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柳の下の宝物

作者: 上杉蒼太


     柳の下の宝物


 紅王朝最大の港町・金陵きんりょうを貫く中大路は、夕

方になって一段と賑わいを増しつつあった。

 幅広な大路を無数の人が往来し、巻き上がる土埃が西の空に

沈みゆく太陽を霞ませる。

 露店には色々な品物や食品が並び、行商人たちが声を張り上

げて客を呼び込む。

 大陸の東側に覇を唱える大王朝の活力が、下々の人間にまで

染みわたっているのを実感させる光景だったが、大路の隅を歩

く青年は例外だった。

 すらりと背が高く、顔だちも決して悪くない。

 色街を歩けばそれなりの女性が近寄ってくる程度には整って

いたが、身なりはみずぼらしく、手には大きな荷物を下げてい

た。

「はあ……。どうなってるんだ……?」

 荷物の重さに負けたかのように大きく肩を落として、青年こ

黄万梓こう・ばんしは溜息を洩らした。

「俺はただ宿に入りたいだけなんだ。なのにみんな断りやがっ

 て……。俺の後ろに顔色の悪い連れがいるって? そんなの

 どこにもいないだろ? 俺は郷試を受けに来たんだぜ」

 万梓が受けようとしているのは、紅王朝の官僚登用試験……

科挙の一部を成す試験だった。

 主な大都市に国立の官僚養成学校の生徒を集めて行われるも

ので、合格しなければ次の試験に進む事もできない。

 それにも関わらず競争率は五十倍とも百倍とも言われ、無謀

な試みをする人間の事を「準備もせずに郷試を受ける奴」と例

えられる程だった。

「困ったな……。明日は早いっていうのに。こうなったらどこ

 でもいいから潜り込むか」

 ぼんやりと立ち尽くしている場合ではなかった。

 万梓は中大路を折れると、横道を西の方向に向かって歩き始

めた。

 大路を外れた所にある宿屋なら少しは状況は変わるだろうと

根拠の無い楽観論に背中を押されたからだったが……。

 今度は肝心の宿屋が見つからなかった。

「そろそろ日も沈むな。ったく、これじゃまた試験に落ちてし

 まうかもな……」

 港町・金陵を縦横に貫く運河のほとりまで来て、万梓は再び

足を止めた。

 大きな柳の木に寄りかかって溜息をつく。

 一年で一番気候の穏やかな秋の半ばだったが、荷物を抱えて

歩き回ったのでかなり汗をかいていた。

「もう二回も落ちてるからな……。金も無いし、今度駄目なら

 諦めるしかないか。でも……」

 普段は温厚な万梓だったが、人生を懸けた試験の準備を邪魔

されて、苛立ちは頂点に達していた。

 その諸悪の根源は……。

「ええいっ。誰だ! 俺の後ろにつきまとってるのは! そん

 なに俺の郷試を邪魔したいのか!」

「別にそういうわけじゃないのよ~」

 運河で小舟を操る船頭も驚きそうな程の大声に応えたのは、

おっとりした妙齢の女性の声だった。

 聞くだけで和んでくる優しい声に、答えを期待していなかっ

た万梓の怒りは夕空の向こうに吹き飛ぶ。

「だ、誰だ……?」

「私よ、私。お初にお目にかかるわね~」

 垂れ下がる柳が風も無いのに大きく揺れた。

 葉と葉が触れ合う乾いた音と共に姿を現したのは……。

 艶のある長い黒髪を大きなかんざしで結い上げた若い

女性だった。

 血色のいい肌は茹でた卵のように張りがあり、小さく形のい

い唇には鮮やかな朱が引かれている。

 白を基調とした着物もよく似合い、まずは申し分の無い美女

だった。

 但し、上下は逆さまで、持ち上げた両手を手首の先からだら

りと下げていたが……。

「うらめしやー……と言う場面かしら? やっぱり」

「は、はは……。えっと、その……君は……?」

 相手が人間ではなく幽霊だと分かって腰が抜けてしまった事

もあって、万梓は声を震わせて問いかける。

「私? 私のことはそうね……白糸と呼んで。<雪姫流転>に

 出てくる忠誠心厚い侍女の名前だけど。好きなのよね」

「白糸? 本名は?」

「名前に意味なんて無いわよ。どうせ貴方に直接会うのは初め

 てなんだから~」

 そう言って、謎の美女……白糸は微笑んだ。   

 おっとりとした中にも気品の感じられる極上の笑顔だったが

逆さまになっているので魅力も半減だった。

「えっと、その……。君は幽霊だな? そして……今日俺につ

 きまってたのも君なんだな?」

「ご名答。さすが将来の大臣様は違うわね~」

「大臣……様? 俺が?」

「決まってるじゃない。貴方は今回の科挙に合格して、栄華を

 極めるんだから」

 万梓の多少整った顔から、少しずつ恐怖が消えていった。

 実際の幽霊に会ったのは初めてだったが、話には何度か聞い

た事があった。

 幽霊や妖怪変化には未来を見抜く力が備わっており、その予

言は必ず当たると……。

「そ、そうなのか……。俺は今回合格できるんだな? しかも

 大臣になるというのか? もし本当なら親父やお袋がどれだ

 け喜ぶか……」

「ふふ。親孝行なのね。ますます気に入ったわ~。でもね、一

 つだけ条件があるのよ」

「……なんだ? その条件っていうのは」

「別に難しい話じゃないわ。私に協力して、復讐してほしいだ

 けなんだから」


 復讐の二文字が出た瞬間、万梓の顔から喜びが消えた。

 白糸がきょとんとするよりも早く、冷たく言い切る。

「それなら駄目だ。この話は無かった事にさせてもらう」

「ち、ちょっと待って……。私に協力してくれれば貴方は絶対

 科挙に合格できるわ。そして、栄華を極めて安らかに一生を

 送れるわ。それなのに……」

「そんなずるをして何になるっていうんだ。俺は実力だけで勝

 負したいんだ」

「堅物」

「膨れても無駄だぜ。他を当たってくれ」

 ぷっと頬を膨らませて、白糸が抗議しても青年の心は揺るが

なかった。

 それどころか、踵を返して歩き出そうとするので、柳の下の

幽霊は慌てて万梓の前に立ち塞がる。

「おいおい。話は終わったって言ってるだろ?」

「私は終わってないわよ。そうね……だったらせめて私の話を

 聞いて。それから決めてもいいわ」

「そんな暇は無い。俺は宿を探さないといけないんだ」

「あーいいわよいいわよ。そこまで言うんだったらずっと貴方

 の後ろでこーんな顔してあげるから。私の恨めしい顔は恐い

 って幽霊仲間でも評判なんだから」

 ふわりと長い髪を翻した瞬間。

 白糸の顔が変化した。

 いや、化けたというべきかもしれなかった。

 さっきまでの優雅な美しさはかけらも無く、墓場から直接這

い出てきた女殺人犯のような凶相だったからである。

「恨めしや……。人の話も聞かないなんて……」

「う、わ、分かった……。分かったら話は聞く! その顔だけ

 は止めてくれ! ゆ、夢に出る……」

「分かればいいのよ~。分かれば」

 ほんの一瞬の内に凶悪極まりない顔が消えた。

 元のおっとりとした美人に戻って軽く微笑んでみせたが、万

梓は再びその場に腰を抜かしていた。

「あらま。……意外と怖がりなのね」

「あれを見て怖がらないのは頭がいかれた奴ぐらいだぜ。本当

 はあんな凶悪な顔してるんじゃないよな?」  

「失礼ね。こう見えても陽成様の屋敷では一番美人な侍女で通

 ってたのよ~」

「陽成……?」

「あら、もしかすると知り合い?」

「……まさか、祭北州の周陽成のことか?」

「そうよ」

「陽成は俺の親友だ。まさか、あいつの屋敷にいたのか?」

 白糸が一つうなずくと、万梓はまるで南方の珍しい生き物で

も見るような目で幽霊となった美女を眺め回した。

 頭の中で必死になって記憶をひっくり返しているようだった

が、やがて大きな溜息と共につぶやく。

「……おかしい。見覚えが無い。陽成の屋敷には何度も行った

 事があるんだ。君ほどの美女なら知らないはずはない」

「それは当然じゃないかしら?」

「どういう意味だ?」

「私は陽成様の屋敷に仕えてわずか一カ月で死んだからよ」

「そういう事か。……しかし、陽成も不幸だな。君みたいな侍

 女を一カ月で失うなんてさ」

「……。本当に、そう思ってる?」

 すっと白糸が目を細めた。

 言外に底知れぬ悪意を感じ取り、万梓は身体を震わせた。

 唇が乾いて、うまく言葉が出てこなかったが、親友として必

死になって言い訳する。     

「陽成は……身分は高いが悪い奴じゃない。俺のような貧乏人

 とも平等に付き合うし、気前もいい。今回の旅費だって貸し

 てくれたんだ。あいつもこの街で郷試を受けるのに……」

「ふーん。貴方はそう思ってるのね」

「な、なんだその何も知らないくせって言いたそうな顔は。君

 は何を知ってるっていうんだ?」

「郷試を受けるっていうのに意外と物覚えが悪いのね。私はさ

 っき何て言ったかしら?」

「復讐……まさか、その相手は……陽成だっていうのか!」

 目がまったく笑っていない状態で、白糸は微笑んだ。

 続けて放たれた言葉が止めだった。

 私は陽成に殺されて、こんな姿になったのよ、と……。


 それは、今から一年ほど前の出来事だった。

 ある夜、床につこうとしていた白糸は急に主人の陽成から庭

に呼び出された。

 それは……全身全霊をかけた求婚の為だった。

 陽成は白糸が一生働いても買えそうに無い宝石細工の施され

た簪を差し出し、自分の妻になってくれるように頼み込んだ。

 囲っている他の女性たちとも全て縁を切り、一生白糸だけを

愛するとも誓った。

 しかし。

 白糸は冷たく断った。

 一カ月仕えてきて陽成という人間の本性を性格に見抜いてい

たからだった。

 金持ちながらも人のいい青年の顔の奥に隠されていたのは、

自分以外を人間とも思わない傲慢さと、独占欲の強さだった。

 その事実を告げ、差し出された簪を突き返した瞬間。

 白糸は自分で自分の死刑命令書に印を押した。

 突然、陽成が狂ったような声を上げて襲いかかってきたから

だった。

 抵抗も虚しく押し倒された後に……胸に短刀を突き立てられ

てそのまま絶命した。

 全身を貫く激しい痛みと恐怖の中で最後に覚えているのは、

風にざわめく柳の枝と、陽成の人間とは思えない狂ったような

哄笑だけだった……。

      

 さっきよりも何倍も重い足どりで、万梓は大路へと戻る道を

歩いていた。

 少しでも早く宿屋を見つけて休みたかった。

 しかし、それは到底不可能だった。

「なんだかどっちが幽霊か分からないわね~」

 すぐ横を歩きながら……正確には飛びながら、白糸はあけす

けに言った。

 真実の告白の時は鬼気迫る表情を見せたのだが、また元のお

おらかな笑顔を取り戻していた。

「誰のせいだと思ってるんだ、誰の……」

「貴方のせいじゃない。私の手伝いをすればいいだけなのに」

「だから陽成は無実だと言ってるだろ? 俺と同じように科挙

 を受ける奴が人を殺すわけないだろ……」

「現実にあったから私は幽霊になったのよ。このままじゃ成仏

 できないわ」

「でも信じられないな。陽成の奴が君に手をかけたなんて……

 悪い冗談にしか思えないぜ」

 白糸の話が本当ならば、恐るべき犯罪が誰にも知られていな

いことになる。

 しかし、目撃者がいないのは間違いなかったし、陽成の屋敷

程になると仕えている人間の出入りも多い。

 侍女が一人突然姿を消しても、嫌気がさして辞めたとしか思

わないだろう……。

「ほら、半分は信じてるじゃない」

「馬鹿言うな。あいつはそんな奴じゃない!」

「随分むきになるのね。……一応言っておくけど」

「なんだ?」

「私の姿は貴方以外には見えないわよ~」

「……」

 気がつくと、大路の隅まで戻っていた。

 大きな荷物を提げた青年が大声で独り言をつぶやいている事

に気づいたのだろう。

 露天商やその客、通行人たちが興味津々といった面持ちで見

つめていた。

「……あー済みません。明日から郷試なんでちょっとだけ気持

 ちが上擦ってました……それじゃ!」

 自分でも意味不明な言い訳をして、万梓は田舎にいた時もし

なかった全力疾走でその場から離れた。

 心のどこかでは疫病神な幽霊から逃れられる事を期待してた

のだが……。

「やっぱり正直な人ね~。そういう人は好きよ」

 息が続かず、その場に倒れ込みそうになった万梓だったが、

暢気な声が背後から聞こえてきて、膝をついてしまった。

 人を殺せそうな程鋭い視線で見つめ返す。

「睨まないでよ~。分かったわ。宿屋に入るまで消えててあげ

 るから。郷試に差し障りが出ても困るわね」

 もうとっくに差し障りが出まくりだぜ、こっちは……。

 思わず口に出しそうになって、慌てて止めた。

 今の状態では逃げる事もできなかった。

「というわけで、またね~」

 能天気な声を残して、柳の下で出会った幽霊は姿を消した。

気力を奮い立たせて立ち上がった万梓だったが、辺りを見回し

て白糸がいないのを確かめると、大きく息を洩らす。

 ……最悪だ。俺は何もしてないっていうのに、どうしてあん

な奴に取り憑かれるんだ?

 よたよたと歩き出しながら、万梓は己の身を襲った不幸を心

の中で反射させていた。

 幽霊に狙われるなんて、俺はそんなに行いが悪かったのか?

思い当たる節は……あるよな……。

 罪というにはあまりに些細な事をあれこれ浮かべながら、宿

屋を探し始めた、その時だった。

「万梓、万梓じゃないか?」

 突然、頭上から聞き慣れた声が飛んできて、さすがにびっく

りした。

 慌てて声の方向を見ると、大路に面した建物の二階から陽成

が手を振っていた。

「陽成……」

「どうした? そんな辛気臭い顔をして。ははあ、さては宿屋

 を見つけられなかったな?」

 変な幽霊に散々絡まれたからな……。

 思わず言いかけて、万梓はとっさに口をつぐんだ。

 陽成の事は疑っていなかったが、あんな話を聞かされた後で

はさすがに気まずかった。

「ふむ。どうやら図星のようだな。まあいい、上がってこい。

 ここなら私の友人だと言えば泊まれるぞ」

「いいのか……?」

「明日共に郷試を受ける仲じゃないか。気にするな」

 気前のいい金持ちである陽成はいつもように鷹揚だった。

 実直で誠実な性格であるものの、貧乏な万梓はしばらく迷っ

た末に意を決して陽成のいる建物の中に入る。

 てっきり酒場か何かかと思っていたのだが、内部は高級なの

を除けば普通の宿屋だった。

「……済まないな。こんなにいい宿屋に泊まらせてくれるなん

 て。ここまでの旅費も借りたっていうのに……」

 二階の陽成の部屋に通されるなり、万梓は心から申し訳なく

思って言った。

「ここの分は私の奢りだから気にしなくてもいいさ。まさかこ

 の時間になっても宿に入ってないとは思わなかったからな」

「まあ、色々あったんだ……」

「そうか。食事もまだだろ? 今もって来させよう。明日が明

 日なので酒は無いが勘弁してくれ」 

「ま、郷試が終わったら幾らでも飲むさ」

「それもそうだな」

 万梓を手近な長椅子に座らせて、陽成は笑った。

 その様子を見ているだけで、白糸と名乗った幽霊の告発は嘘

ではないかと思えてくる。

 ありえないな。陽成は善良な奴だ。金持ちでも決して驕った

りなんかしない。俺なんかよりはるかに役人に向いてるのかも

しれないな……。

 陽成の合図を受けて、宿屋の給仕が食事を持ってきた。

 さすがに温かい食べ物は無理だったが、朝しか食べていなか

った万梓は友人に感謝しながら遅い夕食を摂る。

「……それにしても、何かあったのか?」

「いや、別に」

「困ってるんだったら相談した方がいい。明日は本番だ。嫌な

 事は解決した方がしないと駄目だ」

「……。いや、止めておく。気を悪くしたら困るからな」

「どうやら私に関係あることらしいな」

 新鮮な魚料理をつまんでいた箸がぴたりと止まった。

 考え無しの言葉が完全に失言だったと気づいて、後悔がこみ

上げてきたが、陽成は小さく溜息をついただけだった。

「……まさかと思ってたが、君に行くとは思わなかったな。も

 っとも、私の周りで今回郷試を受けるのは他に君しかいない

 から仕方ないのか」

「どういう意味だ?」

「はっきり言おう。君は謎の幽霊に邪魔をされてないか?」

 いきなり核心を突いてきたその言葉に、万梓は箸を落としそ

うになった。

 上目遣いで友人の表情を確かめると、困惑しているような表

情を浮かべていた。

「……。その通りだ。君の屋敷の侍女だったという幽霊にずっ

 とつきまとわれていた。信じられないような話をするから何

 とか逃げてきたんだ」

 口ではそう言いながらも、万梓はその幽霊が部屋の隅にいる

ような気がして、恐る恐るその方向を見た。

 行灯の弱い明かりに浮かび上がる室内にいるのは、同郷の二

人の青年だけだった。

「ここにいる限り、幽霊の事は気にしなくてもいい。実は幽霊

 が入ってこれないように特別な香を焚いているのだ。そうい

 う意味でも私に会えて良かったな」

「……ああ。一つ確かめたい。陽成、君は何をしたんだ? 幽

 霊にあそこまで言われるなんて普通じゃない。何があったの

 か率直に教えてくれ」

「ここまできたら話すしかないな。この事はあまり人には話さ

 ないで欲しい。私にとって大変不名誉な話だからな」

 つばを飲み込んで、万梓は大きく頷いた。

 目の前の友人は無実の罪を被せられて苦しんでいる。

 そう確信していたのだが……。

「最初に断っておく。私は侍女を一人、この手で殺めた。これ

 は動かしようの無い事実だ」


 世の中を支えていた柱が突然、全て崩れ去ったかのような衝

撃が万梓を貫いた。

 度量の広い親友が、殺人を犯した。

 しかも、その被害者は幽霊となってつきまとっている……。

 あまりの不可解さに、万梓は陽成が冗談を言っているのでは

ないかとさえ思った。

「……信じていないようだが、実話だ。君は知らないと思うが

 祭北州の役所でも裁判を受けた。私の身分が身分なので非公

 開だったが」

「だったら……どうして、ここに来ることが出来るんだ? そ

 の……殺人まで犯したら受験どころじゃないはず……」

 底知れぬ深淵を覗き込んでいるかのような恐怖に駆られなが

ら、万梓は友人に問いかけた。

 何かが狂っていた。

 今までの人生で積み上げてきた常識が、あの幽霊の登場でど

こかに消え去り、裸で荒野に立たされているような気がしてな

らなかった。

「まさか私が不正をしたと思ってるんじゃないよな?」

「えっ? と、とんでもない! 君がそんな事をするわけない

 からな……」

「そういう事だ。私は堂々と裁判に挑み、無罪を勝ち取った。

 全ては私を陥れようとした策略だと証明できたからだ」

 陽成が言い切った瞬間、行灯の光が大きく揺れた。

 恐怖が心に巣くっていた万梓は大げさに体を震わせたが、親

友の言葉が脳内に染み渡るのと同時に。

 ようやく一筋の光が差し込むのを感じた。

「策略……だったのか?」

「君も名前ぐらいは知ってるはずだ。隣町の豪商・苑麓。あい

 つが黒幕だったんだ。あいつが私を陥れようと、侍女を送り

 込んだのだ」

「苑麓! あの野郎……じゃなくてあいつだったのか!」

「そうだ。私が科挙を受けられないようにして、一気に評判を

 地に落とすつもりだったらしい。もっとも、評判を落とした

 のは苑麓の方だったがな」 

 苑麓は万梓の故郷では非常に嫌われていた商人だった。

 あくどい手口で財貨を蓄えた野卑な男で、万梓や陽成のよう

な教養もほとんどなく、その外見と無学ぶりから影では<祭北

州の猿人>と言われていた。

 しかし、今から半年程前に、役所の手入れによってその財産

は全て没収され、苑麓自身も連行されていずこへと姿を消した

のだった。

 慶事とはいえ何も説明も無かったことから、苦しめられてき

た住民たちもさすがに疑問に思っていたのだが……。

「これで分かっただろう? 私が今ここにいられる理由が」

「あ、ああ……。しかし、その幽霊はそれ程苑麓に忠誠を誓っ

 てたのか?」

「らしいな。なにしろ、本人からの命令書を懐に隠していたぐ

 らいだからな」

「命令書?」

「念の為に持ってきてある。これだ」

 思いがけない発言に万梓が戸惑っている内に、陽成は懐から

一枚の紙を取り出した。

 隅に血らしき赤い染みが付着していることに気づいて、また

もや恐怖がこみ上げてきたが、何とか堪えて文章を読む。

「<夜、誘い出して周陽成を殺害せよ 苑麓>……浅はかな奴

 だとは思ってたがここまでとは思わなかったな」

「浅はかなのは侍女の方だな。こんな物を懐に入れたまま私に

 襲いかかってきたのだからな。私もとっさに応戦して……こ

 の手で……」

「す、済まない! それ以上は言わなくてもいい! 話は分か

 った! ……そういう事だったんだな」

「ああ。……謝らなければならないのは私の方だ。事件が事件

 だけに誰にも言えなかったのだ」

 万梓は大きく首を振った。

 街の大物同士が絡んだ場合、事件自体が明らかにされないま

ま解決する事も珍しくなかった。

「お陰ですっきりしたよ。最初、あの幽霊から君が人を殺した

 と聞いた時には何事かと思ったんだ。でも、陥れられただけ

 なんだな」

「そうだ。裁判で潔白を証明したので今回の郷試も特別に受け

 られることになった。故郷の為にも合格しないとな」

「君なら合格できる。きっと素晴らしい役人になるはずだ」

「ありがとう……」

 心から安堵した陽成を見て、万梓も大きく息を洩らした。

 一時はどうなるかと思ったが、謎は全て解けた。

 これで安心して明日の試験に望める。

 すっかり手の止まっていた夕食を再開しようとした、その時

だった。

 再び、行灯の光が大きく揺れた。

 風も殆ど無いので小さく首をかしげた万梓だったが、心の中

にわずかな曇りが残っていることに気づく。

 ……なぜだ? 違和感が残る……。そんなはずはない。陽成

の説明におかしなところは無い。裁判が非公開になるのは珍し

い事じゃないし、苑麓はろくでもない奴だからな……。

 考えようとしたものの、陽成が別の話を始めたので、そのま

またち消えになったのだった。


 久しぶりに美味しい食事を堪能した後、万梓はすぐに横にな

った。

 試験会場に入るのは夜明け前……まだ星が空に残る頃だった

が、少しでも眠っておかないとこれからの長丁場に耐えられる

とは思えなかった。

 ……眠れない。この宿に入るまで色々あったからな。謎の幽

霊に振り回され、陽成の奴はあんな話をするし。くそっ、明日

は郷試当日だっていうのに。

 布団に潜り込んだものの、色々な考えが去来して、万梓は起

きていた時よりも心が熱くなっていた。

 今回の試験が最後の機会だと分かっていたが、それでも鎮め

ることはできなかった。

 一番悪いのはあの白糸という幽霊だ。あいつが大嘘をついて

振り回したりするから……。

<あら? みーんな私のせいなのね~>

 突然、心の中にその本人の声が響き渡って、生真面目な青年

は飛び起きそうになった。

 すぐに声にならない声で反論する。

<な、なんで君の声が聞こえるんだ……? ここには入ってこ

 れないんじゃなかったのか!?>

<だから外から声だけで呼びかけてるのよ。最後の警告がした

 かったから>

<君が大嘘つきなのはもう分かってる。とっとと帰れ>

<馬鹿。嘘をついてるのは陽成よ>

<誰が馬鹿だ。証拠だってあるんだ。君は苑麓の手下だったん

 だろう?>

<それが嘘なのよ。苑麓は巻き添えを食らっただけ>

<……なんだって?>

 万梓の心に一抹の疑念が生じたのはその時だった。

 言われてみると、陽成の話は出来過ぎのような気がした。

 犯した事を認めた殺人の罪は無罪となり、最大の宿敵も財産

を没収されていずこへと消えた。

 全てが陽成にとって都合のいい展開ではないか……。

<いや。俺は陽成を信じる。あいつが人を陥れるわけがない。

 長い付き合いだから分かる>

<長い付き合いだから分からなくなる事もあるの。……じゃ、

 私はこれで>

<ああ。とっとと消えろ>

<……もう一度だけ、会える事を期待してるから>

 罵倒に対する返事は、好きな人との再会を期待する少女のよ

うな響きを帯びていた。

 不意をつかれたような気がしてびっくりした万梓だったが、

驚きが醒めた頃には白糸の気配は心の中から消えていた。


 郷試は貢院と呼ばれる施設で行われる。

 この試験の為だけに用意されている特別な施設であるが、使

われるのは約三年に二度に過ぎず、石造りの内部は荒涼として

いる。

 夜に一人で足を踏み入れて朝まで平静を保てるのは人気小説

<雪姫流転>の主人公・千騎だけと言われる程だったが、万梓

にしてみれば大げさとは思えなかった。

「しかし、いつ来ても凄い場所だ……。こんな狭い場所に閉じ

 込められて力を出せと言われてもなあ……」

 試験が始まった日の深夜。

 自分にあてがわれた場所で、万梓はため息をついた。

 通路に面した側に壁が無い細長い建物を一判(一メートル)

ごとに壁で区切っただけの独房。

 備えられているのは椅子や机、棚の代わりになる古びた板三

枚のみであり、持ち込めるのは筆記用具と食べ物、炊事道具や

薄い布団、明かりぐらいだった。

 焦っても駄目だって分かってるんだけどな……。今回の問題

は正直難し過ぎる。俺の頭では正しい答えが書けるかどうか自

信無いな。

 独房に板を渡しただけの質素な机の上に乗っているのは配布

された問題と答案を下書きする為の紙、そして明かりのみ。

 しかし、下書き用の紙に文字はあまり書かれていなかった。

 ……やっぱり、あの幽霊のせいか? あいつが変な事を言う

のを真に受けたから実力が出せないのか?

 よく言われる事だったが、受験生の積み上げてきた功罪が一

番良く出るのは、この試験の時だという。

 功徳を積み上げていればどんなに難しい問題でも簡単に解け

て素晴らしい解答が書けるし、逆に誘惑に駆られたり罪を犯し

たりすると、絶対に試験には通らないというのだった。

 ……とすると、俺は罪ばかり犯したんだな。はあ、陽成の奴

なら通りそうだな。まあ、罪は犯したけど結局無罪になるぐら

いだからな。

 机に頬杖をついて、万梓は諦念しつつあった。

 苦労と借金を重ねて何とかこの試験を受ける資格までは得た

ものの、ここで通るのは百人に一人と思うと気が重かった。

 俺には無理だったか……。仕方ない。もし今回駄目なら商売

を継ごう。それがいい。

 年老いた両親の為にも、自分の将来の為にもなる。

 何とか自分を誤魔化して、答案の作成に戻った時だった。

 かすかな風に、蝋燭の明かりが揺れた。

 もし倒れて火事にでもなったら試験どころではない上に、他

の受験生にも迷惑になるので、風を遮ろうとしたのだが……。

「えっ……?」

 一瞬、心の底に沈殿していた何かに対する答えが見つかった

ような気がして、万梓は目を何度も瞬かせた。

 何だ? 今のは……? まさか、解答を思いついた……わけ

ないな。そんなに上手い話があるわけないからな。でも……。

 再び、蝋燭の炎が揺れた。

 今まで光に照らされていた場所が影になり、影が光を得てそ

こに隠されていた事実を浮かび上がらせる。

 なんだ。出題の文章が気になっただけか。……牛を殺害する

者、いかに罰を与えん。この牛が何を指すのかよく分からない

から困ってるっていうのに……。いや、待てよ。

 不意に。

 周囲の物音がまったく聞こえなくなった。

 試験会場とは名ばかりの独房の群れの一角で、万梓は心の底

に残る違和感と試験の問題を比較し続けた。

 もしかすると、今までの生涯の中で一番精神を集中させてい

たのかもしれない。

 かすかな夜風が蝋燭や額にかかる前髪を揺らしても、眉一つ

動かさずに試験の問題を見つめ続けていたからだった。 

 中空にかかる月が、大きく移動した後のことだった。

 意を決して、万梓は自分にあてがわれた独房から出た。

 周囲で問題に取り組んでいる他の受験生たちの邪魔にならな

いように小さな声で呼びかける。

「白糸、いるんだろ? 出てきたらどうだ?」

「……。まさか本当にもう一度呼ばれるとは思わなかった。待

 ってたわよ~」

 おっとりとした口調からは想像もつかない程、真剣な表情を

浮かべて幽霊の美女が再び姿を現した。

 青白い月の光に浮かび上がるその姿は、高名な画家によって

描かれた絵画のように美しかった。

「で、私に何か用かしら?」

「陽成を呼んでくれ。俺とほぼ同時にここに入ったからこの近

 くにいるはずだ」

「貴方が呼べばいいじゃない~」

「俺が呼んでも意味がない。これは君の問題だからな」

「役人みたいな事を言うのね。じゃ、少しだけ待ってて」

 皮肉なのかそれ以外の本心があるのか、白糸はふてくされた

ように答えると、闇の中へと姿を消した。

 謎めいた話し声につられたのか、隣の独房から受験生が顔を

のぞかせたが、万梓が睨み返すと難を避けるかのように引っ込

んだ。

「……どうした? 万梓。試験中の移動はあまりしたくないん

 だ。君も分かってるだろ?」

 それからしばらくして。

 今まで凪いでいた風が足元を吹き抜けるのに合わせるかのよ

うに、陽成が姿を現した。

「だったらなんで俺の所に来たんだ?」

「例の幽霊に脅されたから仕方ない。ここで昨日の宿屋みたい

 に香を焚くわけにはいかないからな」

「とすると、君には白糸の姿は見えてるのだな?」

「白糸? 例の幽霊の事か? ああ。……こういう言い方は好

 きではないが、私が手をかけたからな」

「少なくとも、自分の手で殺害した事は認めるんだな?」

「何度も言ってるだろう? 正当防衛だったから仕方ない。一

 歩間違えたらここにいる事すら出来なかったはずだ」

 陽成の言葉に、親友の青年は小さく肩を落とした。

 まるで何かに失望するかのように。

「おい、どうしたんだ?」

「……今からちょっとした裁判を始める。裁判長は不本意なが

 ら俺が担当する。被害者は白糸」

「私ならここにいるわよ~」

 二人の青年の間……何も無い空間から、白糸が音もなく姿を

現した。

 陽成は露骨にむっとしたようだったが、万梓は意を決して言

葉を続ける。

「そして、被告人は陽成、君だ。逃げる事はできないぞ」

「……な、何が言いたいんだ! 郷試のせいで頭がおかしくな

 ったのか!」

「俺はこの試験……いや、役人になる事は諦めた。ただ、気づ

 いてしまった以上正義は貫かせてもらう。それだけだ」

「正義……? 正義は既に証明されてるじゃないか!」

「少しは静かにしたらどうかしら? 他の人たちの迷惑になる

 じゃない」

「くっ……」

 自分が殺した侍女の幽霊に注意されて、陽成の顔が歪んだ。

 隠してきた激情を表に出すまいとするその態度を見ながら、

万梓は淡々と<裁判>を続ける。

「問題の焦点は一つ。君は白糸を殺したが、正当防衛だったと

 言っている点だ。その証拠として、白糸は苑麓からの命令書

 を持っていた点を上げた。間違いないな?」

「当たり前の事を言わないで欲しいな。君にも昨日見せたじゃ

 ないか。あれを見たから君も信じたんだろう?」

「そうだ。だったら、今見せて貰おうか?」

 陽成は虚を突かれたような表情を浮かべた。

 薄ら笑いを浮かべて反論する。

「おいおい。しっかりしてくれよ。ここに入る時、文字を書い

 た紙なんか持ち込んだら即座に不正扱いされるのは百も承知

 だろ?」

「だったらなんで宿にいた時は持ってたんだ?」

 下草の生える石畳の上を流れていた夜風が凪いだ。

 思いがけない方向からの言葉に、陽成は多少焦りを表に出し

ながら回答する。

「それは……万一に備えてだ。幽霊が君を狙う事は予想できた

 からな。だから幽霊を避けられる香も用意したんだ」

「それをうっかりここに持ってくる事までは考えなかったんだ

 な? 今回は良かったが、万一持ち込んでいたら即座に失格

 になるところだった」

「普通ならありえないわね~。万が一というもあるから」

「白糸は静かにしててくれ。君は結論だけを聞けばいい」

 <裁判長>の言葉に、被害者でもある幽霊はむすっとしたよ

うだったが、万梓は構わずに続ける。

「最大の問題は、その命令書の内容だ。<夜、誘い出して周陽

 成を殺害せよ。苑麓>だったな。俺が気になったのは内容自

 体ではなくその文章だった」 

「何が言いたい?」

「内容からすると、苑麓が書いて白糸に渡したもので間違いな

 い。……しかし、そうだとすると明らかな矛盾がある」

 陽成の返事が無かった。

 まったく予想もしていなかった展開に戸惑っているように思

えたが、<気っ風のいい金持ちの青年>という表面は崩れそう

になかった。

「それに気づいたのは偶然だった。今回配られた問題の中に、

 命令書で使われたものと同じ単語があったからだ。牛を殺害

 する者、いかに罰を与えん……の下りだ」

「ど、どういう意味だ? 試験の問題と……命令書に関係なん

 かないだろう?」

「……。そこまで言うならば確かめたい。命令書を書いた苑麓

 はろくに学の無い野卑な奴だったな? 少なくとも、科挙を

 受ける為に勉強したと言う話は一度も聞いていない」

「……あっ! ま、待て……。ち、違う……苑麓の奴が書いた

 んじゃない! あいつに仕える奴が命令書を書いたんだ!」

 陽成の顔から血の気が引いた。

 自分に降りかかる目に見えない火の粉を振り払うかのように

両腕を振り回したが、<裁判長>の万梓は惑わされることなく

追及を続ける。

「それも無いな。苑麓は自分が無学だから少しでも学のある人

 間を嫌っていた。君も酷く嫌われてたらしいな」

「あ、そ、それは……」

「……。結論を言おう。あの命令書を書いたのは無学な苑麓で

 はなく君自身だったんだ。だから郷試の問題文に出る難しい

 単語も使ってしまったんだ」

「違う! 俺がそんな事をするわけない……信じてくれ……」

「とすると、導き出される結論は一つ。君は白糸を殺した。そ

 れを誤魔化す為に苑麓からの命令書を偽装したんだ!」

 言い切った瞬間。

 万梓は自分の立つ石畳に穴が開いて、そこに落ちていくよう

な感覚に苛まれた。

 正義は貫いた。

 しかし、それが何になるというのだろうか……?

 友人の裏の顔を暴き出し、将来を閉ざすのが本当の正義なの

だろうか?

「これでやっと成仏できるわね~」

 紙のように白い顔になってその場に座り込んでしまった陽成

を、呆然と見つめていた万梓だったが、白糸の爛漫な声に意識

を引き戻された。

「何をそんなに辛気臭い顔をしてるのよ。貴方はするべき事を

 しただけじゃない」

「何がするべき事だ。虚しいだけだ。陽成だって殺したくて君

 を殺したわけじゃないだろ?」

「馬鹿」

 それこそ顔を口にしたかのような大声に、万梓はその場にし

りもちをつきそうになった。

「甘いのも大概にしなさいよ。陽成が今まで何人の侍女を殺し

 か分かってるの? こいつは人間の皮を被った大悪党なの。

 こんなのが役人になったらどれだけ大勢の人が苦しむと思っ

 てるの!」

「そ、そんな馬鹿な……」

「現実なんてこんなものよ。貴方のように真面目で正義感の厚

 い人間が試験に落ちて、大悪党が試験に受かる。これまでに

 何度も繰り返されてきたのよ」

 陽成……自らの欲望を制御できずに多くの罪を犯してきた青

年は、今まで隠してきた因果に逆襲されているのか、石畳に転

がって奇怪なうめき声を上げていた。

 発狂し、やがて死に至る最初の一里塚だったが、万梓には最

早どうにもする事はできなかった。

「……君はどうするんだ?」

「さあ。好きにさせてもらうわ。でも、最初に言ったお礼はち

 ゃんとするから安心して」

「お礼?」

「後で分かるわ。将来の大臣様」

 その言葉が最後だった。

 自分を殺害した青年の末路を見届けることなく、陽気な幽霊

は闇の中へと消えていったからだった……。


「……なるほど。それで万梓様は今のようにご立派になられた

 というわけですね」

 長い話が終わって、青年文筆家は大げさに頷いた。

 金陵の山沿い近くにある広大な邸宅の離れ。

 目の前に立派な庭園を抱き、それと調和するかのように建て

られた書院にいるのは<取材>に訪れた青年と、その相手であ

る元礼部尚書(大臣)の黄万梓だけだった。

「いやなに、ほとんど偶然のようなものでな。落ちたと思った

 科挙では探花で及第してのう。そこから全て始まったような

 ものじゃ」

「大したものですよ。各地の知府(知事)を歴任されて、最後

 は礼部尚書として腕をふるわれたわけですからね。実は私も

 科挙を受けたんですけど、最初で駄目でした……」

「それで文筆家になったわけじゃな?」

「ええ、まあ……。こっちの方が性分に合ってるようでして」

「人には向き不向きがある。それを悟ってるなら立派じゃて」

「ありがとうございます」

 かつての部下の紹介で会う事にした青年は、思ってたよりも

真面目で礼儀正しかった。

 まるでかつての自分を見ているような気がして、話し込んで

しまったが、さすがに少し疲れてきた。

 無理もない。

 目の前の青年とは五十年以上歳が離れているのだ。

 こんな時、万梓は自分の老いを自覚する。

「それでは、この辺で失礼させてもらいます。今日は大変あり

 がとうございました。今回のお話は創作の参考にさせていた

 だきます」

 万梓が鷹揚に頷いてみせると、青年は深々と頭を下げて立ち

去っていった。

 それを見送った老政治家は、瀟洒な椅子に背中を預けて大き

く息を吐き出す。

 聞かれるままに自分の人生を大きく変えた時の出来事を語っ

たが、まるで昨日の事のように記憶は鮮明だった。

 なぜなら……。

「久しぶりにあの時の話を聞いたけど、やっぱり面白かったわ

 ね~。貴方って語り手の素質があるんじゃないの?」

 庭園を望む窓を背景にして、幽霊の白糸が姿を現したその時

だった。

 少女のような魅力を秘めた美女なのは、初めて会った時から

変わっていなかった。

「何度も同じ話をしたからかもしれんな。……しかし、君がま

 だ私の傍にいるという点は話さなくても良かったかな?」

「そうね。後はあの人が想像して書くわよ」

 そう言って白糸は鈴を転がすような声で笑った。

 科挙を通って栄華を極め、財貨も手に入れたが、万梓にして

みれば白糸の笑顔に勝るものはなかった。

「しかし、私のような老いぼれに付き合うとは……本当に物好

 きじゃな」

「貴方は老いぼれじゃないわ。心は初めて会った時のままなん

 だから。死んで幽霊になってからが楽しみだわ~」

「だから成仏しないというわけじゃな」

「そういう事。ずっと、貴方と一緒にいるから~」

 そう言って重ねられた白糸の手は、万梓の手をすり抜けただ

けだった。

 しかし、老政治家は悲しんだりしなかった。

 自分はそう遠くない内に死ぬ。

 その時が新たな人生の始まりだと確信していたからだった。

「柳の下には宝物が眠ってたわけじゃな」

 初めて出会った時の事を思い出して、そうつぶやいているの

だった。

                       (終わり)

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