欠陥ブリッジ (さかな 作)
表では普通を装う、脳内突っ込みの多い男を主人公に据えようと思って書いた作品です。
『一人暮らしを始めたから遊びに来い』
十年来の友人から唐突にラインが来たのは五日前のことだった。よほど浮かれているのか、クマちゃんが両手を広げて喜んでいるスタンプまでくっついている。
『昼頃でいいか?』と返したフキダシに返信はなく、左下に〈既読〉の文字が付いたまま今日に至る。いっそ清々しいほどの既読スルーだ。昔から変わらないこのだらしなさに、周も今ではすっかり慣れてしまっていた。
じわじわと蝉の鳴き声がにじむ午後。スマートフォンの画面に表示された地図を頼りに、駅から歩くこと十五分。見えてきたのは、コンクリート打ちっぱなしの洒落たデザイナーズマンションだった。
外観はなかなかセンスの良い物件だ。本当にここがあのだらしない友人の新居なのか、という疑念がすぐさま頭をもたげる。友人が送りつけてきた住所のマンション名と入り口の看板を見比べてみるが、やはりこの建物で間違いない。
『着いたぞ』
周は念のため一報を入れた。送信と同時に既読が付く。が、返信はなし。夏の暑さも相まって苛立ちが募る。この後こいつにアイスでも奢らせようと決意する。
そのマンションは今風の造りなのに、エントランスはオートロック式ではなかった。開け放しの門をくぐり、階段を上がる。友人が寄越した住所を画面でもう一度確認する。二〇三号室。まだラインに返信はない。もしや寝ているのではないか? 周の頭の中で友人に余罪がプラスされる。空の表札の上にある部屋番号を確認する。二〇三号室。
周はささやかな仕返しに、インターホンのボタンを高速で三回押した。
しばらく待ったが反応はない。
周の頭の中で裁判官が木槌を打ち鳴らし「有罪!」と声を張り上げる。罪状は長期間既読スルーと昼寝で約束すっぽかし。「アイス三本驕りの刑!」カンカン、とまたもや木槌が打ち鳴らされる。
密かに勝利をかみしめた時、ふいに扉が開かれた。
やっと起きたか、罪人め――挑むように扉の向こうを見つめた周の瞳は、しかし次の瞬間驚きにきゅっと小さく窄まった。
「ごめんなさい、出るのが遅れちゃって……」
想定よりもワントーン以上も高い優しげな声。ホテルのシーツのように清潔な真っ白のワンピース。後ろでひとつに結ばれた柔らかな亜麻色の髪。夏の暑さで上気したすもも色の頬に、こちらを見つめる瞳はビー玉のようにキラキラと輝いている。
玄関口から現れたのはだらしない男でも罪人でもない。
天使――それも、純白の天使だった。
「あなたもお引越しされてきた方ですか?」
「あなた、『も』?」
「あれ、違いました?」
現実に戻ってきた周はバッと携帯の画面を確認し、次いで表札の号数を見た。どちらも二〇三号室で間違いない。
ということは、この女性は友人の彼女――一番辿り着きたくない現実に直面し、周の中で何かが一気にガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
「やべェー周、ごめん! 部屋番号間違えて送ってた!」
魂の燃え尽きた周の耳に、騒がしい男の声とけたたましく扉の開く音が同時に飛び込んできた。
「あ、静香さん、こんちは」
「こんにちは。こちらの方はお友だち?」
「そうなんスよ。俺間違えて部屋番号送っちゃって。すんません」
仲睦まじく言葉を交わす二人をよそに、周の目は美しい人に釘付けになっていた。
これ以上進んだら後戻りできない気がする。そんな思いが周の胸の内に渦巻く。今なら引き返せる。だが、後ろを振り返れば、渡ってきた橋はとっくのとうに崩れ落ちていた。渓谷の向こう側に、自慢げにピースサインを掲げて友人が立っている。
そこで周は納得する。あのだらしない友人が建設したおかげで、橋は施工不良だ。引き返す手段もない……。
ぼうっと放たれていた視線に気がついたのか、静香は周をチラッと見やると優しく微笑んだ。どくん、と思い出したかのように心臓が動き出す。
帰り道はないが、進む道はある。
途端に戻ってきた暑さは、きっと夏のせいだけではない。
部屋を間違えてしまったことを謝罪し、律儀に一礼すれば、慌てたように静香の手が周の肩に添えられた。触れた場所から熱がマグマのように全身に溶け出して、周の脳みそはいよいよ沸騰寸前だった。
沸騰ついでに頭の中で、裁判官が木槌をカンカンカン、と忙しく打ち鳴らす。その周囲では「無罪放免!」と書かれた紙を掲げ、クマちゃんたちが大々的に踊っていた。