第1話:鳥肌立ったよ
―――深い、ふかい穴の中へ。
―――飲み込まれていく感覚。
不思議であると同時に。
不快でならない感覚だ。
落ちているのに音は無く、目が開いているのに光が見えないなんて。
夢の中でさえ恐怖する感覚。
現実ともなれば、気が狂う。
「―――ッ――ッ――ッ!?」
そう、夢なんかじゃない。
これは、紛れもなく現実。
数瞬前まで、自分は確か。
ブレザーに袖を通し、寝ぼけ眼を擦りながらも道路を走っていた。
何時もの朝で。
何時もの日常。
それが、どうだろうか。
光など一点たりとも存在しない穴を何十、何百分と墜ちているとさえ錯覚させる程に長く。
落ちて…墜ちて…おちて。
その中の一瞬だけ光明が。
青々とした空と、植物の広がる緑が見えて。
そして、気が付けば。
彼は土の上へ倒れて。
―――意識すると同時に。
―――何度も、何度も血反吐を撒き散らす事になった。
◇
「……ぁ……ッ……僕…なん…で――いたィィィッ!?」
意味が分からないだろう。
アレだけ墜ちたのに生き。
痛みだけが残るなんて。
皺だらけのブレザーは…青と灰色の一般的なソレは男の吐いた血で真っ赤に染まり。
生きているのが不思議。
むしろ何故生きている。
「――痛い…痛い。――此処、痛い……何処? ……僕は…マク…?」
真久 樹は高校三年の学生だった。
友人たちにはマークと呼ばれたが。
別に欧米の血が入っている訳でもなんでもなく、ごく普通の日本人で。
ごく普通の青年だった筈だ。
こんな怪体験をするまでは。
「腕――動かない? 足……捻じれてない。首……いッ」
先程身体が見えたから分かるけど。
首だけが何とか自由。
ゆっくりと動かせる。
ゆっくりと動かせるから、実際に右、左。
動かすたびに感じる痛みを煩わしく思いながらも、状況の確認を行うけど。
―――此処は……何?
所謂、洞穴だろうか。
一般的な教室くらいとは言わないけど、その半分程度はありそうな空間。
天井も、壁も土製で。
或いは、剥き出しか。
丁度左の方角からは。
確かな青空と乾いた土が見えて……外だね。
上から墜ちたはずなのに。
洞穴の中にいるって事は。
多分、僕は何度か気絶しただろうから。
小説的展開で誰か(できれば美人さん希望)が助けてくれたのかなとか思ったけど。
竪穴式住居はちょっと。
ロマンに掛けるかもし―――
「――ギチギチ」
「………へっ?」
「ギチギチ…ギチギチ――ギチギチギチ」
「――ヒッ!?」
一瞬で頭が真っ白になって。
次の一瞬で自らの口を塞ぐ。
勿論、手など動かないから。
欠けそうになるくらいに全力で歯をかち合わせ、軋り合わせ、唇で蓋をして止める。
出掛かる悲鳴を抑えたのは。
せめて、相手を少しでも刺激しないように……最低限とも言える防衛だった。
今まで生きてきた半生の中で。
これ程最低な記憶があったか。
それは、巨大なアリだった。
巨大一個では足りないかも。
だって、明らかに僕と同じくらいか、更に一回りも大きいんだから。
全体的に黒光りした体表。
長い脚が八……いや、六。
触角が大きすぎて脚に見えただけで。
僕も年頃の学生だけど、これ程嬉しくないボン、キュ、ボンは無いだろう。
顎の牙がとにかく鋭そうで。
包丁を括りつけたみたいだ。
アリなんて、昔はよく捕まえていたけど。
小さくて見にくかった目は。
あぁ、確かに理系の授業で習ったような複眼になっていて、全身に生えた薄い体毛は見ているだけで怖気が走って。
およそ唯一のチャームポイントは。
丸々とした腹部くらいだろうか。
「………ぁ……ぇ? ――君…その――」
「ギチギチギチギチ」
「~~~~~ッ!!」
「ギチ、ギチ」
「―――ぁ……ぁぁ」
もう、悲鳴が声にならない。
というか、滅茶苦茶に痛い。
どうやら、顎牙が。
僕の首の部分を切り裂いたようで――何故かまた生きている。
頸動脈は?
それしか知らないけど。
首をあんなので切り裂かれたら、普通は死ぬものでしょ?
運よく逸れたとか?
いや……でもさぁ。
痛みが走ってから、暖かい何かが首を伝っているのを感じて。
「タス……ヶテ。やめ……て」
「ギチギチ、ギチギチ」
「――ありがと……?」
アリの頭部が首から離れたから。
或いは、なんて思いもしたけど。
それは大きな間違いで。
僕にとっての本当の恐怖は、次の大アリの行動からだった。
「ギチギチ、ギチギチ」
「……ぇ……ナニソレ。それはダメだよ、はんそくだよ」
横へ開かれた咢の奥。
そこから伸びる何か。
多分、舌のような物。
およそアリには存在しない筈の器官が、ゆっくりと。
近づいてくる。
吐息が掛かる。
「――や――めて? お願い、だから」
「ギチギチ、ギチ」
懇願しても意味がなく。
アリの顔が迫ってくる。
不快な顎音を鳴らして。
迫る、迫る、迫りくる。
そして、遂に。
血が流れ出ているであろう首筋の部分へ、生ぬるく柔らかな感触が走り―――ッ。
―――本当に鳥肌が立った。