3話
ウーズという魔物が存在する。『大聖堂』の奥深く、深層と呼ばれる地下部分にのみ生息している。
ダンジョンとは、魔物を閉じ込めるための檻だ。監獄が奥へ行くほど罪の重い者を収監しているように、ダンジョンにおいても深く潜るほど危険な魔物が現れる。
ウーズもまた非常に危険な魔物だ。肉塊と表現するより他にない変幻自在のそれは、基本的には歩行と周囲の状況を把握するための触手を生やした姿で存在している。しかし実のところ定形というもののないウーズは、故にあらゆる生物の器官を取り込む性質を持ち、野に放たれれば際限なく危険性を増し続ける。
一昔前、ウーズを題材にした娯楽小説が流行した時期があった。どんな性質をも身につけられるという万能性が、作家達の想像力をぶつけるのにちょうど良かったということなのだろう。
ウーズが忍び込んだ邸宅から、一人ひとり住人が消えていく話。
王の身体を支配したウーズが暴君として君臨する話。
ウーズに息子の亡骸を与え、いびつな愛を注いだ夫人の話。
深層に迷い込んだ女騎士に仔を産ま──それはさておき。
ともあれ、その流行は長くは続かなかった。あまりに多くの作品が書かれた結果、推理の結論が『ウーズが一人五役をこなして死者がいないように見せかけていた。密室は扉の下の隙間から忍び込めたのでウーズにとっては密室じゃなかった』だったミステリのような室の低いものが溢れかえったためだ。ウーズを登場させないことは、物書き界隈での新たな不文律となったのてまある。
新たに書かれることはなくなったとはいえ、名作と名高いものは今でも多くの読者に親しまれている。
その中で、小説と言えるかは怪しいが、一際人気を博したものがある。
多くの読者の精神を歪ませたとされる問題作。哲学的に意義があるとされた大作。誰もが手を出しあぐねていた部分を描いた意欲作。
人間の思考、魂と言った内面をウーズが取り込めばどうなるか。
それはウーズなのか、人間なのか。
一般的な小説の二倍ほどの分量でそれを描いた人気作品だ。
読んどきゃよかったなあ、と僕は鏡の前で呟いた。呟いたつもりだったが、音は出なかった。わざとらしく項垂れてみると、鏡の中で暗い紫色の、触手の塊がべちょっと潰れる。
そこに映っているのはどう見てもウーズなのだが、妙なことに僕の動きを模倣するように蠢いている。それだけなら前に立った者の姿をウーズとして映し出す鏡という役に立たない方の魔具である可能性を否定できないが、背中から腹から直接腕が生えたような感覚は、その期待を裏切るものだ。
正直叫んで暴れ回って否定したい気持ちはあるが、それを押し殺すのは然程難しくない。忍になんかなるわけねーだろバーカと言い残して出てきた実家で、散々行ってきた精神修養の賜物だ。『堪え忍ぶことこそ得策なり』という家訓が僕は死ぬほど嫌いだが、状況が掴めない場合に真理であることは認めている。
もう一度自分の身体を検める。
足の感覚がなく、腕の感覚がいっぱい。数えたくはないし、数えきれる気もしない。その全てが肉肉しくグロテスクな紫色。自分の身体を腕の一本で触れると、ぬるぬると水っぽい感触が伝わってくる。離した時ににちゃあ……という音とともに引っ張られるような感覚がするのは、体表を覆う粘液が糸を引いているのだろう。
総評:キモい。
女騎士が仔──もといウーズが八面六臂の大活躍で読者を喜ばせる小説を読んである程度知っていたが、いざ自分がなってみるとこれほどまでに気ッ色悪いとは……。
とはいえ、あの状態──ブラスに腹を刺された上に転移結晶を起動してしまった状況から考えれば、生きているだけマシというものだ。
僕がウーズになった理由が、例の小説のようにウーズに魂を奪われたからだとすれば、ここはもともとウーズが生息していた場所、つまり転移前と同じ『大聖堂』の中だ。下手をすれば一生かけても帰ってこられない場所に転移させられる可能性もあったのだから、それも含めて運が良かった。
しかし、だからと言って帰れるというわけではない。身体がこれだ──というのは千歩ほど譲って無視したとしても、まず生きて帰れる保証がない。
ここは『大聖堂』、その最深部。ウーズを筆頭に、危険な魔物が跋扈する場所だ。『無痛の針』『墜ちた日輪』『夢の渇き』と壮大な名前は聞いたことがあるし、未知の魔物も多くいるだろう。
帰ろうと言う気も、あまり起こらない。家を飛び出して探索者になって、一年経たないうちにあんなことになって、正直少し気落ちしている。
しかし、これはまあ一過性だろうとも思う。自分のことだ、それくらいは分かっている。
それに、食料のことを考えればいつまでもここに留まっているわけにもいかない。ウーズが人間の体液以外には何を食うのかは知らないが、流石に固形物も必要だろう。
どんな形であれ拾った命だ、無駄にするには惜しい。
最後に一度鏡で自分の姿を確認してから、ひとまず食料の確保を目的にして歩き出す。
歩き方は身体が知っていた。感覚としては、あぐらをかいたまま腕で身体を引きずる感じ。慣れないが、腕が死ぬほどあるので速度も安定感もそれなりだ。
辺りは薄暗いが、何も見えないわけではない。
慣れるための訓練も兼ねて少し早めに歩いていると、踏み出した足の下でぐしゃっと音がした。湿った音だが、ウーズの粘液が立てる『にちゃあ……』とは明らかに別の音だ。
触手をどける。が、何もない。気のせいなどではなく、もっと単純にあげる触手を間違えていた。
順番に触手の下を確認していって、七本目で潰れた虫の死体が見つかった。拾い上げようとして、太い触手ではそんな器用な動きができないことに気付く。
そうか、滅茶苦茶不便だな──とか思っていた僕の目の前で、太い触手の先端から、勢いよく何本かの細い触手が生えてきた。擬音をつけるとすれば『ぶりゅうっ』だろうか。カニの死体をつついたら寄生虫が飛び出してきた光景を思い出して背筋が凍った。
ともあれ細い触手で絡めとるように拾い上げた虫の死体は、僕の知識にあるものと一致している。『無痛の針』の異名をとる毒虫だ。噛まれた痛みを感じる間もなく動けなくなるような、即効性の強力な麻痺毒を持っている。周辺に他の魔物の姿はないが、それでも噛まれていたらと思うとぞっとする。
正体が分かった以上、死骸に用事はない。ぽいっと捨て──ようとすると粘液が絡みついて中々落ちなかったが、振り回すと遠心力に負けてどこかへ飛んでいった。
用済みになった細い触手が、するすると引っ込んでいく。線虫が身体の中に入ってくるようでぞわぞわとくすぐったい感じがしたが、戻りきってしまえばもう元の太い触手と何ら変わりはない。
なんでもありだなこの身体。不定形だと言うのは聞いているが、こうまで普通の生物と違うと、正直生き物かどうかも疑わしく思えてくる。
ろくでもない想像に少し肝を冷やしながら、僕は触手歩法を再開した。
毒虫の接近に気を配りながらなので少し速度は落ちたが、進み続けるうちに壁に行き当たった。あとは壁に沿って進めば、そのうちどこかに辿り着く。より危険な方に下っていくのでなければそっちに進めばいい。
今回のあらすじ:触手になる