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第1話 連撃の吸血鬼

 俺は俺に問う。「魔法って存在すると思うか」と。無論返ってくる答えはNO以外有り得ない。アニメと現実を混同するような歳でもないし、今の世では大抵は科学っていう便利な言葉に収束するもんだ。それはともかく、どんな答えだろうと俺がそ(・)う(・)な(・)っ(・)ち(・)ま(・)っ(・)た(・)事実は覆せないわけで。現実離れしてしまったこの身体をどう表現しようか。




 拳を顔で受けた若々しい男は重力が直角に傾いたかのように後方へと飛んで行く。涙目になりながら鼻血を垂らして、ただでさえ遠のいた距離を這いずるように後ずさりする。そして言うのだ。化け物と対峙したモブに成り下がってまで。

「この銀髪とギザ歯……もしやこいつが連撃の吸血鬼(ヴァンパイア)、堂雷木優羅(どうらいきゆら)っ……」


 まず右頬一発、ボディ三発に左脛一発。あとは手のひらの擦り傷が今日のケンカで受けた総ダメージだ。五対一では流石に完封とまではいかなかったが、全員鼻頭に正拳を三発ぶち込んでやったので非常に満足している。

 内頬から鉄の味がしたのが不快で、道端に赤い唾を吐いた。

「あーもう、道に唾吐くのやめなよ」

 後方から聴こえる女の声と駆け寄ってきているであろう足音。俺は振り返り、うざったらしく伸びた前髪の女と目を合わせる。

 十条穂乃(じゅうじょうほの)。目が隠れるほどの前髪と黒縁のメガネぐらいしか外見に特徴がない口達者な女。深く語ることもない幼馴染、腐れ縁というやつだ。ちなみに先程俺に桃色の絆創膏をくれた。出血なんて気にするタイプでもないのだが、あまりにしつこかったので親指の付け根に貼ってある。

「しゃーねーだろ、口ん中血だらけなんだよ。あと、帰れって言ったよな」

 中途半端な都会ではそう易々と水道は見当たらない。傷口になっているのは口内だけで後は打撲だけだったのが救いだった。

「わざわざ喧嘩しなきゃ済む話でしょ。連撃の吸血鬼(ヴァンパイア)なんて酷い二つ名まで付けられちゃってさ」

 帰れのくだりに対して華麗なスルーを決めた上に俺の別称まで馬鹿にされてしまった。しかし十条の言うように連撃の吸血鬼(ヴァンパイア)というネーミングセンスは絶望的である。

「オニのような手の速さ、絶対に相手の血を見るまではその手を止めない極悪非道っぷりから付けられたんだっけ。酷いことをする優羅クンも居たものだね」

 オマケに異質な雰囲気を放つ生まれつきの白髪も要因らしい。まあわざわざ付け加えるほどのことでもないが。

「俺は輩に絡まれてたおまえを助けるために喧嘩したんだがな? そういう恩知らずなこと言うもんじゃねえぞ」

 たまたま俺が通りかかったから良かったものの、男五人で女を取り囲むような奴らの方がよっぽど極悪非道だろう。

「もちろん感謝はしてるけどさぁ? これ以上カツアゲなんてされたら今月生きてけないし」

 十条は風貌に似合わぬパステル調の財布を広げてみせた。容量に対して何とも寂しい中身である。紙の類がレシートと割引券しか見当たらない。これで今月生きていく気なのだろうか。

「三五〇円ポッキリかよ。高校生の財布の中身じゃねえな」

 先程ぶん殴った男達はたった三五〇円の為にカツアゲをしていたってことになるな。選ぶ相手を間違えたにも程がある。

「さっき千円使っちゃって。こんなんでもバイトだってしてるんだけどね。すぐ巻き上げられちゃうだけでさ」

 小さな紙袋を掲げながら本人は笑って誤魔化しているが不憫と言わざるを得ない。現金を持ち歩くことを今すぐやめることをお勧めする。

「ったく、女ってのは大変だよな。殴れば解決する分男に生まれてよかったわ」

 そもそも俺は名の知れてる分カツアゲになんてそうそう合わんがな。それはそれとして女の十条が狙われまくる理由はわからんが。

「男の子でも殴って解決しちゃいけないよ。 それに優羅は女の子に生まれてても喧嘩する気がするんだけど」

「いやそんなこたねえよ。女が男に力で敵わんことくらい分かり切ってるわ」

 俺だって負けの見え透いた喧嘩なんてしたくない。無論相手も女なら話は違うが。

「ふぅん、そうなんだ、優羅って意外と物分かり良いんだね、ふぅん 」

 繰り返し肯定し、一人でなにかに納得する様子の十条。もとより不気味さを感じることはあったがいつにも増して不気味な笑みを浮かべている。こういう時の十条は大抵何かを企んでいる。

「ねえ、そこの喫茶店でコーヒーでも……」

「行かん! 第一おまえは金持ってないだろうが!!」

 奢ってやる気など更々ない。俺の貴重な休日を無駄に浪費したくもない。

「じゃあ公園に……」

「生憎近くに公園は無い。いいか、俺は別におまえに会いに街まで出てきたわけじゃねぇ。他校の女とデートなんだよ。俺はモテるからな」

 モテることは嘘では無い。今日がデートってのは嘘だが。本当は一人で映画でも見てのんびり過ごす予定だったのだが、運悪く十条を見つけて助けに入るなどという男らしいムーブをカマしてしまったものだから仕方がない。とりあえずさっさとこの女を撒いてしまおう。

「でも彼女いたことないよね。俗に言うセフレっていうやつ?」

 もう最悪だこの女。十条なりの冗談か、それとも本気で俺の事をそういう人間だと思っているのかわからん。どちらにせよ俺はドン引きだがな。

「優羅、引きつった顔してる。わかった、図星、図星でしょ」

 十条はじっとりした目を向け、嬉しそうに俺の背中をつつく。

 こいつがいつもカツアゲされる理由が何となくわかった気がする。基本的には真面目なのにデリカシーが壊滅的な程に欠けている。その上ノリがうざったいクソメガネ。単純にムカつくから目をつけられるんじゃないだろうか。

「あー、もういい。デートは嘘だ、嘘。茶だろうがなんだろうが奢ってやるからそれ飲んだら帰れ。俺は暇じゃねえんだ」

 苦肉の策だが、背に腹はかえられない。

「えっ、いいの? でも待って、そのお金って他人からぶんどったものとかじゃ?」

「ちげぇよ、わざわざ俺が働いて稼いだ金だっつうの」

 まあ一部喧嘩の代役の謝(・)礼(・)金(・)なんてのもあるが黙っておこう。あくまでご好意でいただいたものだからな。誰も咎めるまい。

「じゃあ問題無し。 ありがたく奢られるかな」

 十条は屈託のない笑顔を見せる。しかしこいつ女じゃなきゃホントに嫌われそうな性格をしているな。俺も幼馴染なんてステータスがなければ絶対に関わらないだろう。

 カフェモンタージュ。初めて訪れたが店内の程よい仄暗さと落ち着いた雰囲気がなんとも俺に似合わぬ老鋪だ。如何にもな格好をした爺さんがカウンターでよく分からん洒落たモノを作っている。

 若い従業員に案内されたテーブル席に腰を掛け、くすんだ色のメニュー表を開く。

 中々スイーツ関連のメニューが豊富らしい。プリンアラモードだとか、パンケーキだとか、あとは長ったらしい名前の流行ってそうなスイーツがいくつかあったり。

 俺は飲み物だけでいいかもな。

「ちょっと、私にも見せてよ。ひとつしかないんだから」

 十条はテーブル上に身を乗り出して覗き込む。なんとも見苦しいのでメニュー表ごと渡してやった。

 十条は目を輝かせているが、前髪が邪魔で集中出来ない様子だ。留めるなり切るなりしろよと思うのは女に言うべきではないかもしれんが、俺にそんな思いは永遠にわかる気がしない。せいぜい子を見守る親の気持ちが良いところだろう。

「よし、決めた。優羅はどう?」

 ようやく顔を上げた十条は、既に店員呼び出し用の卓上ベルに手を添えている。やはりガキだ。

 俺は素早く卓上ベルを鳴らす。静かな店内に高い音が響く。

「あ゛ーーーーーーーっ!! 私が鳴らそうとしてたのにっ!?」

 十条の甲高い声に耳を塞ぐ。やっぱガキだなこいつ。というかやかましい。女じゃなきゃ幼馴染だとか腐れ縁だとか構わず殴っているところだ。

「ご注文お伺いしまーす」

 無気力な男性従業員が注文を取りに来る。意地でも俺とは目を合わせようとしないが日常茶飯事なので大して気にしない。

「俺はウインナーコーヒーで」

「私はキャラメルラテと、クライマックスパフェと、あと春の爆タルトとー、それと」

「あ、以上で」

 いくつ頼む気だこのスットコドッコイ。タダ飯だと思って欲張りやがって。

 従業員は注文を繰り返した後に去っていった。

「十条、おまえは遠慮っつーのを知らねえのか」

 肘をついてため息をつく。ここまでくると怒りより呆れが先行する。

「ふへへ……」

 行動する度に業を重ねるこの女はいずれ背中を刺されるのではないだろうか。主に俺に。

「あっ、そういえばさっき買った本なんだけどね」

 十条はずっと持っていた紙袋の中を漁り、やけに分厚い桃色の表紙の本を取り出す。金色で印字されたタイトルは俺の知らない言語だ。といっても俺は英語ですらよく分からないんだから知らないのは当たり前と言えば当たり前なんだが。

「なんだこれは、小説か? それとも六法全書か?」

「こんな派手な六法全書あってもギャルしか持たないでしょう」

 そもそもギャルは六法全書を持たない。

 十条は不規則にページを捲り、訝しむような表情を浮かべた。

「……読めるのか、それ」

 知らない言語とにらめっこしても解読できるはずは無い。

「読めないけど、イラストのニュアンスでなんとなく……」

 呆れた。確かこの本に千円払ったと言っていたが、よりによって読めない本を買うやつがあるか。本は腹の足しにはならねえのに。

「確か五三ページに……あった。ちょっと待ってね」

 十条はどこからか取り出したメモ帳とボールペンで何かを描き写した。いわゆる魔法陣……魔方陣でなく、魔法陣。

「悪魔でも召喚するつもりかおまえは」

 やはり経典のような内容なのだろうか。もしくは心理テストとか。

「優羅、さっきあげた絆創膏返してもらっていい? 」

 唐突に脈絡のない話を始める十条。紙で指でも切ってしまったのだろうか。

「悪いが既に使用済みだ。それでも良いんなら返してやるよ」

「うんその使用済みのが欲しいの。はい、ちょうだい」

 背筋が凍る感覚を久しぶりに味わった気がする。冗談のつもりだったのだが、本気で欲しがるとは思わなかったものだから、十条が差し出す手のひらに応える気にならない。

「なに、おまえそういう趣味あんの? 菌とか伝染るだろうしやめとけ。何より気持ち悪いぞ」

 何に使う気なのか、どう説明されても納得には至らないだろう。

「そういう御託はいいから。そろそろ血は止まった頃でしょ?」

 血が止まれば絆創膏が役目を終えるとでも思っているのか。しかしどうも十条は折れそうにないので渋々若干血の染み付いた絆創膏を剥がし、十条に差し出した。

「素直でいいね、ありがと」

 絆創膏を受け取った十条はあろう事か先程描いた魔法陣の中心にそれを貼り付けた。

「なにやってんの、マジで」

「おまじないみたいな。この本を売ってくれたお爺さんが色々教えてくれたの」

 趣味の悪いまじないだな。本人が満足しているならそれでもいいが、いい気分にはならない。

 続いて十条は親指の腹を噛み始めたが、もうわざわざ気にするのはやめにすることにした。

 十条の奇行を眺めていると、横目に馬鹿みたいなサイズのパフェを運ぶ従業員の姿が見えた。真っ直ぐにこちらへと向かってきている。

「こちら、ご注文のキャラメルラテ、クライマックスパフェと……」

 またしても目を合わせない従業員。俺の肘から指先までと同等の高さをもつ不安定なパフェを恐る恐る卓上に置いた。

 その最中、十条は血の溢れた自らの指を────魔法陣の中心へと押し付けた。

「ウインナーコーヒーになりま……」

 突然、視界が繰り返し暗転した。停電かと思ったのもつかの間、身体に上手く力が入らなくなり、椅子から転げ落ちた。

「お、お客様!?」

 全身に灼けるような痛みが走る。

「ちょ──優羅──大じょ──」

 十条らしき声も上手く届きやしない。聴こえるのは自身の体が強く軋む音だけだ。声にならない声なのか、俺が聴こえていないだけなのか、形容のしようのない声を出す。

 だらしなく唾液を零し、うずくまる。痛い、苦しい。段々と思考にも余裕がなくなってきた。

 俺は死ぬのか? ああクソ、思い残すことしかねえ。こんなことなら彼女くらい作ってみるんだったな。

 こんなにも息苦しいのに意識は消えない。むしろ飛んでしまえれば楽なのに。息を吸え。吸え。吸え。

「っ、がはっ!!」

 酸素が流入し、途端に視界にも光を取り戻していく。なんとか一命を取り留めたらしい。息切れが止まらないまま、仰向けに倒れ込んでいた。首を傾けると不安そうな顔をしている十条と目が合った。

「優羅!」

 俺の頭を抱き抱える十条。何が起こっていたのかわからないが、今は抵抗する気力もない。

「私てっきり優羅を殺しちゃったのかと……!」

 涙目の十条の口から聞き慣れぬ物騒な言葉が飛び出した。

「……たかだかまじないで人が殺せるかよ」

 猛烈な違和感。何かが変だ。今起こった発作もそうだが、そうでなくもっと物理的な何か。

「お客様、AED持ってきまし────」

 先程の従業員と目が合う。途端に従業員は手に持っていたその赤い箱を地面に落とし、反射的に俺は耳を塞いだ。その時上手く手のひらを袖から出すことが出来ず、布越しに塞ぐことになった。まあ実際は大した音もならず警戒するだけ損だったのだが。

「お、お客様────」

 従業員が異形の化け物でも目にしたかのように、その場に尻もちを着いた。何も睨んじゃいねえんだから腰抜かすことないだろうが。

 十条の腕を振り解き、従業員の元へゆっくりと歩く。

「すまねえな、あんたがいない間に落ち着いちまった。あと焦りすぎだ、俺は心停止なんてしてねえし意識だってあったぞ」

 文句を言いたかったはずが言葉が見つからず、このやるせなさに髪の毛をわしゃわしゃと掻きむしった。

 違和感。またもや違和感。喉の調子。絡まる髪の毛。よれた袖。全てがおかしい。まるで俺(・)の(・)身(・)体(・)が(・)俺(・)の(・)身(・)体(・)で(・)無(・)く(・)な(・)っ(・)た(・)よ(・)う(・)な(・)、そんな感覚。

 その自分の身体を凝視してようやく気づいたのだ。いや、気付かざるを得なかったと言うのが正しいのだろうか。

「あ……?」

 人間、本当に驚いた時ほど言葉が出ないものらしい。触れるのもはばかられる、胸部の膨らみ。その胸部に並ぶ程に伸びた白髪。筋肉質だった腕は柔らかく、心なしか肉付きも良くなっている。右の二の腕を握ってみるが、やはり筋肉は減っている。代わりに肌の弾力と手触りの良さは段違いに上がったが。

 身体のどこを見ても触っても自分のモノとは遠く離れている事実に、俺の身体は季節外れの梅雨にでも入ったかのように大量の冷汗を流し始めた。

 何から考えればいいのかわからず俺の脳はオーバーヒートし、言葉も発せず膝の力が抜けてしまった。

 相も変わらず従業員も目を丸くしているが、十条はいつの間にやら呑気にパフェを貪っていた。

「良かったね優羅……おまじないが上手くいって…………これでこれからは平穏に暮らせりゅ…………」

 食べるか喋るかどちらかにしろ。いや食べるな、喋れ。

「お、おい十条、おまえ、まじないってアレ、何のまじないだ……?」

 内心答えは分かっていながらも、その問いを口にせずにはいられなかった。

「何って、性別を反転させるおまじない……あ、ビスケットの層美味し……」

 性別の反転、そんなものまじないの域をゆうに超えている。魔法とかそういうフィクションの世界に片足、いや両足突っ込んでいる。

 そんなことより、だ。

「おまえ何考えてんだ!? 今すぐ元に戻せ!!」

 十条の襟元を掴む。まさかこのためにあの本を買ったっていうのか。

「だって優羅、何度言っても喧嘩やめないから、いっそ一回女の子になればいいんじゃないかなーって……」

 十条にも後ろめたさはあるのか目を逸らされた。だが後ろめたかろうが知ったことか。

「ふざけんな、恩を仇で返すような真似しやがって! 返せよ俺の男の象徴!!」

「男の象徴……? ああ、チン……」

「筋肉だバカ!!」

 いやどっちも返せって話だ。

「あのーお客様、お気持ちはわかりますが店内ではあまり暴れないでくださるよう……」

 従業員も狼狽えているのがわかる。仕方なく俺は十条を掴んだ手を離して元の席に着いた。ぬるくなったコーヒーが映す自身の顔は俺の知らぬ顔だった。

 未だパフェを食べる十条の胆力にはある意味惚れ惚れする。

「これ、本当に戻るんだろうな。とにかく気持ち悪くてかなわん」

 あるべきものがなくてあるはずのないものがある。単にそれだけの話なのにこんなに不快感を及ぼすとは。

「まあ優羅、おっぱいでかいもんね。仕方ないか」

 俺だけ時間が止まったかのように硬直してしまった。デリカシーは何処(いずこ)へ。

「でも大丈夫、さっきのページに戻り方も書いてあるってお爺さんが言ってたし」

 どうも引っかかる。その本を売ってくれたお爺さんとやらは何者なのだろうか。この本がただの本では無いことを知っていたはずだが、どう考えても千円ぽっちで買えていい代物じゃない。

 十条は本……というより魔術書とも呼べるそれを再度パラパラと捲る。傍から見れば文学少女のような佇まいだというのに、その正体が幼馴染を女にして喜ぶ奇女だとは。

「……アレ?」

 そう呟いた十条の顔が青ざめていく様を俺は見逃さなかった。十条はまっさらな白紙のページを開いたまま苦笑している。嫌な予感がした。不良ならではの勘──いや、誰でも察することが出来るほどの予感。

「念の為に聞くぞ、ど(・)う(・)か(・)し(・)た(・)か(・)?」

 頑なに目を合わせようとしない十条。やましい事があると言っているようなものだ。

「戻し方が書いてあるページ、消えちゃいました……」

 呪いとかいて呪(まじな)い。そんな話もあった気がする────現実逃避をしたくなる衝動をめいっぱい抑えつつ、一旦深呼吸する。

 大きく息を吸って。

「何やらかしてくれてんだあっ!?」

 机を両手で強く叩き、空っぽのキャラメルラテの容器が倒れる。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいいぃい!!!!」

「どうすんだ!? 俺に一生女のままでいろってことか!?」

 つまりアレか? 俺はこの先女として世に出てむさ苦しい男と結婚してガキこさえてガキに母乳やんのか? 想像するだけで吐き気がする。生理的に無理だという表現が正しいだろう。

「まあ今の世の中結婚しなくても上手くやってけるから大丈夫だよ、それに女の子同士って手も……」

「心を読んでまで的はずれな答えを出すんじゃねえ!」

 何故こんな目に遭わなきゃならんのだ。

「お客様、大変お待たせいたしました。こちらフルーツタルトになります」

 突然の第三者の声に心臓が跳ね上がる。

 斜め後ろを向くと何故か先程までカウンターにいたはずの爺さんが直々にフルーツタルトを持ってきてくれていた。というかこのタルト、もっとふざけた名前だった気がするのだが、正式名称は口にしないのな。

「うわぁ、美味しそう」

 苺だのオレンジだのキウイフルーツだの彩り豊かなフルーツタルトに十条は目を奪われている。

 十条の能天気さに呆れていると、ふと爺さんと目が合ってしまった。シワの目立つ細い目はもはや目が合ったかどうかは怪しいラインなのだが。

「何かよく分からないですが、大変なことが怒ってるみたいですねえ、連撃の吸血鬼(ヴァンパイア)さん」

 突然呼ばれたその名前に思わず吹き出す。今の今まで知らなかったが、漫画のように驚いた時に吹き出すことは実際起こり得るらしい。

「なんで俺の事知ってんだ爺さん!?」

「孫からよく聞くんですよ、うちの高校にとても凶暴な男がいる……おっと、今は女性でしたか」

 何だこの爺さん。わざわざ棘のある言い方に苛立ちを覚える。

「馬鹿にしてんのか俺を。その凶暴な俺を怒らせるような真似をしていいのか?」

 わざとらしく指をポキポキと鳴らす。しかしか弱い老人を殴るような真似は俺のポリシーに反するので警告に収めるが。

「少なくとも今のあなたには負けませんよ。こう見えて私も昔はヤンチャしたものですから」

 爺さんなりのジョークなのか、その笑みの真相は不明だ。いくら体が女になったとはいえ、老体に殴り合い取っ組み合いの喧嘩で負けることは想像できないが。

「ご馳走様でした!」

 俺が爺さんもとい店長を睨んでいると、その間に十条がフルーツタルトを食べ終わってしまったようだった。十条はとても満足そうな笑みを浮かべ、ぺろりと口周りを舐めた。

「お気に召しましたか、お嬢さん」

「大満足。ホントなら他のスイーツもお腹に入れて帰りたいところなんだけれど、お金には限りがあるから」

 あたかも自分の支払いかのように語る十条だが、もしこの女の所持金が三五〇円だと聞いたらこの爺さんはどんな反応をするのだろうか。

 というのはどうでも良くてだな、いち早くすべきことがある。

「おい十条、その本どこで買ったんだ」

 本を十条に売った張本人、本屋の店主であれば解決方法を知っているかもしれない。

「どこって、この今いるカフェの隣の本屋だよ」

 十条の言葉を取り巻く違和感に気づいたのは俺だけではなかった。

 このカフェの店主の爺さんが怪訝そうな表情で口を開いた。

「お客様、身勝手ながらプライベートなお話に割り込ませていただきますが」

「──この店の両隣に本屋はありません」

 そうだ、この店の隣には本屋などない。何かの事務所とどこの層に向けているのか不明のハイカラな服屋があるだけだ。その事実が全てを物語っている。十条が冗談で言っているなら、なんてことも脳裏によぎったが、目を丸くして口を開け呆ける彼女の間抜けな面を見るとどうも演技には思えない。

「え、いや、え? あれ?」

 彼女は眉間を押さえながら唸る。彼女はいわゆるパンドラの箱を開けたのだろう。……俺を巻き込んで。

「なあ爺さん、この辺に本屋はあるか」

 確認がてらに問う。

「唯一の本屋が二年程前に大きなショッピングモールに移転したっきりですね。新しく開店したという話も耳にしていません」

 どうやら十条が本屋の場所を勘違いしたわけでも無さそうだ。

「えっと、私には話が全く見えてこないんだけど……」

 おろおろと落ち着きのない十条を見ていると、より自分のおかれた状況が鮮明になる。

 こんなものがまじないや魔法なんて呼べてたまるか。せいぜい黒魔術がいいとこだ。

「俺は呪われたんだ。まんまと罠にかかった十条(おまえ)によってな」

 これはそういう類のものであると確信した。あからさまに十条は誘い込まれ、都合の良い用途で口説かれ、千円などというおかしな値段で本を手にしている。更にはその店は存在しませんでした、なんてありがちなオチまで付属している。

 はたして呪いをかけた主はこの本そのものなのか、この本の元の所有者なのかはわからないがな。

「そんな、優羅が女の子になってどうなる訳でもないのに、なんで呪いなんか……」

 誰のせいだと、思っているのか。

「知らん! 俺は帰る!」

 財布から五千円札を抜き取り、席を立つ。

「釣り銭はこの女にやるから渡しといてくれ爺さん。コーヒー美味かった」

 卓上に札を置いてその場を去ろうとしたところ、爺さんは俺の手首を掴んだ。

「すみませんねお客様。あと千円ほど足りていないようです」

「は? 」

 待て待て、おかしい。おかしいとは思いつつメニュー表を開いて十条のオーダーした品の値段を確認する。

 パフェの値段、約四千円。戦慄した。よくもまあ臆面もなくこの値段のものを頼めたものだ。しかし冷静に考えれば複数人でシェアでもしないと食べきれなさそうな器のサイズ感である。それを十条は一人でかつほんの数分で食べきってみせた訳だが。

 仕方なく俺は五千円札をもう一枚財布から抜き取り、爺さんに手渡しした。

「ありがとう、また来てね」

 あたたかな笑顔で見送られながら、俺は喫茶店を後にした。十条の事だから慌てて着いてくるかと思ったが、意外にも追いかけてくる気はなさそうだった。彼女なりに反省しているのかもしれない。


 さてこれから俺はどうしようか。このオーバーすぎるオーバーサイズな服で当初の予定通り映画に行こうなんて馬鹿のすることだ。大人しく家に帰って様子見が安牌だろうか。もしかすると時間が経てば男に戻るかもしれないしな。


 そんなことを考えながら一人で道のど真ん中を堂々と歩いていると、不意に肩を叩かれた。

「ねえお嬢さん、ちょっちボクとお茶しない?」

 今お茶してきたところだ畜生。振り返るとその女遊びばっかしてそうな面と茶髪には見覚えがあった。さっき殴り飛ばしたカツアゲくんだ。五人いたはずだが一人になっているあたり、俺にやられた傷が痛んだか。

 こいつも顔をボロボロにしてまでまだ声をかけ続けているとは、本当に茶をしばく金すら持ち合わせていないのかもしれん。まあ俺にこの男に同情する理由はないので知ったこっちゃないが。

「悪いが俺は男に奢る趣味はねえんだわ」

 こう言うと誤解を生みそうなので補足をすると女にも奢るのは好きじゃない。奢られるのは好きだがな。

 元の方向へと向き直り再度歩き出す。

 何がお茶だ、バイトでもしてろ。

「奢るのはボクの方に決まってんじゃん? レディーに奢らせる男がどこにいるってのさ」

 男はそんなことを宣(のたま)って俺の前方へと立ち塞がる。


 反吐が出る。ナンパじゃねえか。それも先程ケンカで負けた男を誘うなんていう想像を絶するシチュエーション。そんで何よりも金持ってんじゃねえか。それ故に導き出された結論。

「そうか。つまるところ、ケンカを売ってるんだな!?」

 女の体でもこいつ程度なら事足りるはずだ。身長だけでもある程度残っていてくれて良かった。それに今回は五人でなくたった一人。いける。

「え、何この子。喧嘩っ早」

 男が言い終わる前に頬に右ストレートを炸裂させた。モロに入った感覚が腕を通して脳に伝わる。怯んだ隙に二発目の拳を狙おうとしたが、男は思っていた以上にピンピンしている。

「っ痛(つ)ー。なんで殴るわけ?」

 男のへらへらとした態度は変わっていない。大したダメージにはなってなさそうだ。これはまずいな。自身の力を過信していた。


 やむを得ない。


 俺は男に背を向け────猛ダッシュした。

「あっ、おいコラ待て!!」

 すかさず男も追ってくる。俺の足の速さが五十メートル換算で六秒五七だろ。大抵は撒けるはず。

 細い路地や脇道を無造作に曲がっていく。既に俺の知らない道にまで迷い込んでいるが、男との距離は遠のくどころか縮まる一方である。

「くそっ、どうなってんだっ」

 胸が物理的に痛い。揺れるなんてもんじゃない。鞭のようにしなる感覚に近い。それに今まででは考えられない息切れを起こしている。

 よく考えれば当たり前だ。筋力が落ちれば当然足の速さも体力も落ちる。ついでに言えば胸を押さえながら走っているのだから減速するに決まっている。


 行き止まりだったとはいえ人気(ひとけ)のない廃工場に逃げ込んだのは間違いだったか。


 どうにか工場内で男を撒くルートを模索している途中、遂に俺は決定的なミスを犯した。サイズの合わなくなった自身のズボンの裾を踏んだのだ。

「うっ!?」

 勢いのついたまま前方へと倒れ込む。鞄の中身を散らかしながらなんとか受け身は取ったものの、大幅なタイムロスだ。


 急いで体勢を立て直そうとした時、後方から巨大な影が伸びる。

「ちょこ、まかと、逃げやがっ、て……」

 その男は俺よりも更に深い息切れを起こしている。

「俺だって逃げたくて逃げてるわけじゃねえっ……」

 膝に手をつこうとした刹那、男に両手首を掴まれ、背を埃っぽい壁へと押し付けられる。油断した。振り払おうにも一向にほどける気配はない。疲れ切っている相手になんてザマだ。


「おい、おまえが今手を出そうとしているのが誰だかわかってんのか? 天下の喧嘩人、堂雷木優羅様だぞ?」

「……は? そーんな立派な胸ぶら下げて何言ってんの。それもノーブラでさ。生憎ボクの知る連撃の吸血鬼は痴女じゃないんだわ」


 俺が、痴女。俺が、痴女?

 俺は痴でも女でもない。

 女になりたくてなったわけじゃねえのに、そこまで言われる筋合いはねえ。

「撤回しろ、俺は痴女なんかじゃねえ……!」

「あっそ、じゃあカラダに訊いてみる?」

「はぁ!?」

 男は俺の両腕を片手でまとめて掴み、もう片方の手を俺のズボンにかけた。俺の下着姿が露(あらわ)になる……と言ってもボクサーパンツだが。

「……君、どういうセンスしてんの? 萎えるー、流石に男モノはないわー……」

 あからさまにガッカリした態度で溜息を吐く。喜ばれても気持ちが悪いが落胆されても腹が立つ。

「そう思うならさっさと解放しろよド変態が」

「いや、脱いじゃえば一緒だしさ。趣はないけど」

 待て、本当に待て。もしやこれはしっかり犯されるのではないか。カツアゲなんてチンケなことをしていた男と同一人物だとは思えん。

 男の尊厳のピンチだ。

「……わかった、だが俺にも心の準備ってもんが必要なんだよ。ほら、俺、処女だからさ」

 というより先程処女になった。屈辱的だが時間稼ぎに縋る他ない。この苦肉の策に、男は鼻で笑う。

「今更乙女を主張するんだ? まあ面白いから良いよ、一分だけ待ってあげるからその間に覚悟しておいてね」

 そうして開放された俺の手首は鬱血して変色していた。えらくか細くなっちまったもんだ。


 男はスマートフォンに夢中になりながら鼻歌を歌っている。どうやら放っておいても逃げることはないと踏んでいるらしい。

 実際ズボンを履かずに走り回るノーブラの女なんぞ世間体的にまずいにも程がある。下手すりゃ警察案件だ。やはり手はひとつか。


 俺は男を殴るために飛びかかった。まさかこの期に及んで暴力に訴えるとは思ってもいなかったようで、完璧に意表を突くことに成功した。みぞおちにワンヒット。続けて回し蹴りを────

「あ?」

 俺は後方へと吹っ飛んでいた。鼻からは鮮血が吹き出る。

「クソ、ちょっと優しくしたら図に乗るんだからさ……」

 ああ、俺、殴られたのか。こんなにも直線的なストレートを喰らったのはいつぶりだか。

 今までは反撃される間もなく殴りまくってたもんだから、大した怪我にはならなかったんだが。

「女だからって!! 殴られないと思ってんなら大間違いなんだよ!!」

 男は這い蹲(つくば)る俺の腹を執拗なまでに何度も蹴る。その度に口からは嗚咽が漏れる。一日に二度も死を覚悟する羽目になるとは、処女がどうとか言ってられねえ。

女となった今、こいつは絶対に絡んじゃいけない相手だったのだ。


「おーい! 優羅ー!! いるー!?」


 聞き覚えのある声が工場内で反響する。ここにいてはいけない女の声だ。何故ここに、どうやって、なんてのはこの際どうでもいい。

「昼間のメガネ女……? 友達かい?」

 だめだ、男に気付かれた。俺の位置からは姿を視認できないが、どうやらそれなりに近い場所にいるらしい。

 逃げろと言ってやりたいところだが、上手く声が出ない。

「おっかしいなー。お爺さんがここだって教えてくれたのになあ」

 十条は何を言っている。お爺さんとやらは誰を指しているのだろう。恐らくカフェの店主だろうが、俺の居場所を知っているはずは無い。何故。

「え、ゆ、優羅っ!?」

 どうやら十条も俺に気付いたらしい。ぼやけてよく見えないが、こちらに駆け寄る足音だけははっきりと聞こえる。

 十条は俺の上半身を抱えあげ、顔を覗き込む。この時初めて十条の顔がはっきり見えたのだが、その表情は酷く歪んだものだった。

「優羅、なにがあったのさ、ねえ……」

 十条は上着を脱いで、俺の頭の下へ枕替わりに置いた。出来れば下半身を隠して欲しかったがそこまでの贅沢も言っていられない。そうやって俺を床に寝かせた後、十条は立ち上がり男と相対した。


 ダメだ、よせ。


「……この子になにしたの?」

「なんで来たのか知らないけどさあ、連撃の吸血鬼がいないなら君なんか怖くないんだよ?」


 情けない。十条の柔軟剤の匂いに包まれながら心底そう思った。冗談でも、女に生まれたなら喧嘩なんてしないと豪語したはずなのに。鼻から垂れる血を袖で抑えながら、十条を見上げる。


「……質問に答えなさい。なにをしたの」


 十条の顔はここからでは見えない。でもきっと、普段の馬鹿面じゃない。声色がそう物語っている。


「せっかちだなあ。前戯だよ前戯。でも意外に泣かないの。よく濡らしてあげなきゃいけないのにさ、その顔を」


 男は十条を小馬鹿にした態度で言う。おぞましく気持ちの悪い台詞に背筋を突かれたような思いだ。


「じゃあ私がその前戯とやらに付き合ってあげる」

「やめろ十条、もう俺はほっといて、帰れ」


 俺は臨戦態勢に入った十条を止めるため、覚束無い足取りのまま立ち上がった。鼻血がぼたぼたと垂れるが構いやしない。


「置いてけるはずないでしょ。私には優羅をこんな目に合わせた責任があるから」


 へっぴり腰で拳を構える十条は怯えた兎のように小刻みに震えている。

「責任とかじゃねえ、勝てる勝てないの話をしてんだ」

 それに何より、責任は俺にある。勝てない喧嘩をふっかけたのは紛れもない俺だ。


 暴力反対主義の十条に喧嘩なんて出来るわけが無い。少なくとも俺が負けた奴が相手じゃ勝算はゼロに等しい。

 男は呑気にあくびなんかをしている。警戒はちっともしちゃいない。 

「んー、君は好みじゃないんだよねー」

 十条は堅いフォームで拳を振るった。まるで体育で習う空手の模倣だ。当然のように軽く腕でいなされる。

「でもさ、好みじゃなくても借りはあるからさ」

 男が上半身をひねる。それが何の予備動作なのか、俺にとっては考えるまでもなかった。

「十条!! 避けろっ!!」

 息も絶え絶えに叫ぶも、一秒にも満たない内に鈍い音が鳴り、十条は後方へと倒れ込んだ。メガネだけが宙を舞い、破片を散らす。


 こいつ、本気で殴りやがった。腰の入ったストレートを、よりによって顔面に。パワー自体は控えめのはずだが、十条はタフさなんてものを持ち合わせちゃいない。

 俺はよたよたと十条に駆け寄る。幸い意識ははっきりしているようだが、下手をすれば脳が揺れていても不思議では無い。殴られた頬は……まだ赤くなっているだけ、もしかすると腫れるかもしれない。

「痛いぃ……ごめん、優羅、やっぱり私じゃ……」

 十条の目からは大粒の涙が零れた。彼女なりに堪えようとしているのか、声を殺して泣いている。


 だから、言っただろ。


 俺の中で沸沸と湧く怒りと自己嫌悪。俺の喧嘩に十条を巻き込んでしまった。

「ボクはさ、本当に君とお茶したかっただけなんだよ? それなのに君は殴ってくるわ、そのメガネの子も邪魔してくるわ……それなりの対価は必要だと思うんだよね」

 その言葉が嘘か真か、そんなことはどうでもいい 。ただ重要なのは、こいつは十条を、ひ弱な少女を躊躇うことなく殴ったという事実だけだ。

 俺は肩を震わせる十条を力いっぱいに抱擁した。

「すまん、俺がちゃんとカタをつけるから」

「やめて……勝てなかったんでしょ、見たらわかるもん……」

「どの口が言ってんだ。それに、俺を舐めんじゃねえよ」

 ゆっくりと立ち上がり、腰を落とす。ああくそ、さっき蹴られたせいか背面が痛む。落ち着いて、顎を引いて隙を極限にまで減らせ。

「えー、またやるの? ボクは弱いものいじめが好きな訳じゃないんだけど」

「奇遇だな、俺も一度ぶちのめした相手を何度も殴るのは本来気が引けんだ」

 だが、今は違う。やる事やってくれた奴にはしっかりとお返しをしなきゃならないと教わった気がするんでな。


 男は二本の指をクイクイと動かして挑発するような素振りを見せる。俺だって馬鹿じゃない。今無闇に殴りかかったところで返り討ちに遭うのは目に見えている。

 俺に攻める気配がないことを察知した男は不服そうにため息をついたあと、自らこちらへと一歩出向いた。


 どうする。今までの、連撃の吸血鬼(ヴァンパイア)としての闘い方では勝ち目は無い。大したダメージにならないか、軽くあしらわれて反撃されてゲームオーバー。生憎残機ももう残っちゃいない。


 考えているうちにも男は着実に、一歩ずつ距離を縮めてくる。その距離が一メートル程になると、男はその足を止め、にやりと笑った。

「悪いけど、ボク手加減知らないからっ」

 右のアッパーカット、左のジャブ。意外にも余裕を持って男の拳を避けることが出来た。初めから躱すことに専念していれば十分に機能する。この男は右利きなのだろう、なにかと右の大振りが目立つ。それに左は右に比べ動きが若干鈍い。殴ることに執着し過ぎてその隙に気づいていない辺り喧嘩慣れはしていない────冷静になって目を向けると驚く程に癖が目に見える。おかげで最小限の動きで避けられているわけだ。

「っ!! ちょこまかと!!」

 躍起になって、足技という選択肢すら見えていない。それに上半身だけで動いて、両足の位置がほとんど固定されている。

「おまえみたいな男には」

「わかんねえだろうけどよ」

 俺はステップの合間合間で言葉を発する。

「喧嘩は勝ってなんぼなんだよ!!」

 男の右腕をバックステップで華麗に躱す。


 さて、今からすることは暗黙の了解のもと行われなかったやり口、言わば禁じ手である。俺だって実際にすることは初めてで、良心が痛む。でもこれは男同士の真剣勝負などではない。俺は今女だ。その事実だけが俺の行動に正当性を生み出してくれる。


 左腕でパンチが繰り出されるまでの刹那、俺は左足を前に踏み出し、男との距離を詰める。突然攻撃的な姿勢に入った俺に怯んだ男は両腕を防御に回すように胸の前で立てて見せた。


 右足を全力で後ろに振り上げ、左腕を慣性に任せぐるりと回す。


 これしか無かったのだ。二度目の攻撃が成功しないならば一撃で仕留めるしかない。


「すまねえな、男同士の真剣勝負ならしないんだけどよ」


 狙うべくは人間……いや、男の最大の弱点、金的である。


 左足を軸足にして勢いのまま前方に振り上げた俺のか細い右足は男の股間にめり込んだ。さながらエースストライカーのようなフォームを見せた俺だったが、きっとこれがペナルティキックであればボールはクロスバーを越えて行き、観客から大バッシングの嵐になっていたに違いない。


 男は声すらあげることなくそのまま仰向けに倒れ込んだ。意識こそあれど股間を抑えながら悶絶している。


 当然こんなもんじゃ終わらない。苦しんでいる男の腹の上に馬乗りになる。下半身は未だにボクサーパンツ一丁だが、そんなこと知ったことか。

「ちょっと優羅、この人倒れてるうちにここから離れた方が絶対にいいよ」

 先程まで座っていた十条が立ち上がり、俺を制止しようとする。


「馬鹿言え、俺を誰だと思ってんだ。連(・)撃(・)の(・)吸血鬼だぞ。今殴らずにいつ殴るんだ!? 百連撃、いや二百連撃はいくぞ!!」


「それ、いーちっ!!」


 掛け声とともに頬を一発殴る。やはり一発の火力は落ちている気がしてならない。

「ふふ……連撃の吸血鬼を騙るだけあって非道だね。ボクは降参だ。お手上げ、これ以上殴るのはよしてくれ」

 男は冷静を装うが顔色までは装えないようで、冷や汗が大量に吹き出ている。

「知るか、もし変な動きしたら本気でタマ潰すからな」

 もう一度、次は逆の頬を殴る。一人で勝手に盛り上がって一人で降参させるような真似を許すはずないだろう。男は俺に構わず話し続けた。

「実の所、本当に犯そうなんっ」

 右頬。

「て気はなかったんだけどね、全裸で土下座っ」

 左頬。

「くらいまではしてもらっ」

 右頬。

「うつもりだったけど」

 股間のそ(・)れ(・)を人質に取られているにも関わらずヘラヘラとした態度を取り続ける男の胆力は同じ性を持って生まれた身として見ると単純に恐怖を抱く。だからこそ、余計に嫌悪感を増したのかもしれない。

「俺が今怒ってんのはそこじゃねえ。実際アンタが俺に怒るのは結構真っ当だ」

 こいつが十条から金を巻き上げようとしていたことは抜きにして、初めの時点で俺には何一つ危害を加えちゃいなかった。すぐに暴力に訴えかけたのは俺の方だ。でも。

「でも十条を殴るとなりゃ話は違ぇよな? あいつは女だぞ」

「面白いこと言うね、君も女だろう。男は女に一方的に殴られてろって言いたいのかい?」

「そういうことを言いたいんじゃねえよ。少なくとも十条(こいつ)は本気で殴るほどの脅威を秘めちゃいないだろ」

 呆然と立ち尽くしている十条を指さして言う。どう見ても喧嘩なんかする風貌ではないし、細身……とも言いきれないが筋肉質ではないのは確かだ。

「いやいや、ボクは心底その子が怖かったよ? だから反射的に、さ。正当防衛だよ」

 悪びれる様子は無い。くだらない嘘にはいそうですか、仕方ないね、と言える訳でもない。とにかく腹が立つので更にもう一発拳をかましておいた。


「優羅、もうその辺にしておいた方が……」

「え、普通に嫌だが」


 十条に諭されようと知ったこっちゃない。結局俺はその後憂さ晴らしも兼ねて男を殴り散らかしたのだが、何度殴ったか、男は気を失った。その後も拳を止めることは無かったが次第に飽きがきてしまい、そのまま帰路についたのだった。もちろんズボンを履いて。





 夕暮れ、俺の休日が終わりを迎えることに哀しみを覚えながら小石を蹴り飛ばした。

「あのさ、優羅」

 隣を歩く十条が俯いたまま独り言のように俺の名前を呼んだ。小脇に挟んだギャル用六法全書及び魔導書(仮)のせいで胡散臭さが増した十条に笑いが込み上げそうになるがそこはしっかり堪えた。

「あ?」

「明日から、どうするの? 学校とか」

 十条は不安そうに問う。

「どうって、今までと変わらず過ごすしかねえよ」

 そう、今までと変わらず。なんてのは無理だと俺自身わかっている。もし明日の朝目覚めた時にでも体が戻っていれば話は早いのだが。

「そもそも今の優羅が優羅だと信じてもらえるとは思えないけどね」

「だろうな。あまりにも原型が無さすぎる」

 せいぜい髪色と異様に尖った歯くらいしか俺としての要素がない。と言っても髪色は染めただけに過ぎないのだから何の証拠にもならないのだが。


 しかし、メガネのない十条も大概原型が無い。メガネ着用タイプの人間はメガネありきの存在感……なんてことは無いだろうが、十条の場合はその手の付属品(マジック・アイテム)にキャラを食われている。怪しさ満点倫理観五点のこの女、どうよ。

「そうじゃん、優羅、家の人にはどう説明するの? 制服は? 下着は?」

 怒涛の質問が俺の神経を逆撫でする。こうなっちまったのは誰のせいだと思ってんだ。

「母親に俺自身を証明するなんて朝飯前だわ。制服も下着もまあ男モノで困らんだろ」

 まあこの元男とは思えん馬鹿みたいな胸周りは知らんが。最悪布を巻けばなんとかなるという話を漫画で見た気がする。

「なんだか色々不安だし、優羅の家着いてっていい? ほら、私責任とらなきゃだから」

 責任という言葉を都合良く使っていないか、こいつ。あまりに自由奔放な彼女の姿に本日何度目かのため息が出る。本来喫茶店で解散するはずじゃなかったか全く。

「まあ色々話したいこともあるし、寄ってけ。だが騒いだらすぐに追い出すからな」

 俺が何の躊躇いもなく快諾したことに十条は驚きを隠せず、「うゑぇ?」と表現のし難い声を漏らした。例えるなら、動物園で聞いたラマの鳴き声だろうか。可愛くは無い。

「話したいこと……つまり女の子特有のやらしい事についてってこと!?」

「話の飛躍具合が鳥人間コンテストなんだよな」

 使い古されたツッコミが思わず飛び出した。しかしこの女の脳内はピンクどころの話じゃない。家に入れたくなくなってきた。

「でもでも、普通思春期真っ只中の高校生が異性になったらもう少し興味持つもんじゃないの? そうなのに、全然動揺しないしさ」

 俺の蹴った石を次は十条が蹴り飛ばした。小石は前方に転がったあと、イレギュラーバウンドで左へと逸れて側溝へと落下した。

「まだ現実を受け止めきれてねえだけだ。それにもしかしたら夢オチって線も有り得るだろ?」

「それにしてはさっきパンチされた時ものすごく痛かったけどね」

 十条は頬を擦(さす)りながら言う。俺はその様を目を逸らさずに眺める。逸らせない。

「ま、優羅が勝ってくれたおかげでこの程度で済んだってことで!!」

 十条は隣から駆け出し、数歩進んだところでくるりとこちらを向いた。逆光で顔が隠れてよく見えない。

「私が殴られた時、怒ってくれてありがとう!!」

 きっと笑っているはず。そう思っておかないと俺がどうにかなりそうだ。

「あっ、でも暴力はやめてね。女の子は男の子に腕力では勝てないってわかったでしょ?」

 こればっかりは身勝手な主張だ。今回だって拳でしか解決の出来ない問題だっただろうに。


 だが、次もこう上手くいくとは思わない方が良いだろうな。細っこくなった自分の白い腕を見ると余計にそう思う。

「気が向いたらな、多分気が向くのは三年後、いや五年後……」

「優羅、ほんと女の子になり損だよそれは……」


 逆に得があるとでも。ああいや、一つだけあった。


「弱点が一つ減った。どこがとは言わないが」


「いや、女の子でも死ぬほど痛いから。弱点のままよ、そこ」


──だそうです。


 ああ、早く、魔法なら解けてくれ。

二年ほど前に書いたっきり投稿していなかった作品です。気ままに更新していきます。

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