辛いんだけど……)
アレックスとクリスティナに連れられ、執務室へ戻る。
重厚な扉が閉まる音が、やけに遠く聞こえた。
「さて、忍。これからのことだが……」
アレックスの声は穏やかだったが、忍の耳にはほとんど届いていない。
(どうにかしたいけど、“味付けが最低最悪なので自分で作ります”なんて言えないよね……)
忍はひっそりため息をついた。
その様子に、アレックスはわずかに眉を寄せる。
(不安なのだろうな)
知らない世界。
頼れる者もいない。
無理もない――そう結論づけ、彼は静かに言葉を続けた。
「忍、昨日も話したが、元の世界に帰ることはできない。そこでだが、これは提案なんだが……」
(人はパンのみで生きるにあらず……いや、味のない料理を食べるくらいならパンのみでいいわ……)
忍の思考は完全に食へと支配されていた。
アレックスが何かを語っている。
だが、その内容は霧の向こうのようにぼやけている。
そして――
「心配しなくていい。私が忍の後見をすることにした」
その言葉だけが、はっきりと届いた。
忍は顔を上げた。
「このコンウォール家の一員として、この世界で暮らすのはどうだろう?」
アレックスの瞳は、驚くほど柔らかかった。
「忍に何一つ不自由はさせない。服でも宝石でも、欲しいものは何でも言ってほしい」
それは命令ではなく施しでもなかった。
侯爵としての義務ではない。
この少年を、この世界に繋ぎ止めるという一人の人間としての決意。
「忍は何か希望はあるか?」
(食って大事だよね……味の好みで離婚することもあるし……このままの味だと地獄…………ん?希望?)
忍の思考が、そこで止まった。
ある。
明確に、ある。
だが――言っていいのか迷った。
ここは他人の家だ。
自分は保護される側の存在だ。
わがままを言う立場ではない。
それでも。
これだけは――譲れなかった。
忍は勢いよく立ち上がった。
「ご飯、自分で作りたいっ!!」
執務室に、子供とは思えないほど切実な声が響いた。
「自炊の権利をくださいっ!!」
アレックスに詰め寄る勢いで叫ぶ。
「はあっ!?」
冷静沈着と名高いコンウォール侯爵の、聞いたこともないほどの素っ頓狂な声が部屋に響いた。
「料理を作る? 自炊の権利? い、いや、忍、それは使用人がするようなことで……」
「はぁっ? 何言ってるんですか!」
忍は真っ向から言い返した。
「衣食住を快適にすることは生きるための基本ですよ?殊に“食”はその最たるものです!」
忍は一歩踏み出した。
圧が強い
アレックスが一歩下がった。
「そ、そうだが……衣食住というなら、衣や住を望んだらどうだろうか。仕立屋を呼んで、君に合った服を何着か――」
「いりませんよ、服なんて」
即答だった。
「なら、宝飾品はどうだろう……」
「落としたときに心臓に悪い!」
「部屋を忍好みに改装するというのは……」
「立って半畳、寝て一畳!」
忍はきっぱりと言った。
「服なんてものは清潔で見苦しくなきゃいいんです。家だってウサギ小屋といわれようと、雨露を凌げて住みやすければそれで良し。狭いながらも楽しい我が家、ですよ」
「しかし……」
「じゃぁ、反対に聞きますけど、大体、柱や壁でお腹いっぱいになります?」
今度は忍がアレックスに疑問を投げかける。
「ならないな」
「でしょ」
アレックスの答えにうなずく忍。
「ボタンなんて食べたら誤飲で即、病院じゃない治療院?行きですよ!下手をすれば死んじゃいますからね」
アレックスは、忍から目を離せなかった。
「知ってます?暗〜い、寒〜い、ひもじい〜ってなると、人間ってめっちゃ暗い考えに取り憑かれるんですよ」
忍の声は、真剣だった。
「で、“どうせ生きてたっていいことないし、死のうかな”っていう最悪の負の連鎖に入るんです」
その言葉は重かった。
「でも、お腹いっぱいのときはそんなこと考えない」
まっすぐにアレックスを見る。
「だから、生きるためには食が一番大事なんです!」
小さな身体から放たれる、揺るぎない信念。
「お腹いっぱい食べて、ぐっすり寝る!それから頑張ればいいんです!そうすれば人生なんとかなるんですよ!」
アレックスは息を呑んだ。
なんという精神性。
王侯貴族たちは常に多くを求める。
より豪華な服を、より広い屋敷を、より高い地位を。
だが、この少年は違う。
ただ、生きるための糧のみを求めるなど…欲に溺れず、清貧に生きることを望んでいる。
まるで聖人ではないか……
そのあまりの純粋さに、胸の奥が熱くなる。
守らなければならない。
何者からも。
この願いを、踏みにじらせてはならない。
アレックスが心の中で強く静かに誓っているその傍で忍がひっそりと
(あの食事は続くって言われたらガチで泣くから)
と思っていることなど、アレックスは知らない。
「……料理、作っていいですよね?」
忍が期待に満ちた瞳で見上げる。
その瞬間――
アレックスの心臓が、大きく跳ねた。
拒絶など、できるはずがなかった。




