第1話_潮騒が揺れる日
夏休み初日、昼を過ぎても蝉の鳴き声がやむ気配はなかった。
水凪市の海沿いは陽射しが強く、潮の匂いが肌にまとわりつく。港の外れにある旧灯台は、今では使われておらず、観光案内図にも載っていない。
光希はそこで、ひとり黙々と作業をしていた。
重い火薬箱を肩に抱え、屋上の隅に運ぶと、汗をぬぐいながらため息を吐く。
「ふぅ……これで最後の花火か」
夏休み最初の夜に、港町を見下ろす旧灯台で花火を打ち上げる――それが光希の小さな計画だった。派手なものじゃない。ただ、母を亡くしたあの夏以来、自分にとって特別な日を「明るくしてやりたい」だけ。
だが、火薬箱のバランスが崩れた。
「うわっ!」
足元が滑り、火薬箱が落ちかける。その瞬間、誰かの手が伸びた。
箱が落ちる前に、しっかりと支えられた。
振り返ると、そこに見知らぬ少女が立っていた。
「危ないよ、こんな高いところで……」
柔らかい声。けれど、眉間に皺を寄せて本気で心配している表情だ。
光希は一瞬言葉を失い、慌てて火薬箱を受け取った。
「お、おう……ありがとう」
少女は息を整え、笑顔を見せた。
「この灯台、もう使ってないんでしょ? でも、こんなにゴミがあるなんて」
足元には割れた瓶や木片、錆びた鉄くずが散乱している。光希は苦笑した。
「まあ、誰も来ないからな。俺は花火をやりたくて……掃除しようと思ったんだけど、ひとりじゃちょっときついな」
少女は一瞬考え込むと、手首のブレスレットを軽く揺らしながら言った。
「じゃあ、私も手伝うよ」
予想外の返答に光希は目を丸くする。
「え? いいのか?」
「うん。せっかく夏休みだし、体を動かすのもいいかなって」
光希は照れ隠しに笑い声をあげた。
「そっか……じゃあ、よろしく!」
夕陽が少しずつ傾き始めた頃、二人は汗だくになりながらゴミを片付けた。
少女は、細い腕で木片を運び、休む間もなく動いている。その姿に光希は目を奪われた。
(……何でだろ。初めて会ったのに、放っておけない感じだ)
作業がひと段落すると、少女がぽつりと言った。
「片付けが終わったら、夕陽を一緒に見ようよ。きっと綺麗だよ」
光希は驚いたが、すぐに笑ってうなずく。
「いいな、それ」
海に面した灯台の屋上から、赤く染まる港町が見えた。波の音と、遠くの漁船の汽笛。少女が目を細めて呟く。
「ここ、すごくいいね。……名前、聞いてもいい?」
「俺は光希。中二」
「私は優月。……中二だよ」
偶然の同い年に、ふたりは顔を見合わせて笑った。
笑顔の中、優月はふと胸元を押さえた。
小さな違和感を覚えた光希は眉をひそめる。
「大丈夫か?」
「うん、平気。……ただ、ちょっと疲れただけ」
優月は無理に笑って見せた。その笑顔はどこか儚く、光希は言葉を飲み込む。
このときの光希はまだ知らなかった。
この出会いが、自分の「強がり」を壊し、優月の秘密と向き合う日々の始まりになることを。
その日の帰り道、光希は港沿いの道を歩きながら、胸の奥が妙にざわついているのを感じていた。
(優月……か。何か、普通の奴とは違う感じがした)
名前を思い出すと、自然に笑みがこぼれる。あの真剣な目つきと、疲れているはずなのに崩さなかった笑顔が脳裏に残って離れない。
その夜、光希は一人で旧灯台を訪れた。昼間の掃除が効いて、屋上からの景色は以前よりも明るく感じられた。
「……ありがとうな、優月」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。
翌日、光希は再び灯台に向かうと、既に優月が到着していた。白いワンピース姿で、両手にゴミ袋を抱えている。
「おはよう、光希」
「おはよ。……え、もう来てたの?」
「うん、待ちきれなくて」
その声がやけに弾んでいて、光希は少し照れた。
二人で作業を続けるうち、優月が笑顔で言った。
「ここが片付いたらさ、灯台で花火を見るんでしょ? 私、それ楽しみにしてるんだ」
光希は頭をかきながら視線を逸らした。
「お、おう……でも、あんまり期待すんなよ。しょぼいやつだから」
「しょぼくないよ。だって、一緒に見られるってだけで特別だもん」
その言葉に、胸が熱くなる。
午後、太陽が傾き始めた頃、作業はほぼ終わりに近づいていた。灯台の床はゴミ一つなくなり、海風が気持ちよく吹き抜ける。
優月はしばらく海を眺め、深呼吸して言った。
「ありがとう、光希。手伝わせてくれて」
「いや、俺のほうがありがとうだって。……一人だったら、たぶん途中で投げ出してた」
笑い合ったその瞬間、優月の体がふらりと傾いた。
「優月!」
光希は慌てて支えた。優月は笑って「大丈夫」と言うが、その笑顔が痛々しく見えた。
その後、光希は彼女を家まで送っていった。道すがら、優月は何も言わなかった。ただ、時折胸元を押さえて小さく息をつく。その仕草がどうにも気になった。
家の前で立ち止まった優月は、小さな声で言った。
「光希……今日のこと、ありがとね。また、明日も来ていい?」
「ああ、もちろんだ」
光希は力強く答え、手を振った。
彼女の背中が玄関の奥に消えるまで見送りながら、胸の奥で小さな不安が芽生えていた。
(優月……あの顔、本当に大丈夫なのか?)
答えはまだわからなかったが、光希は明日も灯台に行くと決めていた。
潮騒はいつもより穏やかに聞こえた。
翌朝、光希が学校に立ち寄ると、偶然龍之介たちが昇降口で騒いでいた。
「おい光希、お前、灯台に女の子連れてたろ?」
拓矢がにやりと笑い、志穂も好奇心丸出しで首を突っ込んでくる。
「夏休み早々、青春してるじゃない!」
春奈は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「……お手伝いしてくれる子なんだね。いい出会いじゃない?」
光希は照れ隠しに笑い飛ばし、適当に話題を変えた。
(あいつらにはまだ言わなくていいか。……優月のこと、軽く言いたくない)
放課後、灯台に行くと優月が待っていた。彼女の目が少し赤くなっていることに気付く。
「泣いてた?」
光希が声をかけると、優月は慌てて首を横に振った。
「ううん、ただ……風が強かっただけ」
その笑顔はどこかぎこちなく、光希はそれ以上追及できなかった。
作業を終え、二人は海に沈む夕陽を見た。
オレンジ色に染まる空と海、その中で優月は静かに呟いた。
「光希、私ね……この町が大好きなの。だから、この景色を忘れたくない」
その言葉に、光希は理由も分からないまま胸が締め付けられた。
「じゃあさ、忘れない方法を作ろうぜ」
「……方法?」
「ここがきれいになったら、一緒に花火見て、夕陽も見て、それを思い出にしよう。ほら、写真とかより絶対忘れないだろ」
優月は目を丸くしたあと、ゆっくりと笑った。
「うん、約束ね」
二人は小指を絡ませた。
その小さな約束が、光希にとってこの夏最大の出来事になるとは、この時まだ誰も知らなかった。