初めて人を愛した日〜天才学者 泡沫の恋〜
研究者ルチル ヴィルシュ。
イタリアの首都ローマのとある研究所で研究を続ける爬虫類学者である彼は同僚に比べ一段と若い身でありながら実績があり、室長を任されるほどの実力者だ。
彼のT再生理論により生まれた欠損した手足を再生させる、T細胞移植手術は世界的にあまりにも有名である。
だが、そんな彼は普段どのような研究をしているかと関係者達に問うものなら、決まって口を噤むだろう。
何故なら、彼は所謂マッドサイエンティストという一面を持ち、倫理を逸脱した実験を行うことも厭わないからだ。
例えばT再生理論の要となった論文の資料作成の際は、トカゲのDNAをモルモットに埋め込み、
そのしっぽや小さな手を刃物で切り取りとりそれを何度も繰り返し、平気で命を借りとっている。それを人間で試そうと言い出す時もあった。
その他、世界で流行し始めているオカルト、例えば種族の違う生き物同士を錬金術により融合し、新しいものを生誕させたキメラと呼ばれる物も、作り出した先駆者は彼だったりする。
しかし、常に時代の1歩先をゆく彼の研究は、世界的にはあまり知られていない。……故に、その人間性も。
──────────
──コンコン
リズムの良い音が弾け、ルチルは覚醒する。どうやら誰かが研究室の扉をノックしているようだ。
──コンコン
またしても同じ音が続く。やはり、金をかけただけにこの部屋は全ての素材が良質なようだ。
扉の材料までこだわっているとは、我ながら贅沢が過ぎるな、と僕は体を横にしながら目だけを開けた形でぼんやり思う。
──ゴンゴン!!
「あぁ、うるさい!! 入ってもいいですよ!!」
シビレを切らしそう怒鳴ると、漆黒に塗られた扉から入ってくるのは、艶のある黒髪を肩まで垂らした、清潔感のある白の研究服を纏う女性だ。
静かにこちらを睨む彼女の名前はナツ フィージア。日経イタリア人であり、お淑やかという言葉が似合う外見を持つ僕の唯一と言っていい助手だ。
彼女は、僕が昨晩も怪しい実験で徹夜していたことを知っているようで、その手にはコーヒーを持っている。もう昼過ぎであるのに、よく出来た後輩である
「ヴィルシュ先生。徹夜するなら言ってくれれば手伝うっていつも言ってるじゃないですか」
「フィージア君。僕を呼ぶ時はルチルでお願いしますっていつも言ってるじゃないですか」
「ならヴィルシュ先生も私のことをナツって呼べますか?」
「んー無理」
「それが答えです」
後輩というのは間違いではないが、なんせ彼女は年上なのだ。敬称で呼ばれると……なにやらうずうずとした塊が背中から臀部にまで駆け巡るのだ。
それは社会人としての礼儀だと理解はしているが、やはりまだ慣れない。なんなら敬語もやめて欲しいと常々思っている。
コーヒーを啜り、昨日の研究結果の資料に目を通していると、フュージアが息の当たるほどに近づいてくる。と、フュージアが考えるように顎に手を当て、口を開いた
「……うん、やっぱり可愛い」
「ぶふっ!?」
予想だにしない言葉を受け、コーヒーが資料とフィージアに飛び散る。大惨事だ。
「ちょ!? いきなり何するんですか、先生!?」
「君が唐突に変なことを言うからでしょう!! ああっ、資料が大変なことにっ」
言いながら、テッシュを慌てて取り、迷いなく真っ先にフィージアの顔に付いた汚れを拭き取った。
「資料を先に拭かなくていいんですか?」
「何故ですか? やり辛いでちょっと黙ってて下さい」
真剣な表情でフィージアの顔に着いた黒い水滴をティッシュで染み込ませ、淡々と汚れを落としていく。彼女の柔らかい肌に触れ、罪悪感が沸いた。
その後、時間が戻ったように慌てふためき、資料も同じようにし、無事を確かめると僕はわかりやすくほっと胸をなでおろした。
「この悲劇を引き起こした原因が先生じゃなかったらな……」
「なんか言いました?」
「はい、先生はやはり間抜けだなと。ほら、この前ヴィルシュ先生に言われていた新種のトカゲ持ってきましたよ」
「カラマーゾフトカゲか!! 実物を見るのは初めてだ。ふふ、こいつをどう料理してやろうか」
言いながら、未だ茶色く濁った用紙のことも忘れケージの中にいる爬虫類に夢中になり、僕は恐ろしく不気味な笑みを浮かべてしまう。悪い癖だった。
「そうだった。先生はそういう人だった……」
とは、毎度フィージアが言う口癖のようなものである
──────────
一応助手を務める私は、研究に引こもるルチルに代わり世界のあちこちへ飛び回ることが多々ある。
しかし、珍しい生き物を持ち運ぶ許可証の発行を行うのが中々に面倒で、可能なのだが……やはり、面倒なのだ。
それに、ルチルと一緒に研究をしたい。常々そう思っていた私は上司に許可を頂き、世界へと飛び回る役は他の人に任せることにしたのだ。
ただし、ルチルはまるっきりの変人だ。
今も、未だ幼さの残した可愛らしいマスクでカラマーゾフトカゲに夢中になり、その毛を食べようとしている。
そんな彼と何故一緒に研究したいのか。──好きだからだ
いつ好きになってしまったのは分からない。初めて会った時など最悪だった。ただその当時の印象は周りに言われ続けられていたのもあり、大の変人、というものだった。
……しかし、実は彼は臆病だったりするのだ。過去は知らないが、途轍もない努力をしてきたのだろうという発言が多々垣間見える。
そしてなにより、一途であり努力家なのだ。才に恵まれたとは、聞こえはいいが人と違う考えを持つというのは簡単に差別の対象になってしまう。
この室長でありながら自分の部屋で研究を続けるのも、表向きはより自由に研究がしたいと言っていたが、周りの人間を文字通り傷つけさせないためだと言うことを私は知っている。
そして今、何をしているのかと言うと……
「こんなに力強く抑えて……何をするつもりなんですか?」
「ふふ……何をすると思う?」
「はぁ……やっぱり先生は先生なんですね」
おっと、勘違いしないで欲しい。カラマーゾフトカゲが暴れるものだから、頭としっぽを抑えているのだ。
そんな時だった。ルチルが右手に鋭い得物を持ちながら、何やら強ばった様子で私を見つめているのだ。
「僕が初めてフィージアくんに会った日に言ったこと、覚えていますか?」
「覚えていますよ。『君みたいな真面目くんが1番苦手なんですよ』、でしたよね」
なんでこんな時に、と顔に書いているだろうなと自分で思いながら、当時衝撃だったことを淡々と語る
「それです。僕は疑心暗鬼だったから……人と会話するのも嫌なのに、僕のすること一つ一つに突っ込まれるのが今後億劫になるだろうなと思って発言したことです」
事実だ。ルチルが錬金術に使うとある液体を体に被ろうとしたり、虫の内蔵を人間の皮膚に移植させるといった内容の資料を作っていたり……
突っ込むといっても、如何なものかと問うただけである。思い出していると頭が痛くなってくるな、とそう考えていたらルチルが私の目を見て言ってきた
「僕はあなたのことが好きなのかも知れません」
「え」
途端、抑えていた手が緩み、トカゲがものすごい俊敏さで机から飛び降りていった。だがそんな事はどうでもいいというように、ルチルが続けた
「ちょっと前までは徹夜作業をしていても研究の内容しか頭にないはずなのに、昨日なんて『これはフィージアくんに怒られちゃうだろうな』だとか、『フィージアくんは今何してるんだろう』だとか、そんな事を思っていたんです」
「あなたに言われて森の中にいましたよ」
「まぁそうなんですけど」
「いやいや……」
研究の資料が散らかった部屋で、2人がかりでトカゲを押さえ込み、あ、僕はあなたの事が好きです。一体全体どんな告白なのか。
事実は小説よりも奇なり? 否だ。事実は小説よりもどんなラブロマンスよりもどれほど壮大なアクション映画よりも圧倒的に奇なり、だ。
「で、どうなんですか?」
なにが、と言おうとしギリギリで踏みとどまる。当然告白に対してだ。
本当は悩むことなんてないのだろう。年下の上司に密かに想いを寄せ、向こうから好きだと告白される。
これが普通の会社なら、よろこんでと言うのは明らかではある。しかし、ここは普通の会社などではない。
命を扱う仕事であり、あるいは刈り取る行為をする仕事だ。断っておくが、断じて皆が人々を救うためにという誇らしい志を掲げている訳では無い。
そんなもの、共通点など無いに等しい。強いていえば共に働くという事だけだ。
「……実は私もヴィルシュ先生がずっと好きでした」
なのに私は何を言っているのだろうか。この人がどんなものにも物怖じしないから? 若くて実力があるから? 素晴らしく強い意志を持っているから?
──違う。彼は怖がりだし、ちょっと抜けてる所があるし、人を救いたいなどという真っ当な正義を掲げている訳でもない。
なのに何故彼の事が好きなのか。
実は誰よりも、優しいからだ。その優しさに自分で気づいていないのも愛おしい。ただ、優しいからというと本人には「安直だ」と言われそうだが、
そして私が騙されやすい女だと思われそうだが、彼には他の人と違う、何か特別なものがあるのだ。
彼をもう一度見てみる。ボサボサな髪の毛が綺麗な目と鼻を半分隠し、右頬の下には可愛らしいホクロがちょこんと佇んでいる。
その顔は相思相愛だったということを知りとても嬉しそうに口を開けている。まるで子供のようだ。
「えっと、それはOKということでいいんですか?」
「私は何に対して肯定したんです?」
「あ、えっと……」
彼は好きだという事実は言ったが、付き合って下さい、などとは一言も言っていなかった。しばらく沈黙が続く。
──ガシャン
唐突に物音がし、どうやったのかカラマーゾフトカゲが黒い扉を開け、飛び出していた。
「!? やばい、アレッサンドロにはトカゲの事は伏せていたのに! バレたらまずい!!」
アレッサンドロというのは、ここの研究所の支配人だ。でっぷり太ったハゲの男だ。
ピラミッドで言うと上から2番目に属するお偉いさんなのだが、いつも高圧的な態度で脅しをかけることから部下からも信頼のない男という事で有名である。
なぜ伏せているのだ。という問いは聞くまでもない事だ。納得のいかないことには必ず何かしらの理由をつけ、自分の資金にならないことには徹底して辞めさせる。
許す時があるのだとしたらそれはアレッサンドロに責任が問われず、尚且つアレッサンドロに金が舞い込んでくる場合だけだ。金をむしり取ることだけが目的の最低な男である。
そんな男にバレてしまっては大変だ。私とルチルは頭で考えるより先に部屋を飛び出していた。
──────────
僕がフィージアに告白をしてから、1週間が経った。フィージアがいることにより物事がスムーズに進み、
より研究が捗りこれまでと比べたら大分充実した生活だったと思う。
徹夜も少なくなった、ある昼のことだ。
フィージアの口から、とんでもないことを聞かされた。とある女性が昔の交通事故により欠損してしまった腕をT細胞移植手術で腕が見事復活したところ、
後日しっぽが生えてきたというのだ。それも全体の4割ほどの長さで、生活にも支障をきたしているという。
しかし、そんな実例など今の今まで無かった。しっぽどころかトカゲの毛さえも生えてなかったはずだ。
それは論文でも証明してあり、後遺症といえば手術を行ってからの数日は傷の治る速度が早まるといったある種メリットのみだ。何故、突然にそんな症状が現れたのか。
「考えられるのは医療時のミス、もしくはT細胞ウィルスが何かしらの突然変異を起こしてしまった、とかだろうか?」
「そこでもう一度論文を見直し、研究、実験を行えとアレッサンドロが……」
なぜ彼女がそんな悲壮な顔をしているのか。それはすぐに分かった
「……その、アレッサンドロが、人体実験をしろ、と言って聞かないんです」
「つまり僕で、ですか」
要約すると、失敗したんだから自分自身で成功を証明して見せろ、ということだろう。少し考え、僕は覚悟を決める
「やりますよ。不安はありますが……まぁ、大丈夫でしょう。軽く千回はモルモットで実験しましたしね」
「……そんな!! 真っ向から受ける必要なんてないじゃないですか!! その女性の話だってきっと作り話ですよ。そも、なんで唐突にそんな人が現れるんですか? 不自然が過ぎます!!」
それは僕も思う、と言いかけるが、フィージアがそれに便乗して辞めさせようとすると思い、口を噤んだ。しかし危険はないとは胸を張って言えるだろう。そして僕はこう言った
「僕を知らないんですか? 僕は天才なんですよ」
「…………」
普段から読み取りやすいフィージアの顔は、何言ってるんだこいつはとでも言うような目で僕を見ていた。初めて見る表情だった。
──────────
円形の薄暗い部屋の端には無数のパソコンがあり、私でも理解できない数々のボタンがあり、20人ほどの研究者が集まっていた。
その中でも1番の異質さと存在感を放っているものは部屋のど真ん中に位置する、中身に液体を入れ、薄いガラスを柱型にしたものだ。
ボコボコという音を出しながら、ルチル ヴィルシュが呼吸器をあて、水の中で浮いている
「ヴィルシュ先生。痛くないですか……?」
『普通こういう不安な場面に聞くことって、気分はどうですか、とかじゃないんです?』
「普通だと思います?」
『それもそうですね』
とまぁ、茶化していられるのも今だけだ。第2段階に移ればもう喋ることも出来ない。といっても、一時的にだが。
「麻酔を投入し確認を行う。ソフィア、頼んだ」
すると、ある男が意味のわからない赤いボタンを押し、繋いだ。
「了解しました。第2段階の準備が完了しました。いつでも大丈夫です」
ソフィアと呼ばれた女性は飛行機の操縦席にあるようなレバーを両手でしっかり握り、言った通りいつでも下ろす準備をしていた。
ルチルはもう目を閉じていた。──瞬間、レバーが下げられる。ゴボゴボとした中の空気がさらに多くなり、ルチルの姿が見えなくなった。
「…………」
大丈夫、なのだろう。T細胞移植手術というのはこの時点でもう何万人にも行っており、死亡数は今ところ0だ。心配には及ばない。大丈夫、大丈夫、大丈夫……
そう自分に言い聞かせていた時だった。
中の様子がおかしい。見えないが、中で暴れているように見える。
──バン!!
部屋の空気を一気に変えた。ガラスの叩く音だ。刹那、耳に障る音も反響し、赤いランプが所々で点滅する。
──やはりおかしい
「ソフィア!! 何が起こっている!!」
男が唐突に叫び、事態の急変を証明させる。
「……わかりません!! 急に血圧が上昇して、その他の数値も急激に変化しました!!」
「何故だ……? おい、フランチェスコ!! 中の映像は今どうなってる!!」
フランチェスコと呼ばれた若い男は言われた通り、パソコンに映ったルチルの様子の確認を行う
「なん、だ……これは、一体?」
「フランチェスコ、どうなってると聞いてる!!」
「わかりませんが、一言で言うと……中に化け物がいます」
私はそれを聞いてすぐ、柱状のガラスを見上げた。相変わらずバン、バンと叩く音が響く中、腕のようなものが見えた。
「トカゲの、手……」
言ってすぐ、腰を無機質な地面に落とした。力が抜けたのだ。失敗、だったのだろう。何故だかわからないが、その手には緑に近い黒色の……無数のおぞましい鱗があった。
──ピキ
もはや聞きなれた衝撃音に、新たな音が加わる。ガラスにヒビが入ったのだ。それが割れ、完全に液体が室内を侵した。
「きゃぁぁぁ!!!!」
最初に叫んだのはソフィアと呼ばれた女性だった。叫ぶのも無理はない。
なにせ目の前にいるルチル ヴィルシュ──否、ルチル ヴィルシュだった……全身鱗だらけの化け物が、恐ろしい尻尾を揺れさせ立ち上がり、そばに居た男を切り裂いたのだ
……どうして? そう思うのも束の間、化け物は水が流れていく一部分が出口だと気づくや否や、
即座に扉を破壊し、途轍もない速さで……そして、四足歩行で走って行ってしまったのだ。
完全に理性を失っている。
何故こんなことに? またしても同じような言葉が頭の中に残響する。
残された人々は訳が分からず、破壊されひしゃげた扉をひたすら眺めていた。
私を除いては。
──────────
「…………」
あの化け物はルチルに間違いない。走りながら様々な思考を巡らせ、何故あんな悲劇が起こってしまったのだろうかと考える。
まず、事の発端はアレッサンドロが考案したのだ。あの男に話すべきだ。アレッサンドロの場所は……
「はぁ……はぁ……は、ぁ……ここね」
とある扉の前で止まる。扉が不自然な程に白いのは、汚したらすぐにわかるようにだ。
恐らくその犯人に金を寄越せとでも言えるように、業者にそう依頼したのだろう。
ドアノブに触れ、勢いよく開く
「君は……ノックもせずに何を考えてるんだ? クビにでもなりたいのか? えぇ?」
アレッサンドロは横幅の大きい腹に手を当て、椅子にふんぞり返っている。まるで今何が起こっているのか検討もつかないとでも言うように
「……あなたですよね。ヴィルシュ先生をあんな化け物に変えたのは」
「……なんの事だ?」
「とぼけないでください。あなたはヴィルシュ先生を嫌っていたんでしょう? 実績があるから様々な事にも目を瞑られ、自分より下の立場である彼が金を持っているのはおかしい。
そう思っていたんでしょう? だからってこんな仕打ちは、あまりにも残酷すぎる!!」
「ふん、なんの事だか。それに君、立場というものが分かっておらんようだな。この俺様に立ち向かうとはいい度胸だ。親の名前を言ってみろ。両親の目の前で逆らったらどんな思いをするか、わからせてやる」
全身の産毛が逆立った。何故こんなにも堂々としていられるのか。何故こんなやつが生きているのか。こいつを殺してやりたい。そう思った瞬間だった。
──とんでもなくどでかい轟音が鳴り響き、この部屋の壁に穴が空いたのだ。
その穴を開けた張本人は、全身の鱗を反射させた、何を隠そうルチル ヴィルシュだった生き物だ。
「……お前、どうやってここに来た? 知能を極限までに下げてやったはずだが」
アレッサンドロは言いながら、慌てて手に持った銃口をルチルに向ける。
刹那、銃が弾け飛ぶ──否、ルチルがアレッサンドロの腕ごと弾いたのだ。その俊敏さは、いつぞやのカラマーゾフトカゲを思い出す。
彼は、もうルチル ヴィルシュではないのだ。
私はその光景を見て、慌てて両者の間に立ち、背中にアレッサンドロ、正面にルチルという形で、アレッサンドロを護るように両手を広げた。
「…………」
「あなたを……人殺しにはしたくない。どういう原理かはわからないけれど、あなたはトカゲ人間になっても、考える頭がある。そうでしょう? マッドサイエンティストなんですから」
何故そう考えたのか。理由は3つ。1つ、変化した後、切り裂いた男は重症だが、急所を避けられていたから。2つ、真っ先にこの男の部屋に向かわなかったから。向かっていたならば私よりも先に着くはずだ。
そして3つ、先程破壊し穴を開けた隣の部屋が、とある薬品を置いてある研究室だったから、だ。
「その薬品の中に、認知症を治すものがあったはずです。それは認知症どころか、通常の成人男性に与えてみたところ、知能が数倍にも膨れ上がったそうですね。その試作品が、あったはずです」
「…………」
ルチルは今も黙っている。私のことを分かってくれているのかもしれない。
そんな時、突然にフラッシュのような光が部屋を照らしたかと思えば頭の中にピー、という音が鳴る。耳鳴りだろうか。
特段理由はなかった。見下げてみると腹の部分が湿っている。それはじわじわと拡がり、どくどくと流れる。
「……血?」
後ろにいたアレッサンドロが銃を拾い、引き金を引いたのだろう。
そう理解した途端、今まで味わったことのなかった激しい痛みが走る。気づくと足がほつれ、床に倒れていた。
「ふん、逆らった罰だと思え。この化け物、お前も死んでしまえ」
またしても銃口を向け、ルチル目掛けて弾が胸に貫通する、そう思われた。
──パァン!!
耳を塞ぎたくなるほどの高音を生んだ銃が放った先は、ルチルではなく、何も無い壁だった。
アレッサンドロの腕が根本から吹き飛んでいたのだ。
「ぐ、ぅあああああ!!! 貴様!! この俺様に何をするんだ!! お前の家族を皆殺しにしてやる!! 貴様も例外ではない、全てが済んだあと、貴様を……ぅ」
「……ボクのカゾクは……もういまセンヨ」
いつのまにか、アレッサンドロの視界は逆さまになっていた。どういうことか理解出来ていない様子で、
手を動かそうと意識するが、全く言うことが効かない……否、もはや感覚がない。当然だ。
──アレッサンドロの頭と身体は、もう離れていたのだ。
ゴト、という鈍い音が響き、大きなアレッサンドロの身体が椅子にずっしりと重みを増した。
ルチルはそんな男などもはや興味は無く、倒れた女性の肩を揺らしていた。
「……フィーじアくん。ネぇ、ボクだよ。ヴィるシュだ」
すると、フィージアは、掠れた声でルチルに返事をした
「……いいですよ」
「は」
「それ、が……あの日の……答え、です」
好きだと伝えた日のことだろう。付き合って、とは確かに言ってなかったはずだ。
悶々として結局言えなかったのだ。それを今、しかも化け物になってから答えを貰うなど、世界からどんな罰ゲームを受けているのか
「もウしゃべらナイで。イマ、助けをヨビにいきマスから」
「……待って、心臓が……破裂、してるんです。もう、助かり……ません。そのくらい……自分で、分かり、ます」
所々声を途切れさせながら、必死に私はこう言った
「ルチル。お願い……があり、ます」
初めて、ルチルの事を呼び捨てにする彼女の目には涙が溢れていた。それがポタポタと血と混ざり、まるで血の涙のようだ。
「……私の、こと……をナツって、よんで、ほしい……の」
そんな事は簡単だと、鋭い牙を輝かせながらルチルは言った。
「ナツ。キミのコトがスキだ。愛してる。だからもう……これ以上、喋らないで」
一瞬だけ、彼がいつもの優しい表情に見えた気がした。
「私、も……愛して、る……ルチ……ル」
私は腕を彼の頬に触れ、愛おしそうに撫でた。
そしてすぐ、腕がだらんと落ちた。
僕は彼女を無言で眺める。今日は彼女をディナーに誘うつもりだったのに。
先程罰ゲームと言ったが、これはトカゲを殺めた神様からのバツなのかもしれない。あぁ、彼女はこんなにも綺麗だったのか
ルチルが人生で初めて、人を心から愛した夜だった。