第8話
年末の街は、音が多い。
笑い声と、警告音と、意味のない音楽。
俺は交差点で止まる。
信号は青だ。
でも渡らない。
渡る理由が、今はない。
背後で誰かが舌打ちをする。
正しい。
俺も同じことを思っている。
女は、隣にいる。
いつからいたのかは、覚えていない。
そういう距離だ。
「行かないんですか」
「今じゃない」
信号が赤になる。
人の流れが止まる。
なるほど。
さっきの青は、急かすための色だった。
俺は歩き出す。
赤のほうが、安全だ。
靴の中で、靴下が少しずれる。
朝、急いだせいだ。
直さない。
向かいのビルに、明かりが一つだけ残っている。
消し忘れ。
それとも、待機。
「事件ですか」
女が言う。
今夜、三回目だ。
「まだ」
「じゃあ、もう少しで?」
「遠ざかってる」
女は、少し考える。
考えたふりかもしれない。
路地に入る。
屋台が一つ、閉めかけている。
湯気が、やけに多い。
量を間違えたな。
「もう終わりですか」
俺が聞くと、
店主は頷く。
判断が早い。
俺と同じだ。
「今日は、やめときます」
そう言って、通り過ぎる。
女が一瞬、俺を見る。
「寒いから?」
「腹が減ってない」
本当は、減っている。
でも、ここじゃない。
路地の奥で、誰かが転ぶ音。
派手だ。
だから、事件じゃない。
俺は足を止めない。
女も止めない。
「さっきの、正解でした?」
「外れてはいない」
「当たりでもない?」
「当たりだと、面倒だ」
女は笑わない。
代わりに、息を吐く。
吐き方が、慣れている。
これは覚えておく。
交差点をもう一つ越える。
今度は、青で渡る。
人が少ない。
だからだ。
風が強くなる。
コートの前を閉め忘れていた。
今さらだ。
女が、歩幅を合わせる。
ほんの少しだけ。
「冴えてますね、今日は」
「いつもだ」
「自覚、あるんだ」
「ズレてるのも」
女は何も言わない。
それでいい。
街は、何も起きていない顔をしている。
たぶん、合っている。
俺の判断も。
この距離も。
《これは、誰も生き残る必要のない話である。》
信号は、規則通りに変わる。
それを守っても、意味は増えない。




