香水の上書き保存
肩を濡らし、靴を濡らした人が大勢いた。
それを確認できるのは蛍光灯の光を浴びた時だった。
雨がコンクリートを打ち付け、屋根を打ち付ける音は大きく、時にアナウンスをかき消してしまうほどだった。
そして、前触れもなく暗闇を走る稲光の鈍音が、人々の声を震わせた。
熊谷淳史は人混みの中にいた。
自由に歩けるスペースはなく、進めたとしても、ペンギンみたいな歩幅でしか前に進めなかった。
その場所は駅のバス停だった。
連日続く大雨により水害が発生し、ついに電車が動けなくなってしまったのだ。
それ故、多くの人がいち早く自宅に帰りたい一心のあまり、交通手段はバスに集中した。
同じような行動原理として、熊谷もバス停付近にいた。
だが、どこが列の最後尾なのかも分からないまま、ただ乗り場に人が群れているように、熊谷も群れた。
まるで閉鎖された牧場で行き場を失くした羊の群れみたいだった。
熊谷は蒸し暑苦しい中、湿った通路の臭いや、他人の汗の臭いに囲まれていた。
チラッと視界に入る誰もの顔には、どうしてこんな目に合わないといけないのだという不満そうな表情が見て取れた。
熊谷は早く帰宅し、スーツを脱ぎ、シャワーを浴びたいと思った。
今日は平日であり、多くの人は明日も仕事なのである。
この足止めはストレスを溜めるものでしかなかった。
熊谷がふと横を向いた時、「ドン」と知らない誰かと肩がぶつかった。
熊谷は咄嗟に、すみません。と言ったが、誰に対して言ったのかはわからなかった。
密着された空間では、誰かの髪の臭いが鼻に入ってきたり、誰かの吐息が首にかかったりしていた。
それは気分がいいものではなかった。
だが唐突に、その人混みの中で、ある懐かしい香りが熊谷の鼻を刺激した。
臭いではなく、香りだ。
その香りを嗅ぐと、熊谷は人でごった返す中、首を伸ばして周囲を見渡した。
誰がその香りの発生源なのかを知りたかったのだ。
辺りをキョロキョロすると、熊谷は色んな人と目があった。
だが、熊谷は気にせず、探していた。
どうして熊谷がその香りに敏感に反応したかと言えば、その香りは熊谷の元カノが愛用していた香水の香りにとても似ていたからだ。
脳裏には元カノの姿が瞬間に浮かんでいた。
どんな場面でさえ、香りは過去の記憶をいとも簡単に呼び起こすのだ。
そして、熊谷は軽く息をのんだ。
2mぐらい離れた所で、元カノに似た後ろ姿を見つけのだ。
見えたのは頭だけだったのだが、頭の形、髪質からして、元カノにしか見えなかった。
熊谷はどうしようかと思った。
彼女はなぜかこの場を去っていくように、バス停辺りから離れようとしていた。
そして、熊谷にはもう一度見てみたい、会いたいという思いが生まれ、周りの人に「すみません。」と言い、片手を体の前に持ってきた。
だが、同時に一台のバスがやって来たようだった。
そのバスを見るや否や、人だかりが我先にと動き出した。人の波である。
熊谷は振り返り、バスを見た。
そして、思っていた場所と違う場所にバスが止まると、さらに大きな人の波ができ、熊谷は背中を押され、元居た場所から流された。
雨音の中でバスのエンジン音が低いアイドリング音に変わり、バスの扉が開くと、ちょっとした怒号が音の中に参加し出した。
クジラみたいなバスは大きな口を開け、勢いよく人を飲み込んでいくが、勿論ここにいた全員が乗れる訳ではなかった。
バスはあっという間に車内を人で満たすと扉を閉じ、暗い深海へと泳ぎ出すように出発していった。
熊谷はバスに乗れなかった。
いや、乗るつもりもなかった。
周りを見渡すと、バス一台ではそんなに人が減った感じもしなかった。
熊谷はそんな中でも彼女の姿を探していたのだ。
しかし、この人の群れから出る事まではしなかった。
駅員がここでようやく慌てながら到着し、人の整理を始めた。
すると、人々はモラルを欠き、割り込みのような事をし、早くバスに乗れるポジションを取り出した。
熊谷は海の上を漂う流木みたいに人の波に身を任せながらも、彼女の姿を探した。
探しながら熊谷が流れ着いた場所は、運よく2台目のバスで乗れるだろうと思われる場所だった。
その時、列に並ぶ顔をチラチラ見ていったが、列に元カノの顔はなかった。
恐らく、元カノと思われる人物は、ただ本当に人混みを通り抜けたかっただけなのだろうと思った。
そもそも人違いの可能性も大いにあるのだ。
雨の音はさらに強くなっていた。
雷は時折、近くの空を一瞬明るくしてから鳴り響いていた。
熊谷は今度、少し離れたタクシー乗り場に目を向けた。そこでも列が出来ていた。
シャチのような光沢を見せる黒いタクシーが並んでおり、次々と人を乗せては街へと消えていった。
効率よく、スムーズだった。
そこにも彼女の姿はなさそうだった。
列に並ぶ人たちは居場所を獲得できると安心し、大人しくなっていた。
それに歩く人の靴音があまり響かない事により、雨音がより鮮明に耳に入ってきた。
雨音が強く聞こえるのは、そのせいかもしれないなと熊谷は後で思った。
それから5分足らずで、またバスが現れた。夜を回遊する巨大な生き物のようだ。
バスがまたクジラの潮吹きみたいな音を立てて止まると、今度は静かに人が飲み込まれていった。
熊谷は先ほどとは違い、整理された列では、春先のきつねのような歩幅で歩けた。
だが、予想していた通り、熊谷はまだ乗り込む事が出来なかった。
次のバスが来るまでの間、熊谷はやる事がなかった為、
香水の香りの先にあった、元カノとの記憶を深く思い出し始めた。
元カノと付き合った期間は2年半だった。そして、別れたのは2年前だった。
出逢いはこの街の大学で、二人にとっては地元の大学だった。二人とも近くの別々の高校から入学し、大学で出会ったのだ。
二人は自然と共に惹かれ合い、恋人になった。
そして、交際は曇り模様一つなく順調だった。
しかし、雲行きが怪しくなったのは、別れる少し前、これから将来どうするか?と話合っていた時だった。
熊谷はこのまま地元の企業に就職すると彼女に話していた。
だが、彼女はその時、口にしたのだ。
「わたし、留学したいの。スコットランドに。」と彼女は言った。
その言葉に熊谷は驚かなかった。
留学というワードは今までに何度も彼女の口から聞いていたからだ。
そして、少し前から本気で手続きをしようかとしている話も聞いていた。
熊谷はそれは一種の願望で終わるものだと思っていたが、彼女の意思は固く、強いようだった。
「本当に?もう決めた?」
「うん。もう決めた。」
生まれてからずっと同じ街で暮らしているから、一度は遠くに行ってみたいと彼女は頻繫に言っていたが、選んだ場所は海を越えた場所だった。
「じゃあ、これから遠距離だね。」と熊谷が冗談っぽく、そして、寂しそうに言うと、彼女は黙ってしまった。
それから、数か月後、比較的すぐに留学が決まると、
熊谷は彼女と別れるつもりはなかったのだが、彼女は別れを切り出したのだ。
二人の別れ際、彼女はこう言った。
「あなたの事は好きよ。嫌いとかじゃない。だけど、留学しても今のままの関係を続けれる自信がないの。」と彼女は小さな声で言った。その口調に嘘はなさそうだと熊谷は思った。
「僕より、留学を取るわけ?」と熊谷は聞いた。
彼女は黙ってから、「そうなるかもしれない。」と言った。
その後、
「ひどい事だとはわかってる。私の自己都合で、この関係が崩れるんだから。」と言い、
「ごめんなさい。」と言ってから、涙を流した。
その言葉に熊谷は何も言えなかった。
彼女から、ごめんね。は言われた事はあったのだが、ごめんなさい。は今まで一回もなかったのだ。
そして、涙を流す姿を見たもの初めての事だった。
君の人生は君のものである。
熊谷はそういう類いの言葉を彼女に投げた。
しかし、熊谷は、自分より留学を選んだ彼女に対して、大きな失望や怒りを持っていた。
だが、熊谷は自分の気持ちを押し殺し、彼女の気持ちをなんとか受け入れた。
それから、ちゃんとした別れの言葉もなく、彼女は旅立つと、二人の関係は消滅してしまった。
いくら強固の氷でさえ、ちゃんとした環境で保存しなければ溶けて消えてしまうのだ。
二人が付き合った2年半はなんだったんだろう?と熊谷は別れてから思った。
そして、熊谷は未だに彼女の事を忘れられずにいた。
熊谷が大学時代を思い出す時、彼女の存在が必ずそこにあるからだ。
熊谷にとっては真剣な付き合いだったのかもしれないが、彼女からすれば、ただの思い出作りのアクセサリーでしかなかったのか?
そう思うと、熊谷は人間不信になりかけた。
それからしばらく、熊谷の心の中では雨が降り続けていた。
過去の記憶に浸っていると、思いのほか時間が経っており、デジャブのようにバスが音を立てながらまた現れた。
熊谷は目線を上げ、バスのタイヤがグルグルと回り、道路に溜まった水を跳ねるのを見た。
バスはまた同じ位置に止まり、また扉が開かれた。
前に並ぶ人たちは次々と寡黙にバスに乗り込んでいった。
そして、熊谷もやっとバスに乗る事ができた。
それも後ろ側の座席で座る事もできたのだ。
熊谷は窓際の席に腰を下ろし、そこで安堵のため息をついた。
どんどん乗客が乗り込んでくる。
だが、熊谷の隣の座席はまだ空いている。
すると、熊谷の隣に30代ぐらいの男性が座ろうとした。
ぱっと見では、3回会っても覚えられなさそうな顔をした人だった。
その男性が少し勢いよく、身体を座席に投げた時、熊谷の鼻にまたあの香りが届いたのだ。
熊谷はその香りを嗅ぐと、一瞬フリーズしてしまった。
そして、「あれ?この人だったの?」と男性の方を見ずに心の中で思った。
そう答えが分かると、熊谷は我慢できずに、次第に一人でにやけ始めた。
これは香りの上書き保存でもあるのだ。
熊谷は窓の方を向いた。一人でにやけている顔を誰にも見られたくないのだ。
ましての隣の人に見られたくなかった。
しかし、窓には反射した自分のにやけ顔があり、熊谷はさらににやけ、少し笑い声が出てしまった。
そうこうしている内に、バスの中が満員になると、プシューと扉が音を立てて閉まり、バスのエンジン音が大きくなった。
熊谷はまだ窓の外を見ていた。
濡れた窓から駅で並ぶ人々を見ていたのだ。
人々の輪郭はぼやけ、はっきりと見えなかった。
だが、熊谷はまたあの女性の姿を見つけたのだ。元カノによく似た姿の人だ。
その女性は列に並んではいなかった。
熊谷からすれば、背丈、シルエット、服の趣味の色味からして、やはり彼女にしか見えなかった。
あの頃の彼女のまんまだと思った。
バスはゆっくりと動き出すと、熊谷は慌てて窓をスーツの袖で拭いた。
ちゃんとその姿、顔を確認したかったのだ。
その彼女と思わしき女性はバスが動くと、バスと同じ方向に向かって、歩き出した。
まるで、このバスを追いかけるかのように。
熊谷は真剣に目を凝らした。
だが、雨粒が窓に当たり、どんどん視界がぼやけていった。
バスはスピードを上げた。
駅の蛍光灯の光から離れると、彼女の姿は簡単に消えてしまい、窓に写った自分の顔が見えるだけだった。
熊谷はシートに体を持たれた。
今更、どうする?、会ったとしても、どうなるんだと思った。
熊谷の体はバスの振動によって小刻みに揺れた。
そして、熊谷は目を閉じ、その香りを嗅ぎ、雨音に耳を澄ませた。
この雨の日によって、記憶が流れるのか、固まるのかは、熊谷には分からなかった。
これ以上、過去にしがみつくのはもう嫌だった。
ただ、これからその香りを嗅ぐ度に、少しにやけてしまうだろうと思った。
熊谷は少し目を開けた。
そして、隣の男性の足元に目をやった。
足の上には鞄があり、
そこには可愛らしいスコッチウイスキーのキーホールダーが付けてあった。
知らない人もいるかもしれませんが(ほぼいないと思いますが)、
スコッチウイスキーは、スコットランドの名産品です。
つまり、彼女の今の彼氏は…。っていう話です。心の雨は止むのでしょうか?
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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